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新美南吉 Nankichi Niimi 1913.07.30〜1943.03.22

おしどり

おしどり

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林泉りんせんのほとりに今日きょうも若者わかものはひとりうっそりしゃがんでいた。冠かんむりはほころびくつには穴あながあき、あごにははらはらとぶしょうひげがみられ、頬骨ほおぼねの下にはのみでえぐったようなくぼみがあった。そして凝視ぎょうししている涼すずしい眼めには深ぶかい哀かなしみの色がやどっていた。その眼で若者わかものはさっきから一対いっついのおしどりをあかずながめていた。五色ごしきもていろどられた美うつくしいつがいのおしどりは彼かれらに見入っている傍観者ぼうかんしゃなどすこしも気にかけず、つつましやかに、しかしむつまじげに遊んでいた。彼らはかたときも他たからはなれることなく、水蓮すいれんのそばをすぎたり、ふきあげのしぶきの下をくぐったりした。そのしぶきの中には美うつくしい虹にじが夢ゆめのようにうかんでいた。ただ形象けいしょうのみからはいずれがおすともいずれがめすとも弁じがたかったけれども、若者わかものは、いつも先に立っていくのがおすで、すぐそのあとからいそいそとついていくのがめすであるにちがいないと思っていた。日は真昼まひる、そよとの風もなく、ふきあげは動かぬ絹きぬの糸のすだれのようにもみえた。若者わかものはそのとき、頬ほおづえを左手ひだりてにかえて深ぶかいため息いきをついた。すると背後はいごにかすかにものの気配きはいがした。みるとそこには見知らぬひとりの老人ろうじんが若者わかものをみつめてたたずんでいた。さぎのようにやせ、さぎのように気品きひんのある老人ろうじんであった。手には一管いっかんの笛ふえをたずさえていた。若者わかものはその全体ぜんたいの風貌ふうぼうからいままでに知らなかった威圧いあつをうけたので、思わず一揖いちゆうした。すると老人ろうじんは音も立てずに一歩歩ほほをすすめて、「何か思おもいごとがあって毎日まいにちここにこられるのか」とたずねた。若者わかものはこの老人ろうじんをみるのは今日きょうがはじめであったので、老人ろうじんが自分じぶんの毎日まいにちここにやってくることを知っているのに不審ふしんをいだいた。「失礼しつれいでございますがあなたはどなたでしょうか」と彼かれはききかえした。「わたしはこの水の底に住んでいる水の精せいじゃ」と老人ろうじんは答えた。若者わかものはおどろいていずまいをつくろった。老人ろうじんは語をついでいった。「わたしはこの水の底深くひそんでいて毎日まいにち笛をふいておる。だが、わたしのふきならす笛の音色ねいろはあなた方がた、土の上の者には聞こえはせぬ。それを聞きくことのできるものは水の中に住すまうものばかりじゃ。一分いちぶのめだかから一尺いっしゃくの鯉こいにいたる魚のすべて、さぎ、白鳥しらとり、おしどり、鴨かも、鶴つるなど水に親したしむ鳥どものすべて、また水にさく浮草うきくさの花の一つ一つが、それを聞きくのじゃ。なぜ彼らに笛の音をきかしてやるのかとおっしゃられるか。それは、彼らの心からにごりをのぞいてやるためじゃ。わたしがこれをふきはじめると、まず泉いずみの水は上方じょうほうから深山しんざんの大気たいきのようにすんでくる。そして魚たちの心、鳥たちの心、花たちの心も水と同じようにすんでくる。彼らの心からいっさいのにごりは消え去って、ただ一つの色に、悲かなしみならばただ悲かなしみ、よろこびならばひたすらなるよろこびにすんでしまうのじゃ。」「お待まちください」と若者わかものはひとみをかがやかせながらさえぎった。「それでは、あの一対いっついのおしどりは、すみきった愛のみをもって相愛そうあいしているのでございますか。その愛の中にさびしさがあったり、その愛の中ににくしみがあったり、その愛の中にうたがいがあったりはしないのでしょうか。」「そのようなものはいっさい介在かいざいしない。ただ一つの愛のみじゃ。さればいずれか一方いっぽうがうせたときにはとりのこされた者は、ひたすらなる悲かなしみにとざされ、ついにはそのため己おのれもまた身をほろぼさねばならぬやもしれない。」「やっぱりそうだったのですか」と若者わかものは、老人ろうじんからちょうどそのときこちらへやってくるつがいのおしどりの方へ眼めをうつしていった。そしてこんどはひとりごとのようにいいはじめた。「やっぱりそうだったのですか。わたしもそう思っておりました。それで彼らをうらやましくて、毎日まいにちここにきてじっとみつめておりました。お察さっしの通とおりです。わたしは恋こいをしているのです。でもそれは奇妙きみょうな恋でございます。お聞ききください。わたしと女とは小ちいさい頭を総角あげまきにゆっているころから知りあっていました。わたしたちの恋は六七ろくしち歳のころふたりでよく遊んだお嫁よめさんごっこの他愛たあいない遊あそびに胚胎はいたいしているのでございます。けれども真正しんしょうの恋心こいごころを感かんじはじめましたのはふたりが十五六ごろく歳になったころからでございました。それだとて早はやい恋ではございます。そのころは純真じゅんしんな愛情あいじょうをもってひたむきに女を愛しておりました。相いだいて樹こかげにふたりいるとき、わたしはこのまま死んでもくいはしないと、女にも申し、また自分じぶんの心でも思っておりました。女でございますか。もちろん女も真実しんじつ心からそう申しておりました。けれどわたしはそのうちに都に出いで、進士しんしの試験しけんをとるため勉学べんがくにはげんだのでございます。その間とてかたときも女おんなのことをわすれたことはありませんでした。ですがそうしているあいだにわたしは自分じぶんの心が二つにわかれはじめたことに気がつきました。一つはもともとからあった女を恋こうる心、も一つは女をはなれてひややかに女をみまもる心でございます。このあとの方の心が年ねんとともに大きくなってきましてわたしにこう申もうすのでございます。『あのような女はすてた方がよい。お前まえがこれから出世しゅっせをして、高だかい地位ちいについた場合ばあいあの女は妻つまとしてふさわしくない。心は美しくとも知能ちのうの程度ていどが低ひくい。そして容貌ようぼうもけっして最上さいじょうの美人びじんということはできない。その他素性すじょうの点からいっても財産ざいさんの点からいっても、あの女はお前まえの未来みらいの妻にはふさわしくない。』わたしは、それを心のまよいだ、そんなことに耳をかたむけてはいけないと思いました。けれどもこのいわば不純ふじゅんな心はますことはあってもけっして減じないのでした。今年ことしわたしは進士しんしの試験しけんをとりまして、まちあぐんでいた女のもとに帰ってきました。女はぶじに帰ったわたしをみると狂喜きょうきいたしました。けれどわたしの心はあまりはずまないのでした。ふたり相いだいて樹こかげをさまよいましたときに、むかしこうしてるときこのまま死のうとかまわぬと考かんがえたことを想おもい起こし、それではいまはどうかとひそかに自問じもんしてみますと、わたしの胸むねにはそれをつよく反発はんぱつする声が起こってきました。女はむかしのままの一筋ひとすじの真心まごころをもってわたしを愛してくれるのに、このような分裂ぶんれつした気持きもちを胸に蔵ぞうし、表面ひょうめんだけとりつくろっているのは罪つみであると思いました。それで一思ひとおもいに女をすてようとある日女ひるめの家からの帰途きと、わたしは決心けっしんしたのでございます。よく日永劫えいごう女のもとを去さるべく、早朝そうちょう荷物にもつをまとめて、女にはつげずに、都をさして出発しゅっぱついたしました。しかしいざこうときめてしまってみると、たちきれぬ未練みれんがむくむくと頭をもたげてまいりまして、わたしの後髪うしろがみを力づよくひくのでありました。何くそとわたしは眼めをつむって、何も考かんがえないようにして歩きました。けれどもむだな努力どりょくでございました。その夜も約束やくそくを信じてわたしを待っている女おんなのことを想おもいうかべると、わたしはもはやこらえることができなくなって、岸をはなれたわたし舟ぶねを船頭せんどうにたのんでもとの岸にかえしてもらい、また女のもとに帰ってきてしまったのでした。爾来じらい今日こんにちまで、ずるずると女とともに日を送ってまいりました。ひたむきに愛あいする気にはなれず、そうかといって、一思ひとおもいにすてさる気にもなれません。この二つの心がわたしの胸むねの中でいつもかみあっておりますので、わたしはこんなに憔悴しょうすいいたしてしまったのでございます。ええそうです。せめてあの純真じゅんしんなおしどりの相愛あいするすがたをみていたならば不純ふじゅんな心がいくぶんでもなくなるかと思って、毎日まいにちここにやってきてみつめていたのでございます。」「それではあなたはその不純ふじゅんな心をのぞきたいと思われるのじゃな。」ときき終わって老人ろうじんはたずねた。そして若者わかもののうなずいたのをみて語をついでいった。「真実しんじつにそう思おもいなさるならば、わたしの力でそうしてあげられないこともない。」若者わかものの面おもてには歓喜かんきの色がかがやきはじめた。老人ろうじんはしゃべりつづけた。「けれどもそれにはあなたは恋人こいびとといっしょにおしどりにならなければならない。」「え、おしどりに。」と若者わかものはおどろいてさけんだ。「そうじゃ」と老人ろうじんは低ひくい力のこもった声でいった。「おしどりとならなくてはわしの力はおよばないからじゃ。」「おしどりになればあなたの笛ふえの音ねをきくことができるのでございますね。」「もちろんきくことができる。」若者わかものはそれからしばらく深くうなだれて考かんがえこんだがやがて面おもてをあげて、きっぱりといった。「なりましょう。おしどりになりましょう。」「それでは今晩こんばん月が出てから、恋人こいびとをともなってここへ出ていらっしゃい。」と老人ろうじんはいった。若者わかものは約束やくそくをした。老人ろうじんのすがたは若者わかものの眼めの前で、だんだんうすれはじめ、一抹いちまつのもやのようなものとなり、やがて肉眼にくがんにはみえないものになってしまった。若者わかものはそのみごとな仙術せんじゅつにみとれてしばらく呆然ぼうぜんとたたずんでいたが、やがて冠かんむりのひもをむすびなおすと、いそいそと帰っていった。夜になり月がのぼって、池の面が白くかぎろいはじめるころ、若者わかものは恋人こいびとをともなって、芝草しばくさの上の露つゆをふみながらふたたび泉いずみのほとりにやってきた。昼間ちゅうかんのおしどりはもはやどこかの岩いわかげに体からだをすりよせてねむっているらしく、水の面をかきみだすものは何もなく、ただ夜もやまぬふきあげの水が、のぼってちって露玉つゆだまとなり、静しずかに落おちてちりめんのようなさざなみを、しかも池の中央ちゅうおうのあたりにだけただよわせていた。水みずぎわではかじかが二三にさんびきかたいまるい木の珠数玉じゅずだまをかちあわせるようななごやかなよい声でけろけろとないていた。若者わかものはあたりをみまわしたがまだ老人ろうじんの姿すがたはみえなかった。そこで池のかたわらの一本いっぽんの木犀もくせいのかげによって、夜露よつゆをよけながら老人ろうじんを待まつことにした。娘むすめは手をさしのべて木犀もくせいの花をたおり、若者わかもののうしろにまわって冠にさしてやり、自分じぶんの頭髪とうはつにもかざした。ふたりが肩かたをよせあってそこにしゃがむと、ふたりの頭はくすぶりはじめた。「もし仙人せんにんがわたしをおしどりにしてこの泉いずみの上にはなったならばお前まえはどうするつもりか。」と若者わかものは池の面おもてから眼めをはなさないでいった。「わたしもそのお方にお願ねがいしておしどりにしていただきます。」と恋人こいびとは、暖あたたかい手を若者わかものの手の上にかさねていった。「それは真実しんじつの心か。」と若者わかものは念をおした。「どうしていつわりなど申しましょう」と恋人こいびとはかさねた手にやさしく力をこめた。「もしわたしのようなものはおしどりにしていただけないなら、鴨かもにでも鳰におにでもしていただいてあなたのおそばにまいりましょう。」するとそのとき、ふきあげのかたわらにもう一つのふきあげのように白じろいしぶきの柱が立ちあがって、それが軽羅けいらの幕まくのように広がって流ながれゆき、池の水みずぎわにいたるとその幕のなかから昼間ちゅうかんの老人ろうじんが現あらわれてきた。何も知らない若者わかものの恋人こいびとはそれをみると恐怖きょうふの叫さけびを発しようとしたが、若者わかものは手をつよくにぎりしめてそれを制した。「やってまいりました。」と若者わかものは立ちあがって老人ろうじんの方へ歩みよりながらいった。「それでは一刻いっこくも早く、ふたりをおしどりにしてください。」老人ろうじんはうなずいてまず若者わかものを、月光げっこうが何なにものにもさえぎられていない美うつくしい芝生しばふの上につれていった。若者わかものの背後はいごには何なにものにもまさって黒ぐろい彼かれの影法師かげぼうしが、悪魔あくまのように不気味きみな輪廓りんかくをくっきり芝生しばふの上に画えがいていた。老人ろうじんは若者わかものの背後うしろにまわってそのかげのはしを両足りょうあしでしっかりふまえた。「さあ池の方へ歩いてゆきなさい。」若者わかものはいわれた通とおり歩こうとした。けれども異様いような力が背後うしろからひっぱっていることに気がついた。「歩きなさい。」と老人ろうじんは命令れいするようにいった。小鳥ことりが鳥とりもちからはなれようとするように、若者わかものは手足しゅそくをばたばたやって努力どりょくした。そして満身まんしんに鉄のような力をこめて、やっと一足歩そくほいたとき、若者わかものはその影法師かげぼうしからはなれることができた。そして異様いような力から解放かいほうされた若者わかものは、黒ぐろい影法師ほうしを老人ろうじんの足あしもとにのこしておいたまま、池の方へ下っていって、汀みぎわまでくると立ちどまった。「水の中へはいってゆきなさい。」と老人ろうじんの声が隙間げきかんをあたえずあとから追っかけてきた。若者わかものは観念かんねんの眼めをとじて岩の上から水の上にとんだ。「あっ」という恋人こいびとの叫さけび声を耳にしたと思ったつぎの瞬間しゅんかん、若者わかものは自分じぶんの体からだが羽根はねぶとんのようにかるがると水の上に浮かんでいることに気がついた。彼かれは眼を開いて自分じぶんの体をみるともはや一羽わのおしどりとなっていた。おどろきとおそれにうたれて気を失っていた恋人こいびとは、やがておのれに帰かえると、老人ろうじんが自分じぶんのみをおき去ざりにして水中すいちゅうに消えていくことをおそれて、まろぶように老人ろうじんのところにかけより、膝ひざにすがった。「お願ねがいです。わたしだけをのこしておいてくださいますな。わたしも水鳥すいちょうにしてください。おしどりがいけませぬならば鴨かもでも鳰におでもかまいません。」「よろしい」と老人ろうじんは答えた。「あの若者わかものがとびこんだところから、あなたもとびこみなさい。」娘むすめは躊躇ちゅうちょしなかった。彼女かのじょは小ちいさな心臓しんぞうを、両掌りょうてににぎられた小鳥ことりのように、ときめかせながら岩のところに下りていった。岩の上には、若者わかものの衣とくつとそして木犀もくせいの花のかざされた冠かんむりがあった。娘は若者わかもののくつのかたわらに、おのれの小ちいさいぬいとりのあるくつをならべてぬぐと、青あおいもすそをあとにひいて水面すいめんにとんだ。そしてまもなくおすのおしどりのかたわらに、やや小ちいさいめすのおしどりが、くちばしでおのれの羽毛うもうをととのえながらよりそっていた。二羽わのこの美うつくしい水鳥すいちょうはお互たがいに心いっぱいに愛の喜よろこびを感かんじているとみえて、小ちいさい二つの尾羽おばねはきそうようにふられていた。それからまたしばらくするとおしどりたちはくちばしを胸毛むなげの中に収めて、黝あおぐろい丸まるい眼めをおのおのとじた。水の底から老人ろうじんのふきならす、妙たえなる笛ふえの音色ねいろがひそやかにのぼりはじめたらしい。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「新装版 新美南吉童話集 3 花のき村と盗人たち」大日本図書

   2012(平成24)年12月1日第1刷発行

入力:岩崎準子

校正:持田和踏

2022年2月25日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
岩崎準子
Proofread by (校正)
持田和踏

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