Nihoner

夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

永日小品

えいじつしょうひん

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元日

雑煮ぞうにを食って、書斎しょさいに引ひき取とると、しばらくして三四さんし人来た。いずれも若わかい男である。そのうちの一人ひとりがフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮えんりょする傾かたむきがある。あとのものは皆和服わふくで、かつ不断着ふだんぎのままだからとんと正月しょうがつらしくない。この連中れんじゅうがフロックを眺ながめて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠しょうこである。自分じぶんも一番いちばんあとで、やあと云った。

フロックは白じろい手巾ハンケチを出だして、用もない顔を拭ふいた。そうして、しきりに屠蘇とそを飲んだ。ほかの連中れんじゅうも大おおいに膳ぜんのものを突つッついている。ところへ虚子きょしが車で来た。これは黒ぐろい羽織はおりに黒ぐろい紋付もんつきを着て、極きわめて旧式きゅうしきにきまっている。あなたは黒紋付もんつきを持っていますが、やはり能のうをやるからその必要ひつようがあるんでしょうと聞いたら、虚子きょしが、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡うたいませんかと云い出した。自分じぶんは謡ってもようござんすと応じた。

それから二人ふたりして東北とうぼくと云いうものを謡った。よほど以前いぜんに習っただけで、ほとんど復習ふくしゅうと云いう事をやらないから、ところどころはなはだ曖昧あいまいである。その上、我ながら覚束おぼつかない声が出た。ようやく謡ってしまうと、聞いていた若わかい連中れんじゅうが、申し合せたように自分じぶんをまずいと云い出した。中にもフロックは、あなたの声はひょろひょろしていると云った。この連中れんじゅうは元来がんらい謡うたいのうの字も心得こころえないもの共である。だから虚子きょしと自分じぶんの優劣ゆうれつはとても分らないだろうと思っていた。しかし、批評ひひょうをされて見みると、素人しろうとでも理の当然とうぜんなところだからやむをえない。馬鹿ばかを云えという勇気ゆうきも出なかった。

すると虚子きょしが近来きんらい鼓つづみを習っているという話はなしを始はじめた。謡のうの字も知らない連中れんじゅうが、一つ打って御覧ごらんなさい、是非ぜひ御聞かせなさいと所望しょもうしている。虚子きょしは自分じぶんに、じゃ、あなた謡って下さいと依頼いらいした。これは囃はやしの何物なにものたるを知らない自分じぶんにとっては、迷惑めいわくでもあったが、また斬新ざんしんという興味きょうみもあった。謡うたいましょうと引ひき受うけた。虚子きょしは車夫しゃふを走らして鼓を取とり寄よせた。鼓がくると、台所だいどころから七輪しちりんを持って来さして、かんかんいう炭火すみびの上で鼓の皮を焙あぶり始はじめた。みんな驚いて見ている。自分じぶんもこの猛烈もうれつな焙りかたには驚いた。大丈夫だいじょぶですかと尋たずねたら、ええ大丈夫だいじょぶですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾はじいた。ちょっと好い音ねがした。もういいでしょうと、七輪しちりんからおろして、鼓の緒おを締しめにかかった。紋服もんぷくの男が、赤あかい緒をいじくっているところが何となく品ひんが好い。今度こんどはみんな感心かんしんして見ている。

虚子きょしはやがて羽織はおりを脱いだ。そうして鼓を抱かい込こんだ。自分じぶんは少すこし待ってくれと頼んだ。第一だいいち彼がどこいらで鼓を打うつか見当けんとうがつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子きょしは、ここで掛声かけごえをいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇ねんごろに説明せつめいしてくれた。自分じぶんにはとても呑のみ込こめない。けれども合点がてんの行ゆくまで研究けんきゅうしていれば、二三にさん時間じかんはかかる。やむをえず、好い加減かげんに領承りょうしょうした。そこで羽衣はごろもの曲くせを謡うたい出した。春霞はるがすみたなびきにけりと半行ほど来くるうちに、どうも出が好くなかったと後悔こうかいし始はじめた。はなはだ無勢力せいりょくである。けれども途中とちゅうから急に振るい出だしては、総体そうたいの調子ちょうしが崩くずれるから、萎靡因循いびいんじゅんのまま、少すこし押おして行ゆくと、虚子きょしがやにわに大おおきな掛声かけごえをかけて、鼓つづみをかんと一つ打った。

自分じぶんは虚子きょしがこう猛烈もうれつに来ようとは夢にも予期よきしていなかった。元来がんらいが優美ゆうびな悠長ゆうちょうなものとばかり考かんがえていた掛声かけごえは、まるで真剣しんけん勝負しょうぶのそれのように自分じぶんの鼓膜こまくを動かした。自分じぶんの謡うたいはこの掛声かけごえで二三にさん度波を打った。それがようやく静まりかけた時に、虚子きょしがまた腹いっぱいに横合よこあいから威嚇おどかした。自分じぶんの声は威嚇いかくされるたびによろよろする。そうして小さくなる。しばらくすると聞いているものがくすくす笑わらい出した。自分じぶんも内心ないしんから馬鹿馬鹿しくなった。その時フロックが真先まっさきに立って、どっと吹ふき出でるした。自分じぶんも調子ちょうしにつれて、いっしょに吹ふき出でるした。

それからさんざんな批評ひひょうを受けた。中にもフロックのはもっとも皮肉ひにくであった。虚子きょしは微笑しながら、仕方なしに自分じぶんの鼓つづみに、自分じぶんの謡を合あわせて、めでたく謡うたい納おさめた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云って車に乗って帰って行った。あとからまたいろいろ若わかいものに冷かされた。細君さいくんまでいっしょになって夫を貶くさした末、高浜たかはまさんが鼓を御打うちなさる時、襦袢じゅばんの袖そでがぴらぴら見えたが、大変たあいへん好い色だったと賞ほめている。フロックはたちまち賛成さんせいした。自分じぶんは虚子きょしの襦袢じばんの袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。

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First published
1909(明治42)年1~3月
Source edition (底本)
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房

   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月

入力:柴田卓治

校正:大野晋

1999年6月14日公開

2011年1月13日修正

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Typed by (入力)
柴田卓治
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大野晋

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