Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

雪後

せつご

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一

行一こういちが大学だいがくへ残のこるべきか、それとも就職しゅうしょくすべきか迷っていたとき、彼に研究けんきゅうを続つずけてゆく願ねがいと、生活せいかつの保証ほしょうと、その二つが不充分じゅうぶんながら叶かなえられる位置いちを与えてくれたのは、彼かの師事しじしていた教授きょうじゅであった。その教授きょうじゅは自分じぶんの主裁しゅさいしている研究けんきゅう所の一隅いちぐうに彼かのための椅子いすを設もうけてくれた。そして彼は地味ちみな研究けんきゅうの生活せいかつに入った。それと同時どうじに信子のぶことの結婚けっこん生活せいかつが始まった。その結婚けっこんは行一こういちの親や親族しんぞくの意志いしが阻んでいたものだった。しかし結局けっきょく、彼はそんな人ひとびとから我わが儘ままだ剛情だと言われる以外いがいのやり方で、物事ものごとを振舞ふるまうすべを知らなかったのだ。

彼らは東京とうきょうの郊外こうがいにつつましい生活せいかつをはじめた。櫟林くぬぎばやしや麦畠むぎばたけや街道かいどうや菜園さいえんや、地形じぎょうの変化へんかに富んだその郊外こうがいは静しずかで清すがすがしかった。乳牛ちちうしのいる牧場ぼくじょうは信子のぶこの好すきなものだった。どっしりした百姓ひゃくせい家を彼は愛した。

「あれに出喰わしたら、こう手綱たづなを持っているだろう、それのこちら側がわへ避けないと危あやういよ」

行一こういちは妻に教おしえる。春埃の路は、時ときどき調馬師に牽ひかれた馬が閑雅かんがな歩あゆみを運んでいた。

彼らの借かりている家の大家たいけというのは、この土地とちに住みついた農夫のうふの一人ひとりだった。夫婦ふうふはこの大家たいけから親しまれた。時ときどき彼らは日向ひなたや土の匂においのするようなそこの子を連ずれて来て家で遊ばせた。彼も家の出入しゅつにゅうには、苗床なえどこが囲ってあったりする大家たいけの前庭ぜんていを近道ちかみちした。

――コツコツ、コツコツ――

「なんだい、あの音は」食事しょくじの箸はしを止とどめながら、耳に注意ちゅういをあつめる科しぐさで、行一こういちは妻にめくばせする。クックッと含ふくみ笑わらいをしていたが、

「雀よ。パンの屑を屋根やねへ蒔いといたんですの」

その音がし始はじめると、信子のぶこは仕事しごとの手を止とどめて二階にかいへ上のぼり、抜ぬき足あし差さし足あしで明あかり障子そうじへ嵌はめた硝子ガラスに近づいて行った。歩あるくのじゃなしに、揃そろえた趾あしで跳はねながら、四五しご匹の雀が餌を啄つついていた。こちらが動うごきもしないのに、チラと信子のぶこに気づいたのか、ビュビュと飛んでしまった。――信子のぶこはそんな話をした。

「もう大慌あわてで逃にげるんですもの。しとの顔も見ないで……」

しとの顔で行一こういちは笑った。信子のぶこはよくそういった話で単調たんちょうな生活せいかつを飾った。行一こういちはそんな信子のぶこを、貧乏びんぼうする資格しかくがあると思った。信子のぶこは身籠ごもった。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「青空」青空社、1926(大正15)年6月号
Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

初出:「青空」青空社

   1926(大正15)年6月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:野口英司

1998年10月7日公開

2016年7月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
野口英司

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