Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

かのように

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朝小間こま使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安ふあんらしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋へやにはゆうべも又電気でんきが附いていたね」と云った。

「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明あかりはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」

雪はこの返事へんじをしながら、戸を開けて自分じぶんが這入はいった時、大おおきい葉巻はまきの火が、暗ぐらい部屋へやの、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝けさもはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間しゅんかんの事を思い浮べていた。

「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大おおきい枠わく火鉢ひばちの中の、真まっ白しろい灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行ゆくのを、やはり不安ふあんな顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯がすが勝手かってにまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火すみびに当っているのである。

電燈でんとうは邸やしきではどの寝間ねまにも夜どおし附いている。しかし秀麿ひでまろは寝ねる時必かならず消して寝ねる習慣しゅうかんを持っているので、それが附いていれば、又徹夜てつやして本を読んでいたと云うことが分わかる。それで奥さんは手水ちょうずに起おきる度たびに、廊下ろうかから見て、秀麿ひでまろのいる洋室ようしつの窓の隙すきから、火の光の漏もれるのを気にしているのである。

――――――――――――――――

秀麿ひでまろは学習がくしゅう院から文科ぶんか大学だいがくに這入って、歴史れきし科で立派りっぱに卒業そつぎょうした。卒業そつぎょう論文ろんぶんには、国史こくしは自分じぶんが畢生ひっせいの事業じぎょうとして研究けんきゅうする積ずもりでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代こだい印度インド史の中ちゅうから、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云いう題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題もんだいになっていて、この王の事がまだ研究けんきゅうしてなかったからである。しかしこれまで特別とくべつにそう云いう方面ほうめんの研究けんきゅうをしていたのでないから、秀麿ひでまろは一歩かずほ一歩かずほ非常ひじょうな困難こんなんに撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確せいかくな判断はんだんは下されないと考かんがえて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究けんきゅうの手てほどきをして貰った。しかしこう云いう学問がくもんはなかなか急拵きゅうごしらえに出来できる筈はずのものでないから、少すこしずつ分かって来れば来くる程、困難こんなんを増ますばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題もんだいだけは、どうにかこうにか解決かいけつを附けた。自分じぶんではひどく不満ふまん足に思っているが、率直そっちょくな、一切いっさいの修飾しゅうしょくを却しりぞけた秀麿ひでまろの記述きじゅつは、これまでの卒業そつぎょう論文ろんぶんには余あまり類がないと云いうことであった。

丁度ちょうどこの卒業そつぎょう論文ろんぶん問題もんだいの起った頃からである。秀麿ひでまろは別に病気びょうきはないのに、元気げんきがなくなって、顔色がんしょくが蒼あおく、目が異様いように赫かがやいて、これまでも多く人に交際こうさいをしない男が、一層いっそう社交しゃこうに遠ざかって来た。五条ごじょう家では、奥さんを始として、ひどく心配しんぱいして、医者いしゃに見せようとしたが、「わたくしは病気びょうきなんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。奥さんは内証ないしょうで青山あおやま博士はかせが来た時尋たずねてみた。青山あおやま博士はかせは意外いがいな事を問われたと云いうような顔をしてこう云った。

「秀麿ひでまろさんですか。診察しんさつしなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気びょうきはないから、医者いしゃには見せないと云いうのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生がくせいを大勢たいせい見ているのですが、少すこし物の出来できる奴が卒業そつぎょうする前後ぜんごには、皆あんな顔をしていますよ。毎年まいとし卒業そつぎょう式の時、側そばで見ていますが、お時計とけいを頂戴ちょうだいしに出て来くる優等ゆうとう生は、大抵たいてい秀麿ひでまろさんのような顔をしていて、卒倒そっとうでもしなければ好いと思おもう位です。も少すこしで神経しんけい衰弱すいじゃくになると云いうところで、ならずに済んでいるのです。卒業そつぎょうさえしてしまえば直なおります。」

奥さんもなる程ほどそうかと思って、強しいて心配しんぱいを押さえ附けて、今に直なおるだろう、今に直なおるだろうと、自分じぶんで自分じぶんに暗示あんじを与あたえるように努めていた。秀麿ひでまろが目の前にいない時は、青山あおやま博士はかせの言った事を、一句いっく一句いっく繰くり返かえして味ってみて、「なる程ほどそうだ、なんの秀麿ひでまろに病気びょうきがあるものか、大丈夫だいじょぶだ、今に直なおる」と思ってみる。そこへ秀麿ひでまろが蒼あおい顔をして出て来て、何か上うわの空そらで言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話はなし掛かけると、実みの入いっていないような、責せめを塞ふさぐような返事へんじを、詞ことばの調子ちょうしだけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供こどもが銅像どうぞうに吹矢ふきやを射掛けたように、皮膚ひふから弾はじき戻されてしまうような心持こころもちがする。それを見みると、切角青山あおやま博士はかせの詞を基礎きそにして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来くるので、奥さんは又心配しんぱいをし出だすのであった。

――――――――――――――――

秀麿ひでまろは卒業そつぎょう後直ただちに洋行ひろゆきした。秀麿ひでまろと大たいした点数てんすうの懸隔けんかくもなくて、優等ゆうとう生として銀時計とけいを頂戴ちょうだいした同科どうかの新学士がくしは、文部もんぶ省から派遣せられる筈だのに、現げんにヨオロッパにいる一人ひとりが帰らなくては、経費けいひが出ないので、それを待っているうちに、秀麿ひでまろの方は当主とうしゅの五条ごじょう子爵ししゃくが先へ立たせてしまった。子爵ししゃくは財政ざいせいが割合わりあいに豊ゆたかなので、嫡子ちゃくしに外国がいこくで学生がくせい並の生活せいかつをさせる位の事には、さ程ほど困難こんなんを感ぜないからである。

洋行ひろゆきすると云いうことになってから、余程よほど元気げんき附いて来た秀麿ひでまろが、途中とちゅうからよこした手紙てがみも、ベルリンに著ついてからのも、総すべての周囲しゅういの物に興味きょうみを持っていて書いたものらしく見えた。印度インドの港で魚うおのように波の底に潜くぐって、銀銭ぎんせんを拾ひろう黒くろん坊ぼうの子供こどもの事や、ポルトセエドで上陸じょうりくして見たと云いう、ステレオチイプな笑顔えがおの女芸人げいにんが種々の楽器がっきを奏そうする国際こくさい的団体だんたいの事や、マルセイユで始はじめて西洋せいようの町を散歩さんぽして、嘘と云いうものを衝つかぬ店で、掛値かけねと云いうもののない品物しなもんを買って、それを持って帰ろうとして、紳士しんしがそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届とどけると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物しなもんが先へ届いていた事や、それからパリイに滞在たいざいしていて、或ある同族どうぞくの若殿わかとのに案内あんないせられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派りっぱな貴夫たかお人が来て何なんか云いうと、若殿わかとのがつっけんどんに、わたし共はフランス語は話はなしませんと云って置いて、自分じぶんが呆あきれた顔をしたのを見て女に聞えたかと思おもう程大おおきい声をして、「Toutツウ ceシヨ quiキイ brilleブリユ, n'estネエ pas orパアゾオル」と云ったので、始はじめてなる程ほどと悟った事や、それからベルリンに著いた当時とうじの印象いんしょうを瑣細ささいな事まで書いてあって、子爵ししゃく夫婦ふうふを面白おもしろいがらせた。子爵ししゃくは奥さんに三省さんせい堂の世界せかい地図ちずを一枚買って渡わたして、電報でんぽうや手紙てがみが来くる度に、鉛筆えんぴつで点を打ったり線を引いたりして、秀麿ひでまろはここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。

ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長そうちょうの下もとに、大学だいがくの三百さんびゃく年祭ねんさいをする年に当ったので、秀麿ひでまろも鍔つばの嵌はまった松明たいまつを手に持って、松明たいまつ行列ぎょうれつの仲間なかまに這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学だいがくにいる間、秀麿ひでまろはこの期にはこれこれの講義こうぎを聴きくと云いうことを、精くわしく子爵ししゃくの所へ知しらせてよこしたが、その中にはイタリア復興ふっこう時代じだいだとか、宗教しゅうきょう革新かくしんの起原きげんだとか云いうような、歴史れきしその物の講義こうぎと、史的してき研究けんきゅうの原理げんりと云いうような、抽象ちゅうしょう的な史学しがくの講義こうぎとがあるかと思おもうと、民族みんぞく心理学りがくやら神話しんわ成立せいりつやらがある。プラグマチスムスの哲学てつがく史上しじょうの地位ちいと云いうのがある。或ある助教授きょうじゅの受うけ持もちっているフリイドリヒ・ヘッベルと云いう文芸ぶんげい史方面ほうめんのものがある。ずっと飛び離れて、神学科がっかの寺院じいん史や教義史よしふみがある。学期がっきごとにこんな風で、専門せんもんの学問がくもんに手を出した事のない子爵ししゃくには、どんな物だか見当けんとうの附かぬ学科がっかさえあるが、とにかく随分ずいぶ雑駁ざっぱくな学問がくもんのしようをしているらしいと云いう事だけは判断はんだんが出来しゅったいた。しかし子爵ししゃくはそれを苦にもしない。息子むすこを大学だいがくに入れたり、洋行ひろゆきをさせたりしたのは、何も専門せんもんの職業しょくぎょうがさせたいからの事ではない。追って家督かとく相続そうぞくをさせた後に、恐多おそれおういが皇室こうしつの藩屏はんぺいになって、身分みぶん相応そうおうな働はたらきをして行ゆくのに、基礎きそになる見識けんしきがあってくれれば好い。その為ために普通ふつう教育きょういくより一段上だんじょうの教育きょういくを受けさせて置こうとした。だから本人ほんにんの気の向むく学科がっかを、勝手かってに選んでさせて置いて好いと思っているのであった。

ベルリンにいる間、秀麿ひでまろが学者がくしゃの噂うわさをしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才ぶんさいや弁説べんぜつも度々褒ほめてあったが、それよりも神学者がくしゃアドルフ・ハルナックの事業じぎょうや勢力せいりょくがどんなものだと云いうことを、繰くり返かえしてお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別とくべつな意味いみのある事らしく、帰って顔を見て、土産話みやげばなしにするのが待まち遠どういので、手紙てがみでお父うさんに飲み込ませたいとでも云いうような熱心ねっしんが文章ぶんしょうの間に見えていた。殊ことに大学だいがくの三百さんびゃく年祭ねんさいの事を知しらせてよこした時なんぞは、秀麿ひでまろはハルナックをこの目覚めざましい祭の中心ちゅうしん人物じんぶつとして書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣くんしんの間柄あいだがらは、人主が学者がくしゃを信用しんようし、学者がくしゃが献身けんしん的態度たいどを以もって学術がくじゅつ界に貢献こうけんしながら、同時どうじに君国くんこくの用をなすと云いう方面ほうめんから見みると、模範もはん的だと云って、ハルナックが事業じぎょうの根柢こんていをはっきりさせる為ために、とうとう父テオドジウスの事にまで溯さかのぼって、精くわしく新教しんきょう神学しんがく発展はってんの跡を辿たどって述べていた。自分じぶんの専門せんもんだと云っている歴史れきしの事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別とくべつに言ってよこすのだろうと子爵ししゃくは不審ふしんに思って、この手紙てがみだけ念を入れて、度々読よみ返かえして見た。そしてその手紙てがみの要点ようてんを掴つかまえようと努力どりょくした。手紙てがみの内容ないようを約つづめて見れば、こうである。政治せいじは多数たすうを相手あいてにした為事しごとである。それだから政治せいじをするには、今でも多数たすうを動かしている宗教しゅうきょうに重おもきを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教しゅうきょうを異ことにしている北と南とを擣つきくるめて、人心じんしんの帰嚮きこうを繰あやつって行かなくてはならないし、外交がいこうの上でも、いかに勢力せいりょくを失墜しっついしているとは云え、まだ深ぶかい根柢こんていを持っているロオマ法王ほうおうを計算けいさんの外に置おくことは出来しゅったいない。それだからドイツの政治せいじは、旧教きゅうきょうの南ドイツを逆さからわないように抑おさえていて、北ドイツの新教しんきょうの精神せいしんで、文化ぶんかの進歩しんぽを謀はかって行かなくてはならない。それには君主くんしゅが宗教しゅうきょう上の、しっかりした基礎きそを持っていなくてはならない。その基礎きそが新教しんきょう神学しんがくに置いてある。その新教しんきょう神学しんがくを現げんに代表だいひょうしている学者がくしゃはハルナックである。そう云いう意味いみのある地位ちいに置かれたハルナックが、少すこしでも政治せいじの都合つごうの好いように、神学しんがく上の意見いけんを曲まげているかと云いうに、そんな事はしていない。君主くんしゅもそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強つよみがある。それでドイツは世界せかいに羽をのして、息張いばっていることが出来できる。それで今のような、社会しゃかい民政党せいとうの跋扈ばっこしている時代じだいになっても、ウィルヘルム第二世は護衛ごえい兵も連ずれずに、侍従じじゅうの武官ぶかんと自動じどう車に相乗そうじょうをして、ぷっぷと喇叭らっぱを吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出だし抜に展覧てんらん会を見物けんぶつしに行ったり、店へ買物かいものをしに行ったりすることが出来できるのである。ロシアとでも比くらべて見みるが好い。グレシア正教せいきょうの寺院じいんを沈滞ちんたいのままに委まかせて、上辺うわべを真綿まわたにくるむようにして、そっとして置いて、黔首けんしゅを愚ぐにするとでも云いたい政治せいじをしている。その愚にせられた黔首が少すこしでも目を醒さますと、極端きょくたんな無政むせい府主ふしゅ義者ぎしゃになる。だからツアアルは平服へいふくを著きた警察官さつかんが垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体いったい宗教しゅうきょうを信しんずるには神学しんがくはいらない。ドイツでも、神学しんがくを修おさめるのは、牧師ぼくしになる為ためで、ちょっと思おもうと、宗教しゅうきょう界に籍を置かないものには神学しんがくは不用ふようなように見まみえる。しかし学問がくもんなぞをしない、智力ちりょくの発展はってんしていない多数たすうに不用ふようなのである。学問がくもんをしたものには、それが有用ゆうようになって来くる。原来がんらい学問がくもんをしたものには、宗教しゅうきょう家の謂いう「信仰しんこう」は無なあい。そう云いう人、即すなわち教育きょういくがあって、信仰しんこうのない人に、単たんに神を尊敬しろ、福音ふくいんを尊敬しろと云っても、それは出来しゅったいない。そこで信仰しんこうしないと同時どうじに、宗教しゅうきょうの必要ひつようをも認したためなくなる。そう云いう人は危険きけん思想しそう家である。中には実際じっさいは危険きけん思想しそう家になっていながら、信仰しんこうのないのに信仰しんこうのある真似まねをしたり、宗教しゅうきょうの必要ひつようを認したためないのに、認したためている真似まねをしている。実際じっさいこの真似まねをしている人は随分ずいぶ多おおい。そこでドイツの新教しんきょう神学しんがくのような、教義きょうぎや寺院じいんの歴史れきしをしっかり調べたものが出来しゅったいていると、教育きょういくのあるものは、志さえあれば、専門家かどやの綺麗きれいに洗あらい上あげた、滓かすのこびり付いていない教義きょうぎをも覗のぞいて見みることが出来できる。それを覗いて見みると、信仰しんこうはしないまでも、宗教しゅうきょうの必要ひつようだけは認したためるようになる。そこで穏健おんけんな思想しそう家が出来できる。ドイツにはこう云いう立脚りっきゃく地を有している人の数がなかなか多おおい。ドイツの強つよみが神学しんがくに基づいていると云いうのは、ここにある。秀麿ひでまろはこう云いう意味いみで、ハルナックの人物じんぶつを称讃しょうさんしている。子爵ししゃくにも手紙てがみの趣意しゅいはおおよそ呑のみ込めた。

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First published
「中央公論」1912(明治45)年1月
Source edition (底本)
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社


   1968(昭和43)年4月20日発行

   1985(昭和60)年5月20日36刷改版

入力:高橋真也

校正:湯地光弘

1999年9月23日公開

2006年4月27日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
高橋真也
Proofread by (校正)
湯地光弘

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