Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

鴎外漁史とは誰ぞ

おうがいぎょしとはだれぞ

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福岡ふくおか日日ひにち新聞しんぶんの主筆しゅひつ猪股為治いのまたためじ君は予が親戚しんせきの郷人きょうじんである。予が九州きゅうしゅうに来てから、主筆しゅひつはわざわざ我旅寓わがりょぐうを訪とわれたので、予は共に世事せじを談じ、また間まま文学ぶんがくの事に及んだこともあった。主筆しゅひつは多く欧羅巴ヨオロッパの文章ぶんしょうを読んで居て、地方じかたの新聞しんぶん記者きしゃ中には実げに珍めずらしいといわねばならぬ人である。昨年さくねん彼かの新聞しんぶんが六千ろくせん号を刊かんするに至ったとき、主筆しゅひつが我文を請われて、予は交誼上こうぎじょうこれに応ぜねばならぬことになったので、乃すなわち我をして九州きゅうしゅうの富人とみとたらしめばという一篇を草して贈った。その時新聞しんぶん社の一記者きしゃは我文に書後のようなものを添そえて読者どくしゃに紹介しょうかいせられた。その語中ごちゅうにこの森というものは鴎外漁史おうがいぎょしだとことわってあった。予は当時とうじこれを読んで不思議ふしぎな感を作なした。この鴎外おうがい漁史と云いう称となえは、予の久しく自みずから署したことのないところのものである。これを聞けば、ほとんど別人べつじんの名を聞きくが如く、しかもその別人べつじんは同世の人のようではなくて、却かえって隔世かくせいの人のようである。明治あきはるの時代じだい中ある短日月じつげつの間、文章ぶんしょうと云えば、作に露伴ろはん紅葉もみじ四迷しめい篁村こうそん緑雨りょくう美妙びみょう等があって、評に逍遥しょうよう鴎外おうがいがあるなどと云ったことがある。これは筆を執とる人の間で唱えたのであるが、世間せけんのものもそれに応じて、漫みだりに予を諸才子さいしの中に算かぞえるようになって居た。姑しばらく今数えた人の上だけを言って見ように、いずれも皆文を以て業として居おる人々であって、僅わずかに四迷しめいが官吏かんりになって居り、逍遥しょうようが学校がっこうの教員きょういんをして居おる位が格外かくがいであった。独ひとり予は医者いしゃで、しかも軍医ぐんいである。そこで世間せけんで我虚名きょめいを伝うると与ともに、門外もんがいの見は作と評との別をさえ模糊もこたらしめて、他かれは小説しょうせつ家だということになった。何故なぜに予は小説しょうせつ家であるか。予が書いたものの中に小説しょうせつというようなものは、僅に四つ程あって、それが皆極ごくの短篇たんぺんで、三四さんし枚のものから二十にじゅう枚許ばかりのものに過すぎない。予がこれに費した時間じかんも、前後ぜんご通算つうさんして一週間しゅうかんにだに足たるまい。予がもし小説しょうせつ家ならば、天下てんかは小説しょうせつ家の多きに勝たえぬであろう。かように一面いちめんには当時とうじの所謂いわゆる文壇ぶんだんが、予に実げに副かなわざる名声めいせいを与えて、見当けんとう違の幸福こうふくを強こわいたと同時どうじに、一面いちめんには予が医学いがくを以て相交まじわる人は、他あれは小説しょうせつ家だから与ともに医学いがくを談だんずるには足らないと云い、予が官職かんしょくを以て相対たいする人は、他は小説しょうせつ家だから重事を托たくするには足らないと云って、暗々裡あんあんりに我進歩しんぽを礙さまたげ、我成功せいこうを挫くじいたことは幾何いくばくということを知らない。予は実げに副わざる名声めいせいを博して幸福こうふくとするものではない。予は一片誠実せいじつの心を以て学問がくもんに従事じゅうじし、官事かんじに鞅掌おうしょうして居ながら、その好意こういと悪意あくいとを問わず、人の我真面目しんめんもくを認したためてくれないのを見みるごとに、独ひとり自みずから悲かなしむことを禁きんずることを得なかったのである。それ故に予は次第しだいに名を避くるということを勉つとめるようになった。予が久しく鴎外おうがい漁史という文字もんじを署したことがなくて、福岡ふくおか日日ひにち新聞しんぶん社員しゃいんにこれを拈出ねんしゅつせられて一驚いっきょうを喫したのもこれがためである。然しかるに昨年としの暮くれにおよんで、一社員しゃいんはまた予をおとずれて、この新年しんねんの新刊しんかんのために何か書けと曰いうた。その時の話に、敢あえて注文ちゅうぶんするではないが、今の文壇ぶんだんの評を書いてくれたなら、最もっとも嬉うれしかろうと云いうことであった。何か書けが既すでに重荷おもにであるに、文壇ぶんだんの事を書けはいよいよむずかしい。新聞しんぶんに従事じゅうじして居おる程の人は固もとより知って居られるであろうが、今の分業ぶんぎょうの世よの中なかでは、批評ひひょうというものは一の職業しょくぎょうであって、能評の功を成就じょうじゅせんと欲ほっするには、始終しじゅうその所評の境界きょうかいに接して居ねばならぬ、否身をその境界きょうかいに置いて居ねばならぬものだ。文壇ぶんだんとは何であるか。今国内こくないに現行げんこうしている文章ぶんしょうの作者さくしゃがこれを形かたちづくって居おるのであろう。予の居おる所の地は、縦令たとい予が同情どうじょうを九州きゅうしゅうに寄よすることがいかに深からんも、西僻せいへきの陬邑すうゆうには違あるまい。予は僅に二三にさんの京阪けいはんの新聞しんぶん紙を読んで、国の中枢ちゅうすうの崇重しゅうちょうしもてはやす所の文章ぶんしょうの何人なにじんの手に成なるかを窺うかがい知るに過すぎぬので、譬たとえば簾れんを隔へだてて美人びじんを見みるが如くである。新聞しんぶん紙の伝うる所に依れば、先まず博文はくぶん館の太陽たいようが中天ちゅうてんに君臨くんりんして、樗牛ちょぎゅうが海内かいだい文学ぶんがくの柄を把とって居おる。文士ぶんしの恒つねの言ことに、樗牛ちょぎゅうは我に問題もんだいを与うるものだと云って、嘖々乎さくさくことして称して已やまないらしい。樗牛ちょぎゅうまた矜高きょうこう自みずから持して、我わが説とく所は美学びがく上の創見そうけんなりなどと曰って居おる。さてその前後ぜんご左右さゆうに綺羅星きらぼしの如くに居並んでいる人々は、遠目とうめの事ゆえ善くは見えぬが、春陽しゅんよう堂の新小説しょうせつの宙外ちゅうがい、日就社しゅうしゃの読売よみうり新聞しんぶんの抱月ほうげつなどという際立たった性格せいかくのある頭が、肱ひじを張って控ひかえて居おるだけは明あきらかに見まみえる。此等は随分ずいぶ博文はくぶん館の天下てんかをも争あらそいかねぬ面魂つらだましいであるから、樗牛ちょぎゅうも油断ゆだんすることは出来しゅったいまい。その外帝国ていこく文学ぶんがくという方面ほうめんには、堂々たる東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくの威を借って、血気けっき壮な若武者むしゃ達が、その数幾千万いくせんまんということを知らず、入いり代り立ち代り、壇に登って伎ぎを演じて居おるようだ。これが即すなわち文壇ぶんだんだ。この文壇ぶんだんの人々と予とは、あるいは全く接触せっしょく点を闕かいでいる、あるいは些いささかの触接しょくせつ点があるとしても、ただ行路こうろの人が彼往き我来くる間に、忽たちまち相顧みてまた忽ち相忘るるが如きに過すぎない。我は彼に求むる所がなく、彼もまた我に求むる所がない。縦たといまた樗牛ちょぎゅうと予との如く、ある関係かんけいが有っても、それは言ゆうに足らぬ事であって、今これを人に告ぐる必要ひつようを見ない。かように今の文壇ぶんだんの思想しそうの圏外けんがいに予は立っていて、予の思想しそうの圏外けんがいに今の文壇ぶんだんは立っている。福岡ふくおか日日ひにち新聞しんぶんが予に文壇ぶんだんの評を書けと曰のたまうのは、我筆舌ひつぜつに課かするに我思想しそうの圏外けんがいの事を以てするのだ。予には文壇ぶんだんの評と云いうものの書けぬことは、これで明あきらかであろう。そこで予は切角の請ながら、この事をば念頭ねんとうに留とどめなかった。然るに主筆しゅひつはまた突如とつじょとして来られて、是非ぜひ書けと促される。その情極きわめて慇懃いんぎんである。好よし好し。然らば主筆しゅひつのために強しいて書こう。同おなじく文壇ぶんだんの評ではあるが、これは過去かこの文壇ぶんだんの評で、しかもその過去かこの文壇ぶんだんの一分子ぶんしたりし鴎外おうがい漁史の事である。原もと主筆しゅひつが予に文壇ぶんだんの評を求もとめられるのは、予がかつて鴎外おうがいの名を以て文学ぶんがくの事を談じたという宿因あるが故だ。ここに書かくところは即すなわち予の懺悔ざんげで、彼宿因を了りょうする所以ゆえんだ。人は社会しゃかいを成なす動物どうぶつだ。樵夫きこりは樵夫しょうふと相交って相語かたる。漁夫ぎょふは漁夫ぎょふと相交って相語かたる。予は読書癖しょへきがあるので、文を好このむ友を獲て共に語かたるのを楽たのしみにして居た。然るに国民くにたみ之友の主筆しゅひつ徳富とくとみ猪一郎いいちろう君が予の語かたる所を公衆こうしゅうに紹介しょうかいしようと思い立たれて、丁度ちょうど今猪股いのまた君が予に要求ようきゅうせられる通とおりに要求ようきゅうせられた。これが予が個人こじんと語かたることから、公衆こうしゅうと語かたることに転じた始で、所謂いわゆる鴎外おうがい漁史はここに生れた。それから東京とうきょうの新聞しんぶん雑誌ざっしが、彼も此も予を延ひいて語らしめた。予は個人こじんに対しても、時に応じ人を得えるときは、頗すこぶる饒舌しゃべる性たちであるが、当時とうじ予はまた公衆こうしゅうに対して饒舌じょうぜつった。新聞しんぶん雑誌ざっしは初は予を強要きょうようして語らしめたが、後にはそう大言たいげん壮語そうごせられては困こまるとか云って、予の饒舌じょうぜつるに辟易へきえきした。昔者むかしは道士どうしがあって、咒じゅを称となえ鬼を役して灑掃さいそうせしめたそうだ。その弟子でしが窃ぬすみ聴いてその咒を記おぼえて、道士どうしの留守るすを伺うかごうて鬼を喚よんだ。鬼は現あらわれて水を灑まき始はじめた。而しかるに弟子でしは召よぶを知って逐おうを知らぬので、満屋みつや皆水なるに至いたって周章しゅうしょう措おく所を知らなかったということがある。当時とうじの新聞しんぶん雑誌ざっしはこの弟子でしであった。予はこれを語かたるにつけても、主筆しゅひつ猪股いのまた君がこの原稿げんこうに接して、早く既すでに同おんなじ周章しゅうしょうをせねば好いがと懸念けねんする。予の公衆こうしゅうに語かたる習はこれにも屈せず、予は終ついに人の己を席に延ひくを待たぬようになった。自みずから席を設もうけて公衆こうしゅうに語かたるようになった。柵草紙しがらみそうしと云ったのがその席だ。この柵草紙そうしの盛時せいじが、即すなわち鴎外おうがいという名の、毀誉褒貶きよほうへんの旋風つむじかぜに翻弄ほんろうせられて、予に実げに副かなわざる偽いつわりの幸福こうふくを贈り、予に学界がっかい官途かんとの不信任しんにんを与えた時である。その頃露伴ろはんが予に謂いうには、君は好んで人と議論ぎろんを闘わして、ほとんど百戦ひゃくせん百勝という有様ありさまであるが、善く泅およぐものは水に溺おぼれ、善く騎のるものは馬より墜おつる訣わけで、早晩いつか一の大議論ぎろん家が出て、君をして一敗地に塗まみれしむるであろうと云った。この言はある意味いみより見れば、確に当った、否当あたり過すぎた位だ。時代じだいは啻ただに一つの大議論ぎろん家を出だしたのみではなくて、ほとんど無数むしゅの大議論ぎろん家を出だして止やむ時がない。即すなわち新文しんぶん学士がくしの諸先生せんせいがそれである。試こころみに帝大ていだい文学ぶんがくの初の数十すうじゅう冊を始として、同時どうじに出た博文はくぶん館の太陽たいよう以下いかの諸雑誌ざっし、東京とうきょうの諸新聞しんぶんを見たならば、鴎外おうがいと云いう名に幾条の箭やが中あたっているかが知しれるだろう。鴎外おうがいという名はこの乱軍らんぐんの間に聞こえなくなった。鴎外おうがい漁史はここに死んだ。読者どくしゃは新年しんねんの初刊しょかんを看みてここに至いたる時、縁起えんぎが悪わるいと云いうかも知れない。しかし初春しょしゅんの狂言きょうげんには曽我そがを演えんずるを吉例きちれいとしてある。曽我そがは敵討かたきうちで、敵を討てば人死ひとじにのあることを免れない。況いわんや鴎外おうがい漁史は一の抽象ちゅうしょう人物じんぶつで、その死んだのは、児童じどうの玩もてあそんでいた泥孩つちにんぎょうが毀こわれたに殊ならぬのだ。予は人の葬を送って墓穴ぼけつに臨んだ時、遺族いぞくの少年しょうねん男女なんにょの優やさしい手が、浄きよい赭土あかつちをぼろぼろと穴の中に翻こぼすのを見て、地下ちかの客がいかにも軟やわらかな暖な感を作なすであろうと思ったことがある。鴎外おうがいの墓穴ぼけつには沙礫されき乱下したのを見みる外、ほとんど軟やわい土を投じたのを見なかった。ただ一ついくらか手軟だと思ったのは、ほととぎすの記者きしゃが、鴎外おうがいも最早もはや今まで我等に与えた程のものをば与うることを得ぬであろうと云ったくらいなものだ。ついでだから話はなすが、今の文壇ぶんだんというものは、鴎外陣亡うちじにの後に立たったものであって、前から名の聞こえて居た人の、猶なおその間に雑まじって活動かつどうしているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規しきのみであろう。ある人がかつて俳諧はいかいは普遍ふへんの徳があるとか云ったが、子規しきの一派いっぱの永く活動かつどうしているのは、この普遍ふへんの徳にでも基もとづいて居おるものであろう。予が主筆しゅひつのために説かんと約した鴎外おうがい漁史の事は此ここに終おわる。しかし予は主筆しゅひつに、予をして猶暫しばらく語らしめん事を願ねがう。想おもうにこの文を読よむものは予に対むかって、汝は汝の分身ぶんしんたる鴎外おうがいの死んだのを見て、奈何いかんの観を作なすかと問とうであろう。予はただ笑止しょうしに思おもうに過ぎぬ。予はただここに一いっしゅの香を拈ひねってこれを弔ちょうするに過ぎぬ。予にしてもし彼かの偽の幸福こうふくのために、別方面ほうめんの種々の事業じぎょうの阻礙そがいをさえ忘るるものであったなら、予は我分身ぶんしんと与ともに情死じょうししたであろう。そうして今の読者どくしゃに語かたるものは幽霊ゆうれいであろう。幽霊ゆうれいは怨うらめしいと云って出でるものには極きまって居おる。もし東京とうきょうに残って居おる鴎外おうがいの昔の敵がこの文を読んだなら、彼等はあるいは予を以て幽霊ゆうれいとなし、我言を以て怨しいという声となすかも知れない。しかしそれは推測すいそくを誤って居おる。敵が鴎外おうがいと云いう名を標的まとにして矢を放はなつ最中さなかに、予は鴎外おうがいという名を署しょする事を廃やめた。矢は蝟毛いもうの如く的に立っても、予は痛いたいとも思わなかった。人が鴎外おうがいという影を捉とらえて騒いだ時も、その騒さわぎの止んだ後も、形は故もとの如くで、我は故の我である。啻ただに故の我なるのみでは無なあい、予はその後も学んでいて、その進歩しんぽは破鼈はべつの行ゆくが如きながらも、一日ついたちを過ぎれば一日ついたちの長を得て居おる。予は私ひそかに信しんずる。今この陬邑すうゆうに在って予を見みるものは、必かならずや怨えんたい不平ふへいの音の我口から出ぬを知しるであろう。予は心身しんしん共に健で、この新年しんねんの如く、多少たしょうの閑情かんじょう雅趣がしゅを占め得たことは、かつて書生しょせいたり留学生がくせいたりし時代じだいより以後いごには、ほとんど無なあい。我学友がくゆうはあるいは台湾たいわんに往き、あるいは欧羅巴ようろっぱに遊あそぶ途次とじ、わざわざ門司もじから舟を下りて予を訪とうてくれる。中にはまた酔興すいきょうにも東京とうきょうから来て、ここに泊まって居て共に学まなぶものさえある。我官僚かんりょうは初の間は虚名きょめいの先まず伝ったために、あるいは小説しょうせつ家を以て予を待ったこともあったが、今は漸ようやくその非を悟ってくれたらしい。予と相交り相語かたる人は少すくないながら、一入ひとしお親したしい。予はめさまし草を以て、相更あいかわらず公衆こうしゅうに対しても語って居おる。折々はまた名を署せずに、もしくは人の知らぬ名を署して新聞しんぶん紙を借かることもある。今予に耳を借かす公衆こうしゅうは、不思議ふしぎにも柵草紙そうしの時代じだいに比して大差たいさはない。予は始から多く聴者ききてを持っては居なかった。ただ昔と今との相違そういは文壇ぶんだんの外に居おるので、新聞しんぶん紙で名を弄ばれる憂が少すくないだけだ。荘子そうしに虚舟きょしゅうの譬たとえがある。今の予は何を言っても、文壇ぶんだんの地位ちいを争あらそうものでないから、誰も怒いかるものは無なあい。彼虚舟きょしゅうと同おんなじである。さればと云って、読者どくしゃがもし予を以て文壇ぶんだんに対して耳を掩おおい目を閉じているものとなしたならば、それは大おおいに錯あやまって居おるのであろう。予は新聞しんぶん雑誌ざっしも読よむ。新刊しんかん書も読よむ。読んで独ひとり自みずから評価ひょうかして居おる。ただこの評価ひょうかは思想しそうを同おなじゅうして居ないものの評価ひょうかで、天晴あっぱれ批評ひひょうと称して打出うちだして言挙ことあげすべきものでないばかりだ。しかし筆の走りついでだから、もう一度ひとたび主筆しゅひつに追願おいねがいをして、少すこしくこの門外もんがい漢の評価ひょうかの一端いったんを暴露ばくろしようか。明治あきはるの聖代せいだいになってから以還このかた、分明ふんみょうに前人ぜんじんの迹あとを踏まない文章ぶんしょうが出でたということは、後世ごせに至いたっても争あらそうものはあるまい。露伴ろはんの如きが、その作者さくしゃの一人ひとりであるということも、また後人こうじんが認したためるであろう。予はこれを明言めいげんすると同時どうじに、予が恰あたかもこの時に逢あうて、此かくの如き人に交まじることを得た幸福こうふくを喜よろこぶことを明言めいげんすることを辞せない。また前に挙げた紅葉もみじ等の諸家しょかと俳諧はいかいでの子規しきとの如きは、才の長短ちょうたんこそあれ、その作の中には予の敬服けいふくする所のものがある。次にここに補って置おきたいのは、翻訳ほんやくのみに従事じゅうじしていた思軒しけんと、後おくれて製作せいさくを出した魯庵ろあんとだ。漢詩かんし和歌わかの擬古ぎこの裡うちに新機軸きじくを出したものは姑しばらく言わぬ。凡おおよそ此等の人々は、皆多少たしょう今の文壇ぶんだんの創建そうけんに先せんだって、生埋の運命うんめいに迫られたものだ。それは丁度ちょうど雑りものの賤金属せんきんぞくたる鴎外おうがいが鋳潰いつぶされたと同おんなじ時であった。さて今の文壇ぶんだんになってからは、宙外ちゅうがいの如き抱月ほうげつの如き鏡花きょうかの如き、予はただその作のある段に多少たしょうの才思があるのを認したためたばかりで、過言かごんながらほとんど一の完璧かんぺきをも見ない。新文しんぶん学士がくしの作に至いたっては、またまた過言かごんながら一の局部きょくぶの妙をだに認したためたことが無なあい。予は是ここにおいて将まさに自みずから予が我分身ぶんしんの鴎外おうがいと共に死んで、新あたらしい時代じだいの新あたらしい文学ぶんがくを味あじわうことを得ないようになったかを疑わんとするに至った。然るにここに幸なるは、一事いちじの我趣味しゅみの猶依然いぜんたることを証しょうするに足たるものがある。それは何であるか。予は我読書癖しょへきの旧に依よるがために、欧羅巴ようろっぱの新あたらしい作と評とを読んで居おる。予は近ちかくは独逸ドイツのゲルハルト・ハウプトマンの沈鐘ちんしょうを読んだ。そして予はこの好処の我を動かすことが、昔前人ぜんじんの好著こうちょを読んだ時と違わぬことを知った。鴎外おうがいは殺されても、予は決けっして死んでは居ない。予は敢あえて言ゆう。希臘ギリシャ語に「エピゴノイ」ということがある。猶此に末流まつりゅうと云いうがごとしだ。新文しんぶん学士がくし諸家しょかも、これと袂たもとを聯つらねて文壇ぶんだんに立っている宙外ちゅうがい等の諸家しょかも、「エピゴノイ」たることを免れない。今の文壇ぶんだんは露伴ろはん等の時代じだいに比すれば、末流まつりゅう時代じだいの文壇ぶんだんだというのだ。予はこの文の局を結むすぶに当って、今の文壇ぶんだんの諸家しょかが地方じかた新聞しんぶんを読よむや否やは知らぬながら、遥はるかに諸家しょかに寄語する。諸家しょかは予などと違って、皆春秋しゅんしゅうに富んで居られるではないか。今より後に、諸家しょかはどうぞ奮って、予が如き門外もんがい漢までを、大おういに動うごかすような作と評とを出だして下さい。そうして予をしてかつて無礼ぶれいにも諸君しょくんに末流まつりゅうの称を献じた失言しつげんを謝せしめて下さい。鴎外おうがいは甘んじて死んだ。予は決けっして鴎外おうがいの敵たる故を以て諸君しょくんを嫉にくむものではない。明治あきはる三十三じゅうそう年一としかず月於小倉おぐら稿。

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First published
1900(明治33)年1月
Source edition (底本)
底本:「歴史其儘と歴史離れ 森鴎外全集14」ちくま文庫、筑摩書房


   1996(平成8)年8月22日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~9月

入力:大田一

校正:noriko saito

2005年8月19日作成

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大田一
Proofread by (校正)
noriko saito

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