Nihoner

梶井基次郎 Motojiro Kajii 1901.02.17〜1932.03.24

ある崖上の感情

あるがけうえのかんじょう

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ある蒸むし暑あつい夏の宵よいのことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人ふたりの青年せいねんが話をしていた。話の様子ようすでは彼らは別に友達ともだちというのではなさそうであった。銀座ぎんざなどとちがって、狭せまい山ノ手のカフェでは、孤独こどくな客が他所よそのテーブルを眺ながめたりしながら時を費ついやすことはそう自由じゆうではない。そんな不自由じゆうさが――そして狭さから来くる親しさが、彼らを互たがいに近づけることが多おおい。彼らもどうやらそうした二人ふたりらしいのであった。

一人ひとりの青年せいねんはビールの酔よいを肩先かたさきにあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子テーブルにかまわず肱ひじを立てて、先さきほどからほとんど一人ひとりで喋しゃべっていた。漆喰しっくいの土間どまの隅すみには古ぼけたビクターの蓄音ちくおん器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。

「元来がんらい僕はね、一度ひとたび友達ともだちに図星ずぼしを指されたことがあるんだが、放浪ほうろう、家をなさないという質たちに生まれついているらしいんです。その友達ともだちというのは手相てそうを見みる男で、それも西洋せいよう流の手相てそうを見みる男で、僕の手相てそうを見たとき、君の手にはソロモンの十字じゅうじ架がある。それは一生家せいかを持てない手相てそうだと言ったんです。僕は別に手相てそうなどを信じないんだが、そのときはそう言われたことでぎくっとしましたよ。とても悲しくてね――」

その青年せいねんの顔にはわずかの時間じかん感傷かんしょうの色が酔よいの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲のみするとまた言葉ことばをついで、

「その崖の上へ一人ひとりで立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶おもい出すんです。僕一人ひとりが世間せけんに住すみつく根を失って浮草うきくさのように流ながれている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺ながめていなければならない。すっかりこれが僕の運命うんめいだ。そんなことが思えて来くるのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。つまり窓の眺ながめというものには、元来がんらい人をそんな思おもいに駆かるあるものがあるんじゃないか。誰でもふとそんな気持きもちに誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考かんがえにはならないですか」

もう一人ひとりの青年せいねんは別に酔っているようでもなかった。彼は相手あいての今までの話を、そうおもしろがってもいないが、そうかと言って全然ぜんぜん興味きょうみがなくもないといった穏おだやかな表情ひょうじょうで耳を傾けていた。彼は相手あいてに自分じぶんの意見いけんを促されてしばらく考かんがえていたが、

「さあ……僕にはむしろ反対はんたいの気持きもちになった経験けいけんしか憶い出せない。しかしあなたの気持きもちは僕にはわからなくはありません。反対はんたいの気持きもちになった経験けいけんというのは、窓のなかにいる人間じんかんを見ていてその人達がなにかはかない運命うんめいを持ってこの浮世うきよに生きている。というふうに見えたということなんです」

「そうだ。それは大おおいにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。僕もそんなことを感かんじていたような気がする」

酔った方の男はひどく相手あいての言ったことに感心かんしんしたような語調ごちょうで残っていたビールを一息ひといきに飲んでしまった。

「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家たいけだ。いや、僕はね、実際じっさい窓というものが好すきで堪たまらないんですよ。自分じぶんのいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽たのしいだろうと、いつもそう思ってるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕自身おのれを曝さらしているのがまたとても楽しいんです。こんなに酒を飲のむにしても、どこか川かわっぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向むこう岸ぎしからだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽たのしいでしょう。『いかにあわれと思うらん』僕には片言かたことのような詩しか口に出て来ないが、実際じっさいいつもそんな気持きもちになるんです」

「なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。しかしなんという閑のどかな趣味しゅみだろう」

「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋へやの窓が見まみえると言ったでしょう。僕の窓は崖の近ちかくにあって、僕の部屋へやからはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路がけみちを通とおる人を注意ちゅういしているんですが、元来がんらいめったに人の通らない路で、通とおる人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決けっしてありません。実際じっさい僕みたいな男はよくよくの閑人かんじんなんだ」

「ちょっと君。そのレコード止してくれない」聴きき手ての方の青年せいねんはウエイトレスがまたかけはじめた「キャラバン」の方を向むかいてそう言った。「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭いやだと思おもい出だすととても堪らない」

黙ってウエイトレスは蓄音ちくおん器をとめた。彼女かのじょは断髪だんぱつをして薄うすい夏の洋装ようそうをしていた。しかしそれには少すこしもフレッシュなところがなかった。むしろ南京鼠なんきんねずみの匂においでもしそうな汚ぎたないエキゾティシズムが感かんじられた。そしてそれはそのカフェがその近所きんじょに多く住んでいる下等かとうな西洋人ひろとのよく出入しゅつにゅうりするという噂うわさを、少すこし陰気いんきに裏書うらがきしていた。

「おい。百合ゆりちゃん。百合ゆりちゃん。生をもう二つ」

話はなし手ての方の青年せいねんは馴染なじみのウエイトレスをぶっきら棒ぼうな客から救ってやるというような表情ひょうじょうで、彼女かのじょの方を振り返った。そしてすぐ、

「いや、ところがね、僕が窓を見みる趣味しゅみにはあまり人に言えない欲望よくぼうがあるんです。それはまあ一般いっぱんに言えば人の秘密ひみつを盗ぬすみ見みるという魅力みりょくなんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局けっきょくはそういったことに帰着ちゃくするんじゃないかと思われるような特殊とくしゅな執着しゅうちゃくがあるらしいんです。いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」

「それはそうかもしれない。高架線かせんを通とおる省線しょうせん電車でんしゃにはよくそういったマニヤの人が乗っているということですよ」

「そうですかね。そんな一つの病型タイプがあるんですかね。それは驚いた。……あなたは窓というものにそんな興味きょうみをお持もちになったことはありませんか。一度ひとたびでも」

その青年せいねんの顔は相手あいての顔をじっと見詰めて返答へんとうを待っていた。

「僕がそんなマニヤのことを言ゆう以上いじょう僕にも多かれ少なかれそんな知識ちしきがあると思っていいでしょう」

その青年せいねんの顔にはわずかばかりの不快ふかいの影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気へいきな顔になった。

「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味きょうみで見みる一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度ひとたびもないんです。でも実際じっさいよく瞞だまされる、あれには。あっはっはは……僕がいったいどんな状態じょうたいでそれに耽ふけっているか一度ひとたび話はなしてみましょうか。僕はながい間じいっと眼を放さずにその窓を見ているのです。するとあんまり一生いっしょう懸命けんめいになるもんだから足許もとが変に便たよりなくなって来くる。ふらふらっとして実際じっさい崖から落おっこちそうな気持きもちになる。はっは。それくらいになると僕はもう半分はんぶん夢を見ているような気持きもちです。すると変なことには、そんなとき僕の耳には崖路がけみちを歩いて来くる人の足音あしおとがきまったようにして来くるんです。でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことにしている。しかしその足音あしおとは僕の背後うしろへそうっと忍び寄って来て、そこでぴたりと止まってしまうんです。それが妄想もうそうというものでしょうね。僕にはその忍び寄った人間じんかんが僕の秘密ひみつを知っているように思えてならない。そして今にも襟髪えりがみを掴つかむか、今にも崖から突つき落おとすか、そんな恐怖きょうふで息も止とまりそうになっているんです。しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持きもちですね。また一方いっぽうではそれがたいていは僕の気のせいだということは百も承知しょうちで、そんな度胸どきょうもきめるんです。しかしやっぱり百に一つもしやほんとうの人間じんかんではないかという気がいつでもする。変なものですね。あっはっはは」

話はなし手ての男は自分じぶんの話に昂奮こうふんを持もちながらも、今度こんどは自嘲じちょう的なそして悪魔的まてきといえるかも知れない挑いどんだ表情ひょうじょうを眼に浮かべながら、相手あいての顔を見ていた。

「どうです。そんな話は。――僕は今はもう実際じっさいに人のベッドシーンを見みるということよりも、そんな自分じぶんの状態じょうたいの方がずっと魅惑みわく的になって来ているんです。何故なぜと言って、自分じぶんの見ている薄暗うすくらい窓のなかが、自分じぶんの思っているようなものでは多分たぶんないことが、僕にはもう薄うすうすわかっているんです。それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来くる。そのときの心の状態じょうたいがなんとも言えない恍惚こうこつなんです。いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。どうです、今から一緒いっしょにそこへ行ってみる気はありませんか」

「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境かきょうには入いって来ましたね」

そして聴きき手ての青年せいねんはまたビールを呼んだ。

「いや、佳境かきょうには入って来たというのはほんとうなんですよ。僕はだんだん佳境かきょうには入って来たんだ。何故なぜって、僕には最初さいしょ窓がただなにかしらおもしろいものであったに過すぎないんだ。それがだんだん人の秘密ひみつを見みるという気持きもちが意識いしきされて来た。そうでしょう。すると次は秘密ひみつのなかでもベッドシーンの秘密ひみつに興味きょうみを持もち出だした。ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た。しかしそのときの恍惚こうこつ状態じょうたいそのものが、結局けっきょくすべてであるということがわかって来た。そうでしょう。いや、君、実際じっさいその恍惚こうこつ状態じょうたいがすべてなんですよ。あっはっはは。空の空なる恍惚こうこつ万歳ばんざいだ。この愉快ゆかいな人生じんせいにプロジットしよう」

その青年せいねんにはだいぶ酔よいが発して来ていた。そのプロジットに応じなかった相手あいてのコップへ荒々しく自分じぶんのコップを打ちつけて、彼は新あたらしいコップを一気いっきに飲み乾した。

彼らがそんな話をしていたとき、扉をあけて二人ふたりの西洋人ひろとがは入いって来た。彼らはは入いって来くると同時どうじにウエイトレスの方へ色っぽい眼めつきを送おくりながら青年せいねん達の横のテーブルへ坐った。彼らの眼は一度ひとたびでも青年せいねん達の方を見みるのでもなければ、お互たがいに見交かわすというのでもなく、絶えず笑顔えがおを作って女の方へ向むかいていた。

「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」

ウエイトレスの顔は彼らを迎むかえる大仰おうぎょうな表情ひょうじょうでにわかに生いき生いきし出した。そしてきゃっきゃっと笑わらいながら何か喋しゃべり合っていたが、彼女かのじょの使つかう言葉ことばはある自由じゆうさを持った西洋人ひろとの日本にぽん語で、それを彼女かのじょが喋しゃべるとき青年せいねん達を給仕きゅうじしていたときとはまるでちがった変な魅力みりょくが生じた。

「僕は一度ひとたびこんな小説しょうせつを読んだことがある」

聴きき手てであった方の青年せいねんが、新あたらしい客の持って来た空気くうきから、話をまたもとへ戻もどした。

「それは、ある日本人ほんにんが欧羅巴ヨーロッパへ旅行りょこうに出でかけるんです。英国えいこく、仏蘭西フランス、独逸ドイツとずいぶんながいごったごたした旅行りょこうを続つずけておしまいにウィーンへやって来くる。そして着いた夜あるホテルへ泊とまるんですが、夜中やちゅうにふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜しんやの闇のなかに旅情りょじょうを感かんじながら窓の外を眺ながめるんです。空は美うつくしい星空ほしぞらで、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景やけいに眺ながめ耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見みつける。その部屋へやのなかには白じろい布のような塊かたまりが明あかるい燈火とうかに照らし出されていて、なにか白じろい煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰のぼっている。そしてそれがだんだんはっきりして来くるんですが、思いがけなくその男がそこに見出みだししたものはベッドの上にほしいままな裸体らたいを投げ出している男女なんにょだったのです。白じろいシーツのように見えていたのがそれで、静しずかに立ち騰のぼっている煙は男がベッドで燻くゆらしている葉巻はまきの煙なんです。その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ことウィーンだ、そしていま自分じぶんは長ながい旅の末にやっとその古ふるい都へやって来たのだ――そういう気持きもちがしみじみと湧いたというのです」

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「文芸都市」1928(昭和3)年7月号
Source edition (底本)
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社

   1972(昭和47)年12月10日初版発行

   1974(昭和49)年第4刷発行

初出:「文芸都市」

   1928(昭和3)年7月号

※編集部による傍注は省略しました。

入力:j.utiyama

校正:多村栄輝

1998年11月17日公開

2016年7月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
j.utiyama
Proofread by (校正)
多村栄輝

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