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森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

興津弥五右衛門の遺書(初稿)

おきつやごえもんのいしょ(しょこう)

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某それがし儀ぎ今年ことし今月こんげつ今日きょう切腹せっぷくして相果あいはて候そろ事いかにも唐突とうとつの至いたりにて、弥五右衛門ごえもん奴め老耄ろうもうしたるか、乱心らんしんしたるかと申候者も可有之これあるべく候そうらえども、決けっして左様さようの事には無之これなく候そろ。某それがし致仕ちし候てより以来いらい、当国とうこく船岡山ふなおかやまの西麓さいろくに形ばかりなる草庵そうあんを営いとなみ罷在まかりあり候えども、先主人しゅじん松向寺殿しょうこうじどの御逝去せいきょ遊ばされて後、肥後国ひごのくに八代やつしろの城下しろしたを引払いたる興津おきつの一家かずやは、同国どうこく隈本くまもとの城下しろしたに在住ざいじゅう候えば、この遺書いしょ御目に触れ候わば、はなはだ慮外りょがいの至に候えども、幸便こうびんを以もって同家どうけへ御送届下くだされたく、近隣きんりんの方々へ頼入たのみいり候。某それがし年来桑門そうもん同様どうようの渡世とせい致しおり候えども、根性こんじょうは元の武士もののふなれば、死後しごの名聞みょうもんの儀もっとも大切たいせつに存ぞんじ、この遺書いしょ相認あいしたため置おき候事に候。

当庵は斯様かように見苦しく候えば、年末ねんまつに相迫り相果はて候を見られ候方々かたがた、借財しゃくざい等のため自殺じさつ候様御推量すいりょうなされ候事も可有之これあるべく候そうらえども、借財しゃくざい等は一切いっさい無き某、厘毛りんもうたりとも他人たにんに迷惑めいわく相掛かけ申さず、床とこの間まの脇わき、押入おしいれの中の手箱てばこには、些少さしょうながら金子きんす貯たくわえおき候えば、荼だびの費用ひように御当て下されたく、これまた頼入いり候。前文ぜんぶん隈本くまもとの方へは、某頭を剃そりこくりおり候えば、爪なりとも少々この遺書いしょに取添そえ御遣つかわし下され候わば仕合しあわせ申もうすべく候。床とこの間まに並べ有之候御位牌いはい三基みきは、某が奉公ほうこう仕つかまつりし細川ほそかわ越中えっちゅうの守忠興ただおき入道宗みちむね立三斎殿御事松向寺殿を始はじめとし、同越中えっちゅうの守忠利ただとし殿御事妙解院殿いんでん、同肥後ひご守光尚みつひさ殿御三方さんぼうに候えば、御手数てすうながら粗略そりゃくに不相成様あいならざるよう、清浄しょうじょうなる火にて御焼滅下されたく、これまた頼入いり候。某が相果はて候今日は、万治まんじ元戊戌年つちのえいぬのとし十二とうに月二日に候えば、さる正保しょうほう二乙酉きのととり十二とうに月二日に御逝去ごせいきょ遊ばされ候そろ松向寺殿の十三じゅうそう回忌かいきに相当そうとう致しおり候事に候。

某それがしが相果候仔細しさいは、子孫しそんにも承知しょうち致いたさせたく候えば、概略がいりゃく左に書残し候。

最早もはや三十さんじゅう余年の昔に相成り候事に候。寛永かんえい元年がんねん五月さつき安南船あんなんせん長崎ながさきに到着とうちゃく候節、当時松ときまつ向寺殿は御薙髪ごていはつ遊ばされ候そろてより三年目なりしが、御茶事ちゃじに御用おんもちいなされ候そろ珍らしき品買求もとめ候様仰おおせ含められ、相役あいやくと両人りょうにんにて、長崎ながさきへ出向き候。幸なる事には異ことなる伽羅きゃらの大木おうぎ渡来とらい致しおり候。然しかるところその伽羅きゃらに本木もときと末木うらきとの二つありて、はるばる仙台せんだいより差下さしくだされ候伊達権中納言だてごんちゅうなごん殿の役人やくにんぜひとも本木もときの方を取らんとし、某も同おんなじ本木もときに望を掛かけ、互にせり合あい、次第しだいに値段ねだんをつけ上あげ候。

その時相役あいやく申候は、たとい主命しゅめいなりとも、香木こうぼくは無用むようの翫物がんぶつに有之これあり、過分かぶんの大金たいきんを擲なげうち候そろ事ことは不可然しかるべからず、所詮しょせん本木もときを伊達だて家に譲ゆずり、末木すえきを買求もとめたき由申候。某申候は、某は左様さようには存ぞんじ申さず、主君しゅくんの申つけられ候は、珍らしき品を買求もとめ参れとの事なるに、このたび渡来とらい候品の中にて、第一だいいちの珍物ちんぶつはかの伽羅きゃらに有之、その木に本末もとすえあれば、本木もときの方が、尤物ゆうぶつ中の尤物ゆうぶつたること勿論もちろんなり、それを手に入れてこそ主命しゅめいを果はたすに当あたるべけれ、伊達だて家の伊達だてを増長ぞうちょう致させ、本木もときを譲ゆずり候ては、細川ほそかわ家の流を涜けがす事と相成可と申候。相役あいやく嘲笑あざわらいて、それは力瘤ちからこぶの入れどころが相違そういせり、一国一城いちじょうを取どるか遣やるかと申もうす場合ばあいならば、飽あくまで伊達だて家に楯たてをつくがよろしかるべし、高こうが四畳半の炉ろにくべらるる木の切きれならずや、それに大金たいきんを棄すてんこと存ぞんじも寄らず、主君しゅくん御自身おのれにてせり合あうわれ候わば、臣下しんかとして諫いさめ止とどめ申もうすべき儀ぎなり、たとい主君しゅくんがしいて本木もときを手に入れたく思召おぼしめしされんとも、それを遂げさせ申もうす事阿諛便佞あゆべんねいの所為しょいなるべしと申候。当時とうじ未いまだ三十さんじゅう歳に相成らざる某それがし、この詞ことばを聞ききて立腹りっぷく致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人けんじんらしき申条もうしじょうなり、さりながら某はただ主命しゅめいと申物が大切たいせつなるにて、主君しゅくんあの城を落せと仰おおせられ候わば、鉄壁てっぺきなりとも乗取り申もうすべく、あの首を取れと仰おおせられ候わば、鬼神きしんなりとも討果たし申もうすべくと同おなじく、珍らしき品を求もとめ参れと仰おおせられ候えば、この上なき名物めいぶつを求めん所存しょぞんなり、主命しゅめいたる以上いじょうは、人倫じんりんの道に悖もとり候事は格別かくべつ、その事柄ことがらに立入り候批判ひはんがましき儀は無用むようなりと申候。相役あいやくいよいよ嘲笑いて、お手前てまえとてもその通とおり、道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具ぶぐなどならば、大金たいきんに代かうとも惜しからじ、香木こうぼくに不相応そうおうなる価を出さんとせらるるは、若輩じゃくはいの心得こころえ違なりと申候。某申候は、武具ぶぐと香木こうぼくとの相違そういは某それがし若輩じゃくはいながら心得こころえ居おる、泰勝院殿たいしょういんでんの御代みよに、蒲生がもう殿申され候そろは、細川ほそかわ家には結構けっこうなる御道具どうぐあまた有之由なれば拝見はいけんに罷まかりいずべしとの事なり、さて約束やくそくせられし当日とうじつに相成り、蒲生かもう殿参られ候に、泰勝院殿いんでんは甲冑かっちゅう刀剣とうけん弓鎗の類を陳つらねて御見せなされ、蒲生かもう殿意外いがいに思おぼされながら、一応いちよう御覧ごらんあり、さて実は茶器ちゃき拝見はいけん致したく参上さんじょうしたる次第しだいなりと申され、泰勝院殿いんでん御笑わらいなされ、先きには道具どうぐと仰おおせられ候故、武家ぶけの表道具どうぐを御覧ごらんに入れたり、茶器ちゃきならばそれも少々持合もちあわせ候とて、はじめて御取とり出だしなされし由、御当家とうけにおかせられては、代々武道たけみちの御心掛こころがけ深くおわしまし、かたがた歌道かどう茶事ちゃじまでも堪能たんのうに渡らせらるるが、天下てんかに比類ひるいなき所ならずや、茶儀は無用むようの虚礼きょれいなりと申さば、国家こっかの大礼たいれい、先祖せんぞの祭祀さいしも総すべて虚礼きょれいなるべし、我等この度仰おおせを受うけたるは茶事ちゃじに御用に立だつべき珍らしき品を求むる外ほか他事たじなし、これが主命しゅめいなれば、身命しんめいに懸かけても果たさでは相成らず、貴殿きでんが香木こうぼくに大金たいきんを出だす事不相応ふそうおうなりと思され候は、その道の御心得こころえなき故、一徹てつに左様さよう思わるるならんと申候。相役あいやく聞ききも果はてず、いかにも某は茶事ちゃじの心得こころえなし、一徹いってつなる武辺者ぶへんものなり、諸芸しょげいに堪能かんのうなるお手前てまえの表芸おもてげいが見たしと申もうすや否や、つと立たち上あがり、旅館りょかんの床とこの間まなる刀掛より刀を取とり、抜打ぬきうちに切つけ候。某が刀は違棚ちがいだなの下なる刀掛に掛かけあり、手近てじかなる所には何物なにものも無之故、折しも五月さつきの事なれば、燕子花かきつばたを活けありたる唐金からかねの花瓶かびんを掴つかみて受留め、飛とびしざりて刀を取とり、抜合あわせ、ただ一打に相役あいやくを討果たし候。

かくて某それがしは即時そくじに伽羅きゃらの本木もときを買取かいとり、杵築きつきへ持帰り候。伊達だて家の役人やくにんは是非ぜひなく末木うらきを買取かいとり、仙台せんだいへ持帰り候。某は香木こうぼくを松向寺殿に参らせ、さて御願ねがい申候は、主命しゅめい大切たいせつと心得こころえ候ためとは申ながら、御役に立だつべき侍さむらい一人ひとり討果たし候段、恐入り候えば、切腹せっぷく仰附おおせつけられたしと申候。松向寺殿聞召きこしめされ、某に仰おおせられ候は、その方ほうが申条一々もっとも至極しごくなり、たとい香木こうぼくは貴からずとも、この方ほうが求もとめ参れと申つけたる珍品ちんぴんに相違そういなければ、大切たいせつと心得こころえ候事当然とうぜんなり、総すべて功利こうりの念をもて物を視み候わば、世よの中なかに尊き物は無なくなるべし、ましてやその方ほうが持帰り候伽羅きゃらは早速さっそく焚たき試こころみ候に、希代きたいの名木めいぼくなれば、「聞きく度に珍らしければ郭公ほととぎすいつも初音はつねの心地ここちこそすれ」と申もうす古歌ふるうたに本もとづき、銘を初音はつねとつけたり、かほどの品を求もとめ帰がえり候事天晴あっぱれなり、ただし討うたれ候侍の子孫しそん遺恨うらみを含ふくみいては相成らずと仰おおせられ候。かくて直ただちに相役あいやくの嫡子ちゃくしを召され、御前ごぜんにおいて盃を申つけられ、某それがしは彼者かのものと互に意趣いしゅを存ぞんずまじき旨むね誓言せいげん致し候。

これより二年目、寛永かんえい三年九月六日むいか主上しゅじょう二条にじょうの御城へ行幸ぎょうこう遊ばされ、妙解院殿いんでんへかの名香みょうごうを御所望しょもう有之、すなわちこれを献ぜらる、主上おかみ叡感えいかん有ありて、「たぐひありと誰かはいはむ末すゑにほにほふ秋より後のしら菊の花」と申もうす古歌ふるうたの心にて、白菊しろぎくと名づけさせ給たもう由承候。某が買求もとめ候香木こうぼく、畏かしこくも至尊しそんの御賞美しょうびを被こうむり、御当家とうけの誉と相成り候事、存じ寄らざる仕合しあわせと存ぞんじ、落涙らくるい候事に候。

さりながら一旦いったん切腹せっぷくと思定さだめ候某それがし、竊ひそかに時節じせつを相待まちおり候ところ、御隠居ごいんきょ松向寺殿は申に及ばず、その頃の御当主とうしゅ妙解院殿いんでんよりも出格しゅっかくの御引立を蒙こうむり、寛永かんえい九年御国替くにがえの砌みぎりには、松向寺殿の御居城きょじょう八代やつしろに相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京じょうきょうの御供ごくうにさえ召具めしぐせられ、繁務に逐おわれ、空むなしく月日がっぴを相送おくり候。その内うち寛永かんえい十四年嶋原征伐しまばらせいばつと相成り候故ゆえ松向寺殿に御暇相願ねがい、妙解院殿いんでんの御旗下はたもとに加わり、戦場せんじょうにて一命いちめい相果たし申もうすべき所存しょぞんのところ、御当主とうしゅの御武運ぶうん強く、逆徒ぎゃくとの魁首かいしゅ天草てんぐさ四郎しろう時貞ときさだを御討取遊ばされ、物数ものかずならぬ某それがしまで恩賞おんしょうに預あずかり、宿望しゅくぼう相遂げず、余命よめいを生延いきのび候そろ。

然しかるところ寛永かんえい十八年妙解院殿いんでん存じ寄よらざる御病気びょうきにて、御父上に先立さきだち、御逝去せいきょ遊ばされ、肥後ひご守殿しゅでんの御代みよと相成り候。ついで正保しょうほう二年松向寺殿も御逝去せいきょ遊ばされ、これより先さき寛永かんえい十三じゅうそう年には、同おんなじ香木こうぼくの本末ほんまつを分わけて珍重ちんちょうなされ候仙台せんだい中納言なごん殿さえ、少林城わかばやしじょうにおいて御逝去せいきょなされ候。かの末木すえきの香は、「世よの中なかの憂きを身に積つむ柴舟しばふねやたかぬ先よりこがれ行らん」と申もうす歌の心にて、柴舟さいしゅうと銘し、御珍蔵ちんぞうなされ候由に候。その後肥後ひご守は御年三十一といち歳にて、慶安けいあん二年俄にわかに御逝去せいきょ遊ばされ候。御臨終りんじゅうの砌みぎり、嫡子ちゃくし六丸まる殿御幼少ようしょうなれば、大国おうくにの領主りょうしゅたらんこと覚束おぼつかなく思召され、領地りょうち御返上へんじょうなされたき由、上様うえさまへ申上げられ候処、泰勝院殿いんでん以来いらいの忠勤ちゅうきんを思召され、七歳の六丸殿へ本領ほんりょう安堵あんど仰附けられ候。

某それがしは当時とうじ退隠たいいん相願ねがい、隈本くまもとを引払い、当地とうちへ罷越まかりこし候えども、六丸殿の御事おんこと心に懸かかり、せめては御元服げんぷく遊ばされ候まで、よそながら御安泰あんたいを祈念きねん致したく、不識不知しらずしらずあまたの幾月を相過あいすごし候。

然るところ去さる承応じょうおう二年六丸殿は未いまだ十一といち歳におわしながら、越中えっちゅうの守に御成おなり遊ばされ、御名告なのりも綱利つなとしと賜わり、上様の御覚おんおぼえ目出たき由消息しょうそく有之、かげながら雀躍じゃくやく候事に候。

最早もはや某が心に懸かり候事毫末ごうまつも無之、ただただ老病ろうびょうにて相果はて候が残念ざんねんに有之、今年ことし今月こんげつ今日きょう殊ことに御恩顧おんこを蒙こうむり候松向寺殿の十三じゅうそう回忌かいきを待得まちえ候そろて、遅おくればせに御跡を奉慕したいたてまつり候。殉死じゅんしは国家こっかの御制禁せいきんなる事、篤とくと承知しょうち候えども壮年そうねんの頃相役あいやくを討ちし某が死遅おくれ候迄までなれば、御咎とがめも無之かと存ぞんじ候。

某平生へいぜい朋友ほうゆう等無之候えども、大徳だいとく寺清宕和尚せいとうおしょうは年来ねんらい入懇じっこんに致しおり候えば、この遺書いしょ国許くにもとへ御遣おんつかわし下され候そろ前に、御見せ下されたく、近郷きんごうの方々かたがたへ頼入いり候。

この遺書いしょ蝋燭ろうそくの下にて認したためおり候ところ、只今ただいま燃尽き候。最早もはや新あらたに燭火しょっかを点ともし候にも及ばず、窓の雪明ゆきあかりにて、皺腹しわばら掻切かっきり候こうほどの事は出来しゅったい申もうすべく候。

万治まんじ元戊戌年つちのえいぬのとし十二とうに月二日

興津おきつ弥五右衛門ごえもん華押かおう

皆々様

この擬書ぎしょは翁草おきなぐさに拠って作ったのであるが、その外ほかは手近てじかにある徳川とくがわ実記じっき(紀)と野史やしとを参考さんこうしたに過すぎない。皆活板本かっぱんほんで実記じっき(紀)は続国史こくし大系たいけい本である。翁草おきなぐさに興津おきつが殉死じゅんししたのは三斎の三回忌きだとしてある。しかし同時どうじにそれを万治まんじ寛文かんぶんの頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年ぼつねんから推おせば、三回忌かいきは慶安けいあん元年がんねんになるからである。そこで改あらためて万治まんじ元年がんねん十三じゅうそう回忌かいきとした。興津おきつが長崎ながさきに往いったのは、いつだか分からない。しかし初音はつねの香こうを二条にじょう行幸ぎょうこうの時、後水尾ごみずお天皇てんのうに上たてまつったと云ってあるから、その行幸ぎょうこうのあった寛永かんえい三年としより前でなくてはならない。しかるに興津おきつは香木こうぼくを隈本くまもとへ持って帰ったと云ってある。細川ほそかわ忠利ただとしが隈本くまもと城主じょうしゅになったのは寛永かんえい九年だから、これも年代としよが相違そういしている。そこで丁度ちょうど二条にじょう行幸ぎょうこうの前まえ寛永かんえい元年がんねん五月さつき安南あんなん国から香木こうぼくが渡った事があるので、それを使って、隈本くまもとを杵築きつきに改あらためた。最後さいごに興律は死んだ時何歳であったか分からない。しかし万治まんじから溯さかのぼると、二条にじょう行幸ぎょうこうまでに三十さんじゅう年余ねんよ立っている。行幸ぎょうこう前に役人やくにんになって長崎ながさきへ往った興津おきつであるから、その長崎ながさき行が二十にじゅう代の事だとしても死しぬる時は六十ろくじゅう歳位にはなっている筈はずである。こんな作に考証こうしょうも事々ことごとしいが、他日たじつの遺忘いぼうのためにただこれだけの事を書き留めておく。

大正たいしょう元年がんねん九月十八日

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First published
「中央公論」1912(大正元)年10月
Source edition (底本)
底本:「カラー版日本文学全集7 森鴎外」河出書房新社


   1969(昭和44)年3月30日初版発行

初出:「中央公論」

   1912(大正元)年10月

入力:川山隆

校正:門田裕志

2008年3月24日作成

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