Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

交尾

こうび

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その一

星空ほしぞらを見上みあげると、音もしないで何匹も蝙蝠こうもりが飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間しゅんかん瞬間しゅんかん光を消けす星ほしの工合ぐあいから、気味きみの悪わるい畜類ちくるいの飛んでいるのが感かんじられるのである。

人ひとびとは寐ね静まっている。――私の立っているのは、半なかば朽ちかけた、家の物干ほし場ばだ。ここからは家の裏横手よこての露路ろじを見通みとうしすことが出来できる。近所きんじょは、港に舫もやった無数むしゅの廻船かいせんのように、ただぎっしりと建て詰こんだ家の、同じように朽ちかけた物干ものほしばかりである。私はかつて独逸ドイツのペッヒシュタインという画家がかの「市に嘆けるクリスト」という画の刷すり物ものを見たことがあるが、それは巨大きょだいな工場こうば地帯ちたいの裏地うらじのようなところで跪ひざまずいて祈っているキリストの絵像えぞうであった。その連想れんそうから、私は自分じぶんの今出いまでている物干ものほしがなんとなくそうしたゲッセマネのような気がしないでもない。しかし私はキリストではない。夜中やちゅうになって来くると病気びょうきの私の身体からだは火照ほてり出だし、そして眼が冴さえる。ただ妄想もうそうという怪獣かいじゅうの餌食えじきとなりたくないためばかりに、私はここへ逃げ出して来て、少々身体しんたいには毒な夜露よつゆに打たれるのである。

どの家も寐静まっている。時ときどき力のない咳せきの音が洩もれて来くる。昼間ちゅうかんの知識ちしきから、私はそれが露路ろじに住すむ魚屋さかなやの咳であることを聞ききわける。この男はもう商売しょうばいも辛つらいらしい。二階にかいに間借まがりをしている男が、一度ひとたび医者いしゃに見てもらえというのにどうしても聴きかない。この咳はそんな咳じゃないと云って隠そうとする。二階にかいの男がそれを近所きんじょへ触れて歩あるく。――家賃やちんを払はらう家が少なくて、医者いしゃの払はらいが皆目かいもく集まらないというこの町では、肺病はいびょうは陰忍な戦たたかいである。突然とつぜんに葬儀そうぎ自動じどう車が来くる。誰もが死んだという当人とうにんのいつものように働いていた姿をまだ新あたらしい記情のなかに呼よび起おこす。床についていた間というのは、だからいくらもないのである。実際じっさいこんな生活せいかつでは誰でもがみずから絶望ぜつぼうし、みずから死ななければならないのだろう。

魚屋さかなやが咳せいている。可哀かわいそうだなあと思おもう。ついでに、私の咳がやはりこんな風に聞きこえるのだろうかと、私の分として聴いて見みる。

先さきほどから露路ろじの上には盛んに白じろいものが往来おうらいしている。これはこの露路ろじだけとは云わない。表通おもてどうりも夜更よふけになるとこの通とおりである。これは猫だ。私はなぜこの町では猫がこんなに我物顔に道を歩あるくのか考かんがえて見たことがある。それによると第一だいいちこの町には犬がほとんどいないのである。犬を飼かうのはもう少すこし余裕よゆうのある住宅じゅうたくである。その代り通とおりの家では商品しょうひんを鼠ねずみにやられないために大低猫を飼っている。犬がいなくて猫が多おおいのだから自然じねん往来おうらいは猫が歩あるく。しかし、なんといっても、これは図々しい不思議ふしぎな気のする深夜しんやの風景ふうけいにはちがいない。彼らはブールヴァールを歩あるく貴婦人ふじんのように悠々ゆうゆうと歩あるく。また市役所やくしょの測量そくりょう工夫こうふのように辻つじから辻へ走ってゆくのである。

隣の物干ものほしの暗ぐらい隅すみでガサガサという音が聞きこえる。セキセイだ。小鳥ことりが流行はやった時分じぶんにはこの町では怪我人けがにんまで出した。「一体いったい誰がはじめにそんなものを欲ほしいと云い出したんだ」と人ひとびとが思おもう時分じぶんには、尾羽おは打ち枯らしたいろいろな鳥が雀すずめに混って餌えさを漁あさりに来た。もうそれも来なくなった。そして隣となりの物干ものほしの隅には煤すすで黒くなった数匹のセキセイが生き残っているのである。昼間ちゅうかんは誰もそれに注意ちゅういを払おうともしない。ただ夜中やちゅうになって変へんてこな物音ものおとをたてる生物せいぶつになってしまったのである。

この時私は不意ふいに驚ろいた。先さきほどから露路ろじをあちらへ行ったりこりこちらへ来たり、二匹の白猫しろねこが盛んに追っかけあいをしていたのであるが、この時ちょうど私の眼の下で、不意ふいに彼らは小ちいさな唸うなり声をあげて組打くみうちをはじめたのである。組打くみうちと云ってもそれは立って組打くみうちをしているのではない。寝転ねころんで組打くみうちをしているのである。私は猫の交尾こうびを見たことがあるがそれはこんなものではない。また仔猫こねこ同志どうしがよくこんなにしてふざけているがそれでもないようである。なにかよくはわからないが、とにかくこれは非常ひじょうに艶なまめかしい所作しょさであることは事実じじつである。私はじっとそれを眺ながめていた。遠とおくの方から夜警やけいのつく棒の音がして来くる。その音のほかには町からは何どの物音ものおともしない。静しずかだ。そして私の眼の下では彼らがやはりだんまりで、しかも実げに余念よねんなく組打くみうちをしている。

彼らは抱き合っている。柔らかく噛かみ合っている。前肢ぜんしでお互たがいに突張つっぱり合あいをしている。見ているうちに私はだんだん彼らの所作しょさに惹ひき入れられていた。私は今彼らが噛み合っている気味きみの悪わるい噛み方や、今彼らが突っ張っている前肢ぜんしの――それで人の胸を突つっ張ぱるときの可愛かわいい力やを思おもい出でした。どこまでも指を滑すべり込ませる温あたたかい腹の柔毛にこげ――今一方いっぽうの奴やつはそれを揃そろえた後肢あとあしで踏んづけているのである。こんなに可愛い、不思議ふしぎな、艶なまめかしい猫の有様ありさまを私はまだ見たことがなかった。しばらくすると彼らはお互たがいにきつく抱き合ったまま少すこしも動かなくなってしまった。それを見ていると私は息が詰って来くるような気がした。と、その途端とたん露路ろじのあちらの端から夜警やけいの杖つえの音が急に露路ろじへ響いて来た。

私はいつもこの夜警やけいが廻まわって来くると家のなかへはいってしまうことにしていた。夜中やちゅうおそく物干ものほしへ出ている姿などを私は見られたくなかった。もっとも物干ものほしの一方いっぽうの方へ寄っていれば見られないで済すむのであるが、雨戸あまどが開いている、それを見て大おおきい声を立てて注意ちゅういをされたりするとなおのこと不名誉めいよなので、彼がやって来くると匆々そうそう家のなかへはいってしまうのである。しかし今夜こんやは私は猫がどうするか見届けたい気持きもちでわざと物干ものほしへ身体しんたいを突つき出だしていることにきめてしまった。夜警やけいはだんだん近づいて来くる。猫は相変わらず抱き合ったまま少すこしも動こうとしない。この互たがいに絡からみ合っている二匹の白猫しろねこは私をして肆ほしいままな男女なんにょの痴態ちたいを幻想げんそうさせる。それから涯はてしのない快楽かいらくを私は抽ひき出すことが出来できる。……

夜警やけいはだんだん近づいて来た。この夜警やけいは昼は葬儀そうぎ屋をやっている、なんとも云えない陰気いんきな感かんじのする男である。私は彼が近づいて来くるにつれて、彼がこの猫を見てどんな態度たいどに出でるか、興味きょうみを起おこして来た。彼はやっともうあと二間ほどのところではじめてそれに気がついたらしく、立ち留った。眺ながめているらしい。彼がそうやって眺ながめているのを見ていると、どうやら私の深夜しんやの気持きもちにも人と一緒いっしょにものを見物けんぶつしているような感かんじが起って来た。ところが猫はどうしたのかちっとも動かない。まだ夜警やけいに気がつかないのだろうか。あるいはそうかも知れない。それとも多寡たかを括くくってそのままにしているのだろうか。それはこういう動物どうぶつの図々しいところでもある。彼らは人が危害きがいを加くわえる気遣きづかいがないと落ち着き払って少すこしぐらい追ってもなかなか逃げ出さない。それでいて実げに抜ぬけ目めなく観察かんさつしていて、人にその気配きはいが兆きざすと見みるやたちまち逃にげ足あしに移うつる。

夜警やけいは猫が動かないと見みるとまた二足三足近づいた。するとおかしいことにはニつの首がくるりと振ふり向むけるいた。しかし彼らはまだ抱き合っている。私はむしろ夜警やけいの方が面白くなって来た。すると夜警やけいは彼かの持っている杖をトンと猫の間近まじかで突いて見せた。と、たちまち描は二条にじょうの放射ほうしゃ線となって露路ろじの奥の方へ逃にげてしまった。夜警やけいはそれを見送みおくると、いつものようにつまらなそうに再ふたたび杖を鳴らしながら露路ろじを立ち去ってしまった。物干ものほしの上の私には気づかないで。

その二

私は一度ひとたび河鹿かじかをよく見てやろうと思っていた。

河鹿かじかを見ようと思えばまず大胆だいたんに河鹿かじかの鳴いている瀬のきわまで進んでゆくことが必要ひつようである。これはそろそろ近寄って行っても河鹿かじかの隠がくれてしまうのは同おんなじだからなるべく神速しんそくに行おこなうのがいいのである。瀬のきわまで行ってしまえば今度こんどは身をひそめてじっとしてしまう。「俺おれは石だぞ。俺は石だぞ。」と念じているような気持きもちで少すこしも動かないのである。ただ眼だけはらんらんとさせている。ぼんやりしていれば河鹿かじかは渓たにの石と見みわけにくい色をしているから何も見えないことになってしまうのである。やっとしばらくすると水の中やら石の蔭から河鹿かじかがそろそろと首を擡もたげはじめる。気をつけて見ていると実げにいろんなところから――それが皆申もうし合あわせたように同おんなじぐらいずつ――恐おそる恐おそる顔を出だすのである。すでに私は石である。彼らは等しく恐怖きょうふをやり過ごした体で元のところへあがって来くる。今度こんどは私の一望いちぼうの下に、余儀よぎないところで中断ちゅうだんされていた彼らの求愛きゅうあいが encore されるのである。

こんな風にして真近まじかに河鹿かじかを眺ながめていると、ときどき不思議ふしぎな気持きもちになることがある。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけは人間じんかんが河童かっぱの世界せかいへ行ゆく小説しょうせつを書いたが、河鹿かじかの世界せかいというものは案外あんがい手近てじかにあるものだ。私は一度ひとたび私の眼の下にいた一匹の河鹿かじかから忽然こつぜんとしてそんな世界せかいへはいってしまった。その河鹿かじかは瀬の石と石いしとの間に出来しゅったいた小ちいさい流ながれの前へ立って、あの奇怪きっかいな顔かおつきでじっと水の流ながれるのを見ていたのであるが、その姿が南画なんがの河童かっぱとも漁師りょうしともつかぬ点景てんけい人物じんぶつそっくりになって来た、と思おもう間に彼かの前の小ちいさい流ながれがサーッと広ひろびろとした江に変じてしまった。その瞬間しゅんかん私もまたその天地あめつちの孤客こかくたることを感じたのである。

これはただこれだけの話に過すぎない。だが、こんな時こそ私は最もっとも自然じねんな状態じょうたいで河鹿かじかを眺ながめていたと云い得えるのかもしれない。それより前私は一度ひとたびこんな経験けいけんをしていた。

私は渓へ行って鳴なく河鹿かじかを一匹捕まえて来た。桶おけへ入れて観察しようと思ったのである。桶は浴場よくじょうの桶だった。渓の石を入れて水を湛たたえ、硝子ガラスで蓋ふたをして座敷ざしきのなかへ持ってはいった。ところが河鹿かじかはどうしても自然じねんな状態じょうたいになろうとしない。蠅はえを入れても蠅は水の上へ落おちてしまったなり河鹿かじかとは別の生活せいかつをしている。私は退屈たいくつして湯に出でかけた。そして忘わすれた時分じぶんになって座敷ざしきへ帰って来くると、チャブンという音が桶のなかでした。なるほどと思って早速さそく桶の傍へ行って見みると、やはり先さきほどの通とおり隠がくれてしまったきりで出て来ない。今度こんどは散歩さんぽに出でかける。帰って来くると、またチャブンという音がする。あとはやはり同おんなじことである。その晩は、傍へ置いたまま、私は私で読書どくしょをはじめた。忘わすれてしまって身体しんたいを動うごかすとまた跳とび込んだ。最もっとも自然じねんな状態じょうたいで本を読んでいるところを見られてしまったのである。翌日あくるひ、結局けっきょく彼は「慌あわてて跳とび込こむ」ということを私に教えただけで、身体しんたいへ部屋へや中の埃ほこりをつけて、私が明あけてやった障子そうじから渓の水音みずおとのする方へ跳んで行ってしまった。――これ以後いご私は二度とこの方法ほうほうを繰り返さなかった。彼らを自然じねんに眺ながめるにはやはり渓へ行かなくてはならなかったのである。

それはある河鹿かじかのよく鳴なく日だった。河鹿かじかの鳴なく声は街道かいどうまでよく聞こえた。私は街道かいどうから杉林すぎばやしのなかを通っていつもの瀬のそばへ下りて行った。渓向むかうの木立こだちのなかでは瑠璃るりが美しく囀さえずっていた。瑠璃るりは河鹿かじかと同おなじくそのころの渓間けいかんをいかにも楽たのしいものに思わせる鳥だった。村人むらびとの話ではこの鳥は一つのホラ(山やまあいの木のたくさん繁しげったところ)にはただ一羽しかいない。そして他の瑠璃るりがそのホラへはいって行ゆくと喧嘩けんかをして追おい出だしてしまうと云いう。私は瑠璃るりの鳴なき声ごえを聞きくといつもその話を思い出しそれをもっともだと思った。それはいかにも我と我わが声の反響はんきょうを楽しんでいる者の声だった。その声はよく透とおり、一日中にっちゅう変わってゆく渓あいの日射ひざしのなかでよく響いた。そのころ毎日まいにちのように渓間けいかんを遊あそび恍ほうけていた私はよくこんなことを口ずさんだ。

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First published
「作品」1931(昭和6)年1月
Source edition (底本)
底本:「日本文学全集別巻1現代名作集」河出書房


   1969(昭和44)年5月30日初版発行

入力:kaku

校正:浜野 智

1998年8月28日公開

2003年9月7日修正

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kaku
Proofread by (校正)
浜野智

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