Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

ある心の風景

あるこころのふうけい

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一

喬たかしは彼かの部屋へやの窓から寝静まった通とおりに凝視みいっていた。起きている窓はなく、深夜しんやの静しずけさは暈かさとなって街燈がいとうのぐるりに集まっていた。固かたい音が時ときどきするのは突き当っていく黄金虫ぶんぶんの音でもあるらしかった。

そこは入り込んだ町で、昼間ちゅうかんでも人通ひとどうりは少なく、魚の腹綿はらわたや鼠の死骸しがいは幾日も位置いちを動かなかった。両側りょうがわの家々はなにか荒廃こうはいしていた。自然じねん力の風化ふうかして行ゆくあとが見えた。紅殻べにがらが古ふるびてい、荒壁あらかべの塀へいは崩れ、人ひとびとはそのなかで古手拭てぬぐいのように無気むき力な生活せいかつをしているように思われた。喬の部屋へやはそんな通とおりの、卓子テーブルで言うなら主人しゅじん役の位置いちに窓を開いていた。

時ときどき柱時計とけいの振子しんしの音が戸の隙間すきまから洩れてきこえて来た。遠とおくの樹に風が黒く渡わたる。と、やがて眼近い夾竹桃きょうちくとうは深ぶかい夜のなかで揺ゆれはじめるのであった。喬たかしはただ凝視みいっている。――暗やみのなかに仄ほの白く浮かんだ家の額ひたいは、そうした彼かの視野しやのなかで、消えてゆき現あらわれて来、喬は心の裡に定さだかならぬ想念そうねんのまた過すぎてゆくのを感じた。蟋蟀こおろぎが鳴いていた。そのあたりから――と思われた――微かすかな植物しょくぶつの朽ちてゆく匂においが漂って来た。

「君の部屋へやは仏蘭西フランスの蝸牛エスカルゴの匂においがするね」

喬のところへやって来たある友人ゆうじんはそんなことを言った。またある一人ひとりは

「君はどこに住んでも直すぐその部屋へやを陰鬱いんうつにしてしまうんだな」と言った。

いつも紅茶こうちゃの滓かすが溜っているピクニック用の湯沸ゆわかし器。帙ちつと離はなればなれに転ころがっている本ほんの類。紙切かみきれ。そしてそんなものを押しわけて敷かれている蒲団ふとん。喬はそんななかで青鷺あおさぎのように昼は寝ていた。眼が覚めては遠とおくに学校がっこうの鐘を聞いた。そして夜、人ひとびとが寝静まった頃この窓へ来てそとを眺ながめるのだった。

深ぶかい霧のなかを影法師ほうしのように過すぎてゆく想念そうねんがだんだん分明ふんみょうになって来くる。

彼かの視野しやのなかで消散しょうさんしたり凝聚ぎょうしゅうしたりしていた風景ふうけいは、ある瞬間しゅんかんそれが実げに親したしい風景ふうけいだったかのように、またある瞬間しゅんかんは全く未知みちの風景ふうけいのように見えはじめる。そしてある瞬間しゅんかんが過すぎた。――喬にはもう、どこまでが彼かの想念そうねんであり、どこからが深夜しんやの町であるのか、わからなかった。暗のなかの夾竹きょうちく桃はそのまま彼かの憂鬱ゆううつであった。物陰ものかげの電燈でんとうに写し出されている土塀どべい、暗と一つになっているその陰影いんえい。観念かんねんもまたそこで立体りったい的な形をとっていた。

喬たかしは彼かの心の風景ふうけいをそこに指呼しこすることができる、と思った。

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Where this text comes from

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First published
「青空」青空社、1926(大正15)年8月号
Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

初出:「青空」青空社

   1926(大正15)年8月号

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:陸野義弘

1998年10月13日公開

2016年7月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
陸野義弘

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