Nihoner

森鴎外 Ogai Mori 1862.02.17〜1922.07.09

カズイスチカ

カズイスチカ

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父が開業かいぎょうをしていたので、花房はなぶさ医学士がくしは卒業そつぎょうする少すこし前から、休課に父の許もとへ来ている間は、代診だいしんの真似事まねごとをしていた。

花房はなぶさの父の診療しんりょう所は大千住おおせんじゅにあったが、小金井こがねいきみ子こという女が「千住せんじゅの家」というものを書いて、委くわしくこの家の事を叙述じょじゅつしているから、locoロコ citatoチタト としてここには贅ぜいせない。Monetモネエ なんぞは同おんなじ池に同おんなじ水草すいそうの生はえている処を何遍も書いていて、時候じこうが違ちげい、天気てんきが違ちげい、一日ついたちのうちでも朝夕ちょうせきの日当ひあたりの違たがうのを、人に味あじわわせるから、一枚見みるよりは較べて見みる方が面白おもしろい。それは巧妙こうみょうな芸術げいじゅつ家の事である。同おんなじモデルの写生しゃせいを下手へたに繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆せいひつをするのは、読者どくしゃに感謝かんしゃして貰もらっても好いい。

尤もっともきみ子こはあの家の歴史れきしを書いていなかった。あれを建てた緒方某おがたぼうは千住せんじゅの旧家きゅうかで、徳川とくがわ将軍しょうぐんが鷹狩たかがりの時、千住せんじゅで小休こやすみをする度毎たびごとに、緒方しょほうの家が御用を承うけたまわることに極きまっていた。花房はなぶさの父があの家をがらくたと一いっしょに買い取った時、天井てんせい裏から長さ三尺さんじゃくばかりの細長ほそながい箱が出た。蓋ふたに御鋪物おんしきものと書いてある。御鋪物とは将軍しょうぐんの鋪物である。今は花房はなぶさの家で、その箱に掛物が入れてある。

火事かじにも逢あわずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、頗すこぶる古ふるびが附いていた。柱なんぞは黒檀こくたんのように光っていた。硝子ガラスの器を載せた春慶塗しゅんけいぬりの卓や、白じろいシイツを掩おおうた診察しんさつ用の寝台ねだいが、この柱と異様いようなコントラストをなしていた。

この卓や寝台しんだいの置いてある診察しんさつ室は、南向みなみむきの、一番いちばん広ひろい間で、花房はなぶさの父が大おおきい雛棚ひなだなのような台を据えて、盆栽ぼんさいを並なべて置おくのは、この室の前の庭であった。病人びょうにんを見て疲つかれると、この髯ひげの長ながい翁おきなは、目を棚の上の盆栽ぼんさいに移して、私ひそかに自みずから娯たのしむのであった。

待合まちあいにしてある次つぎの間まには幾いくら病人びょうにんが溜たまっていても、翁は小ちいさい煙管きせるで雲井くもいを吹かしながら、ゆっくり盆栽ぼんさいを眺ながめていた。

午前ごぜんに一度ひとたび、午後ごごに一度ひとたびは、極まって三十さんじゅう分ばかり休やすむ。その時は待合まちあいの病人びょうにんの中を通とうり抜ぬけて、北向きたむきの小部屋こべやに這入はいって、煎茶せんちゃを飲のむ。中年ちゅうねんの頃、石州せきしゅう流の茶をしていたのが、晩年ばんねんに国を去って東京とうきょうに出た頃から碾茶ひきちゃを止やめて、煎茶せんちゃを飲のむことにした。盆栽ぼんさいと煎茶せんちゃとが翁の道楽どうらくであった。

この北向きたむきの室は、家じゅうで一番いちばん狭せまい間で、三畳敷たたみじきである。何どの手入ていれもしないに、年々宿根しゅくこんが残っていて、秋海棠しゅうかいどうが敷居しきいと平たいらに育った。その直すぐ向むかうは木槿もくげの生垣いけがきで、垣の内側うちがわには疎まばらに高だかい棕櫚しゅろが立っていた。

花房はなぶさが大学だいがくにいる頃も、官立かんりつ病院びょういんに勤つとめるようになってからも、休日きゅうじつに帰って来くると、先まずこの三畳で煎茶せんちゃを飲ませられる。当時とうじ八犬伝に読み耽ふけっていた花房はなぶさは、これをお父うさんの「三茶さんちゃの礼」と名づけていた。

翁が特とくに愛していた、蝦蟇出がまでという朱泥しゅでいの急須きゅうすがある。径わたり二寸もあろうかと思われる、小ちいさい急須きゅうすの代赭色たいしゃいろの膚はだえに Pemphigusペンフィグス という水泡すいほうのような、大小だいしょう種々の疣いぼが出来しゅったいている。多分たぶん焼やく時に出来しゅったい損ねたのであろう。この蝦蟇がま出の急須きゅうすに絹糸けんしの切屑きりくずのように細かくよじれた、暗緑色みどりいろの宇治うじ茶を入れて、それに冷ました湯を注ついで、暫しばらく待っていて、茶碗ちゃわんに滴たらす。茶碗ちゃわんの底には五立方たちかたサンチメエトル位の濃こい帯緑黄色こうしょくの汁が落おちている。花房はなぶさはそれを舐なめさせられるのである。

甘あまみは微かすかで、苦にがみの勝かったこの茶をも、花房はなぶさは翁の微笑えみと共に味わって、それを埋合せにしていた。

或日こう云いう対坐たいざの時、花房はなぶさが云った。

「お父うさん。わたくしも大分おういた理窟りくつだけは覚えました。少すこしお手伝てつだいをしましょうか」

「そうじゃろう。理窟りくつはわしよりはえらいに違いない。むずかしい病人びょうにんがあったら、見て貰おう」

この話をしてから、花房はなぶさは病人びょうにんをちょいちょい見みるようになったのであった。そして翁の満足まんぞくを贏かち得ることも折々あった。

翁の医学いがくは Hufelandフウフェランド の内科ないかを主としたもので、その頃もう古くなって用立たないことが多かった。そこで翁は新あたらしい翻訳書やくしょを幾いくらか見みるようにしていた。素もとフウフェランドは蘭訳らんやくの書を先輩せんぱいの日本にぽん訳の書に引き較べて見たのであるが、新あたらしい蘭書らんしょを得えることが容易たやすくなかったのと、多くの障碍しょうがいを凌しのいで横文おうぶんの書を読もうとする程の気力きりょくがなかったのとの為ために、昔読よみ馴なれた書でない洋書ようしょを読よむことを、翁は面倒めんどうがって、とうとう翻訳書やくしょばかり見みるようになったのである。ところが、その翻訳書やくしょの数かずが多くないのに、善いい訳は少ずくないので、翁の新あたらしい医学いがくの上の智識ちしきには頗すこぶる不十分じゅうぶんな処がある。

防腐ぼうふ外科げかなんぞは、翁は分っている積ずもりでも、実際じっさい本当ほんとには分からなかった。丁寧ていねいに消毒しょうどくした手を有合ありあわせの手拭てぬぐいで拭ふくような事が、いつまでも止まなかった。

これに反して、若わかい花房はなぶさがどうしても企て及ばないと思ったのは、一種いっしゅの Coupクウ d'ilドヨイユ であった。「この病人びょうにんはもう一日ついたちは持たん」と翁が云いうと、その病人びょうにんはきっと二十にじゅう四時間じかん以内いないに死しぬる。それが花房はなぶさにはどう見ても分からなかった。

只これだけなら、少花房はなぶさが経験けいけんの上で老花房はなぶさに及ばないと云いうに過すぎないが、実はそうでは無なあい。翁の及およぶべからざる処が別に有ったのである。

翁は病人びょうにんを見ている間は、全幅ぜんはばの精神せいしんを以もって病人びょうにんを見ている。そしてその病人びょうにんが軽かろうが重かろうが、鼻風はなかぜだろうが必死ひっしの病だろうが、同おんなじ態度たいどでこれに対している。盆栽ぼんさいを翫もてあそんでいる時もその通とおりである。茶を啜すすっている時もその通とおりである。

花房はなぶさ学士がくしは何かしたい事若もしくはする筈はずの事があって、それをせずに姑しばらく病人びょうにんを見ているという心持こころもちである。それだから、同おんなじ病人びょうにんを見ても、平凡へいぼんな病だとつまらなく思おもう。Intressantエントレッサン の病症びょうしょうでなくては厭あき足らなく思おもう。又偶々たまたま所謂いわゆる興味きょうみある病症びょうしょうを見ても、それを研究けんきゅうして書いて置いて、業績ぎょうせきとして公にしようとも思わなかった。勿論もちろん発見はっけんも発明はつめいも出来できるならしようとは思おもうが、それを生活せいかつの目的もくてきだとは思わない。始終しじゅう何か更さらにしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物なにものかが幻影げんえいの如くに浮んでも、捕捉ほそくすることの出来しゅったいないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華えいがの夢になっている時もある。それかと思おもうと、その頃碧巌へきがんを見たり無門関むもんかんを見たりしていたので、禅定ぜんじょうめいた contemplatifコンタンプラチイフ な観念かんねんになっている時もある。とにかく取留とりとめのないものであった。それが病人びょうにんを見みる時ばかりではない。何をしていても同おんなじ事で、これをしてしまって、片付かたずけて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。

そして花房はなぶさはその分からない或物が何物なにものだということを、強しいて分からせようともしなかった。唯ただ或時はその或物を幸福こうふくというものだと考かんがえて見たり、或時はそれを希望きぼうということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功せいこうで、失えば失敗しっぱいだというような処までは追求ついきゅうしなかったのである。

しかしこの或物が父に無いということだけは、花房はなぶさも疾とっくに気が付いて、初はじめは父がつまらない、内容ないようの無なあい生活せいかつをしているように思って、それは老人ろうじんだからだ、老人ろうじんのつまらないのは当然とうぜんだと思った。そのうち、熊沢蕃山くまざわばんざんの書いたものを読んでいると、志を得て天下てんか国家こっかを事とするのも道を行おこなうのであるが、平生へいぜい顔を洗ったり髪を梳くしけずったりするのも道を行おこなうのであるという意味いみの事が書いてあった。花房はなぶさはそれを見て、父の平生へいぜいを考かんがえて見みると、自分じぶんが遠とおい向むかうに或物を望んで、目前もくぜんの事を好いい加減かげんに済ませて行ゆくのに反して、父はつまらない日常にちじょうの事にも全幅ぜんはばの精神せいしんを傾注けいちゅうしているということに気が附いた。宿場しゅくばの医者いしゃたるに安んじている父の rsignationレジニアション の態度たいどが、有道者どうしゃの面目めんぼくに近いということが、朧気おぼろげながら見えて来た。そしてその時から遽にわかに父を尊敬けいする念を生じた。

実際じっさい花房はなぶさの気の付いた通とおりに、翁の及および難がたいところはここに存そんじていたのである。

花房はなぶさは大学だいがくを卒業そつぎょうして官吏かんりになって、半年はんとしばかりも病院びょういんで勤ずとめていただろう。それから後は学校がっこう教師きょうしになって、Laboratoriumラボラトリウム に出入しゅつにゅうするばかりで、病人びょうにんというものを扱った事が無なあい。それだから花房はなぶさの記憶きおくには、いつまでも千住せんじゅの家で、父の代診だいしんをした時の事が残っている。それが医学いがくをした花房はなぶさの医者いしゃらしい生活せいかつをした短みじかい期間きかんであった。

その花房はなぶさの記憶きおくに僅わずかに残っている事を二つ三つ書かく。一体いったい医者いしゃの為ためには、軽かるい病人びょうにんも重おもい病人びょうにんも、贅沢薬ぜいたくぐすりを飲のむ人も、病気びょうきが死活しかつ問題もんだいになっている人も、均ひとしくこれ casusカズス である。Casusカズス として取り扱って、感動かんどうせずに、冷眼れいがんに視ている処に医者いしゃの強つよみがある。しかし花房はなぶさはそういう境界きょうかいには到らずにしまった。花房はなぶさはまだ病人びょうにんが人間じんかんに見えているうちに、病人びょうにんを扱わないようになってしまった。そしてその記憶きおくには唯 Curiosaクリオザ が残っている。作者さくしゃが漫然まんぜんと医者いしゃの術語じゅつごを用いて、これに Casuisticaカズイスチカ と題だいするのは、花房はなぶさの冤枉えんおうとする所かも知れない。

落架風らっかふう。花房はなぶさが父に手伝てつだいをしようと云ってから、間のない時の事であった。丁度ちょうど新年しんねんで、門口かどぐちに羽根ばねを衝ついていた、花房はなぶさの妹の藤子ふじこが、きゃっと云って奥の間へ飛び込んで来た。花月かげつ新誌の新年しんねん号を見ていた花房はなぶさが、なんだと問とうと、恐おそろしい顔の病人びょうにんが来たと云いう。どんな顔かと問えば、只食くい附つきそうな顔をしていたから、二目と見ずに逃にげて這入ったと云いう。そこへ佐藤さとうという、色の白じろい、髪を長くしている、越後えちご生れの書生しょせいが来て花房はなぶさに云った。

「老先おいさき生が一寸ちょっとお出いで下くださるようにと仰おっしゃいますが」

「そうか」

と云って、花房はなぶさは直すぐに書生しょせいと一いっしょに広間ひろまに出た。

春慶しゅんけい塗の、楕円形だえんけいをしている卓の向むかうに、翁はにこにこした顔をして、椅子いすに倚より掛かっていたが、花房はなぶさに「あの病人びょうにんを御覧ごらん」と云って、顔で方角ほうがくを示した。

寝台ねだいの据えてあるあたりの畳の上に、四十しじゅう余あまりのお上かみさんと、二十はたちばかりの青年せいねんとが据わっている。藤子ふじこが食くい付つきそうだと云ったのは、この青年せいねんの顔であった。

色の蒼白あおじろい、面長おもながな男である。下顎したあごを後下方こうかほうへ引ひっ張ぱるっているように、口を開あいているので、その長ながい顔が殆ほとんど二倍の長さに引き延ばされている。絶えず涎よだれが垂たれるので、畳んだ手拭てぬぐいで腮あごを拭ぬぐいている。顔位の狭せまい面積めんせきの処で、一部いちぶを強く引っ張れば、全体ぜんたいの形が変って来くる。醜くくはない顔の大おおきい目が、外眦がいさいを引ひき下さげられて、異様いように開ひらいて、物に驚いたように正面しょうめんを凝視ぎょうししている。藤子ふじこが食くい付つきそうだと云ったのも無理むりは無なあい。

附き添って来たお上かみさんは、目の縁ふちを赤くして、涙声なみだごえで一度ひとたび翁に訴えた通とおりを又花房はなぶさに訴えた。

お上かみさんの内には昨夜ゆうべ骨牌会かるたかいがあった。息子むすこさんは誰たれやらと札の引張合はりあいをして勝かったのが愉快ゆかいだというので、大声たいせいに笑った拍子ひょうしに、顎が両方りょうほう一度ひとたびに脱はずれた。それから大騒おうさわぎになって、近所きんじょの医者いしゃに見て貰ったが、嵌はめてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子むすこよりはお上さんが心配しんぱいして、とうとう寐ねられなかったというのである。

「どうだね」

と、翁は微笑ほほえみながら、若わかい学士がくしの顔を見て云った。

「そうですね。診断しんだんは僕もお上かみさんに同意どういします。両側下顎脱臼りょうそくかがくだっきゅうです。昨夜ゆうべ脱臼だっきゅうしたのなら、直すぐに整復せいふくが出来できる見込みこみです」

「遣やって御覧ごらん」

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「三田文学」1911(明治44)年2月
Source edition (底本)
底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社


   1968(昭和43)年5月30日発行

   1985(昭和60)年6月10日41刷改版

   1990(平成2)年5月30日53刷

※底本には、表記の変更に関する以下の注記が見られる。

「本書は旧仮名づかいで書かれていたものを(中略)、現代仮名づかいに改めた。」

 加えて、極端な宛て字と思われるもの、代名詞、副詞、接続詞などは、以下のように書き換えたとある。

…か知ら→…かしら 此→かく 彼此→かれこれ …切り→…きり 此→これ 是→これ 流石→さすが 併し→しかし 切角→せっかく 其→その 大ぶ→だいぶ …丈→…だけ 兎角→とにかく 所で→ところで 只管→ひたすら 迄→まで 儘→まま 矢張→やはり

入力:砂場清隆

校正:松永正敏

2000年8月9日公開

2006年5月11日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
砂場清隆
Proofread by (校正)
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