Nihoner

国木田独歩 Doppo Kunikida 1871.08.30〜1908.06.23

恋を恋する人

こいをこいするひと

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一

秋の初はじめの空は一片の雲もなく晴はれて、佳いい景色けしきである。青年わかもの二人ふたりは日光にっこうの直射ちょくしゃを松の大木おうぎの蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人ひとりは遠とおく相模さがみ灘を眺ながめ、一人ひとりは読書どくしょしている。場所ばしょは伊豆いずと相模さがみの国境くにざかいにある某なにがし温泉おんせんである。

渓流たにがわの音が遠とおく聞ゆるけれど、二人ふたりの耳には入らない。甲ひとりの心は書中しょちゅうに奪われ、乙ひとりは何事なにごとか深く思考おもいに沈んでいる。

暫時しばらくすると、甲ひとりは書籍ほんを草の上に投げ出して、伸のびをして、大欠おおあくびをして、

「最早もう宿へ帰ろうか。」

「うん」と応こたえたぎり、乙ひとりは見向みむきもしない。すると甲ひとりは巻煙草たばこを出だして、

「オイ君、燐寸まっちを借せ。」

「うん」と出だしてやる、そして自分じぶんも煙草たばこを出だして、甲乙共ふたりとも、のどかに喫煙すいだした。

「君はどう思おもう、縁とは何ぞやと言われたら?」

と思考おもいに沈んでいた乙ひとりが静しずかに問うた。

「左様そうサね、僕は忘わすれて了った。……何とか言ったッけ。」と甲ひとりは書籍ほんを拾い上げて、何気なにげなく答こたえる。

乙ひとりは其それを横目よこめで見て、

「まさか水力すいりょく電気でんき論の中うちには説明せつめいしてあるまいよ。」

「無なあいとも限らん。」

「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」

「よろしい。」

甲乙ふたりは無言むごんで煙草たばこを喫っている。甲ひとりは書籍ほんを拈繰ひねくって故意わざと何か捜している風を見せていたが、

「有ったよ。」

「ふん。」

「真実ほんとに有ったよ。」

「教えてくれ給え。」

「実はやッと思おもい出でしたのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限むげんに多数たすうなる正多角形つのがたとか何とか言ッたッけ。」と、真面目まじめである。

「馬鹿ばか!」

「何なんで?」

「大馬鹿ばか!」

「君よりは少すこしばかり多智りこうな積ずもりでいたが。」

「僕の聞いたのは其その円じゃアないんだ。縁だ。」

「だから円だろう。」

「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発はっすべき問ではなかったかも知れない。まア静しずかに聞きき給え、僕の問うたのは……」

「最もっとも活動かつどうする自然じねん力を支配しはいする人間じんかんは最もっとも冷静れいせいだから安心あんしんし給え。」

「豪えらいよ。」

「勿論もちろん! そこで君のいう所のエンとは?」

「帰ろうじゃアないか。帰宿かえって夕飯ゆうはんの時、ゆるゆる論ろんずる事にしよう。」

「サア帰ろう!」と甲ひとりは水力すいりょく電気でんき論を懐中ふところに押おしこんだ。

かくて仲善き甲乙ふたりの青年わかものは、名ばかり公園こうえんの丘を下りて温泉おんせん宿へ帰かえる。日は西に傾いて渓たにの東の山々は目映まばゆきばかり輝いている。まだ炎熱あついので甲乙ふたりは閉口へいこうしながら渓流たにがわに沿そうた道を上流うえの方へのぼると、右側うそくの箱根はこね細工さいくを売うる店先みせさきに一人ひとりの男が往来おうらいを背にして腰をかけ、品物しなもんを手にして店の女主人しゅじんの談話はなしているのを見た。見て行ゆき過すぎると、甲ひとりが、

「今あの店にいたのは大友おうとも君じゃアなかッたか?」

「僕も、そんな気がした。」

「後姿うしろすがたが似ていた、確たしかに大友おうともだ。」

「大友おうともなら宿は大東館ひがしかんだ」

「何故なぜ?」

「僕が大東館ひがしかんを撰んだのは大友おうとも君からはなしを聞いたのだもの。」

「それは面白おもしろい。」

「きっと面白おもしろい。」

と話はなしながら石の門を入いると、庭樹この間まから見まみえる縁先えんさきに十四五しごの少女おとめが立っていて、甲乙ふたりの姿を見みるや、

「神崎こうざき様! 朝田あさだ様! 一寸ちょっと来て御覧ごらんなさいよ。面白しろい物ものがありますから。早く来て御覧ごらんなさいよ!」と叫さけぶ。

「また蛇が蛙を呑のむのじゃアありませんか。」と「水力すいりょく電気でんき論」を懐にして神崎こうざき乙彦おとひこが笑わらいながら庭樹ていじゅを右に左に避よけて縁先えんさきの方へ廻まわる。少女おとめの室へやの隣室となりが二人ふたりの室なのである。朝田あさだは玄関口せきぐちへ廻まわる。

「ほら妙なものでしょう。」と少女しょうじょの指ゆびさす方を見ても別に何も見当けんとうらない。神崎こうざきはきょろきょろしながら、

「春子はるこさん、何物なんにも無いじアありませんか。」

「ほら其処そこに妙な物が。……貴様あなたお眼が悪わるいのねエ」

「どれです。」

「百日紅さるすべりの根に丸まるい石があるでしょう。」

「あれが如何どうしたのです。」

「妙でしょう。」

「何故なぜでしょう。」といいながら新工学こうがく士神崎こうざきは石を拾って不思議ふしぎそうに眺ながめる。朝田あさだはこの時既すでに座敷ざしきから廻って縁先えんさきに来た。

「オイ朝田あさだ、春子はるこさんがこの石を妙だろうと言ゆうが君は何と思おもう。」

「頗すこぶる妙と思おもうねエ」

「ね朝田あさだ様さん、妙でしょう。」と少女おとめはにこにこ。

「そうですとも、大おおいに妙です。神崎こうざき工学こうがく士、君は昨夕ゆうべ酔払って春子はるこ様さんをつかまえてお得意とくいの講義こうぎをしていたが忘わすれたか。」

「ねエ朝田あさだ様! その時、神崎こうざき様が巻煙草たばこの灰を掌にのせて、この灰が貴女きじょには妙と見えませんかと聞きくから、私は何でもないというと、だから貴女きじょは駄目だめだ、凡およそ宇宙うちゅうの物、森羅しんら万象ばんしょう、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白おもしろいからざるはなし、それを左様そう思わないのは科学かがくの神に帰依きえしないのだからだ、とか何とか、難事むずかしい事をべらべら何時いつまでも言うんですもの。私、眠くなって了しまったわ、だからアーメンと言ったら、貴下あなた怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田あさだ様さん。」

「そうですとも、だからその石は頗すこぶる妙、大おおいに面白おもしろいしと言うんですねエ。」

「神崎こうざき様、昨夕さくゆうの敵打かたきうちよ!」

「たしかに打たれました。けれど春子はるこ様、朝田あさだは何時なんどきも静粛しずかで酒も何なんにも呑まないで、少すこしも理窟りくつを申しませんからお互に幸福しあわせですよ。」

「否いいえ、お二人ふたりとも随分ずいぶ理窟りくつばかり言ゆうわ。毎晩まいばん毎晩まいばん、酔っては討論とうろん会を初はじめますわ!」

甲乙ふたりは噴飯ふきだして、申し合したように湯衣ゆかたに着かえて浴場ゆどのに逃げだして了しまった。

少女おとめは神崎こうざきの捨てた石を拾って、百日紅さるすべりの樹に倚りかかって、西の山やまの端はに沈しずむ夕日せきじつを眺ながめながら小声こごえで唱歌しょうかをうたっている。

又また少女おとめの室へやでは父と思おぼしき品格ひんかくよき四十しじゅう二三にさんの紳士しんしが、この宿の若主人しゅじんを相手あいてに囲碁いごに夢中むちゅうで、石事件じけんの騒さわぎなどは一切いっさい知らないでパチパチやって御座ござる。そして神崎こうざき、朝田あさだの二人ふたりが浴室ゆどのへ行ゆくと間もなく十八九はちきゅうの愛嬌あいきょうのある娘が囲碁いごの室へやに来て、

「家兄にいさん、小田原おだわらの姉様ねえさんが参まいりました。」と淑しとやかに通つうずる。これを聞いて若主人しゅじんは顔を上あげて、やや不安ふあんの色で。

「よろしい、今ゆく。」

「急用きゅうようなら中止ちゅうししましょう」と紳士しんしは一寸ちょっと手を休やすめる。

「何なに関かまいません、急用きゅうようという程の事じゃアないんです。」と若主人しゅじんは直すぐ盤を見つめて、石を下おろしつつ、

「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存ぞんじでしょう。」

「そうでした、覚おぼえています。可愛かわいらしい佳いい娘さんでした。」と紳士しんしも打うちながら答こたえる。

「そのお正しょうがこの春国府津こうずへ嫁かたずいたのです。」

「それはお目出度い。」

「ところが余りお目出度くないんでしてな。」

「それは又?」

「どういうものか折合おりあいが善くありませんで。」

「それは善くない。」

「それで今日来にちらいたのも、又何か持上ったのでしょう。」

「それでは早く行ゆく方が可よい。……」

「なに、どうせ二晩三晩は宿泊とまるのですから急がないでも可いいのです。」と平気へいきで盤に向っているので、紳士しんしもその気になり何時いつしかお正しょうの問題もんだいは忘わすれて了っている。

浴室ゆどのでは神崎こうざき、朝田あさだの二人ふたりが、今夜こんやの討論とうろん会は大友おうともが加くわわるので一倍いちばい、春子はるこさんを驚おどろかすだろうと語り合って楽しんで居おる。

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Where this text comes from

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First published
「中央公論」1907(明治40)年1月
Source edition (底本)
底本:「日本の短編小説[明治・大正]」潮文庫、潮出版社

   1973(昭和48)年5月20日初版

   1988(昭和63)年11月30日9刷

初出:「中央公論」

  1907(明治40)年1月

入力:鈴木厚司

校正:鈴木厚司

1999年5月16日公開

2011年5月23日修正

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Typed by (入力)
鈴木厚司
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鈴木厚司

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