上
五月二日付の一通、同十日付一通、同二十五日付の一通、以上三通にてわれすでに厭き足りぬと思いたもうや。もはやかかる手紙願わくは送りたまわざれとの御意、確かに承りぬ。されど今は貴嬢がわれにかく願いたもう時は過ぎ去りてわれ貴嬢に願うの時となりしをいかにせん。昨年の春より今年の春まで一年と三月の間、われは貴嬢が乞わるるままにわが友宮本二郎が上を誌せし手紙十二通を送りたり、十二通に対する君が十五通の礼状を数えても一年と三月が間の貴嬢がよろこびのほどは知らる。今十二通の裏にみなぎる春の楽しみを変えて三通を貫く苦き消息となしたもうは貴嬢ならずや。貴嬢がいかに深き事情ありと弁解きたもうとも、かいなし、宮本二郎が沈みゆく今のありさまに何の関りあらん。かの三通はげに貴嬢が読むを好みたまわぬも理ぞかし、これを認めしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭き足りぬと思いたまわば誤りなり。今はわれ貴嬢に願うべき時となりぬ。貴嬢はわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべからず、しかも貴嬢、事の落着は遠くもあるまじ、次を見候え。――手荒く窓を開きぬ。地平線上は灰色の雲重なりて夕闇をこめたり。そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ萌え出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久に逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢もわれもこの悲しき、あさましき春の永久にゆきてまたかえり来たらぬを願うぞうたてき。
わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空の雲をながめ入りてしばしは夢心地せり。われには少しもこの夜の送別会に加わらん心あらず、深き事情も知らでただ壮なる言葉放ち酒飲みかわして、宮本君がこの行を送ると叫ぶも何かせん。
げに春ちょう春は永久に逝きぬ。宮本二郎は永久を契りし貴嬢千葉富子に負かれ、われは十年の友宮本二郎と海陸、幾久しく別れてまたいつあうべきやを知らず、かくてこの二人が楽しき春は永久にゆきたり。わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空は墓のごとし。
この階下の大時計六時を湿やかに打ち、泥を噛む轍の音重々しく聞こえつ、車来たりぬ、起つともなく起ち、外套を肩に掛けて階下に下り、物をも言わで車上に身を投げたり。運び行かるる先は五番町なる青年倶楽部なり。
倶楽部の人々は二郎が南洋航行の真意を知らず、たれ一人知らず、ただ倶楽部員の中にてこれを知る者はわれ一人のみ、人々はみな二郎が産業と二郎が猛気とを知るがゆえに、年若き夢想を波濤に託してしばらく悠々の月日をバナナ実る島に送ることぞと思えり、百トンの帆船は彼がための墓地たるを知らざるなり。知らぬも理ならずや、これを知る者、この世にわれとわが母上と二郎が叔母とのみ。あらず、なお一人の乙女知れり、その美しき眼はわが鈍き眼に映るよりもさらに深く二郎が氷れる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの痕跡は深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解の文を二郎が友、われに送りぬ。げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、美わしき花咲きてその実は塊なり。
二郎が家に立ち寄らばやと、靖国社の前にて車と別れ、庭に入りぬ。車を下りし時は霧雨やみて珍しくも西の空少しく雲ほころび蒼空の一線なお落日の余光をのこせり。この遠く幽かなる空色は夏のすでに近きを示すがごとく思われぬ。されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。
水瀦に映る雲の色は心失せし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は亡友の棺を枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は年若きわれらの心の秘密の謎語のごとく、これを望みてわが心怪しゅう躍りぬ。ああ年少の夢よ、かの蒼空はこの夢の国ならずや、二郎も貴嬢もこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠くして幽かに、恋うるがごとく慕うがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。げにこの天をまなざしうとく望みて永久の希望語らいし少女と若者とは幸いなりき。
池のかなたより二人の小娘、十四と九つばかりなるが手を組みて唄いつつ来たるにあいぬ。一目にて貧しき家の児なるを知りたり。唄うはこのごろ流行る歌と覚しく歌の意はわれに解し難し。ただ二人が唄う節の巧みなる、その声は湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋の前に立ちぬ。姉妹共に色蒼ざめたれど楽しげなり。五月雨も夕暮れも暮れゆく春もこの二人にはとりわけて悲しからずとりわけてうれしからぬようなり、ただおのが唄う声の調べのまにまにおのが魂を漂わせつ、人の上も世の事も絶えて知らざるなり。人生まれて初めは母の唄いたもう調べに誘われて安けく眠り、その次は自ら歌いて自ら眠るこの姉妹のごときなり、人唄えばとて自ら歌えばとてついに安き眠りを結び得ざるは貴嬢のごとき二郎のごときまたわれのごとき年ごろの者なるべし、ただ二郎この度は万里の波上、限りなき自然の調べに触れて、誠なき人の歌に傷つきし心を安めばやと思い立ちぬ。げに真情浅き少女の当座の曲にその魂を浮かべし若者ほど哀れなるはあらじ。
われしばしこの二人を見てありしに二人もまた今さらのように意づきしか歌を止め、わが顔を見上げて笑いぬ、姉なるは羞しげに妹なるはあきれしさまにて。われまたほほえみてこれに応えざるを得ざりき。君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ噛むちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの唐突なるとにわれはあきれて微笑みぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。されど片目の十蔵がかく語りしものを痛きことかなと妹は眼をみはり口とがらせ耳をおおいて叫びぬ。たちまち姉は優しく妹の耳に口寄せて何事かささやきしが、その手をとりて引き立つれば妹はわれを見て笑みつ、さて二人は唄うこともとのごとくにしてかなたに去りぬ。
げに見すぼらしき後ろ影、蓬なす頭、色あせし衣、われはしばしこれを見送りてたたずみぬ。この哀れなる姿をめぐりて漂う調べの身にしみし時、霧雨のなごり冷ややかに顔をかすめし時、一陣の風木立ちを過ぎて夕闇嘯きし時、この切那われはこの姉妹の行く末のいかに浅ましきやを鮮やかに見たる心地せり。たれかこの少女らの行く末を守り導くものぞ、彼ら自ら唄いて自ら泣く時も遠くはあるまじ。
急ぎて裏門を出でぬ、貴嬢はここの梅林を憶えたもうや、今や貴嬢には苦しき紀念なるべし、二郎には悲しき木陰となり、われには恐ろしき場処となれり。門を出ずれば角なる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て微かに礼なしぬ、貴嬢はこの娘を憶えいたもうや。賤しきこの娘を。
二郎はすでに家にあらざりき、叔母はわれを引き止めてまたもや数々の言葉もて貴嬢を恨み、この恨み永久にやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢を愛ずる心ありて恨めど怒り得ぬさまの苦しげなる、見るに忍びざりき。叔母恨むというとも貴嬢怒るに及ばじ、恨む心は女の心にして、恨む女は愛ずる女なり、ただこの叔母を哀れとおぼさずや。
叔母のいいけるは昨夜夜ふけて二郎一束の手紙に油を注ぎ火を放ちて庭に投げいだしけるに、火は雨中に燃えていよいよ赤く、しばしは庭のすみずみを照らししばらくして次第に消えゆくをかれは静かにながめてありしが火消えて後もややしばらくは真闇なる庭の面をながめいたりとぞ。火や煙や灰や闇黒や、二郎はその次に何者をか見たる。
わが車五味坂を下れば茂み合う樫の葉陰より光影きらめきぬ。これ倶楽部の窓より漏るるなり。雲の絶え間には遠き星一つ微かにもれたり。受付の十蔵、卓に臂を置き煙草吹かしつつ外面をながめてありしがわが姿を見るやその片目をみはりて立ちぬ、その鼻よりは煙ゆるやかに出でたり。軽く礼して、わが渡す外套を受け取り、太くしわがれし声にて、今宮本ぬしの演説ありと言いぬ。耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの美わしき声、沈める調なり。堂の闥を押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて事務室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女が狂犬のうわさせしといいし片目の十蔵を憶い起こしぬ。十蔵はわが振り向きしを見て急にランプの火を小さくせり。われその故を解し得ず、ただ見る六尺ばかりの大男の影おぼろなるが静かに事務室の中に消え去りしを。この十蔵が事は貴嬢も知りたもうまじ、かれの片目は奸なる妻が投げ付けし火箸の傷にて盲れ、間もなく妻は狂犬にかまれて亡せぬ。このころよりかれが挙動に怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく兄弟もなし。
予は闥を排して内に入りぬ。
三十余りの人々長方形の卓を囲みて居並びしがみな眼を二郎の方にのみ注げば、わが入り来たれるに心づきしは少なかりき。一座粛然たる中に二郎が声のみぞ響きたる。かれが蒼白き顔は電燈の光を受けていよいよ蒼白く貴嬢がかつて仰ぎ見て星とも愛でし眼よりは怪しき光を放てり。ただいずこともなく誇れる鷹の俤、眉宇の間に動き、一搏して南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて聴けど、暗き穴より飛び来たりし一矢深くかれが心を貫けるを知るものなし、まして暗き穴に潜める貴嬢が白き手をや、一座の光景わが目にはげに不思議なりき。
二郎は病を養うためにまた多少の経画あるがためにと述べたり、されどその経画なるものの委細は語らざりき。人々もまたこれを怪しまざるようなり。かれが支店の南洋にあるを知れる友らはかれ自らその所有の船に乗りて南洋に赴くを怪しまぬも理ならずや。ただひたすらその決行を壮なりと思えるがごとし。
女の解し難きものの一をわが青年倶楽部の壁内ならでは醸さざる一種の気なりといわまほし。今の時代の年若き男子一度この裡に入りて胸を開かばかれはその時よりして自由と人情との友なるべし。さてさらに貴嬢の解し難きものの一を言わんか、この気を呼吸するかの二郎なり。何ゆえぞと問いたまいそ、貴嬢もしよくこれを解し得る少女ならんにはいかで暗き穴よりかの無残なる箭を放たんや。二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には早くも十余人のもの集まりたり。廊下に出ずるものあり、煙草に火を点ずるものあり、また二人三人は思い思いに椅子を集め太き声にて物語り笑い興ぜり。かかる間に卓上の按排備わりて人々またその席につくや、童子が注ぎめぐる麦酒の泡いまだ消えざるを一斉に挙げて二郎が前途を祝しぬ。儀式はこれにて終わり倶楽部の血はこれより沸かんとす。この時いずこともなく遠雷のとどろくごとき音す、人々顔と顔見合わす隙もなく俄然として家振るい、童子部屋の方にて積み重ねし皿の類の床に落ちし響きすさまじく聞こえぬ。
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- First published
- 「国民之友」1897(明治30)年11月
- Source edition (底本)
- 底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
1897(明治30)年11月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月1日作成
2012年9月29日修正
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