Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

温泉

おんせん

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断片 一

夜になるとその谷間たにまは真黒まっくろな闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪たにが流ながれている。私の毎夜まいよ下りてゆく浴場よくじょうはその溪ぎわにあった。

浴場よくじょうは石とセメントで築きあげた、地下ちか牢のような感かんじの共同きょうどう湯であった。その巌丈がんじょうな石の壁は豪雨ごううのたびごとに汎濫する溪の水を支つかえとめるためで、その壁に刳くり抜かれた溪ぎわへの一つの出口でぐちがまた牢門そっくりなのであった。昼間ちゅうかんその温泉おんせんに涵ひたりながら「牢門」のそとを眺ながめていると、明あかるい日光にっこうの下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差さし出でている楓かえでの枝が見えた。そのアーチ形の風景ふうけいのなかを弾丸だんがんのように川烏かわうが飛び抜けた。

また夕方ゆうがた、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返ひきかえして来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈でんとうがともり、濛々もうもうと立ち罩こめた湯気ゆげのなかに、賑にぎやかに男や女の肢体したいが浮動ふどうしているのを見みる。そんなとき人は、今まで自然じねんのなかで忘れ去っていた人間じんかん仲間なかまの楽しさを切なく胸に染そめるのである。そしてそんなこともこのアーチ形の牢門のさせるわざなのであった。

私が寐る前に入浴よくするのはいつも人々の寝しずまった真夜中やちゅうであった。その時刻じこくにはもう誰も来ない。ごうごうと鳴なり響ひびく溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖きょうふが変に私を落着らくじゃくかせないのである。もっとも恐怖きょうふとはいうものの、私はそれを文字もんじ通とおりに感かんじていたのではない。文字もんじ通とおりの気持きもちから言えば、身体しんたいに一種いっしゅの抵抗リフラクシオンを感かんじるのであった。だから夜更よふけて湯へゆくことはその抵抗ていこうだけのエネルギーを余分よぶんに持って行かなければならないといつも考かんがえていた。またそう考かんがえることは定まらない不安ふあん定な、埓らちのない恐怖きょうふにある限界げんかいを与あたえることになるのであった。しかしそうやって毎夜まいよおそく湯へ下りてゆくのがたび重かさなるとともに、私は自分じぶんの恐怖きょうふがあるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。

その浴場よくじょうは非常ひじょうに広くて真中まなかで二つに仕切しきりられていた。一つは村の共同きょうどう湯に、一つは旅館りょかんの客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女なんにょのぽそぽそ話はなしをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場よくじょうについている水口みずぐちで、絶えず清水きよみずがほとばしり出でるているのである。また男女なんにょという想像そうぞうの由よって来くるところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋ちゃやがあって、そこの女が客と夜更よふけて湯へやって来くることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女なんにょの話声わせいが水口みずぐちの水の音だとわかっていながら、不可抗ふかこう的に実体じったいをまとい出だす。その実体じったいがまた変に幽霊ゆうれいのような性質せいしつのものに思えて来くる。いよいよそうなって来くると私はどうでも一度ひとたび隣の湯を覗のぞいて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分じぶんの顔が変な顔をしていないようにその用意よういをしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子ガラス戸を開けて見みるのである。しかし案あんの定じょうなんにもいない。

次は客の湯の方へはいっているときである。例によって村の湯の方がどうも気になる。今度こんどは男女なんにょの話声わせいではない。気になるのはさっきの溪への出口でぐちなのである。そこから変な奴がはいって来そうな気がしてならない。変な奴ってどんな奴なんだと人はきくにちがいない。それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱いんうつな顔をしている。河鹿かじかのような膚をしている。そいつが毎夜まいよ極った時刻じこくに溪から湯へ漬かりに来くるのである。プフウ! なんという馬鹿ばかげた空想くうそうをしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻みまわすというのでもなく、いかにも毎夜まいよのことのように陰鬱いんうつな表情ひょうじょうで溪からはいって来くる姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間しゅんかん、私の視線しせんにぶつかるような気がしてならなかったのである。

あるとき一人ひとりの女の客が私に話をした。

「私も眠れなくて夜中やちゅうに一度ひとたび湯へはいるのですが、なんだか気味きみが悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何かがはいって来くるような気がして――」

私は別にそれがどんなものかは聞ききはしなかった。彼女かのじょの言葉ことばに同感どうかんの意を表して、やはり自分じぶんのあれは本当ほんとなんだなと思ったのである。ときどき私はその「牢門」から溪へ出て見みることがあった。轟々たる瀬のたぎりは白蛇しろへびの尾を引いて川下かわしもの闇へ消えていた。向むこう岸ぎしには闇よりも濃こい樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本いっぽん椋むくの樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見まみえるのであった。

これはすばらしい銅板画はんがのモテイイフである。黙々とした茅屋ぼうおくの黒ぐろい影。銀色ぎんいろに浮うかび出でるている竹藪たけやぶの闇。それだけ。わけもなく簡単かんたんな黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情かんじょうに包まれた風景ふうけいか。その銅板画はんがにはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠ねむりに入っている。星空ほしぞらの下に、闇黒やみくろのなかに。彼らはなにも知らない。この星空ほしぞらも、この闇黒やみくろも。虚無こむから彼らを衛まもっているのは家である。その忍苦にんくの表情ひょうじょうを見よ。彼は虚無こむに対抗たいこうしている。重圧じゅうあつする畏怖いふの下に、黙々と憐あわれな人間じんかんの意図いとを衛っている。

一番いちばんはしの家はよそから流ながれて来た浄瑠璃じょうるり語がたりの家である。宵のうちはその障子そうじに人影ひとかげが写うつり「デデンデン」という三味さみ線の撥音はつおんと下手しもてな嗚咽おえつの歌が聞こえて来くる。

その次は「角屋すみや」の婆さんと言われている年寄っただるま茶屋ちゃやの女が、古くからいたその「角屋すみや」からとび出して一人ひとりで汁粉屋こなやをはじめている家である。客の来ているのは見たことがない。婆さんはいつでも「滝屋」という別のだるま屋の囲爐裡の傍で「角屋すみや」の悪口あっこうを言っては、硝子しょうし戸越とごししに街道かいどうを通とおる人に媚を送っている。

その隣となりは木地きじ屋である。背の高いお人好の主人しゅじんは猫背ねこぜで聾つんぼである。その猫背ねこぜは彼が永年えいねん盆や膳を削けずって来た刳物台くりものだいのせいである。夜彼が細君さいくんと一緒いっしょに温泉おんせんへやって来くるときの恰好かっこを見みるがいい。長ながい頸くびを斜に突つき出だし丸く背を曲まげて胸を凹へこましている。まるで病人びょうにんのようである。しかし刳物くりもの台に坐っているときの彼かのなんとがっしりしていることよ。彼はまるで獲物えものを捕った虎のように刳物くりもの台を抑え込んでしまっている。人は彼が聾であって無類むるいのお人好であることすら忘わすれてしまうのである。往来おうらいへ出て来た彼は、だから機械きかいから外はずして来たクランクのようなものである。少すこしばかり恰好かっこの滑稽こっけいなのは仕方しかたがないのである。彼は滅多めったに口を利かない。その代りいつでもにこにこしている。おそらくこれが人の好い聾の態度たいどとでもいうのだろう。だから商売しょうばいは細君さいくんまかせである。細君さいくんは醜みにくい女であるがしっかり者ものである。やはりお人好のお婆さんと二人ふたりでせっせと盆に生漆きうるしを塗ぬり戸棚とだなへしまい込こむ。なにも知らない温泉おんせん客が亭主ていしゅの笑顔えがおから値段ねだんの応対おうたいを強取ごうしゅしようとでもするときには、彼女かのじょは言ゆうのである。

「この人はちっと眠むがってるでな……」

これはちっとも可笑おかしくない! 彼ら二人ふたりは実げにいい夫婦ふうふなのである。

彼らは家の間まの一つを「商人宿ひとやど」にしている。ここも按摩あんまが住んでいるのである。この「宗さん」という按摩あんまは浄瑠璃じょうるり屋の常連じょうれんの一人ひとりで、尺八しゃくはちも吹ふく。木地きじ屋から聞こえて来くる尺八しゃくはちは宗さんのひまでいる証拠しょうこである。

家の入口いりぐちには二軒の百姓ひゃくせい家が向むかい合って立っている。家の前庭ぜんていはひろく砥石といしのように美うつくしい。ダリヤや薔薇ばらが縁を飾っていて、舞台ぶたいのように街道かいどうから築きあげられている。田舎いなかには珍めずらしいダリヤや薔薇しょうびだと思って眺ながめている人は、そこへこの家の娘が顔を出せばもう一度ひとたび驚おどろくにちがいない。グレートヘンである。評判ひょうばんの美人びじんである。彼女かのじょは前庭ぜんていの日ひなたで繭まゆをににながら、実際じっさいグレートヘンのように糸繰車を廻まわしていることがある。そうかと思おもうと小舎しょうしゃほどもある枯萱かれかやを「背負せおい枠」で背負せおいって山から帰って来くることもある。夜になると弟を連ずれて温泉おんせんへやって来くる。すこやかな裸体らたい。まるで希臘ギリシャの水瓶みずがめである。エマニュエル・ド・ファッリャをしてシャコンヌ舞曲ぶきょくを作らしめよ!

この家はこの娘のためになんとなく幸福こうふくそうに見まみえる。一群いちぐんの鶏も、数匹の白兎しろうさぎも、ダリヤの根方ねかたで舌を出だしている赤犬あかいぬに至いたるまで。

しかし向むかいの百姓ひゃくせい家はそれにひきかえなんとなしに陰気いんき臭くさい。それは東京とうきょうへ出て苦学くがくしていたその家の二男じなんが最近さいきん骨になって帰って来たからである。その青年せいねんは新聞しんぶん配達夫たつおをしていた。風邪かぜで死んだというが肺結核けっかくだったらしい。こんな奇麗きれいな前庭ぜんていを持っている、そのうえ堂々とした筧かけひの水溜みずたまりさえある立派りっぱな家の伜せがれが、何故なぜまた新聞しんぶんの配達夫たつおというようなひどい労働ろうどうへはいって行ったのだろう。なんと楽しげな生活せいかつがこの溪間にはあるではないか。森林しんりんの伐採ばっさい。杉苗すぎなえの植付うえつけ。夏の蔓切。枯萱かれかやを刈って山を焼やく。春になると蕨わらび。蕗ふきの薹とう。夏になると溪を鮎がのぼって来くる。彼らはいちはやく水中すいちゅう眼鏡がんきょうと鉤針かぎばりを用意よういする。瀬や淵へ潜くぐり込こむ。あがって来くるときは口のなかへ一ぴき、手に一ぴき、針に一ぴき! そんな溪の水で冷え切った身体しんたいは岩間いわまの温泉おんせんで温あたためる。馬にさえ「馬の温泉おんせん」というものがある。田植たうえで泥塗どろまみれになった動物どうぶつがピカピカに光って街道かいどうを帰ってゆく。それからまた晩秋ばんしゅうの自然薯じねんじょ掘ほり。夕方ゆうがた山から土に塗れて帰って来くる彼らを見みるがよい。背に二貫三かんぞう貫の自然薯じねんじょを背負せおいっている。杖にしている木の枝には赤裸あかはだかに皮を剥はがれた蝮まむしが縛りつけられている。食くうのだ。彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢わさびざわへ出掛でかけて行ゆく。楢ならや櫟くぬぎを切きり仆たおして椎茸しいたけのぼた木を作ずくる。山葵わさびや椎茸しいたけにはどんな水や空気くうきや光線こうせんが必要ひつようか彼らよりよく知っているものはないのだ。

しかしこんな田園詩イデイイルのなかにも生活せいかつの鉄則てっそくは横たわっている。彼らはなにも「白じろい手」の嘆賞たんしょうのためにかくも見事みごとに鎌を使っているのではない。「食えない!」それで村の二男じなんや三男みつお達はどこかよそへ出て行かなければならないのだ。ある者は半島はんとうの他の温泉場せんばで板場いたばになっている。ある者はトラックの運転うんてん手をしている。都会とかいへ出て大工だいくや指物さしもの師になっている者もある。杉や欅の出でる土地とち柄だからだ。しかしこの百姓ひゃくせい家の二男じなんは東京とうきょうへ出て新聞しんぶん配達はいたつになった。真面目まじめな青年せいねんだったそうだ。苦学くがくというからには募集ぼしゅう広告こうこくの講談こうだん社的な偽瞞ぎまんにひっかかったのにちがいない。それにしても死しぬまで東京とうきょうにいるとは! おそらく死しに際ぎわの幻覚げんかくには目にたてて見みる塵もない自分じぶんの家の前庭ぜんていや、したたり集って来くる苔の水が水晶すいしょうのように美うつくしい筧かけひの水溜みずたまりが彼を悲しませたであろう。

これがこの小ちいさな字である。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:二宮知美

1998年12月14日公開

2016年7月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
二宮知美

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