Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

細木香以

さいきこうい

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一

細木さいき香以こういは津藤つとうである。摂津国屋つのくにや藤次郎とうじろうである。わたくしが始はじめて津藤つとうの名を聞いたのは、香以こういの事には関していなかった。香以こういの父竜池りゅうちの事に関していた。摂津せっつの国屋藤次郎とうじろうの称となえは二代続いているのである。

わたくしは少年しょうねんの時、貸本屋ほんやの本を耽読たんどくした。貸本屋ほんやが笈おいの如くに積ずみ畳かさねた本を背負せおいって歩あるく時代じだいの事である。その本は読本よみほん、書本かきほん、人情にんじょう本ほんの三種みたねを主としていた。読本とくほんは京伝きょうでん、馬琴ばきんの諸作しょさく、人情にんじょう本は春水しゅんすい、金水きんすいの諸作しょさくの類で、書本は今謂いう講釈こうしゃく種だねである。そう云いう本を読よみ尽して、さて貸本屋ほんやに「何かまだ読まない本は無なあいか」と問とうと、貸本屋ほんやは随筆ずいひつ類を推薦すいせんする。これを読んで伊勢いせ貞丈ていじょうの故実こじつの書等に及べば、大抵たいてい貸本かしほん文学ぶんがく卒業そつぎょうと云いうことになる。わたくしはこの卒業者ぎょうしゃになった。

わたくしは初はじめ馬琴ばきんに心酔しんすいして、次で馬琴ばきんよりは京伝きょうでんを好すくようになり、また春水しゅんすい、金水きんすいを読み比べては、初から春水しゅんすいを好いた。丁度ちょうど後にドイツの本を読よむことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云いうと同おんなじ心持こころもちで、そう云いう愛憎あいぞうをしたのである。

春水しゅんすいの人情にんじょう本ほんには、デウス・エクス・マキナアとして、所々しょしょに津藤つとうさんと云いう人物じんぶつが出でる。情知なさけしりで金持かねもちで、相愛あいあいする二人ふたりを困厄の中ちゅうから救すくい出だす。大抵たいてい津藤つとうさんは人の対話たいわの内に潜んでいて形けいを現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦うめごよみの千藤ちとうである。千葉ちばの藤兵衛とうべいである。

当時とうじ小倉袴こくらばかま仲間なかまの通人つうじんがわたくしに教えて云った。「あれは摂津せっつの国屋藤次郎とうじろうと云いう実在じつざいの人物じんぶつだそうだよ」と。モデエルと云いう語はこう云いう意味いみにはまだ使われていなかった。

この津藤つとうセニョオルは新橋しんきょう山城やましろ町の酒屋さかやの主人しゅじんであった。その居おる処から山城やましろ河岸がしの檀那だんなと呼よばれ、また単たんに河岸かしの檀那だんなとも呼よばれた。姓は源、氏うじは細木さいき、定紋じょうもんは柊ひいらぎであるが、店の暖簾のれんには一文字いちもんじの下に三角さんかくの鱗形うろこがたを染そめさせるので、一鱗堂いちりんどうと号し、書を作ずくるときは竜池りゅうちと署し、俳句はいくを吟じては仙塢せんうと云い、狂歌きょうかを詠じては桃江園とうこうえんまた鶴つるの門雛亀とひなかめ、後に源僊みなもとのやまひとと云った。

竜池りゅうちは父を伊兵衛いへえと云った。伊兵衛いへいは竜池りゅうちが祖父そふの番頭ばんがしらであったのを、祖父そふが人物じんぶつを見込んで養子ようこにした。摂津せっつの国屋の店を蔵造くらづくりにしたのはこの伊兵衛いへいである。奥蔵おくぞうを建たて増まし、地所じしょを買かい添そえて、山城やましろ河岸かしを代表ひょうする富家とみいえにしたのはこの伊兵衛いへいである。

伊兵衛いへいは七十しちじゅう歳近ちかくなって、竜池りゅうちに店を譲って隠居いんきょし、山城やましろ河岸かしの家の奥二階にかいに住んでいた。隠居いんきょした後も、道を行きつつ古草鞋ふるわらじを拾って帰がえり、水に洗あらい日に曝さらして自らきざきざみ、出入しゅつにゅうの左官さかんに与えなどした。しかし伊兵衛いへいは卑吝ひりんでは無かった。某年ぼうねんに芝泉岳せんがく寺で赤穂あこう四十しじゅう七士の年忌ねんきが営まれた時、棉服の老人ろうじんが墓に詣もうでて、納所なつしょに金百両を寄附きふし、氏名しめいを告げずして去った。寺僧じそうが怪んで人に尾行つけるさせると、老人ろうじんは山城やましろ河岸かし摂津せっつの国屋の暖簾のれんの中に入った。

二

竜池りゅうちは家を継いでから酒店さかみせを閉じて、二三にさんの諸侯しょこうの用達ようたしを専業せんぎょうとした。これは祖先そせん以来いらいの出入しゅつにゅう先で、本郷ほんごう五丁目ちょうめの加賀かが中将家しょうか、桜田さくらだ堀通の上杉かみすぎ侍従じじゅうの家、桜田さくらだ霞かすみが関せきの松平まつたいら少将しょうしょう家の三家さんけがその主おもなるものであった。加賀かがの前田まえだは金沢かなざわ、上杉かみすぎは米沢よねざわ、浅野あさの松平まつたいらは広島ひろしまの城主じょうしゅである。

文政ぶんせいの初年しょねんには竜池りゅうちが家に、父母ちちはは伊兵衛いへい夫婦ふうふが存命ぞんめいしていて、そこへ子婦よめ某氏ぼうしが来ていた。竜池りゅうちは金兵衛きんべい以下いか数人の手代てだいを諸家しょかへ用聞に遣やり、三日式日さんじつしきじつには自身おのれも邸々やしきやしきを挨拶あいさつに廻った。加賀かが家は肥前守斉広卿ひぜんのかみなりのりきょうの代が斉泰卿なりやすきょうの代に改あらたまる直前ちょくぜんである。上杉かみすぎ家は弾正大弼斉定だんじょうのたいひつなりさだ、浅野あさの家は安芸守斉賢あきのかみなりかたの代である。

父伊兵衛いへいは恐おそらくは帳簿ちょうぼと書出かきだしとにしか文字もんじを書いたことはあるまい。然しかるに竜池りゅうちは秦星池はたせいちを師として手習てならいをした。狂歌きょうかは初代しょだい弥生庵雛麿やよいあんひなまろの門人もんじんで雛亀ひなかめと称し、晩年ばんねんには桃ももの本鶴廬もとかくろまた源仙げんせんと云った。また俳諧はいかいをもして仙塢せんうと号した。

父伊兵衛いへいは恐おそらくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池りゅうちは劇場げきじょうに往き、妓楼ぎろうに往った。竜池りゅうちは中村なかむら、市村しそん、森田もりたの三座に見物けんぶつに往いく毎に、名題なだい役者やくしゃを茶屋ちゃやに呼んで杯を取らせた。妓楼ぎろうは深川ふかがわ、吉原よしはらを始とし、品川しながわへも内藤ないとう新宿しんじゅくへも往った。深川ふかがわでの相手あいては山本やまもとのの勘八かんぱちと云いう老妓ろうぎであった。吉原よしはらでは久喜ひさき万字屋の明石あかしと云うお職であった。

竜池りゅうちが遊あそぶ時の取巻とりまきは深川ふかがわの遊民ゆうみんであった。桜川さくらがわ由次郎よしじろう、鳥羽とば屋小三次みつじ、十寸見ますみ和十わじゅう、乾坤坊けんこんぼう良斎、岩窪いわくぼ北渓ほっけい、尾の丸小兼こかね、竹内ちくない、三竺さんちく、喜斎等がその主なるものである。由次郎よしじろうは後に吉原よしはらに遷って二代目善孝ぜんこうと云った。和十わじゅうは河東節かとうぶしの太夫だゆう、良斎は落語らくご家、北渓ほっけいは狩野かの家から出て北斎ほくさい門に入った浮世うきよ絵師えし、竹内たけのうちは医師くすし、三竺、喜斎は按摩あんまである。

竜池りゅうちは祝儀しゅうぎの金を奉書ほうしょに裹つつみ、水引みずひきを掛かけて、大三方さんぼうに堆うずたかく積つみ上あげて出させた。

竜池りゅうちは涓滴けんてきの量だになかった。杯は手に取っても、飲のむまねをするに過すぎなかった。また未いまだかつて妓楼ぎろうに宿泊しゅくはくしたことがなかった。

為永ためなが春水しゅんすいはまだ三鷺さんろと云い、楚満人そまびとと云った時代じだいから竜池りゅうちと相識ちかずきになってこの遊の供をした。竜池りゅうちが人情にんじょう本中に名を留とどむるに至ったのは此ここに本もとづいている。

竜池りゅうちは我名の此かくの如くに伝播でんぱせらるるを忌まなかった。啻ただにそれのみではない。竜池りゅうちは自みずから津国つのくに名所などころと題だいする小冊子さっしを著あらわして印刷いんさつせしめ、これを知友ちゆうに頒わかった。これは自分じぶんの遊の取巻とりまき供を名所などころに見立てたもので、北渓ほっけいの画が挿さしはさんであった。

文政ぶんせい五年に竜池りゅうちの妻が男子だんしを生んだ。これは摂津せっつの国屋の嗣子ししで、小字おさななを子之助ねのすけと云った。文政ぶんせい五年は午うまであるので、俗習ぞくしゅうに循したがって、それから七つ目の子ねを以て

名となしたのである。二代目津藤つとうとして出藍しゅつらんの誉ほまれをいかがわしい境に馳せた香以こうい散人さんじんはこの子之助ゆきすけである。

三

わたくしが香以こういの名を聞いたのは、彼かの人情にんじょう本によって津藤つとうの名を聞いたのと、余あまり遅速ちそくは無かったらしい。否いなあるいは同時どうじであったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目じもくに触れたことが幾度いくたびであったか知れぬが、わたくしは始終しじゅう深く心に留めずに、忽たちまち聞きき忽ち忘わすれていた。そしてその間あいだ竜池りゅうち香以こういの父子ちちこを混同こんどうしていた。

それからある時香以こういと云いう名が、わたくしの記憶きおくに常住じゅうすることになった。それは今住んでいる団子だんご坂の家に入った時からの事である。

この家は香以こういに縁故えんこのある家で、それを見出みだししたのは当時とうじ存命ぞんめいしていたわたくしの父である。父は千住せんじゅで医業いぎょうをしていたが、それを廃やめてわたくしと同居どうきょしようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望ちょうぼうの好いい家として父の目に止まった。

団子だんご坂上さかのうえのから南して根津ねず権現ごんげんの裏門うらもんに出でる岨道そばみちに似た小径こみちがある。これを藪下やぶしたの道と云いう。そして所謂いわゆる藪下やぶしたの人家じんかは、当時とうじ根津ねずの社やしろに近ちかく、この道の東側ひがしがわのみを占めていた。これに反して団子だんご坂に近い処には、道の東側ひがしがわに人家じんかが無く、道は崖がけの上を横切っていた。この家の前身ぜんしんは小径しょうけいを隔へだててその崖に臨んだ板葺いたぶきの小家こいえであった。

崖の上は向岡むこうがおかから王子おうじに連つる丘陵きゅうりょうである。そして崖の下の畠はたけや水田すいでんを隔へだてて、上野かんつけのの山と相対そうたいしている。彼小家こいえの前に立って望めば、右手みぎてに上野かんつけのの山の端はなが見え、この端と向岡との間が豁然かつぜんとして開けて、そこは遠とおく地平じへい線に接せっする人家じんかの海である。今のわたくしの家の楼上ろうじょうから、浜離宮りきゅうの木立こだちの上を走はしる品川しながわ沖の白帆しらほの見まみえるのは、この方ほう角である。

父はこの小家こいえに目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家こいえには崖に面めんする窓があって、窓の裡うちにはいつも円頂えんちょうの媼おうながいた。「綺麗きれいな比丘尼びくに」と父は云った。

父は切絵図えずを調しらべて、綺麗きれいな比丘尼びくにの家が、本もと世尊せそん院の境内けいだいであったことを知った。世尊せそん院は今旧境内けいだいの過半かはんを失って、西の隅に片寄かたよせっている。

父はわたくしを誘いざなって崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家こいえをも兼かねて知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望ちょうぼうは好い。家は市隠しいんの居処いどころとも謂いうべき家である。そして窓の竹格子こうしの裡には綺麗きれいな比丘尼びくにがいた。比丘尼びくにはもう五十ごじゅうを越していたであろう。もし媼おうなをも美人びじんと称しょうすることが出来できるなら、この比丘尼びくには美人びじんであったと云いたい。

父はわたくしの同意どういを得てから、この家を買おうとして、家の持主もちぬしの誰たれなるかを問とうことにした。団子だんご坂さかの下したに当時とうじ千樹園じゅえんと云いう植木屋きやがあった。父は千樹園じゅえんの主人しゅじんを識っていたので、比丘尼びくにの家の事を問うた。

千樹園じゅえんはこう云った。崖の上の小家こいえは今住んでいる媼の所有しょゆうである。媼は高木こうぼくぎんと云って、小倉おぐらと云いうものの身寄である。小倉おぐらは本もと質屋しちやで、隠居いんきょしてから香以こうい散人さんじんの取巻とりまきをしていたが、あの家で世を去った。媼は多分たぶんあの家を売うることを惜まぬであろうと云った。

四

千樹園じゅえんが世話せわをして、崖の上の小家こいえを買かう相談そうだんは、意外いがいに容易たやすく纏まとまった。高木こうぼくぎんの地所じしょは本もとやや広ひろい角地面じめんであったのを、角だけ先まず売ったので、跡は崖に面した小家こいえのある方から、団子だんご坂上さかのうえのの街に面した方へ鉤形かぎなりに残っている。その街に面した処に小ちいさい町家ちょうかが二軒ある。一つは地所じしょも家も高木こうぼくのもので、貸店かしだなになって居り、一つは高木こうぼくの地所じしょに鳶頭とびがしらの石田いしだが家を建てて住んでいる。ぎんは取引とりひきが済んでこの貸店かしみせに移った。

父は千住せんじゅの大おおきい家を畳んで、崖の上の小家こいえに越して来た。千住せんじゅの家は徳川とくがわ将軍しょうぐんが鷹野たかのに出でる時、小休所こやすみじょにしたと云いう岡田おかだ氏の家で、これにほとんど小ちいさい病院びょういんのような設備せつびがしてあったのである。父は小家こいえに入って「身軽みがるになったようだ」と云った。そこへわたくしは太田おうたの原はらの借家しゃくやから来て一いっしょになった。

小家こいえは三間みつまに台所だいどころが附いている。三間みつまは六畳に、三畳に、四畳半で、四畳半は茶室ちゃしつ造である。後にこの茶室ちゃしつが父の終焉しゅうえんの所となった。

茶室ちゃしつの隣の三畳に反古張ほぐばりの襖ふすまが二枚立ててある。反古ほごは俳文はいぶんの紀行きこうで、文字もんじと挿画さしえとが相半あいなかばしている。巻首かんしゅには香以こうい散人さんじんの半身はんしん像がある。草画そうがではあるが、円顔まるがおの胖大漢はんだいかんだと云いうことだけは看取かんしゅせられる。

崖の上の小家こいえは父の歿後ぼつごに敗屋となって、補繕し難なんいために毀こぼたれた。反古ほご張はりの襖も剥落はくらくし尽していた。今にして思えばこれは安政あんせい六年の夏に、香以こういが三十さんじゅう八歳で江えの島しま、鎌倉かまくらを廻めぐった紀行きこうの草稿そうこうであったらしい。

崖の上の小家こいえの址あとは、今は過半かはん空地あきちになっている。大正たいしょう四年に母が七十しちじゅうの賀をする代かわりに、部屋へやを建てて貰もらいたいと云ったので、わたくしは母の指図さしずに従って四畳半の見積みつもりを大工だいくに命じた。そのうち母が大病たいびょうになった。わたくしは母の存命ぞんめい中に部屋へやを落成らくせいさせようとして工事こうじを急いだ。五年三月に部屋へやは出来しゅったいて、壁の中塗なかぬりだけ済んだ。母はこれに臥所ふしどを徙うつして喜んだが、間もなく世を去った。今わたくしが書斎しょさいにしているのがこの部屋へやで、壁は中塗なかぬりのままである。昔崖の上の小家こいえの台所だいどころであった辺が、この部屋へやの敷地しきちである。

父母ちちははと共に崖の上の小家こいえに移った時から、わたくしは香以こういの名を牢記ろうきしている。既すでにしてわたくしはこの家の旧主人しゅじん小倉おぐらが後に名を是阿弥ぜあみと云ったことを知った。香以こういは相摸国さがみのくに高座こうざ郡藤沢ふじさわの清浄しょうじょう光寺みつでらの遊行上人ゆうぎょうしょうにんから、許多あまたの阿弥あみ号を受うけて、自みずから寿阿弥あみと称し、次でこれを河竹其水かわたけきすいに譲って梅阿弥ばいあみと称し、その後また方阿弥あみと改あらため、その他の阿弥あみ号は取巻とりまきの人々に分贈した。是阿弥あみはその一つだそうである。

香以こういは明治あきはる三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌しゅうきを九月十日に親戚しんせきがした。後に取巻とりまきの人々は十月かんなずき十日を期して、小倉おぐら是阿弥あみの家に集まって仏事ぶつじを営いとなみ、それから駒込こまごめ願行寺がんぎょうじの香以こういが墓に詣もうでた。この法要ほうようの場所ばしょは即すなわち崖の上の小家こいえであったのである。

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Source edition (底本)
底本:「森鴎外全集6」ちくま文庫、筑摩書房


   1996(平成8)年1月24日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~9月

入力:ジェラスガイ

校正:小林繁雄

2005年3月17日作成

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