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国木田独歩 Doppo Kunikida 1871.08.30〜1908.06.23

おとずれ

おとずれ

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上

五月さつき二日付ひずけの一通いっつう、同十日付ひずけ一通いっつう、同二十にじゅう五日付ひずけの一通いっつう、以上いじょう三通にてわれすでに厭あき足りぬと思いたもうや。もはやかかる手紙てがみ願わくは送おくりたまわざれとの御意ぎょい、確たしかに承りぬ。されど今は貴嬢きみがわれにかく願いたもう時は過ぎ去りてわれ貴嬢きみに願ねがうの時となりしをいかにせん。昨年さくねんの春より今年ことしの春まで一年ひととせと三月みつきの間、われは貴嬢きみが乞こわるるままにわが友宮本みやもと二郎じろうが上を誌しるせし手紙てがみ十二とうに通を送おくりたり、十二とうに通に対たいする君が十五通の礼状れいじょうを数えても一年ひととせと三月が間の貴嬢きみがよろこびのほどは知らる。今十二とうに通の裏にみなぎる春の楽たのしみを変えて三通を貫つらぬく苦き消息おとずれとなしたもうは貴嬢きみならずや。貴嬢きみがいかに深き事情わけありと弁解いいひらきたもうとも、かいなし、宮本みやもと二郎じろうが沈しずみゆく今のありさまに何どの関かかわりあらん。かの三通はげに貴嬢きみが読よむを好みたまわぬも理ことわりぞかし、これを認したためしわれ、心乱みだれて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭あき足りぬと思おもいたまわば誤あやまりなり。今はわれ貴嬢きみに願ねがうべき時となりぬ。貴嬢きみはわが願ねがいを入れ、忍しのびて事の成なり行ゆきを見ざるべからず、しかも貴嬢きみ、事の落着らくじゃくは遠とおくもあるまじ、次を見候そうらえ。――手荒く窓を開ひらきぬ。地平じへい線上せんじょうは灰色はいいろの雲重なりて夕闇ゆうやみをこめたり。そよ吹ふく風に霧雨きりあめ舞い込みてわが面おもてを払えば何となく秋の心地ここちせらる、ただ萌もえ出いずる青葉あおばのみは季節きせつを欺き得ず、げに夏の初はじめ、この年の春はこの長雨ながあめにて永久とこしえに逝ゆきたり。宮本みやもと二郎じろうは言ゆうまでもなく、貴嬢きみもわれもこの悲しき、あさましき春の永久とこしえにゆきてまたかえり来たらぬを願ねがうぞうたてき。

わが心は鉛のごとく重く、暮くれゆく空の雲をながめ入いりてしばしは夢心地ゆめごこちせり。われには少すこしもこの夜の送別そうべつ会に加わらん心あらず、深き事情こころも知らでただ壮さかんなる言葉ことば放ち酒飲さけのみかわして、宮本みやもと君がこの行こうを送おくると叫さけぶも何かせん。

げに春ちょう春は永久とこしえに逝ゆきぬ。宮本みやもと二郎じろうは永久えいきゅうを契ちぎりし貴嬢きみ千葉富子ちばとみこに負そむかれ、われは十年の友宮本みやもと二郎じろうと海陸かいりく、幾久しく別わかれてまたいつあうべきやを知らず、かくてこの二人ふたりが楽しき春は永久とこしえにゆきたり。わが心は鉛のごとく重く、暮くれゆく空は墓のごとし。

この階下したの大時計とけい六時を湿しめやかに打うち、泥を噛かむ轍わだちの音重々おもおもしく聞こえつ、車来たりぬ、起たつともなく起ち、外套がいとうを肩に掛かけて階下したに下り、物をも言わで車上しゃじょうに身を投なげたり。運はこび行かるる先は五番町ごばんちょうなる青年せいねん倶楽部クラブなり。

倶楽部くらぶの人々は二郎じろうが南洋なんよう航行こうこうの真意しんいを知らず、たれ一人ひとり知らず、ただ倶楽部くらぶ員の中うちにてこれを知しる者はわれ一人ひとりのみ、人々はみな二郎じろうが産業さんぎょうと二郎じろうが猛気もうきとを知しるがゆえに、年若き夢想むそうを波濤はとうに託してしばらく悠々ゆうゆうの月日がっぴをバナナ実みのる島に送おくることぞと思えり、百トンの帆船はんせんは彼がための墓地ぼちたるを知らざるなり。知らぬも理ことわりならずや、これを知しる者、この世よにわれとわが母上と二郎じろうが叔母おばとのみ。あらず、なお一人ひとりの乙女おとめ知れり、その美しき眼まなこはわが鈍き眼に映うつるよりもさらに深く二郎じろうが氷こおれる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの痕跡あとは深く、凍しばれる心は血に染じみたり。ただかの美しき乙女おとめよくこれを知しるといえども、素知そしらぬ顔して弁解いいひらきの文ふみを二郎じろうが友、われに送おくりぬ。げに偽いつわりという鳥の巣すくうべき枝ほど怪しきはあらず、美うるわしき花咲はなさきてその実は塊つちくれなり。

二郎じろうが家に立ち寄らばやと、靖国社やすくにしゃの前にて車と別わかれ、庭に入いりぬ。車を下おりし時は霧雨きりさめやみて珍しくも西の空少すこしく雲ほころび蒼空あおぞらの一線ひとすじなお落日らくじつの余光よこうをのこせり。この遠とおく幽かすかなる空色そらいろは夏のすでに近きを示しめすがごとく思われぬ。されど空気くうきは重く湿しめり、茂しげり合あう葉桜はざくらの陰を忍しのびにかよう風の音は秋に異ならず、木立こだちの夕闇ゆうやみは頭うなだれて影のごとく歩あゆむ人の類たぐいを心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息ためいきつきてこの木立こだちを当てもなく行き来せしこと幾度たびぞ。

水瀦みずたまりに映うつる雲の色は心失うせし人の顔の色のごとく、これに映うつるわが顔は亡友なきともの棺ひつぎを枯かれ野のに送おくる人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空あおぞらの一線いっせんは年若きわれらの心の秘密ひみつの謎語なぞのごとく、これを望のぞみてわが心怪しゅう躍りぬ。ああ年少ねんしょうの夢よ、かの蒼空あおぞらはこの夢の国ならずや、二郎じろうも貴嬢きみもこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠とおくして幽かすかに、恋うるがごとく慕したうがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。げにこの天をまなざしうとく望のぞみて永久とこしえの希望きぼう語かたらいし少女しょうじょと若者わかものとは幸いなりき。

池のかなたより二人ふたりの小娘こむすめ、十四と九つばかりなるが手を組くみて唄うたいつつ来きたるにあいぬ。一目いちもくにて貧しき家の児こなるを知りたり。唄うたうはこのごろ流行はやる歌と覚しく歌の意こころはわれに解げし難がたし。ただ二人ふたりが唄うたう節ふしの巧たくみなる、その声は湿しめりて重おもき空気くうきにさびしき波紋はもんをえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲あたりに人影ひとかげ見えず、二人ふたりはわれを見たれど意こころにとめざるごとく、一足いっそく歩あゆみては唄い、かくて東屋あずまやの前に立ちぬ。姉妹はらから共に色蒼あおざめたれど楽しげなり。五月雨さみだれも夕暮ゆうぐれも暮くれゆく春もこの二人ふたりにはとりわけて悲しからずとりわけてうれしからぬようなり、ただおのが唄うたう声の調しらべのまにまにおのが魂たまを漂わせつ、人の上も世の事も絶えて知らざるなり。人生うまれて初はじめは母の唄いたもう調しらべに誘われて安けく眠ねむり、その次は自みずから歌いて自みずから眠ねぶるこの姉妹あねいもとのごときなり、人唄えばとて自みずから歌えばとてついに安き眠ねむりを結むすび得ざるは貴嬢きみのごとき二郎じろうのごときまたわれのごとき年としごろの者なるべし、ただ二郎じろうこの度たびは万里ばんりの波上はじょう、限かぎりなき自然じねんの調しらべに触れて、誠なき人の歌に傷つきし心を安やすめばやと思い立ちぬ。げに真情まごころ浅き少女おとめの当座とうざの曲にその魂を浮かべし若者わかものほど哀あわれなるはあらじ。

われしばしこの二人ふたりを見てありしに二人ふたりもまた今いまさらのように意こころづきしか歌を止とどめ、わが顔を見上げて笑わらいぬ、姉なるは羞はずかしげに妹なるはあきれしさまにて。われまたほほえみてこれに応こたえざるを得ざりき。君はこのごろ毎夜まいよ狂犬きょうけんいでて年若き娘をのみ噛かむちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問といの不思議ふしぎなると問とえるさまの唐突とうとつなるとにわれはあきれて微笑ほほえみぬ。姉はわが顔を見て笑わらいつ、愚おろかなることを言ゆうぞと妹の耳を強く引きたり。されど片目かための十蔵じゅうぞうがかく語がたりしものを痛きことかなと妹は眼まなこをみはり口とがらせ耳をおおいて叫さけびぬ。たちまち姉は優しく妹の耳に口寄くちよせて何事なにごとかささやきしが、その手をとりて引ひき立たつれば妹はわれを見て笑えみつ、さて二人ふたりは唄うたうこともとのごとくにしてかなたに去りぬ。

げに見すぼらしき後うしろ影かげ、蓬よもぎなす頭、色いろあせし衣、われはしばしこれを見送みおくりてたたずみぬ。この哀あわれなる姿をめぐりて漂ただよう調しらべの身にしみし時、霧雨きりあめのなごり冷ひややかに顔をかすめし時、一陣いちじんの風木立こだちを過すぎて夕闇ゆうやみ嘯うそぶきし時、この切那せつなわれはこの姉妹はらからの行ゆく末すえのいかに浅ましきやを鮮あざやかに見たる心地ここちせり。たれかこの少女おとめらの行ゆく末すえを守まもり導みちびくものぞ、彼ら自みずから唄いて自みずから泣なく時も遠とおくはあるまじ。

急ぎて裏門うらもんを出いでぬ、貴嬢きみはここの梅林うめばやしを憶おぼえたもうや、今や貴嬢きじょうには苦しき紀念かたみなるべし、二郎じろうには悲しき木陰こかげとなり、われには恐ろしき場処ばしょとなれり。門かどを出いずれば角かどなる茶屋ちゃやの娘軒先のきさきに立ちてさびしげに暮くれゆく空をながめいしが、われを見て微かすかに礼いやなしぬ、貴嬢きみはこの娘を憶えいたもうや。賤いやしきこの娘を。

二郎じろうはすでに家にあらざりき、叔母しゅくぼはわれを引き止めてまたもや数々かずかずの言葉ことばもて貴嬢きじょうを恨うらみ、この恨うらみ永久とこしえにやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢きじょうを愛めずる心ありて恨めど怒いかり得ぬさまの苦しげなる、見みるに忍しのびざりき。叔母しゅくぼ恨うらむというとも貴嬢きみ怒いかるに及ばじ、恨うらむ心は女の心にして、恨うらむ女は愛めずる女なり、ただこの叔母しゅくぼを哀あわれとおぼさずや。

叔母しゅくぼのいいけるは昨夜さくや夜よふけて二郎じろう一束の手紙てがみに油を注ぎ火を放ちて庭に投なげいだしけるに、火は雨中に燃もえていよいよ赤く、しばしは庭のすみずみを照らししばらくして次第しだいに消きえゆくをかれは静しずかにながめてありしが火消えて後もややしばらくは真闇まくらなる庭の面おもをながめいたりとぞ。火や煙や灰や闇黒あんこくや、二郎じろうはその次に何者なにものをか見たる。

わが車五味坂ごみざかを下れば茂しげみ合あう樫かしの葉陰かげより光影ひかげきらめきぬ。これ倶楽部クラブの窓より漏るるなり。雲の絶たえ間まには遠き星一つ微かすかにもれたり。受付うけつけの十蔵じゅうぞう、卓に臂ひじを置おき煙草たばこ吹かしつつ外面そともをながめてありしがわが姿を見みるやその片目かためをみはりて立ちぬ、その鼻よりは煙ゆるやかに出いでたり。軽く礼いやして、わが渡わたす外套がいとうを受うけ取とり、太くしわがれし声にて、今宮本みやもとぬしの演説えんぜつありと言いぬ。耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの美うるわしき声、沈しずめる調ちょうなり。堂の闥たつを押さんとする時何心なにごころなく振り向けば十蔵じゅうぞうはわが外套がいとうを肩にかけ片手かたでにランプを持もちて事務じむ室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女しょうじょが狂犬きょうけんのうわさせしといいし片目かための十蔵じゅうぞうを憶おもい起こしぬ。十蔵じゅうぞうはわが振ふり向むきしを見て急にランプの火を小さくせり。われその故ゆえを解げし得ず、ただ見みる六尺ばかりの大男おうおとこの影おぼろなるが静しずかに事務じむ室の中うちに消え去りしを。この十蔵じゅうぞうが事は貴嬢きみも知りたもうまじ、かれの片目かためは奸よこしまなる妻が投げ付けし火箸ひばしの傷にて盲つぶれ、間もなく妻は狂犬きょうけんにかまれて亡うせぬ。このころよりかれが挙動ふるまいに怪しき節多くなり増さりぬ、元もとよりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十さんじゅう五歳といえど子もなく兄弟はらからもなし。

予は闥たつを排して内に入いりぬ。

三十さんじゅう余あまりの人々長方ちょうほう形の卓を囲かこみて居並びしがみな眼まなこを二郎じろうの方にのみ注げば、わが入いり来たれるに心づきしは少なかりき。一座いちざ粛然しゅくぜんたる中うちに二郎じろうが声のみぞ響ひびきたる。かれが蒼白あおしろき顔は電燈でんとうの光を受うけていよいよ蒼白く貴嬢きみがかつて仰あおぎ見みるて星とも愛めでし眼まなこよりは怪しき光を放てり。ただいずこともなく誇ほこれる鷹たかの俤おもかげ、眉宇びうの間に動うごき、一搏いっぱくして南の空遠とおく飛ばんとするかれが離別りべつの詞を人々は耳そばだてて聴きけど、暗き穴より飛とび来たりし一矢いっし深くかれが心を貫つらぬけるを知しるものなし、まして暗き穴に潜ひそめる貴嬢きみが白き手をや、一座いちざの光景ありさまわが目にはげに不思議ふしぎなりき。

二郎じろうは病やまいを養やしなうためにまた多少たしょうの経画けいかくあるがためにと述べたり、されどその経画なるものの委細いさいは語らざりき。人々もまたこれを怪しまざるようなり。かれが支店してんの南洋なんようにあるを知しれる友らはかれ自みずからその所有しょゆうの船に乗のりて南洋なんように赴おもむくを怪しまぬも理ことわりならずや。ただひたすらその決行けっこうを壮さかんなりと思おもえるがごとし。

女の解し難なんきものの一をわが青年せいねん倶楽部くらぶの壁内へきないならでは醸かもさざる一種いっしゅの気こうきなりといわまほし。今の時代じだいの年若き男子だんし一度ひとたびこの裡うちに入いりて胸を開かばかれはその時よりして自由じゆうと人情にんじょうとの友なるべし。さてさらに貴嬢きみの解し難なんきものの一を言わんか、この気こうきを呼吸こきゅうするかの二郎じろうなり。何なにゆえぞと問いたまいそ、貴嬢きじょうもしよくこれを解し得うる少女しょうじょならんにはいかで暗き穴よりかの無残むざんなる箭やを放たんや。二郎じろう述べおわりて座につくや拍手はくしゅ勇ましく起こり、かれが周囲しゅういには早くも十余人よにんのもの集まりたり。廊下ろうかに出いずるものあり、煙草たばこに火を点てんずるものあり、また二人ふたり三人みたりは思い思いに椅子いすを集め太き声にて物語ものがたり笑い興ぜり。かかる間あいだに卓上たくじょうの按排あんばい備わりて人々またその席につくや、童子ボーイが注つぎめぐる麦酒ビールの泡あわいまだ消えざるを一斉いっせいに挙あげて二郎じろうが前途ぜんとを祝しぬ。儀式ぎしきはこれにて終おわり倶楽部くらぶの血はこれより沸かんとす。この時いずこともなく遠雷えんらいのとどろくごとき音す、人々顔と顔見合みあわす隙ひまもなく俄然がぜんとして家振るい、童子部屋ボーイべやの方にて積つみ重がさねし皿さらの類の床に落おちし響ひびきすさまじく聞こえぬ。

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First published
「国民之友」1897(明治30)年11月
Source edition (底本)
底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店

   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行

   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行

   2002(平成14)年4月5日第77刷発行

底本の親本:「武蔵野」民友社

   1901(明治34)年3月

初出:「国民之友」

   1897(明治30)年11月

入力:土屋隆

校正:門田裕志

2012年7月1日作成

2012年9月29日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
土屋隆
Proofread by (校正)
門田裕志

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