Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

過古

かこ

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母親ははおやがランプを消して出て来くるのを、子供こども達は父親ちちおやや祖母そぼと共に、戸外こがいで待っていた。

誰一人ひとりの見送みおくりとてない出発しゅっぱつであった。最後さいごの夕餉ゆうげをしたためた食器しょっき。最後さいごの時間じかんまで照していたランプ。それらは、それらをもらった八百屋やおやが取とりに来くる明日あすの朝まで、空家あきやの中に残されている。

灯が消えた。くらやみを背負せおいって母親ははおやが出て来た。五人の幼おさない子供こども達。父母ちちはは。祖母そぼ。――賑にぎやかな、しかし寂さびしい一行ひとくだりは歩あゆみ出でるした。その時から十余年経った。

その五人の兄弟けいていのなかの一人ひとりであった彼は再ふたたびその大都だいと会へ出て来た。そこで彼は学狡へ通った。知らない町ばかりであった。碁会所ごかいしょ。玉突たまつき屋。大弓だいきゅう所。珈琲コーヒー店。下宿げしゅく。彼はそのせせこましい展望てんぼうを逃のがれて郊外こうがいへ移った。そこは偶然ぐうぜんにも以前いぜん住んだことのある町に近かった。霜解しもどけ、夕凍じみ、その匂においには憶おぼえがあった。

ひと月ふた月経った。日光にっこうと散歩さんぽに恵まれた彼かの生活せいかつは、いつの間にか怪あやしい不協和きょうわに陥っていた。遠とおくの父母ちちははや兄弟けいていの顔が、これまでになく忌いまわしい陰を帯おびて、彼かの心を紊みだした。電報でんぽう配達夫たつおが恐ろしかった。

ある朝、彼は日当ひあたりのいい彼かの部屋へやで座布団ふとんを干ぼしていた。その座布団ふとんは彼かの幼時ようじからの記憶きおくにつながれていた。同おんなじ切きれ地じで夜具やぐができていたのだった。――日ひなたの匂においを立てながら縞目しまめの古りた座布団ふとんは膨れはじめた。彼は眼を瞠みはった。どうしたのだ。まるで覚おぼえがない。何という縞目しまめだ。――そして何という旅情りょじょう……

以前いぜん住んだ町を歩いて見みる日がとうとうやって来た。彼は道々、町の名前なまいが変わってはいないかと心配しんぱいしながら、ひとに道を尋ねた。町はあった。近づくにつれて心が重くなった。一軒二軒、昔と変わらない家が、新あたらしい家に挾まれて残っていた。はっと胸むねを衝つかれる瞬間しゅんかんがあった。しかしその家は違っていた。確たしかに町はその町に違ちげいなかった。幼な友達ともだちの家が一軒あった。代が変わって友達ともだちの名前なまいになっていた。台所だいどころから首を出だしている母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶おぼえていた。彼はその方ほうへ歩あるき出でるした。

彼は往来おうらいに立ち竦すくんだ。十三じゅうそう年前の自分じぶんが往来おうらいを走っている! ――その子こ供は何も知らないで、町角まちかどを曲って見えなくなってしまった。彼は泪なみだぐんだ。何という旅情りょじょうだ! それはもう嗚咽おえつに近かった。

ある夜、彼は散歩さんぽに出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大おおきな暗闇くらやみであった。探さぐりながら歩いてゆく足が時ときどき凹へこみへ踏み落おちた。それは泣なきたくなる瞬間しゅんかんであった。そして寒さは衣服いふくに染しみ入ってしまっていた。

時刻じこくは非常ひじょうに晩おそくなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚くうきょであった。ただ、寒さだけを覚えた。

彼は燐寸マッチの箱を袂たもとから取り出そうとした。腕組うでぐみしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸まっちはあった。手では掴つかんでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出とりだすのか分らなかった。

暗闇くらやみに点ともされた火は、また彼かの空虚くうきょな頭の中に点された火でもあった。彼は人心地ひとごこちを知った。

一本いっぽんの燐寸まっちの火が、焔ほのおが消えて炭火すみびになってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少すこしの間は残像ざんぞうが彼を導いた――

突然とつぜん烈はげしい音響おんきょうが野の端から起こった。

華はなばなしい光の列が彼かの眼の前を過よぎって行った。光の波は土を匍はって彼かの足あしもとまで押し寄せた。

汽鑵きかん車の烟けむりは火になっていた。反射はんしゃをうけた火夫かふが赤く動いていた。

客車きゃくしゃ。食堂しょくどう車。寝台車だいしゃ。光と熱と歓語で充たされた列車れっしゃ。

激はげしい車輪しゃりんの響ひびきが彼かの身体しんたいに戦慄せんりつを伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂ついには得体えたいの知れない感情かんじょうを呼び起こした。涙が流ながれ出でるた。

響ひびきは遂ついに消えてしまった。そのままの普段ふだん着で両親りょうしんの家へ、急行きゅうこうに乗って、と彼は涙の中に決心けっしんしていた。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「青空」青空社、1926(大正15)年1月号
Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

初出:「青空」青空社

   1926(大正15)年1月号

※表題は底本では、「過古(かこ)」となっています。

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:野口英司

1998年9月19日公開

2016年7月5日修正

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
野口英司

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