Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

護持院原の敵討

ごじいんがはらのかたきうち

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播磨国はりまのくに飾東郡しきとうごおり姫路ひめじの城主じょうしゅ酒井さかい雅楽頭忠実うたのかみただみつの上邸かみやしきは、江戸えど城の大手向たむけ左角ひだりかどにあった。そこの金部屋かねべやには、いつも侍さむらいが二人ふたりずつ泊とまることになっていた。然しかるに天保てんぽう四年癸みずのと巳みの歳とし十二とうに月二十にじゅう六日むいかの卯うの刻過すぎの事である。当年とうねん五十ごじゅう五歳になる、大金奉行おおかねぶぎょう山本やまもとの三右衛門さんえもんと云いう老人ろうじんが、唯ただ一人ひとりすわっている。ゆうべ一いっしょに泊とまる筈はずの小金こがね奉行ぶぎょうが病気びょうき引びきをしたので、寂さびしい夜寒よさむを一人ひとりで凌しのいだのである。傍そばには骨の太ふとい、がっしりした行燈あんどうがある。燈心とうしんに花が咲いて薄暗くなった、橙黄色だいだいいろの火が、黎明しののめの窓の明あかりと、等分とうぶんに部屋へやを領している。夜具やぐはもう夜具やぐ葛籠つづらにしまってある。

障子そうじの外に人のけはいがした。「申し。お宅たくから急用きゅうようのお手紙てがみが参まいりました」

「お前まえは誰たれだい」

「お表の小使こずかいでございます」

三右衛門さんえもんは内から障子そうじをあけた。手紙てがみを持って来たのは、名は知らぬが、見識みしった顔の小使こずかいで、二十はたちになるかならぬの若者わかものである。

受け取った封書ふうしょを持って、行燈あんどんの前にすわった三右衛門さんえもんは、先まず燈心とうしんの花を落おとして掻かき立てた。そして懐ふところから鼻紙袋かみぶくろを出だして、その中の眼鏡めがねを取って懸かけた。さて上書じょうしょを改あらためたが、伜せがれ宇平うへいの手でもなければ、女房にょうぼうの手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名あてなには相違そういがないので、とにかく封を切った。手紙てがみを引ひき出だして披ひらき掛かけて、三右衛門さんえもんは驚いた。中は白紙しらかみである。

はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚おどろく間もなく、白紙しらかみの上に血がたらたらと落おちた。背後うしろから一刀いっとう浴せられたのである。

夜具やぐ葛籠つずらの前に置いてあった脇差わきざしを、手探てさぐりに取ろうとする所へ、もう二の太刀たちを打うち卸おろして来くる。無意識いしきに右の手を挙あげて受うける。手首てくびがばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴つかみ着いた。

相手あいては存外ぞんがい卑怯ひきょうな奴やつであった。むなぐらを振り放し科しなに、持っていた白刃しらはを三右衛門さんえもんに投げ付けて、廊下ろうかへ逃にげ出でるした。

三右衛門さんえもんは思慮しりょの遑いとまもなく跡を追った。中なかの口くちまで出たが、もう相手あいての行方ゆくえが知れない。痛手いたでを負った老人ろうじんの足は、壮年そうねんの癖者くせものに及ばなかったのである。

三右衛門さんえもんは灼やけるような痛いたみを頭と手とに覚おぼえて、眩暈めまいが萌きざして来た。それでも自分じぶんで自分じぶんを励はげまして、金部屋かねべやへ引ひき返かえして、何より先に金箱かねばこの錠前じょうまえを改あらためた。なんの異状いじょうもない。「先まず好かった」と思った時、眩暈げんうんが強く起こったので、左の手で夜具やぐ葛籠つずらを引ひき寄よせて、それに靠より掛かった。そして深ぶかい緩ゆるい息を衝ついていた。

物音ものおとを聞きき附けて、最初さいしょに駆かけ附けたのは、泊番の徒目附かちめつけであった。次ついで目附が来くる。大目おうめ附が来くる。本締もとじめが来くる。医師くすしを呼びに遣やる。三右衛門さんえもんの妻子さいしのいる蠣殻町かきがらちょうの中邸なかやしきへ使が走って行ゆく。

三右衛門さんえもんは精神せいしんが慥たしかで、役人やくにん等に問われて、はっきりした返事へんじをした。自分じぶんには意趣いしゅ遺恨うらみを受うける覚おぼえは無なあい。白紙しらかみの手紙てがみを持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使こずかいである。多分たぶん金銀きんぎんに望のぞみを繋かけたものであろう。家督かとく相続そうぞくの事を宜よろしく頼たのむ。敵かたきを討ってくれるように、伜に言って貰もらいたいと云いうのである。その間三右衛門さんえもんは「残念ざんねんだ、残念ざんねんだ」と度々たびたび繰くり返かえして云った。

現場げんばに落おちていた刀は、二三にさん日前にちぜん作事さくじの方に勤ずとめていた五瀬いつせの某が、詰所つめしょに掛かけて置いたのを盗まれた品であった。門番もんばんを調しらべてみれば、卯刻うのこく過に表小使こずかい亀蔵かめぞうと云いうものが、急用きゅうようのお使だと云って通用つうよう門を出たと云いうことである。亀蔵かめぞうは神田久右衛門町かんだきゅうえもんちょう代地だいちの仲間口入宿ちゅうげんくちいれやど富士ふじ屋治三郎じさぶろうが入れた男で、二十歳はたちになる。下請宿したうけやどは若狭屋わかさや亀吉かめきちである。表小使こずかい亀蔵かめぞうが部屋へやを改あらためて見れば、山本やまもとのの外四がいし人の金部屋へや役人やくにんに、それぞれ宛てた封書ふうしょがあって、中は皆白紙しらかみである。

察さっするに亀蔵かめぞうは、早晩そうばん泊番の中の誰たれかを殺ころして金を盗もうと、兼かねて謀はかっていたのであろう。奥羽おううその外の凶歉きょうけんのために、江戸えどは物価ぶっかの騰貴とうきした年なので、心得違こころえちがえのものが出来しゅったいたのであろうと云いうことになった。天保てんぽ四年は小売米こうりまい百文に五合五勺になった。天明てんめい以後いごの飢饉年ききんどしである。

医師くすしが来て、三右衛門さんえもんに手当てあてをした。

親族しんぞくが駆かけ附けた。蠣殻町かきがらちょうの中邸から来たのは、三右衛門さんえもんの女房にょうぼうと、伜宇平うへいとである。宇平うへいは十九歳になっている。宇平うへいの姉りよは細川ほそかわ長門守興建ながとのかみおきたけの奥に勤ずとめていたので、豊島町としまちょうの細川ほそかわ邸から来た。当年とうねん二十二とうに歳である。三右衛門さんえもんの女房にょうぼうは後添のちぞいで、りよと宇平うへいとのためには継母けいぼである。この外にまだ三右衛門さんえもんの妹で、小倉新田こくらしんでんの城主じょうしゅ小笠原備後守貞謙おがさわらびんごのかみさだよしの家来けらい原田はらだの某の妻になって、麻布あざぶ日ひが窪くぼの小笠原おがさわら邸にいるのがあるが、それは間に合わないで、酒井さかい邸には来なかった。

三右衛門さんえもんは医師くすしが余あまり物ものを言わぬが好いと云いうのに構わず、女房にょうぼう子供こどもにも、役人やくにんに言ったと同おんなじ事を繰くり返かえして言って聞せた。

蠣殻町かきがらちょうの住すまいは手狭てぜまで、介抱かいほうが行いき届とどくまいと言ゆうので、浜町はまちょう添邸そえやしきの神戸かんべ某方で、三右衛門さんえもんを引ひき取とるように沙汰さたせられた。これは山本家ほんけの遠とおい親戚しんせきである。妻子さいしはそこへ附き添って往った。そのうちに原田はらだのの女房にょうぼうも来た。

神戸ごうど方で三右衛門さんえもんは二十にじゅう七日の寅とらの刻に絶命ぜつめいした。

その日の酉とりの下刻げこくに、上邸かみやしきから見分けんぶんに来た。徒目附、小人こびと目附等に、手附てつけが附いて来たのである。見分けんぶんの役人やくにんは三右衛門さんえもんの女房にょうぼう、伜宇平うへい、娘りよの口書くちがきを取った。

役人やくにんの復命ふくめいに依よって、酒井さかい家から沙汰さたがあった。三右衛門さんえもんが重手おもでを負いながら、癖者を中なかの口くちまで追って出たのは、「平生へいぜいの心得方宜こころえかたよろしきに附つき、格式かくしき相当そうとうの葬儀そうぎ可取行とりおこなふべし」と云いうのである。三右衛門さんえもんの創きずを受けた現場げんばにあった、癖者の刀は、役人やくにんの手で元の持主もちぬし五瀬いつせの某に見せられた。

二十にじゅう八日に三右衛門さんえもんの遺骸いがいは、山本家ほんけの菩提所ぼだいしょ浅草せんそう堂前どうまえの遍立寺へんりゅうじに葬られた。葬とむらいを出だす前に、神戸ごうど方で三右衛門さんえもんが遭難そうなん当時とうじに持っていた物の始末しまつをした時、大小だいしょうも当然とうぜん伜宇平うへいが持って帰かえる筈であったが、娘りよは切せつに請こうて脇差わきざしを譲ゆずり受うけた。そして宇平うへいがそれを承諾だくすると、泣き腫はらしていた、りよの目が、刹那せつなの間喜よろこびにかがやいた。

侍が親を殺害せつがいせられた場合ばあいには、敵討かたきうちをしなくてはならない。ましてや三右衛門さんえもんが遺族いぞくに取っては、その敵討かたきうちが故人こじんの遺言いごんになっている。そこで親族しんぞく打ち寄って、度々評議ひょうぎを凝こらした末、翌天保てんぽ五年甲午きのえうまの歳の正月しょうがつ中旬ちゅうじゅんに、表向敵討かたきうちの願をした。

評議ひょうぎの席で一番いちばん熱心ねっしんに復讐ふくしゅうがしたいと言い続つずけて、成功せいこうを急いで気を苛いらったのは宇平うへいであった。色の蒼あおい、瘠やせた、骨細ほねぼその若者わかものではあるが、病身びょうしんではない。姉のりよは始終しじゅう黙って人の話を聞いていたが、願書がんしょに自分じぶんの名を書かき入いれて貰もらうことだけは、きっと居直って要求ようきゅうした。りよは十人並の容貌ようぼうで、筋肉きんにくの引き締まった小女こおんなである。未亡人みぼうじんは頭痛ずつう持でこんな席へは稀まれにしか出て来ぬが、出て来くると、若もし返討かえりうちなどに逢あいはすまいかと云いう心配しんぱいばかりして、果はてはどうしてこんな災難さいなんに遇ったことかと繰くり返かえしてくどくのであった。日が窪から来くる原田はらだの夫婦ふうふや、未亡人みぼうじんの実弟じってい桜井さくらい須磨右衛門すまえもんは、いつもそれを慰めようとして骨を折った。

然るにここに親戚しんせき一同いちどうがひどく頼たのみに思っている男が一人ひとりいる。この男は本国ほんこく姫路ひめじにいるので、こう云いう席には列れっすることが出来しゅったいなかったが、訃音ふいんに接せっするや否や、弔慰くやみの状をよこして、敵討かたきうちにはきっと助太刀すけだちをすると誓ったのである。姫路ひめじではこの男は家老かろう本多ほんだ意気揚いきりに仕えている。名は山本やまもとの九郎右衛門くろうえもんと云って当年とうねん四十しじゅう五歳になる。亡くなった三右衛門さんえもんがためには、九つ違の実弟じっていである。

九郎右衛門くろうえもんは兄の訃音ふいんを得た時、すぐに主人しゅじん意気いき揚に願書がんしょを出した。甥おい、女姪めいが敵討かたきうちをするから、自分じぶんは留守るすを伜健蔵けんぞうに委まかせて置いて、助太刀すけだちに出たいと云いうのである。主人しゅじん本多ほんだ意気いき揚は徳川とくがわ家康いえやすが酒井さかい家に附けた意気いき揚の子孫しそんで、武士道しどうに心入こころいれの深ぶかい人なので、すぐに九郎右衛門くろうえもんの願を聞き届けた。江戸えどではまだ敵討かたきうちの願を出だしたばかりで、上かみからそんな沙汰さたもないうちに、九郎右衛門くろうえもんは意気いき揚から拵附こしらえつきの刀一腰ひとこしと、手当てあて金二きんじ十両じゅうりょうとを貰って、姫路ひめじを立たった。それが正月しょうがつ二十三じゅうそう日の事である。

二月五日に九郎右衛門くろうえもんは江戸えど蠣殻町かきがらちょうの中邸にある山本やまもとの宇平うへいが宅に着いた。宇平うへいを始はじめ、細川ほそかわ家から暇いとまを取って帰っていた姉のりよが喜よろこびは譬たとえようがない。沈着ちんちゃくで口数くちかずをきかぬ、筋骨すじぼね逞たくましい叔父おじを見たばかりで、姉も弟も安堵あんどの思をしたのである。

「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門くろうえもんは宇平うへいに問うた。

「はい。まだなんの御沙汰さたもございません。お役人やくにん方に伺うかがいましたが、多分たぶん忌中きちゅうだから御沙汰さたがないのだろうと申もうすことで」

九郎右衛門くろうえもんは眉間みけんに皺しわを寄よせた。暫しばらくして、「大おおきい車は廻まわりが遅おそいのう」と云った。

それから九郎右衛門くろうえもんは、旅の支度したくが出来しゅったいたかと問うた。いずれお許が出てからと、宇平うへいが云った。叔父おじの眉間みけんには又皺が寄った。しかし今度こんどは長ながい間なんとも言わなかった。外の話を色々した後で、叔父おじは思おもい出でしたように云った。「あの支度したくはのう、先へして置いても好いぞよ」

六日むいかには九郎右衛門くろうえもんが兄の墓参ぼさんをした。七日には浜町はまちょうの神戸ごうど方へ、兄が末期まつごに世話せわになった礼に往った。西北せいほくの風の強こわい日で、丁度ちょうど九郎右衛門くろうえもんが神戸ごうどの家にいるうちに、神田かんだから火事かじが始まった。歴史れきしに残っている午年うまどしの大火たいかである。未ひつじの刻に佐久間町さくまちょう二丁目ちょうめの琴三味さみ線師の家から出火しゅっかして、日本橋にっぽんばし方面ほうめんへ焼やけひろがり、翌朝よくあさ卯の刻まで焼やけた。「八つ時分じぶん三味さみ線屋からことを出だし火ひの手てがちりてとんだ大火事かじ」と云いう落首らくしゅがあった。浜町はまちょうも蠣殻町かきがらちょうも風下かざしたで、火ひの手ては三つに分かれて焼やけて来くるのを見て、神戸ごうどの内は人出ひとでも多おおいからと云って、九郎右衛門くろうえもんは蠣殻町かきがらちょうへ飛んで帰った。

山本やまもとのの内では九郎右衛門くろうえもんが指図さしずをして、荷物にもつは残らず出させたが、申さるの下刻げこくには中邸一面いちめんが火になって、山本やまもとのも焼やけた。

りよは火事かじが始はじまるとすぐ、旧主人しゅじんの細川ほそかわ家の邸をさして駆かけて行ったが、もう豊島としま町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃にげちゃあいけねえ」などと云いうものがある。とうとう避難ひなん者や弥次馬やじうま共の間に挟はさまれて、身動みうごきもならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落おちて来くる。りよは涙ぐんで亀井かめい町の手前てまえから引ひき返かえしてしまった。内へはもう叔父おじが浜町はまちょうから帰って、荷物にもつを片附けていた。

浜町はまちょうも矢の倉に近い方は大部分ぶぶん焼やけたが、幸さいわいに酒井さかい家の添邸は焼け残った。神戸ごうど家へ重々かさねがさね世話せわになるのは気きの毒どくだと云いうので、宇平うへい一家かずやはやはり遠とおい親戚しんせきに当あたる、添邸の山本やまもとの平作へいさく方へ、八日の辰たつの刻過に避難ひなんした。

三右衛門さんえもんが遺族いぞくは山本やまもとの平作へいさく方の部屋へやを借かりて、夢の中で夢を見みるような心持こころもちになって、ぼんやりしている。未亡人みぼうじんは頭痛ずつうが起って寝たきりである。宇平うへいは腕組うでぐみをして何やら考かんがえ込こむ。只ただりよ一人ひとり平作へいさくの家族かぞくに気兼きがねをしながら、甲斐々々かいがいしく立ち働いていたが、午頃ひるごろになって細川ほそかわの奥方おくがたの立退所たちのきじょが知れたので、すぐに見舞みまいに往った。

晩にりよが帰かえると九郎右衛門くろうえもんが云った。「おい。もう当分とうぶん我々は家なんぞはいらんが、若殿わかとのが旅に出て風を引かぬように、支度したくだけはして遣やらんではならんぞ」叔父おじは宇平うへいを若殿わかとの々々と呼んで揶揄からかっているのである。

「はい」と云ったりよは、その晩から宇平うへいの衣類いるいに手を着けた。

九日にはりよが旅支度したくにいる物を買かいに出た。九郎右衛門くろうえもんが書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖あたたかいと思っていると、酉とりの上刻じょうこくに又檜物町ひものちょうから出火しゅっかした。おとつい焼け残った町家まちやが、又この火事かじで焼やけた。

十日には又寒さむい西北せいほくの風が強く吹いていると、正午しょうごに大名小路だいみょうこうじの松平伯耆守宗発まつだいらほうきのかみむねあきらの上邸から出火しゅっかして、京橋きょうばし方面ほうめんから芝口しばぐちへ掛かけて焼やけた。

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First published
「ホトトギス」1913(大正2)年10月
Source edition (底本)
底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社


   1968(昭和43)年5月30日発行

   1985(昭和60)年6月10日41刷改版

   1990(平成2)年5月30日53刷

入力:砂場清隆

校正:菅野朋子

2000年10月17日公開

2006年5月11日修正

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Typed by (入力)
砂場清隆
Proofread by (校正)
菅野朋子

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