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夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

教育と文芸

きょういくとぶんげい

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私は思いがけなく前から当地とうちの教育きょういく会の御招待しょうたいを受うけました。凡およそ一カ月前げつぜんに御通知つうちがありましたが、私は、その時になって見なければ、出られるか出られぬか分らぬために、直すぐにお答をすることが出来しゅったいませんでした。しかし、御懇切ごこんせつの御招待しょうたいですから義理ぎりにもと思おもいまして体だけ出懸かけて参まいりました。別に面白おもしろいいお話も出来しゅったいません、前ぜん申した通とおり体だけ義理ぎりにもと出でかけたわけであります。

私のやる演題えんだいはこういう教育きょういく会の会場かいじょうでの経験けいけんがないのでこまりました。が、名が教育きょういく会であるし、引受ひきうける私は文学ぶんがくに関係かんけいあるものであるから、教育きょういくと文芸ぶんげいという事にするが能よいと思おもいまして、こういう題にしました。この教育きょういくと文芸ぶんげいというのは、諸君しょくんが主であるからまげて教育きょういくをさきとしたのであります。

よく誤解ごかいされる事がありますので、そんな事があっては済すみませんから、ちょっと注意ちゅういを申述もうしのべて置おきます。教育きょういくといえばおもに学校がっこう教育きょういくであるように思われますが、今私の教育きょういくというのは社会しゃかい教育きょういく及および家庭かてい教育きょういくまでも含んだものであります。

また私のここにいわゆる文芸ぶんげいは文学ぶんがくである、日本にぽんにおける文学ぶんがくといえば先まず小説しょうせつ戯曲ぎきょくであると思います。順序じゅんじょは矛盾むじゅんしましたが、広義こうぎの教育きょういく、殊ことに、徳育とくいくとそれから文学ぶんがくの方面ほうめん殊ことに、小説しょうせつ戯曲ぎきょくとの関係かんけい連絡れんらくの状態じょうたいについてお話致します。日本にぽんにおける教育きょういくを昔と今とに区別べっして相あい比較ひかくするに、昔の教育きょういくは、一種いっしゅの理想りそうを立て、その理想りそうを是非ぜひ実現じつげんしようとする教育きょういくである。しこうして、その理想りそうなるものが、忠とか孝とかいう、一種いっしゅ抽象ちゅうしょうした概念がいねんを直ただちに実際じっさいとして、即すなわち、この世よにあり得えるものとして、それを理想りそうとさせた、即すなわち孔子こうしを本家ほんけとして、全然ぜんぜんその通とおりにならなくともとにかくそれを目めあてとして行ゆくのであります。

なお委くわしくいいますと聖人せいじんといえば孔子こうし、仏ほとけといえば釈迦しゃか、節婦せっぷ貞女ていじょ忠臣ちゅうしん孝子たかこは、一種いっしゅの理想りそうの固かたまりで、世よの中なかにあり得ないほどの、理想りそうを以て進まねばならなかった。親が、子供こどものいう事を聞かぬ時は、二十四孝にじゅうしこうを引ひき出だして子供こどもを戒いましめると、子供こどもは閉口へいこうするというような風であります。それで昔は上の方には束縛そくばくがなくて、上の下に対たいする束縛そくばくがある、これは能よくない、親が子に対たいする理想りそうはあるが子が親に対たいする理想りそうはなかった。妻が夫に臣が君に対たいする理想りそうはなかったのです。即すなわち忠臣ちゅうしん貞女ていじょとかいうが如きものを完全かんぜんなものとして孝子たかこは親の事、忠臣ちゅうしんは君の事、貞女ていじょは夫の事をばかり考かんがえていた。誠にえらいものである。その原はら因は科学的がくてき精神せいしんが乏しかったためで、その理想りそうを批評ひひょうせず吟味ぎんみせずにこれを行おこなって行いったというのである。また昔は階級かいきゅう制度せいどが厳しいために過去かこの英雄えいゆう豪傑ごうけつは非常ひじょうにえらい人のように見えて、自分じぶんより上の人は非常ひじょうにえらくかつ古人こじんが世よの中なかに存在そんざいし得えるという信仰しんこうがあったため、また、一ひとつは所が隔へだたっていて目まのあたり見なれぬために遠隔えんかくの地の人のことは非常ひじょうに誇大こだいして考かんがえられたものである、今は交通こうつうが便利べんりであるためにそんな事がない、私などもあまり飛び出さないと大家たいかと見られるであろう。

さて当時とうじは理想りそうを目前もくぜんに置おき、自分じぶんの理想りそうを実現じつげんしようと一種いっしゅの感激かんげきを前に置いてやるから、一種いっしゅの感激かんげき教育きょういくとなりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒じょうしょの教育きょういくでありました。なんでも出来できると思おもう、精神一到せいしんいっとう何事なにごとか不成ならざらんというような事を、事実じじつと思っている。意気いき天を衝つく。怒髪どはつ天をつく。炳へいとして日月じつげつ云々うんぬんという如き、こういう詞ことばを古人こじんは盛さかんに用いた。感激かんげき的というのはこんな有様ありさまで情緒じょうしょ的教育きょういくでありましたから一般いっぱんの人の生活せいかつ状態じょうたいも、エモーショナルで努力どりょく主義しゅぎでありました。そういう教育きょういくを受うける者は、前のような有様ありさまでありますが社会しゃかいは如何どうかというと、非常ひじょうに厳格げんかくで少すこしのあやまちも許さぬというようになり、少すこしく申訳もうしわけがなければ坊主ぼうずとなり切腹せっぷくするという感激かんげき主義しゅぎであった、即すなわち社会しゃかいの本能ほんのうからそういうことになったもので、大体だいたいよりこれが日にち本ほんの主眼しゅがんとする所でありました、それが明治あきはるになって非常ひじょうに異ことなってきました。

四十しじゅう余年間ねんかんの歴史れきしを見みると、昔は理想りそうから出立しゅったつした教育きょういくが、今は事実じじつから出発はっする教育きょういくに変化へんかしつつあるのであります、事実じじつから出発はっする方は、理想りそうはあるけれども実行じっこうは出来しゅったいぬ、概念がいねん的の精神せいしんに依って人は成立せいりつする者でない、人間じんかんは表裏ひょうりのあるものであるとして、社会しゃかいも己おのれも教育きょういくするのであります。昔は公こうでも私しでも何でも皆孝で押し通したものであるが今は一面いちめんに孝があれば他面ためんに不孝ふこうがあるものとしてやって行ゆく。即すなわち昔は一元かずもと的、今は二元にげん的である、すべて孝で貫き忠で貫つらぬく事はできぬ。これは想像そうぞうの結果けっかである。昔の感激かんげき主義しゅぎに対して今の教育きょういくはそれを失わする教育きょういくである、西洋せいようでは迷まよいより覚さめるという、日本にぽんでは意味いみが違たがうが、まあディスイリュージョン、さめる、というのであります。なぜ昔はそんな風であったか。話は余談よだんに入いるが、独逸ドイツの哲学者がくしゃが概念がいねんを作って定義さだよしを作ったのであります。しかし巡査じゅんさの概念がいねんとして白じろい服を着てサーベルをさしているときめると一面いちめんには巡査じゅんさが和服わふくで兵児帯へこおびのこともあるから概念がいねんできめてしまうと窮屈きゅうくつになる。定義さだよしできめてしまっては世よの中なかの事がわからなくなると仏国ふつこくの学者がくしゃはいうている。

物は常に変化へんかして行ゆく、世よの中なかの事は常に変化かする、それで孔子こうしという概念がいねんをきめてこれを理想りそうとしてやって来たものが後にこれが間違であったということを悟さとるというような場合ばあいも出来しゅったいて来くる。こういう変化へんかはなぜ起ったか、これは物理化学りかがく博物はくぶつなどの科学かがくが進歩しんぽして物をよく見て、研究けんきゅうして見みる。こういう科学的がくてき精神せいしんを、社会しゃかいにも応用おうようして来くる。また階級かいきゅうもなくなる交通こうつうも便利べんりになる、こういう色々な事情じじょうからついに今日きょうの如き思想しそうに変化へんかして来たのであります。

道徳どうとく上の事で、古人こじんの少すこしもゆるさなかったことを、今の人はよほど許容きょようする、我儘わがままをも許ゆるす、社会しゃかいがゆるやかになる、畢竟ひっきょう道徳どうとく的価値かちの変化へんかという事が出来しゅったいて来た。即すなわち自分じぶんというものを発揮はっきしてそれで短所たんしょ欠点けってん悉ことごとくあらわす事をなんとも思わない。そして無理むりの事がなくなる。昔は負惜まけおしみをしたものだ、残酷ざんこくな事も忍んだものだ。今はそれが段々なくなって、自分じぶんの弱点じゃくてんをそれほど恐おそれずに世よの中なかに出だす事を何とも思わない。それで古いにしえの人の弊へいはどんな事かというと、多少たしょう偽いつわりの点がありました。今の人は正直しょうじきで自分じぶんを偽らずに現あらわす、こういう風で寛容かんよう的精神せいしんが発達はったつして来た。しこうして社会しゃかいもまたこれを容いれて来たのであります。昔は一遍いっぺん社会しゃかいから葬ほうむられた者は、容易たやすいに恢復かいふくする事が出来しゅったいなかったが、今日きょうでは人の噂も七十しちじゅう五日という如く寛大かんだいとなったのであります。社会しゃかいの制裁せいさいが弛ゆるんだというかも知れませんが一方いっぽうからいいましたならば、事実じじつにそういう欠点けってんのあり得える事を二元にげん的に認したためて、これに寛容かんよう的の態度たいどを示したのであります。畢竟ひっきょう無理むりがなくなり、概念がいねんの束縛そくばくがなくなり、事実じじつが現あらわれたのであります。昔スパルタの教育きょういくに、狐を隠かくしてその狐が自分じぶんの腸はらわたをえぐり出しても、なお黙っていたということがあるが、今はそういう痩我慢やせがまんはなくなったのである。現今げんこんの教育きょういくの結果けっかは自分じぶんの特点をも露骨ろこつに正直しょうじきに人の前に現あらわす事を非常ひじょうなる恥辱ちじょくとはしないのであります。これは事実じじつという第一だいいちの物が一元かずもと的でないという事を予あらかじめ許ゆるすからである。私の家へよく若わかい者が訪ねて参まいりますがその学生がくせいが帰って手紙てがみを寄よこす。その中にあなたの家を訪ねた時に思いきって這入はいろうかイヤ這入はいるまいかと暫しばらく躊躇ちゅうちょした、なるべくならお留守るすであればよい、更さらに逢わぬといってくれれば可よいと思ったというような露骨ろこつな事が書いてある。昔私らの書生しょせいの頃には、人を訪問ほうもんしていなければ可いいがと思おもうてもそういう事をその人の前に告白こくはくするような正直しょうじきな実際じっさい的な事はしなかったものである。痩我慢がまんをして実は堂々たるものの如く装よそおって人の前にもこれを吹聴ふいちょうしたのである。感激かんげき的教育きょういく概念がいねんに囚とらわれたる薫化くんかがこういう不正ふせい直な痩我慢がまん的な人間じんかんを作り出したのである。

さて一方いっぽう文学ぶんがくを攷察こうさつして見まするにこれを大別たいべつしてローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類しゅるいとすることが出来できる、前者ぜんしゃは適当てきとうの訳字やくじがないために私が作って浪漫ろまん主義しゅぎとして置おきましたが、後者こうしゃのナチュラリズムは自然じねん派と称しております。この両者りょうしゃを前に申述しんじゅつべた教育きょういくと対照たいしょういたしますと、ローマンチシズムと、昔の徳育とくいく即すなわち概念がいねんに囚れたる教育きょういくと、特徴とくちょうを同おなじゅうし、ナチュラリズムと現今げんこんの事実じじつを主とする教育きょういくと、相通かようのであります。以前いぜん文芸ぶんげいは道徳どうとくを超絶ちょうぜつするという議論ぎろんがあり、またこれを論じた大家たいけもあったのでありますけれども、これは大おおいなる間違で、なるほど道徳どうとくと文芸ぶんげいは接触せっしょくしない点もあるけれども、大部分ぶぶんは相連あいつらなっている。ただ僅かに倫理りんりと芸術げいじゅつと両立りょうりつせないで、どちらかを捨てねばならぬ場合ばあいがないではありません。例たとえば私がこの机を推している、何時いつしかこの机と共に落おちたとします。この落おちたという事実じじつに対して、諸君しょくんは必かならず笑われるに違いない。しかし倫理りんり的に申したならば、人が落おちたというに笑わらうはずがない、気きの毒どくだという同情どうじょうがあって然しかるべきである、殊ことに私のような招かれて来た者に対たいする礼儀らいぎとしても笑わらうのは倫理りんり的でない事は明あきらかである。けれども笑わらうという事と、気きの毒どくだと思おもう事と、どちらか捨てねばならぬ場合ばあいに、滑稽こっけい趣味しゅみの上にこれを観賞しょうするは、一種いっしゅの芸術げいじゅつ的の見方みかたであります。けれども私が、脳振盪のうしんとうを起おこして倒たおれたとすれば、諸君しょくんの笑わらいは必かならず倫理りんり的の同情どうじょうに変へんずるに違ちげいありますまい。こういう風に或程度ていどまで芸術げいじゅつと倫理りんりと相離るる部分ぶぶんはあるけれども、最後さいごまたは根柢こんていには倫理りんり的認容にんようがなければならぬのであります。従って小説しょうせつ戯曲ぎきょくの材料ざいりょうは七分まで、徳義とくぎ的批判ひはんに訴うったえて取捨選択しゅしゃせんたくせられるのであります。恋を描えがくにローマン主義しゅぎの場合ばあいでは途中とちゅうで、単たんに顔を合あわせたばかりで直すぐに恋情れんじょうが成立なりたち、このために盲目めくらになったり、跛足ちんばになったりして、煩悶懊悩はんもんおうのうするというようなことになる。しかしこんな事実じじつは、実際じっさいあり得ない事である。其処そこが感激派げきはの小説しょうせつで、或ある情緒じょうしょを誇大たいして、即すなわち抽象ちゅうしょう的理想りそうを具体ぐたい化したようなものを作り上げたのであります、事実じじつからは遠とおいけれど感激かんげきは多おおいのであります。

ローマンチックの道徳どうとくは何となしに対象たいしょう物をして大きく偉く感かんじさせる。ナチュラリズムの道徳どうとくは、自己じこの欠点けってんを暴露ばくろさせる正直しょうじきな可愛かわいらしい所がある。

ローマンチシズムの芸術げいじゅつは情緒じょうしょ的エモーショナルで人をして偉く大きく思わせるし、ナチュラリズムの芸術げいじゅつは理智まさとも的で、正直しょうじきに実際じっさいを思わしめる。即すなわち文学ぶんがく上から見てローマンチシズムは偽いつわりを伝つたえるがまた人の精神せいしんに偉大いだいとか崇高すうこうとかの現象げんしょうを認したためしめるから、人の精神せいしんを未来みらいに結合けつごうさする。ナチュラリズムは、材料ざいりょうの取扱とりあつかい方が正直しょうじきで、また現在げんざいの事実じじつを発揮はっきさすることに勉つとむるから、人の精神せいしんを現在げんざいに結合けつごうさする、例たとえば人間じんかんを始はじめから不完ふかん全な物と見て人の欠点けってんを評したるものである。ローマンチシズムは、己おのれ以上いじょうの偉大いだいなるものを材料ざいりょうとして取扱とりあつかいうから、感激かんげき的であるけれども、その材料ざいりょうが読よむ者聞きく者には全く、没交渉ぼつこうしょうで印象いんしょうにヨソヨソしい所がある、これに引ひき換かえてナチュラリズムは、如何いかに汚ぎたない下らないものでも、自分じぶんというものがその鏡に写って何だか親しくしみじみと感得かんとくせしめる。能よく能く考かんがえて見みると人というものは、平時へいじにおいては軽微けいびの程度ていどにおけるローマンチシズムの主張しゅちょう者で、或者を批評ひひょうしたり要求ようきゅうするに自己じこの力以上いじょうのものを以てしている。

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Source edition (底本)
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店


   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行

   1998(平成10)年7月24日第26刷発行

入力:柴田卓治

校正:福地博文

1999年8月4日公開

2003年10月9日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
柴田卓治
Proofread by (校正)
福地博文

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