Nihoner

夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

硝子戸の中

がらすどのうち

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一

硝子戸ガラスどの中うちから外を見渡みわたすと、霜除しもよけをした芭蕉ばしょうだの、赤あかい実みの結なった梅もどきの枝だの、無遠慮えんりょに直立ちょくりつした電信でんしん柱だのがすぐ眼に着つくが、その他にこれと云って数かぞえ立たてるほどのものはほとんど視線しせんに入って来こない。書斎しょさいにいる私の眼界がんかいは極きわめて単調たんちょうでそうしてまた極きわめて狭せまいのである。

その上私は去年こぞの暮から風邪かぜを引いてほとんど表へ出ずに、毎日まいにちこの硝子しょうし戸の中にばかり坐すわっているので、世間せけんの様子ようすはちっとも分らない。心持こころもちが悪わるいから読書どくしょもあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

しかし私の頭は時々動うごく。気分きぶんも多少たしょうは変かわる。いくら狭せまい世界せかいの中でも狭せまいなりに事件じけんが起って来くる。それから小ちいさい私と広ひろい世よの中なかとを隔離かくりしているこの硝子しょうし戸の中へ、時々人が入って来くる。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為したりする。私は興味きょうみに充みちた眼をもってそれらの人を迎むかえたり送ったりした事さえある。

私はそんなものを少すこし書かきつづけて見ようかと思おもう。私はそうした種類しゅるいの文字もんじが、忙いそがしい人の眼に、どれほどつまらなく映うつるだろうかと懸念けねんしている。私は電車でんしゃの中でポッケットから新聞しんぶんを出だして、大おおきな活字かつじだけに眼を注そそいでいる購読こうどく者の前に、私の書かくような閑散かんさんな文字もんじを列ならべて紙面しめんをうずめて見みせるのを恥はずかしいものの一つに考かんがえる。これらの人々は火事かじや、泥棒どろぼうや、人殺ひとごろしや、すべてその日その日の出来事できごとのうちで、自分じぶんが重大じゅうだいと思おもう事件じけんか、もしくは自分じぶんの神経しんけいを相当そうとうに刺戟しげきし得える辛辣しんらつな記事きじのほかには、新聞しんぶんを手に取どる必要ひつようを認したためていないくらい、時間じかんに余裕よゆうをもたないのだから。――彼らは停留ていりゅう所で電車でんしゃを待まち合あわせる間に、新聞しんぶんを買って、電車でんしゃに乗っている間に、昨日きのう起った社会しゃかいの変化へんかを知って、そうして役所やくしょか会社かいしゃへ行いき着つくと同時どうじに、ポッケットに収めた新聞しんぶん紙の事はまるで忘わすれてしまわなければならないほど忙いそがしいのだから。

私は今これほど切りつめられた時間じかんしか自由じゆうにできない人達の軽蔑けいべつを冒おかして書かくのである。

去年こぞから欧洲おうしゅうでは大おおきな戦争せんそうが始まっている。そうしてその戦争せんそうがいつ済すむとも見当けんとうがつかない模様もようである。日本にぽんでもその戦争せんそうの一小いちしょう部分ぶぶんを引ひき受うけた。それが済すむと今度こんどは議会ぎかいが解散かいさんになった。来きたるべき総選挙せんきょは政治せいじ界の人々にとっての大切な問題もんだいになっている。米が安くなり過すぎた結果けっか農家のうかに金が入らないので、どこでも不景気けいきだと零こぼしている。年中ねんじゅう行事ぎょうじで云えば、春の相撲すもうが近ちかくに始まろうとしている。要ようするに世よの中なかは大変たあいへん多事たじである。硝子しょうし戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞しんぶんに顔が出せないような気がする。私が書けば政治せいじ家や軍人いくさびとや実業じつぎょう家や相撲狂すもうきょうを押おし退のけて書かく事になる。私だけではとてもそれほどの胆力たんりょくが出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分じぶん以外いがいにあまり関係かんけいのないつまらぬ事を書かくのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合つごうと、紙面しめんの編輯へんしゅうの都合つごうとできまるのだから、判然はっきりした見当けんとうは今つきかねる。

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First published
「朝日新聞」1915(大正4)年1月13日~2月23日
Source edition (底本)
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房

   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月

初出:「朝日新聞」

   1915(大正4)年1月13日~2月23日

入力:柴田卓治

校正:大野晋

1999年8月22日公開

2012年9月9日修正

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Typed by (入力)
柴田卓治
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