Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

海

うみ

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……らすほどそのなかから赤や青や朽葉くちばの色が湧いて来くる。今にもその岸にある温泉おんせんや港町みなとまちがメダイヨンのなかに彫り込まれた風景ふうけいのように見えて来くるのじゃないかと思おもうくらいだ。海の静しずかさは山から来くる。町の後うしろの山へ廻った陽がその影を徐々に海へ拡げてゆく。町も磯も今は休息きゅうそくのなかにある。その色はだんだん遠とおく海を染そめ分わけてゆく。沖へ出てゆく漁船ぎょせんがその影の領分りょうぶんのなかから、日向ひなたのなかへ出て行ゆくのをじっと待っているのも楽たのしみなものだ。オレンジの混った弱よわい日光にっこうがさっと船を漁師りょうしを染そめる。見ている自分じぶんもほーっと染そまる。

「そんな病弱びょうじゃくな、サナトリウム臭くさい風景ふうけいなんて、俺は大嫌いなんだ」

「雲とともに変わって行ゆく海の色を褒ほめた人もある。海の上を行ゆき来きする雲を一日ついたち眺ながめているのもいいじゃないか。また僕は君が一度ひとたびこんなことを言ったのを覚おぼえているが、そういう空想くうそうを楽たのしむ気持きもちも今の君にはないのかい。君は言った。わずか数浬カイリの遠さに過すぎない水平すいへい線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺ひょうびょうとした無限むげん感を起おこしてしまうなんぞはコロンブス以前いぜんだ。われわれが海を愛し空想くうそうを愛あいするというなら一切いっさいはその水平すいへい線の彼方かなたにある。水平すいへい線を境としてそのあちら側がわへ滑り下りてゆく球面きゅうめんからほんとうに美うつくしい海ははじまるんだ。君は言ったね。

布哇ハワイが見まみえる。印度インド洋が見まみえる。月光げっこうに洗われたベンガル湾が見まみえる。現在げんざい眼の前の海なんてものはそれに比くらべたらラフな素材そざいにしか過すぎない。ただ地図ちずを見てではこんな空想くうそうは浮かばないから、必要ひつよう欠かくべからざるという功績こうせきだけはあるが……多分たぶんそんな趣旨しゅしだったね。ご高説こうせつだったが……

「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩まいばん夢のなかで大声たいせいをあげて追払おいはらうえびす三郎さぶろうに似ている。そういう俗悪ぞくあくな精神せいしんになるのは止し給たまえ。

僕の思っている海はそんな海じゃないんだ。そんな既すでに結核けっかくに冒されてしまったような風景ふうけいでもなければ、思いあがった詩人しじんめかした海でもない。おそらくこれは近年きんねん僕の最もっとも真面目まじめになった瞬間しゅんかんだ。よく聞いていてくれ給たまえ。

それは実げに明あかるい、快活かいかつな、生いき生いきした海なんだ。未いまだかつて疲労ひろうにも憂愁ゆうしゅうにも汚されたことのない純粋じゅんすいに明色めいしょくの海なんだ。遊覧ゆうらん客や病人びょうにんの眼に触れ過すぎて甘あまったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立だつ葡萄ぶどう酒のような、コクの強こわい、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って来くる。腹を刔えぐるような海藻かいそうの匂においがする。そのプツプツした空気くうき、野獣やじゅうのような匂におい、大気たいきへというよりも海へ射し込んで来くるような明あきらかな光線こうせん――ああ今僕はとうてい落ちついてそれらのことを語かたることができない。何故なぜといって、そのヴィジョンはいつも僕を悩ましながら、ごく稀なまったく思おもいもつかない瞬間しゅんかんにしか顕われて来ないんだから。それは岩のような現実げんじつが突然とつぜんに劈開へきかいしてその劈開へきかい面をチラッと見せてくれるような瞬間しゅんかんだ。

そういうようなものを今の僕がどうして精密せいみつに描えがき出だすことができよう。だから僕は今しばらくその海の由来ゆらいを君に話はなすことにしよう。そこは僕達の家がほんのしばらくの間だけれども住んでいた土地とちなんだ。

そこは有名ゆうめいな暗礁あんしょうや島の多おおいところだ。その島の小学しょうがく児童じどうは毎朝まいあさ勢揃いして一艘の船を仕立じたてて港の小学校がっこうへやって来くる。帰がえりにも待まち合あわせてその船に乗って帰かえる。彼らは雨にも風にもめげずにやって来くる。一番いちばん近い島でも十八町ある。いったいそんな島で育ったらどんなだろう。島の人というとどこか風俗ふうぞくにも違ったところがあった。女の人が時々家へも来くることがあったが、その人は着物きものの着つぶしたのや端はぎれを持って帰かえるのだ。そのかわりそんなきれを鼻緒はなおに巻いた藁草履ぞうりやわかめなどを置いて行ってくれる。ぐみややまももの枝なりをもらったこともあった。しかしその女の人はなによりも色濃こい島の雰囲気ふんいきを持って来た。僕たちはいつも強こわい好奇こうき心で、その人の謙遜けんそんな身みなりを嗅ぎ、その人の謙遜けんそんな話に聞き惚れた。しかしそんなに思っていても僕達は一度ひとたびも島へ行ったことがなかった。ある年の夏その島の一つに赤痢せきりが流行はやったことがあった。近ちかくの島だったので病人びょうにんを入いれるバラックの建たつのがこちらからよく見えた。いつもなにかを燃している、その火が夜は気味きみ悪く物凄ものすごいかった。海で泳およぐものは一人ひとりもない。波の間に枕などが浮いていると恐おそろしいもののような気がした。その島には井戸いどが一つしかなかった。

暗礁あんしょうについては一度ひとたびこんなことがあった。ある年の秋、ある晩、夜のひき明あけにかけてひどい暴風雨ぼうふううがあった。明方あけがた物凄ものすごい雨風あめかぜの音のなかにけたたましい鉄工てっこう所の非常ひじょう汽笛きてきが鳴り響いた。そのときの悲壮ひそうな気持きもちを僕は今もよく覚おぼえている。家は騒さわぎ出した。人が飛んで来た。港の入口いりぐちの暗礁あんしょうへ一隻の駆逐艦くちくかんが打ぶつかって沈んでしまったのだ。鉄工てっこう所の人は小ちいさなランチへ波の凌しのぎに長ながい竹竿たけざおを用意よういして荒天こうてんのなかを救助きゅうじょに向かった。しかし現場げんばへ行って見ても小ちいさなランチは波に揉まれるばかりで結局けっきょくかえって邪魔じゃまをしに行ったようなことになってしまった。働いたのは島の海女あまで、激浪げきろうのなかを潜っては屍体したいを引ひき揚あげ、大おおきな焚火たきびを焚たいてそばで冷え凍えた水兵すいへいの身体しんたいを自分じぶんらの肌で温めたのだ。大部分ぶぶんの水兵すいへいは溺死できしした。その溺死できし体の爪は残酷ざんこくなことにはみな剥はがれていたという。

それは岩へ掻かきついては波に持ってゆかれた恐おそろしい努力どりょくを語かたるものだった。

暗礁あんしょうに乗りあげた駆逐くちく艦の残骸ざんがいは、山へあがって見みると干潮かんちょう時の遠とおい沖合おきあいに姿を現わしていることがあった。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

※「最後の三行は「下書き」と思われる別稿から、編集部の判断で挿入した。」の記載が、本文末にあります。

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:Juki

1998年12月14日公開

2016年7月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
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Juki

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