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森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

興津弥五右衛門の遺書

おきつやごえもんのいしょ

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某それがし儀明日あす年来ねんらいの宿望しゅくもう相達たっし候そろて、妙解院殿みょうげいんでん(松向寺殿)御墓前ぼぜんにおいて首尾しゅびよく切腹せっぷくいたし候そろ事ことと相成り候。しかれば子孫しそんのため事の顛末てんまつ書かき残のこしおきたく、京都きょうとなる弟又次郎またじろう宅において筆を取とり候。

某それがし祖父そふは興津右兵衛景通おきつうひょうえかげみちと申もうし候そろ。永正えいしょう十一といち(十七)年駿河国するがのくに興津おきつに生れ、今川治部大輔いまがわじぶたいふ殿に仕え、同国どうこく清見きよみが関せきに住居すまいいたし候。永禄えいろく三年五月さつき二十にじゅう日今川いまがわ殿陣亡じんぼう遊ばされ候そろ時、景通かげみちも御供おともいたし候。年齢ねんれい四十一といち歳に候。法名ほうみょうは千山宗及居士せんざんそうきゅうこじと申候。

父才八さいはちは永禄えいろく元年がんねん出生しゅっしょう候そろて、三歳にして怙ちちを失い、母の手に養育よういくいたされ候て人と成り候。壮年そうねんに及およびて弥五右衛門景一やごえもんかげかずと名告なのり、母の族なる播磨国はりまのくにの人佐野官十郎さのかんじゅうろう方に寄居よりいいたしおり候。さてその縁故えんこをもって赤松左兵衛督あかまつさひょうえのかみ殿に仕え、天正てんしょう九年千石せんごくを給わり候。十三じゅうそう年四月赤松殿まつどの阿波国あわのくにを併あわせ領せられ候に及およびて、景一かげかずは三百石ももいしを加増せられ、阿波郡代あわぐんだいとなり、同国どうこく渭津いのつに住居すまいいたし、慶長けいちょうの初まで勤続きんぞくいたし候そろ。慶長けいちょう五年七月ふみつき赤松殿まつどの石田三成いしだかずしげに荷担かたんいたされ、丹波国たんばのくになる小野木縫殿介おのぎぬいのすけとともに丹後国たんごのくに田辺城たなべのしろを攻せめられ候。当時とうじ田辺たなべ城には松向寺しょうこうじ殿三斎忠興公さんさいただおきこう御立籠おんたてこもり遊ばされおり候そろところ、神君しんくん上杉景勝うえすぎかげかつを討たせ給たまうにより、三斎公も随従ずいじゅう遊ばされ、跡あとには泰勝院殿幽斎藤孝たいしょういんでんゆうさいふじたか公御留守るす遊ばされ候。景一けいいちは京都きょうと赤松殿まつどの邸やしきにありし時、烏丸光広からすまるみつひろ卿と相識そうしきに相成りおり候そろ。これは光広みつひろ卿が幽斎ゆうさい公和歌わかの御弟子でしにて、嫡子ちゃくし光賢みつかた卿に松向寺殿の御息女そくじょ万姫君まんひめぎみを妻めあわせ居られ候そろ故ゆえに候。さて景一けいいち光広みつひろ卿を介かいして御当家とうけ御父子ちちことも御心安く相成りおり候。田辺攻たなべぜめの時、関東かんとうに御出おんいで遊ばされ候三斎公は、景一けいいちが外戚がいせきの従弟じゅうていたる森三右衛門さんえもんを使に田辺たなべへ差立てられ候。森は田辺たなべに着ちゃくいたし、景一けいいちに面会めんかいして御旨おんむねを伝つたえ、景一けいいちはまた赤松家まついえの物頭ものがしら井門亀右衛門いかどかめえもんと謀はかり、田辺たなべ城の妙庵丸櫓みょうあんまるやぐらへ矢文やぶみを射掛け候。翌朝よくあさ景一けいいちは森を斥候せっこうの中に交ぜて陣所じんしょを出だし遣やり候。森は首尾しゅびよく城内じょうないに入いり、幽斎ゆうさい公の御親書しんしょを得て、翌晩よくばん関東かんとうへ出立しゅったついたし候。この歳とし赤松家まついえ滅亡めつぼうせられ候により、景一けいいちは森の案内あんないにて豊前国ぶぜんのくにへ参まいり、慶長けいちょう六年御当家とうけに召抱めしかかえられ候そろ。元和げんな五年御当代とうだい光尚みつひさ公御誕生たんじょう遊ばされ、御幼名ようめい六丸君ろくまるぎみと申候。景一けいいちは六丸君御附おつきと相成り候。元和げんな七年三斎公御致仕ちし遊ばされ候時、景一けいいちも剃髪ていはついたし、宗也そうやと名告なのり候。寛永かんえい九年十二とうに月九日御先代せんだい妙解院殿忠利公みょうげいんでんただとしこう肥後ひごへ御入国にゅうこく遊ばされ候時、景一けいいちも御供おんともいたし候。十八年三月十七日に妙解院殿いんでん卒去そっきょ遊ばされ、次ついで九月二日景一けいいちも病死びょうしいたし候。享年きょうねん八十はちじゅう四歳に候。

兄九郎兵衛くろべい一友かずともは景一けいいちが嫡子ちゃくしにして、父につきて豊前ぶぜんへ参まいり、慶長けいちょう十七年三斎公に召めしいだされ、御次勤おんつぎづとめ仰おおせつけられ、後病気びょうきにより外様勤とざまづとめと相成り候。妙解院殿いんでんの御代おんだいに至り、寛永かんえい十四年冬島原攻しまばらぜめの御供ごくういたし、翌十五年二月二十にじゅう七日兼田弥一右衛門かねたやいちえもんとともに、御当家とうけ攻口せめくちの一番いちばん乗と名告なのり、海に臨のぞめる城壁じょうへきの上にて陣亡いたし候。法名ほうみょうを義心英立居士ぎしんえいりゅうこじと申もうし候そろ。

某それがしは文禄ぶんろく四(三)年景一けいいちが二男じなんに生れ、幼名ようめい才助さいすけと申候。七歳の時父につきて豊前とよまえ国小倉おぐらへ参まいり、慶長けいちょう十七年十九歳にて三斎公に召めしいだされ候。元和げんな七年三斎公致仕ちし遊ばされ候時、父も剃髪ていはついたし候そうらえば、某二十にじゅう八歳にて弥五右衛門景吉やごえもんかげよしと名告なのり、三斎公の御供ごくういたし候て、豊前とよまえ国興津おきつに参まいり候。

寛永かんえい元年がんねん五月さつき安南船あんなんせん長崎ながさきに到着とうちゃく候時、三斎公は御薙髪ごていはつ遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事おんちゃじに御用おんもちいなされ候珍らしき品買い求め候様仰おおせ含められ、相役あいやく横田よこた清兵衛せいべいと両人りょうにんにて、長崎ながさきへ出向き候。幸なる事には異ことなる伽羅きゃらの大木おうぎ渡来とらいいたしおり候。然しかるところその伽羅きゃらに本木もときと末木うらきとの二つありて、はるばる仙台せんだいより差下さしくだされ候伊達権中納言だてごんちゅうなごん殿の役人やくにんぜひとも本木もときの方を取らんとし、某も同おんなじ本木もときに望を掛かけ互にせり合あい、次第しだいに値段ねだんをつけ上あげ候。

その時横田よこた申もうし候そろは、たとい主命しゅめいなりとも、香木こうぼくは無用むようの翫物がんぶつに有之これあり、過分かぶんの大金たいきんを擲なげうち候そろ事ことは不可然しかるべからず、所詮しょせん本木もときを伊達だて家に譲ゆずり、末木すえきを買求もとめたき由よし申候。某それがし申候は、某は左様さようには存ぞんじ申さず、主君しゅくんの申つけられ候は、珍らしき品を買い求め参れとの事なるに、このたび渡来とらい候そろ品の中にて、第一だいいちの珍物ちんぶつはかの伽羅きゃらに有之、その木に本末ほんまつあれば、本木もときの方が尤物ゆうぶつ中の尤物ゆうぶつたること勿論もちろんなり、それを手に入れてこそ主命しゅめいを果はたすに当あたるべけれ、伊達家だてけの伊達だてを増長ぞうちょう致いたさせ、本木もときを譲ゆずり候そろては、細川ほそかわ家の流ながれを涜けがす事と相成り申もうすべくと申候そろ。横田よこた嘲笑あざわらいて、それは力瘤ちからこぶの入れどころが相違そういせり、一国一城いちじょうを取どるか遣やるかと申もうす場合ばあいならば、飽あくまで伊達だて家に楯たてをつくがよろしからん、高こうが四畳半の炉ろにくべらるる木の切きれならずや、それに大金たいきんを棄すてんこと存ぞんじも寄らず、主君しゅくん御自身おのれにてせり合あうわれ候そうらわば、臣下しんかとして諫いさめ止とどめ申もうすべき儀ぎなり、たとい主君しゅくんがしいて本木もときを手に入れたく思召おぼしめされんとも、それを遂げさせ申もうす事、阿諛便佞あゆべんねいの所為しょいなるべしと申候そろ。当時三ときぞう十一といち歳の某それがし、この詞ことばを聞ききて立腹りっぷく致し候えども、なお忍んで申候は、それはいかにも賢人けんじんらしき申条もうしじょうなり、さりながら某はただ主命しゅめいと申もうす物ものが大切たいせつなるにて、主君しゅくんあの城を落せと仰おおせられ候わば、鉄壁てっぺきなりとも乗り取り申もうすべく、あの首を取れと仰おおせられ候わば、鬼神きしんなりとも討ち果たし申もうすべくと同おなじく、珍らしき品を求もとめ参れと仰おおせられ候えば、この上なき名物めいぶつを求めん所存しょぞんなり、主命しゅめいたる以上いじょうは、人倫じんりんの道に悖もとり候事は格別かくべつ、その事柄ことがらに立入り候批判ひはんがましき儀は無用むようなりと申候。横田よこたいよいよ嘲笑あざわらいて、お手前てまえとてもその通とうり道みちに悖もとりたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具ぶぐなどならば、大金たいきんに代かうとも惜しからじ、香木こうぼくに不相応そうおうなる価あたいをいださんとせらるるは若輩じゃくはいの心得こころえちがいなりと申候。某申候は、武具ぶぐと香木こうぼくとの相違そういは某若輩じゃくはいながら心得こころえ居おる、泰勝院殿たいしょういんでんの御代おんだいに、蒲生がもう殿申され候そろは、細川ほそかわ家には結構けっこうなる御道具どうぐあまた有之これある由よしなれば拝見はいけんに罷出まかりいずべしとの事なり、さて約束やくそくせられし当日とうじつに相成り、蒲生かもう殿参られ候そろに、泰勝院殿いんでんは甲冑かっちゅう刀剣とうけん弓ゆみ鎗やりの類を陳つらねて御見せなされ、蒲生かもう殿意外いがいに思おぼされながら、一応いちよう御覧ごらんあり、さて実は茶器ちゃき拝見はいけん致したく参上さんじょうしたる次第しだいなりと申され、泰勝院殿いんでん御笑わらいなされ、先きには道具どうぐと仰おおせられ候故、武家ぶけの表道具どうぐを御覧ごらんに入れたり、茶器ちゃきならば、それも少々持合もちあわせ候とて、はじめて御取おんとり出いだしなされし由、御当家とうけにおかせられては、代々武道たけみちの御心掛こころがけ深くおわしまし、かたがた歌道かどう茶事ちゃじまでも堪能たんのうに渡らせらるるが、天下てんかに比類ひるいなき所ならずや、茶儀は無用むようの虚礼きょれいなりと申さば、国家こっかの大礼たいれい、先祖せんぞの祭祀さいしも総すべて虚礼きょれいなるべし、我等われらこの度たび仰を受うけたるは茶事ちゃじに御用に立だつべき珍らしき品を求むる外ほか他事たじなし、これが主命しゅめいなれば、身命しんめいに懸かけても果さでは相成らず、貴殿きでんが香木こうぼくに大金たいきんを出だす事不相応そうおうなりと思され候そろは、その道の御心得こころえなき故ゆえ、一徹いってつに左様さよう思わるるならんと申候。横田よこた聞ききも果はてず、いかにも某は茶事ちゃじの心得こころえなし、一徹いってつなる武辺者ぶへんものなり、諸芸しょげいに堪能かんのうなるお手前てまえの表芸おもてげいが見たしと申もうすや否や、つと立たち上あがり、脇差わきざしを抜ぬきて投げつけ候。某は身をかわして避よけ、刀は違棚ちがいだなの下なる刀掛に掛かけありし故、飛とびしざりて刀を取とり抜ぬき合あわせ、ただ一打に横田よこたを討ち果たし候。

かくて某は即時そくじに伽羅きゃらの本木もときを買かい取とり、仲津なかつへ持もち帰かえり候。伊達だて家の役人やくにんは是非ぜひなく末木すえきを買かい取とり、仙台せんだいへ持もち帰かえり候。某は香木こうぼくを三斎公に参らせ、さて御願ねがい申候は、主命しゅめい大切たいせつと心得こころえ候ためとは申ながら、御役おんやくに立だつべき侍さむらい一人ひとり討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹せっぷく仰附おおせつけられたくと申候。三斎公聞召きこしめされ、某に仰おおせられ候はその方ほうが申条一々もっとも至極しごくせり、たとい香木こうぼくは貴とうとからずとも、この方ほうが求もとめ参れと申しつけたる珍品ちんぴんに相違そういなければ大切たいせつと心得こころえ候事当然とうぜんなり、総すべて功利こうりの念を以もって物を視み候そうらわば、世よの中なかに尊とうとき物は無なくなるべし、ましてやその方ほうが持もち帰かえり候伽羅きゃらは早速さそく焚たき試こころみ候に、希代きたいの名木めいぼくなれば「聞きく度に珍らしければ郭公ほととぎすいつも初音はつねの心地ここちこそすれ」と申もうす古歌ふるうたに本もとづき、銘を初音はつねとつけたり、かほどの品を求もとめ帰がえり候事天晴あっぱれなり、ただし討うたれ候そろ横田よこた清兵衛せいべいが子孫しそん遺恨いこんを含ふくみいては相成らずと仰おおせられ候。かくて直ただちに清兵衛せいべいが嫡子ちゃくしを召され、御前ごぜんにおいて盃さかずきを申付けられ、某は彼者かのものと互に意趣いしゅを存ずまじき旨むね誓言せいごんいたし候。しかるに横田家でんかの者どもとかく異志いしを存そんする由相聞え、ついに筑前国ちくぜんのくにへ罷越まかりこし候そろ。某へは三斎公御名ぎょめい忠興ただおきの興おきの字を賜たまわり、沖津おきつを興津おきつと相改あらため候そろ様よう御沙汰ごさた有之候。

これより二年目、寛永かんえい三年九月六日むいか主上しゅじょう二条にじょうの御城おんしろへ行幸ぎょうこう遊ばされ妙解院殿いんでんへかの名香みょうごうを御所望しょもう有之これありすなわちこれを献けんぜらるる、主上おかみ叡感えいかん有ありて「たぐひありと誰たれかはいはむ末すゑにほにほふ秋より後のしら菊の花」と申もうす古歌ふるうたの心にて、白菊しろぎくと名附なづけさせ給たもう由よし承り候。某が買い求め候香木こうぼく、畏かしこくも至尊しそんの御賞美しょうびを被こうむり、御当家とうけの誉ほまれと相成り候事、存じ寄らざる儀ぎと存ぞんじ、落涙らくるい候事に候。

その後某は御先代せんだい妙解院殿いんでんよりも出格しゅっかくの御引立を蒙こうむり、寛永かんえい九年御国替おんくにがえの砌みぎりには、三斎公の御居城きょじょう八代やつしろに相詰あいつめ候事と相成り、あまつさえ殿御上京じょうきょうの御供ごくうにさえ召具めしぐせられ候そろ。しかるところ寛永かんえい一四年島原しまばら征伐せいばつの事有之これあり候。某をば妙解院殿いんでん御弟君中務少輔殿立孝公なかつかさしょうゆうどのたつたかこうの御旗本おんはたもとに加えられ御幟おんのぼりを御預けなされ候。十五年二月廿二日御当家とうけ御攻口おんせめくちにて、御幟を一番いちばんに入れ候時、銃丸じゅうがん左の股ももに中あたり、ようよう引ひき取とり候。その時某四十しじゅう五歳に候。手創てきず平癒へいゆ候て後、某は十六年に江戸詰えどづめ仰つけられ候そろ。

寛永かんえい十八年妙解院殿いんでん存じ寄らざる御病気びょうきにて、御父上に先立さきだち、御卒去そっきょ遊ばされ、当代とうだい肥後守殿光尚ひごのかみどのみつひさ公の御代みよと相成り候。同年どうねん九月二日には父弥五右衛門ごえもん景一けいいち死去しきょいたし候。次ついで正保しょうほう二年三斎公も御卒去そっきょ遊ばされ候。これより先さき寛永かんえい十三じゅうそう年には、同おんなじ香木こうぼくの本末ほんまつを分わけて珍重ちんちょうなされ候仙台せんだい中納言なごん殿さえ、少林城わかばやしじょうにおいて御薨去ごこうきょなされ候そろ。かの末木すえきの香は「世よの中なかの憂きを身に積つむ柴舟しばふねやたかぬ先よりこがれ行ゆくらん」と申もうす歌の心にて、柴舟さいしゅうと銘し、御珍蔵ちんぞうなされ候由に候。

某それがしつらつら先考せんこう御当家とうけに奉仕つかえたてまつり候そろてより以来いらいの事を思おもうに、父兄ふけいことごとく出格しゅっかくの御引立を蒙こうむりしは言ゆうも更さらなり、某一身いっしんに取とりては、長崎ながさきにおいて相役あいやく横田よこた清兵衛せいべいを討ち果たし候時、松向寺殿一命いちめいを御救助きゅうじょ下され、この再造さいぞうの大恩だいおんある主君しゅくん御卒去そっきょ遊ばされ候に、某いかでか存命ぞんめいいたさるべきと決心けっしんいたし候。

先年せんねん妙解院殿いんでん御卒去そっきょの砌みぎりには、十九人の者ども殉死じゅんしいたし、また一昨年おととし松向寺殿御卒去そっきょの砌にも、簑田平七正元みのたへいしちまさもと、小野伝兵衛友次おのでんべえともつぐ、久野与右衛門宗直くのよえもんむねなお、宝泉院勝延行者ほうせんいんしょうえんぎょうじゃの四人直ただちに殉死じゅんしいたし候。簑田は曾祖父そうそふ和泉いずみと申もうす者相良遠江守さがらとおとうみのかみ殿の家老かろうにて、主とともに陣亡なし、祖父そふ若狭わかさ、父牛之助うしのすけ流浪るろうせしに、平七へいしちは三斎公に五百石ももいしにて召し出いだされしものに候。平七へいしちは二十三じゅうそう歳にて切腹せっぷくし、小姓こしょう磯部いそべ長五郎ちょうごろう介錯かいしゃくいたし候。小野おののは丹後たんご国にて祖父そふ今安太郎左衛門いまやすたろざえもんの代だいに召し出されしものなるが、父田中たなか甚左衛門じんざえもん御旨おんむねに忤さかい、江戸えど御邸より逐電ちくてんしたる時、御近習ごきんじゅを勤ずとめいたる伝兵衛でんべいに、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰がえり候わば、父の代りに処刑しょけいいたすべしと仰おおせられ、伝兵衛でんべい諸国しょこくを遍歴へんれきせしに廻まわり合わざる趣にて罷まかり帰がえり候。三斎公その時死罪しざいを顧みずして帰参きさん候は殊勝しゅしょうなりと仰おおせられ候て、助命じょめい遊ばされ候。伝兵衛でんべいはこの恩義おんぎを思候そろて、切腹せっぷくいたし候。介錯かいしゃくは磯田いそだ十郎じゅうろうに候。久野くのは丹後たんごの国において幽斎ゆうさい公に召し出され、田辺たなべ御籠城ごろうじょうの時功ありて、新知しんち百五十ごじゅう石賜たまわり候者に候。矢野やの又三郎またさぶろう介錯かいしゃくいたし候。宝泉ほうせん院は陣貝吹じんがいふきの山伏やまぶしにて、筒井順慶つついじゅんけいの弟石井備後守吉村いしいびんごのかみよしむらが子に候そろ。介錯かいしゃくは入魂じっこんの山伏やまぶしの由に候。

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First published
「中央公論」1912(大正元)年10月
Source edition (底本)
底本:「カラー版日本文学全集7 森鴎外」河出書房新社


   1969(昭和44)年3月30日初版発行

初出:「中央公論」

   1912(大正元)年10月

※人名の修正箇所は、「山椒大夫・高瀬舟・阿部一族」(角川文庫、1967)を参照しました。

入力:土屋隆

校正:川山隆

2008年3月24日作成

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Typed by (入力)
土屋隆
Proofread by (校正)
川山隆

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