Nihoner

夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

薤露行

かいろこう

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世に伝うるマロリーの『アーサー物語ものがたり』は簡浄かんじょう素樸そぼくという点において珍重ちんちょうすべき書物しょもつではあるが古代こだいのものだから一部いちぶの小説しょうせつとして見みると散漫さんまんの譏そしりは免がれぬ。まして材をその一局部きょくぶに取って纏まとまったものを書こうとすると到底とうてい万事ばんじ原著げんちょによる訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者さくしゃの随意ずいいに事実じじつを前後ぜんごしたり、場合ばあいを創造そうぞうしたり、性格せいかくを書かき直なおしたりしてかなり小説しょうせつに近いものに改あらためてしもうた。主意しゅいはこんな事が面白おもしろいから書いて見ようというので、マロリーが面白おもしろいからマロリーを紹介しょうかいしようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望きぼうする。

実をいうとマロリーの写したランスロットは或ある点において車夫しゃふの如く、ギニヴィアは車夫しゃふの情婦じょうふのような感かんじがある。この一点いってんだけでも書かき直なおす必要ひつようは充分じゅうぶんあると思おもう。テニソンの『アイジルス』は優麗ゆうれい都雅とがの点において古今こきんの雄篇ゆうへんたるのみならず性格せいかくの描写びょうしゃにおいても十九世紀せいきの人間じんかんを古代こだいの舞台ぶたいに躍おどらせるようなかきぶりであるから、かかる短篇たんぺんを草そうするには大おおいに参考さんこうすべき長詩ちょうしであるはいうまでもない。元来がんらいなら記憶きおくを新あらたにするため一応いちよう読よみ返かえすはずであるが、読よむと冥々のうちに真似まねがしたくなるからやめた。

一 夢

百、二百にひゃく、簇むらがる騎士きしは数をつくして北の方かたなる試合しあいへと急げば、石に古ふりたるカメロットの館やかたには、ただ王妃おうひギニヴィアの長く牽ひく衣ころもの裾すその響ひびきのみ残のこる。

薄紅うすくれないの一枚をむざとばかりに肩より投なげ懸かけて、白き二にの腕うでさえ明あからさまなるに、裳もすそのみは軽かろく捌さばく珠たまの履くつをつつみて、なお余あまりあるを後うしろざまに石階いしだんの二級に垂たれて登のぼる。登り詰めたる階きざはしの正面しょうめんには大おおいなる花を鈍色にびいろの奥に織おり込こめる戸帳とばりが、人なきをかこち顔がおなる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押おし付つけて一重かずしげ向むかうに何事なにごとをか聴きく。聴きおわりたる横顔よこがおをまた真向まむこうに反かえして石段いしだんの下を鋭どき眼にて窺うかがう。濃こまやかに斑ふを流ながしたる大理だいり石の上は、ここかしこに白き薔薇ばらが暗きを洩もれて和やわらかき香かおりを放はなつ。君見よと宵よいに贈おくれる花輪はなわのいつ摧くだけたる名残なごりか。しばらくはわが足に纏まつわる絹の音にさえ心置おける人の、何どの思案しあんか、屹きと立ち直りて、繊ほそき手の動うごくと見れば、深き幕の波を描いて、眩まばゆき光ひかり矢の如く向むかい側がわなる室しつの中よりギニヴィアの頭かしらに戴いただける冠を照てらす。輝かがやけるは眉間みけんに中あたる金剛こんごう石ぞ。

「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚はばかり、地を憚はばかる中に、身も世も入いらぬまで力の籠こもりたる声である。恋に敵なければ、わが戴いただける冠を畏おそれず。

「ギニヴィア!」と応こたえたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優やさしい。広き額を半なかば埋うずめてまた捲まき返かえる髪の、黒きを誇ほこるばかり乱みだれたるに、頬ほおの色は釣つり合わず蒼白あおじろい。

女は幕をひく手をつと放はなして内に入いる。裂目さけめを洩れて斜ななめに大理だいり石の階段かいだんを横切りたる日の光は、一度ひとたびに消えて、薄暗うすくらがりの中に戸帳の模様もようのみ際立きわだちて見まみえる。左右さゆうに開あく廻廊かいろうには円柱まるばしらの影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人ふたりのみと思わる。

「北の方かたなる試合しあいにも参まいり合あわせず。乱みだれたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問とう。晴はれかかりたる眉まゆに晴はれがたき雲の蟠わだかまりて、弱き笑わらいの強しいて憂うれいの裏うちより洩れ来きたる。

「贈りまつれる薔薇しょうびの香かに酔えいて」とのみにて男は高き窓より表の方かたを見みやる。折おりからの五月さつきである。館を繞めぐりて緩ゆるく逝ゆく江に千本せんぼんの柳が明あきらかに影をひたして、空に崩くずるる雲の峰さえ水の底に流ながれ込こむ。動うごくとも見えぬ白帆しらほに、人あらば節面白おもしろいき舟歌ふなうたも興がろう。河を隔へだてて木この間ま隠がくれに白くひく筋の、一縷いちるの糸となって烟けむりに入いるは、立ち上のぼる朝日影ひかげに蹄ひづめの塵ちりを揚あげて、けさアーサーが円卓えんたくの騎士きしと共に北の方かたへと飛ばせたる本道ほんどうである。

「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈いのる憂うき身ぞ。君一人ひとり館に残のこる今日きょうを忍しのびて、今日きょうのみの縁えにしとならばうからまし」と女は安やすらかぬ心のほどを口元くちもとに見せて、珊瑚さんごの唇をぴりぴりと動うごかす。

「今日きょうのみの縁とは? 墓に堰せかるるあの世よまでも渝かわらじ」と男は黒き瞳ひとみを返がえして女の顔を眤じっと見みる。

「さればこそ」と女は右の手を高く挙あげて広げたる掌てのひらを竪たてにランスロットに向むける。手頸てくびを纏まとう黄金こがねの腕輪うでわがきらりと輝かがやくときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰くり返かえす。「薔薇しょうびの香かに酔よえる病を、病と許ゆるせるは我ら二人ふたりのみ。このカメロットに集あつまる騎士きしは、五本ほんの指を五十ごじゅう度繰くり返かえすとも数えがたきに、一人ひとりとして北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束つかの間に危うきを貪むさぼりて、長き逢おう瀬せの淵ふちと変らば……」といいながら挙あげたる手をはたと落おとす。かの腕輪うでわは再ふたたびきらめいて、玉と玉と撃うてる音か、戛然かつぜんと瞬時しゅんじの響ひびきを起おこす。

「命は長き賜物たまものぞ、恋は命よりも長き賜物たまものぞ。心安こころやすいかれ」と男はさすがに大胆だいたんである。

女は両手りょうてを延ばして、戴いただける冠を左右さゆうより抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼やける事は」という。願ねがう事の叶かなわばこの黄金こがね、この珠玉たまの飾かざりを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様さまである。白き腕かいなのすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光ひかりの下には、渦を巻まく髪かみの毛けの、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡なびきつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅うすべにの衣の袖そでは、胸を過すぎてより豊ゆたかなる襞ひだを描がいて、裾は強けれども剛かたからざる線を三筋みすじほど床ゆかの上まで引ひく。ランスロットはただ窈窕ようちょうとして眺ながめている。前後ぜんごを截断せつだんして、過去かこ未来みらいを失念しつねんしたる間にただギニヴィアの形のみがありありと見まみえる。

機微きびの邃ふかきを照てらす鏡は、女の有もてる凡すべてのうちにて、尤もっとも明あきらかなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭かしらを抑えたるギニヴィアを打うち守まもる人の心は、飛とぶ鳥の影の疾ときが如くに女の胸にひらめき渡わたる。苦しみは払はらい落おとす蜘蛛くもの巣と消えて剰あますは嬉うれしき人の情なさけばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間ひまに際どく擦すり込む石火せっかの楽たのしみを、長とこしえに続つづけかしと念じて両頬りょうほうに笑えみを滴したたらす。

「かくてあらん」と男は始はじめより思い極めた態である。

「されど」と少時しばしして女はまた口を開あく。「かくてあらんため――北きたの方かたなる試合しあいに行き給え。けさ立たてる人々の蹄の痕あとを追い懸けて病癒いえぬと申し給え。この頃ころの蔭口かげぐち、二人ふたりをつつむ疑うたがいの雲を晴し給え」

「さほどに人が怖こわくて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑わらう。高き室しつの静しずかなる中に、常ならず快からぬ響が伝つたわる。笑わらえるははたとやめて「この帳とばりの風なきに動くそうな」と室の入口いりぐちまで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見みる。あやしき響は収まって寂寞じゃくまくの故もとに帰かえる。

「宵よべ見し夢の――夢の中なる響の名残なごりか」と女の顔には忽たちまち紅こう落おちて、冠の星はきらきらと震ふるう。男も何事なにごとか心躁さわぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。

「薔薇しょうび咲さく日なり。白き薔薇しょうびと、赤き薔薇しょうびと、黄なる薔薇しょうびの間に臥ふしたるは君とわれのみ。楽しき日は落おちて、楽しき夕幕の薄明あかりの、尽くる限かぎりはあらじと思おもう。その時に戴いただけるはこの冠なり」と指を挙あげて眉間みけんをさす。冠の底を二重にめぐる一疋ぴきの蛇は黄金こがねの鱗うろこを細かに身に刻んで、擡もたげたる頭かしらには青玉せいぎょくの眼がんを嵌はめてある。

「わが冠の肉に喰くい入るばかり焼やけて、頭の上に衣きぬ擦する如き音を聞きくとき、この黄金こがねの蛇はわが髪を繞めぐりて動うごき出だす。頭は君の方かたへ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延のびるよと見みる間まに、君とわれは腥なまぐさき縄にて、断たつべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔へだてて近寄ちかよるに力なく、離るるに術すべなし。たとい忌いまわしき絆きずななりとも、この縄の切きれて二人ふたり離はなれ離ばなれにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣こころやりなりき。囓かまるるとも螫ささるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇しょうびの花の紅くれないなるが、めらめらと燃もえ出いだして、繋つなげる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋ひとひろ余あまりは、真中まなかより青き烟を吐いて金の鱗の色変いろがわり行ゆくと思えば、あやしき臭においを立ててふすと切きれたり。身も魂もこれ限かぎり消えて失うせよと念ねんずる耳元みみもとに、何者なにものかからからと笑わらう声して夢は醒さめたり。醒めたるあとにもなお耳を襲おそう声はありて、今聞きける君が笑も、宵よべの名残なごりかと骨を撼ゆるがす」と落ち付かぬ眼を長き睫まつげの裏に隠かくしてランスロットの気色けしきを窺うかがう。七十しちじゅう五度の闘技とうぎに、馬の脊せを滑すべるは無論むろん、鐙あぶみさえはずせる事なき勇士ゆうしも、この夢を奇くしとのみは思わず。快からぬ眉根まゆねは自おのずから逼せまりて、結むすべる口の奥には歯さえ喰くい締しばるならん。

「さらば行こう。後おくれ馳ばせに北の方かたへ行こう」と拱こまぬいたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯からだをゆらりと起おこす。

「行ゆくか?」とはギニヴィアの半なかば疑うたがえる言葉ことばである。疑うたがえる中には、今更いまさらながら別わかれの惜まるる心地ここちさえほのめいている。

「行ゆく」といい放って、つかつかと戸口ここうにかかる幕を半なかば掲げたが、やがてするりと踵くびすを回めぐらして、女の前に、白き手を執とりて、発熱はつねつかと怪しまるるほどのあつき唇を、冷ひやかに柔やわらかき甲の上につけた。暁の露しげき百合ゆりの花弁はなびらをひたふるに吸すえる心地ここちである。ランスロットは後あとをも見ずして石階いしだんを馳け降おりる。

やがて三たび馬の嘶いななく音ねがして中庭なかにわの石の上に堅き蹄が鳴なるとき、ギニヴィアは高殿たかどのを下りて、騎士きしの出づべき門の真上まうえなる窓に倚よりて、かの人の出いづるを遅しと待まつ。黒き馬の鼻面はなづらが下に見ゆるとき、身を半なかば投げだして、行ゆく人のために白き絹の尺ばかりなるを振ふる。頭に戴いただける金冠きんかんの、美しき髪を滑すべりてか、からりと馬の鼻を掠かすめて砕くだくるばかりに石の上に落つる。

槍やりの穂先ほさきに冠をかけて、窓近ちかく差さし出だしたる時、ランスロットとギニヴィアの視線しせんがはたと行ゆき合あう。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹ふとばらをける。白き兜かぶとと挿毛さしげのさと靡なびくあとに、残のこるは漠々ばくばくたる塵ちりのみ。

二 鏡

ありのままなる浮世うきよを見ず、鏡に写うつる浮世うきよのみを見みるシャロットの女は高き台うてなの中に只一人ひとり住すむ。活いける世を鏡の裡うちにのみ知しる者に、面おもてを合あわす友のあるべき由なし。

春恋し、春恋しと囀さえずる鳥の数々に、耳側そばだてて木この葉は隠がくれの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切きり込こむ鏡に向むかう。鮮あざやかに写うつる羽の色に日の色さえもそのままである。

シャロットの野に麦刈かる男、麦打うつ女の歌にやあらん、谷を渡わたり水を渡わたりて、幽かすかなる音の高き台に他界たかいの声の如く糸と細りて響ひびく時、シャロットの女は傾けたる耳を掩おおうてまた鏡に向むかう。河のあなたに烟けぶる柳の、果はては空とも野とも覚束おぼつかなき間より洩もれ出いづる悲しき調しらべと思えばなるべし。

シャロットの路みち行ゆく人もまた悉ことごとくシャロットの女の鏡に写うつる。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うまおいうさまも見ゆる。あるときは白き髯ひげの寛ゆるき衣を纏まといて、長き杖つえの先に小さき瓢ひさごを括くくしつけながら行ゆく巡礼じゅんれい姿も見まみえる。又あるときは頭かしらよりただ一枚と思わるる真白まっしろの上衣うわぎ被かぶりて、眼口も手足しゅそくも確しかと分わかちかねたるが、けたたましげに鉦かね打ち鳴らして過すぎるも見ゆる。これは癩らいをやむ人の前世ぜんせの業ごうを自みずから世に告ぐる、むごき仕打しうちなりとシャロットの女は知しるすべもあらぬ。

旅商人たびあきゅうどの脊せに負おえる包つつみの中には赤きリボンのあるか、白き下着したぎのあるか、珊瑚さんご、瑪瑙めのう、水晶すいしょう、真珠しんじゅのあるか、包くるめる中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸ひとみには映ぜぬ。

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Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「倫敦塔・幻影の盾 他五篇」岩波文庫、岩波書店


   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行

   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行

   1997(平成9)年1月16日第29刷発行

※校正には、1997(平成9)年9月5日発行の第30刷を使用した。

入力:鈴木厚司

校正:藤本篤子

1999年3月6日公開

2004年2月26日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
鈴木厚司
Proofread by (校正)
藤本篤子

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