Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

木精

こだま

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巌いわが屏風びょうぶのように立っている。登山とざんをする人が、始はじめて深山薄雪草みやまうすゆきそうの白じろい花を見付けて喜よろこぶのは、ここの谷間たにまである。フランツはいつもここへ来てハルロオと呼よぶ。

麻のようなブロンドな頭を振り立って、どうかしたら羅馬ロオマ法皇ほうおうの宮廷きゅうていへでも生捕いけどられて行きそうな高音こうおんでハルロオと呼よぶのである。

呼んでしまってじいっとして待っている。

暫しばらくすると、大おおきい鈍にぶいコントルバスのような声でハルロオと答こたえる。

これが木精こだまである。

フランツはなんにも知らない。ただ暖あたたかい野の朝、雲雀ひばりが飛び立って鳴なくように、冷つめたい草叢くさむらの夕ゆうべ、こおろぎこおろぎが忍しのびやかに鳴なく様に、ここへ来てハルロオと呼よぶのである。しかし木精もくせいの答えてくれるのが嬉うれしい。木精もくせいに答えて貰もらうために呼よぶのではない。呼べば答こたえるのが当あたり前まえである。日の明るく照っている処に立っていれば、影が地に落おちる。地に影を落おとすために立っているのではない。立っていれば影が差さすのが当あたり前まえである。そしてその当あたり前まえの事が嬉うれしいのである。

フランツは父が麓ふもとの町から始はじめて小ちいさい沓くつを買って来て穿はかせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼よぶ。呼べばいつでも木精もくせいの答えないことはない。

フランツは段々大きくなった。そして父の手伝てつだいをさせられるようになった。それで久ひさしい間例の岩の前へ来ずにいた。

ある日の朝である。山を一面いちめんに包んでいた雪が、巓いただきにだけ残って方々の樅もみの木立こだちが緑の色を現して、深ぶかい深ぶかい谷川たにがわの底を、水がごうごうと鳴って流ながれる頃の事である。フランツは久振ひさしぶりで例の岩の前に来た。

そして例のようにハルロオと呼んだ。

麻のようなブロンドな頭を振り立って呼んだ。しかし声は少すこし荒さびを帯びた次高音こうおんになっているのである。

呼んでしまって、じいっとして待っている。

暫しばらくしてもう木精もくせいが答こたえる頃だなと思おもうのに、山はひっそりしてなんにも聞えない。ただ深ぶかい深ぶかい谷川たにがわがごうごうと鳴っているばかりである。

フランツは久しく木精もくせいと問答もんどうをしなかったので、自分じぶんが時間じかんの感かんじを誤っているかと思って、また暫しばらくじいっとして待っていた。

木精もくせいはやはり答えない。

フランツはじいっとしていつまでもいつまでも待っている。

木精もくせいはいつまでもいつまでも答えない。

これまでいつも答えた木精もくせいが、どうしても答えないはずはない。もしや木精もくせいは答えたのを、自分じぶんがどうかして聞かなかったのではないかと思った。

フランツは前より大おおきい声をしてハルロオと呼んだ。

そしてまたじいっとして待っている。

もう答こたえるはずだと思おもう時間じかんが立だつ。

山はひっそりしていて、ごうごうという谷川たにがわの音がするばかりである。

また前に待った程の時間じかんが立だつ。

聞きこえるものは谷川たにがわの音ばかりである。

これまではフランツはただ不思議ふしぎだ不思議ふしぎだと思っていたばかりであったが、この時になって急に何とも言えない程心細く寂しくなった。譬たとえばこれまで自由じゆうに動うごかすことの出来しゅったいた手足しゅそくが、ふいと動かなくなったような感かんじである。麻痺まひの感かんじである。麻痺まひは一部分ぶぶんの死である。死の息が始はじめてフランツの項うなじに触れたのである。フランツは麻のようなブロンドな髪が一本いっぽん一本いっぽん逆に竪たつような心持こころもちがして、何を見みるともなしに、身の周匝まわりを見廻みまわりした。目に触ふれる程のものに、何どの変った事もない。目の前には例の岩が屏風びょうぶの様に立っている。日の光がところどころ霧の幕を穿うがって、樅の木立こだちを現わしている。風の少すこしもない日の癖で、霧が忽たちまち細こまい雨になって、今まで見えていた樅の木立こだちがまた隠かくれる。谷川たにがわの音の太ふとい鈍にぶい調子ちょうしを破って、どこかで清きよい鈴の音がする。牝牛めうしの頸くびに懸かけてある鈴であろう。

フランツは雨に濡ぬれるのも知らずに、じいっと考かんがえている。余あまり不思議ふしぎなので、夢ではないかとも思って見た。しかしどうも夢ではなさそうである。

暫しばらくしてフランツは何か思い付いたというような風で、「木精もくせいは死んだのだ」とつぶやいた。そしてぼんやり自分じぶんの住んでいる村の方へ引ひき返かえした。

同おんなじ日の夕方ゆうがたであった。フランツはどうも木精もくせいの事が気に掛かってならないので、また例の岩の処へ出掛でかけた。

この日丁度ちょうど午過ひるすぎから極ごく軽かるい風が吹いて、高だかい処にも低ひくい処にも団まろがっていた雲が少すこしずつ動うごき出でるした。そして銀色ぎんいろに光ひかる山の巓が一つ見え二つ見えて来た。フランツが二度目に出掛でかけた頃には、巓という巓が、藍色あいいろに晴はれ渡った空にはっきりと画かれていた。そして断崖だんがいになって、山の骨のむき出されているあたりは、紫を帯びた紅くれないににおにおうのである。

フランツが例の岩の処に近づくと、忽ち木精もくせいの声が賑にぎやかに聞えた。小ちいさい時から聞きき馴なれた、大おおきい、鈍にぶい、コントルバスのような木精もくせいの声である。

フランツは「おや、木精もくせいだ」と、覚おぼえず耳を欹そばだてた。

そして何を考かんがえる隙ひまもなく駈かけ出でるした。例の岩の処に子供こどもの集まっているのが見まみえる。子供こどもは七人である。皆ブリュネットな髪をしている。血色けっしょくの好い丈夫たけおそうな子供こどもである。

フランツはついに見たことのない子供こどもの群むれを見て、気兼きがねをして立ち留まった。

子供こども達は皆じいっとして木精もくせいを聞いていたのであるが、木精もくせいの声が止んでしまうと、また声を揃ぞろえてハルロオと呼んだ。

勇いさましい、底力そこじからのある声である。

暫しばらくすると木精もくせいが答えた。大おおきい大おおきい声である。山々に響ひびき谷々に響ひびく。

空に聳そびえている山々の巓は、この時あざやかな紅に染そまる。そしてあちこちにある樅の木立こだちは次第しだいに濃くなる鼠色ねずみいろに漬ひたされて行ゆく。

七人の知らぬ子供こども達は皆じいっとして、木精もくせいの尻声しりごえが微かすかになって消えてしまうまで聞いている。どの子の顔にも喜よろこびの色が輝いている。その色は生の色である。

群むれを離はなれてやはりじいっとして聞いているフランツが顔にも喜よろこびが閃ひらめいた。それは木精もくせいの死なないことを知しったからである。

フランツは何と思ってか、そのまま踵きびすを旋めぐらして、自分じぶんの住んでいる村の方へ帰った。

歩きながらフランツはこんな事を考かんがえた。あの子供こども達はどこから来たのだろう。麓の方に新あたらしい村が出来しゅったいて、遠とおい国から海を渡って来た人達がそこに住んでいるということだ。あれはおおかたその村の子供こども達だろう。あれが呼よぶハルロオには木精もくせいが答こたえる。自分じぶんのハルロオに答えないので、木精もくせいが死んだかと思ったのは、間違であった。木精もくせいは死なない。しかしもう自分じぶんは呼よぶことは廃よそう。こん度呼んで見たら、答こたえるかも知れないが、もう廃そう。

闇やみが次第しだいに低ひくい処から高だかい処へ昇って行って、山々の巓は最後さいごの光を見せて、とうとう闇に包まれてしまった。村の家にちらほら燈火とうかが附き始はじめた。

(明治あきはる四十三じゅうそう年一としかず月)

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子供達こどもたち · ×4

Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房


   1995(平成7)年7月24日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~9月刊

入力:鈴木修一

校正:mayu

2001年7月31日公開

2006年4月28日修正

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