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夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

木下杢太郎『唐草表紙』序

きのしたもくたろう『からくさひょうし』じょ

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私は貴方あなたから送って下さった校正こうせい刷五百ごひゃく八十はちじゅう頁ページを今日きょう漸ようやく読よみ了おわりました。漸ようやくというと厭々いやいや読んだように聞きこえるかも知れませんが、決けっしてそんな訳ではないのです。多大ただいの興味きょうみばかりか、其興味きょうみに伴ともなう利益りえきをも受うけながら、楽しく読よみ了ったのです。実をいうと私の都合つごうもあり、又活字かつじ組込くみこみの関係かんけいもありして、長短ちょうたん十八篇の間を休やすみ休やすみ通とうり抜ぬけたのは、批評ひひょうを依頼いらいした貴方きほうにも御気きの毒どくですし、またそれを御約束やくそくした私にも多少たしょうの不便ふべんは出て来たに相違そういありませんが、此陥欠かんけつを避さける手段しゅだんは御互になかったのですから、それは双方そうほうで我慢がまんする事にして、私の御作に対たいするざっとした考かんがえ丈だけを申し上げます。

まずあなたの特色とくしょくとして第一だいいちに私の眼に映ったのは、饒ゆたかな情緒じょうしょを濃こまやかにしかも霧きりか霞かすみのように、ぼうっと写うつし出だす御手際おてぎわです。何故なぜぼうっとしているかというと、あなたの筆が充分じゅうぶんに冴さえているに拘かかわらず、あなたの描えがく景色けいしょくなり、小道具どうぐなりが、朧月おぼろづきの暈かさのように何等か詩的してきな聯想れんそうをフリンジに帯おびて、其本体ほんたいと共に、読者どくしゃの胸に流ながれ込こむからです。私は特とくに流ながれ込こむという言葉ことばを此所ここに用いました。もともと淡あわい影のような像ですから、胸を突つつくのでも、鋭く刺さすのでもない様です。あなたの書いたもののうちには、人が気狂きちがいになる所があります。人が短刀たんとうで自殺さっする所も、短銃ピストルで死しぬ所もあります。是等これらは大概たいげい裏から書かくか、又は極ごく簡単かんたんに叙し去って仕舞しまわれるので、当あたり前まえの場合ばあいでも、それ程苦痛くつうに近い強烈きょうれつな刺戟しげきを読者どくしゃに与えないかも知れませんが、それでも、若もし以上いじょうに述べたような詩的してきの雰囲気ふんいきの中で事が起らなかったなら、ああした淡あわい好い感かんじは与えられますまい。

此ぼうっとした印象いんしょうが、美的びてきな快感かいかんを損そこなわない程度ていどの軽かるい哀愁あいしゅうとして、読者どくしゃの胸にいつの間にか忍しのび込こむ理由りゆうを、客観きゃっかん的に翻訳やくすると色々な物象ぶっしょうとして排列はいれつされます。其内で私は歴史的してきに読者どくしゃの過去かこを蕩揺とうようする、草双紙そうしとか、薄暗うすくらい倉とか、古臭ふるくさい行灯あんどんとか、または旧幕きゅうばく時代じだいから連綿れんめんとつづいている旧家きゅうかとか、温泉場せんばとかを第一だいいちに挙あげたいと思います。過去かこはぼんやりしたものです。そうして何処どこかに懐なつかしい匂においを持っています。あなたはそれを巧たくみに使つかいこなして居おるのでしょう。

単たんに歴史上しじょうの過去かこばかりではありません、あなたは自分じぶんの幼時ようじの追憶ついおくを、今から回顧かいこして忘わすれられない美くしい夢のように叙述じょじゅつしています。私は一、二、三、四、と段々読んで行ゆくうちに此種の情調じょうちょうが、私の周囲しゅういを蜘蛛くもの糸の如く取り巻いて、散文さんぶん的な私を、何時いつの間にか夢幻むげんの世界せかいに連れ込んで行ったのをよく記憶きおくしています。私の心は次第しだい々々に其中きちゅうに引き込まれて、遂ついに「珊瑚樹さんごじゅの根付ねつけ」迄行って全くあなたの為に擒とりこにされて仕舞ったのです。だから幼時ようじの記憶きおくとして其儘そのままを叙述じょじゅつしていない「夷講えびすこうの夜の事であった」に至いたって却かえって失望しつぼうしようとしたのです。

私は此種の筆致ひっちを解剖かいぼうして第二番目に遠とおくに聞きこえる物売ものうりの声だの、ハーモニカの節だの、按摩あんまの笛ふえの音だのを挙あげたいと思います。凡すべて声は聴いているうちにすぐ消きえるのが常です。だから其所そこには現在げんざいがすぐ過去かこに変化かする無常むじょうの観念かんねんが潜ひそんでいます。そうして其過去かこが過去かことなりつつも、猶なお意識いしきの端に幽霊ゆうれいのような朧気おぼろげな姿となって佇立たたずんでいて、現在げんざいと結び付いているのです。声が一種いっしゅ切きり捨すてられない夢幻むげん的な情調じょうちょうを構成こうせいするのは是が為ではないでしょうか。新内しんないとか端唄はうたとか歌沢うたざわとか浄瑠璃じょうるりとか、凡すべてあなたのよく道具どうぐに使われる音楽おんがくが、其上に専門せんもん的な趣をもって、読者どくしゃの心を軽く且かつ哀あわれに動うごかすのは勿論もちろんの事ですから申もうし上あげる必要ひつようもないでしょう。然しかしあまり自分じぶんの好尚こうしょうに溺おぼれて遣やり過すぎた痕迹こんせきを残のこしたのもないとは云われません。第一だいいち編の「硝子ガラス問屋とんや」の中にはその筆があまり濃く出過すぎてはいますまいか。

叙景じょけいに於てもあなたは矢張やはり同おんなじ筆法ひっぽうで読者どくしゃの眼を朦朧もうろうと惹ひき付つける事が好すきであるように見受みうけました。要ようするに水でも樹きでも、人の顔でも凡すべてあなたの眼にうつるものは、決けっして彫刻ちょうこく的にあなたを刺戟しげきしていないように見えます。全く絵画かいが的にあなたの眸ひとみを彩いろどるのだろうと思います。しかもアンプレショニストのそれの如く極きわめて柔にこやかです。そうして何処どこかに判然はんぜんしないチャームを持っています。だから私は「荒布橋あらめばし」の冒頭ぼうとうに出てくる燕つばめの飛とぶ様子ようすや、「夷講えびすこう」の酒宴しゅえんの有様ありさまを叙じょするくだりに出会った時、大変たあいへん驚ろいたのです。二つのものは平生へいぜいのあなたの筆で書かきこなされたものとは思えない位硬かたいのです。

要ようするに貴方きほうの小説しょうせつに有あり余あまる程出てくるのは一種いっしゅ独特どくとくのムードでしょう。だから夫それがまとまらない上に、筋が通らないとか、又は主人しゅじん公の哲学てつがく観などが露骨ろこつに出てくると、一方いっぽうが一方いっぽうを殺ころして、少すこし平生へいぜいの御手際おてぎわに似合わない段違だんちがいのものが出来しゅったいはしまいかと疑われます。「荒布橋ぬのはし」とか、「岡田おかだ君の日記にっき」とか、「六月むつきの夜」の一部いちぶ分とかになると、其所そこに手荒てあらで変に不調和ちょうわなものが露あらわれているようです。其代りよし気分きぶん丈だけのものでも筋のまとまらない「河岸かしの夜」といったような、(其中きちゅうには六むずかしい議論ぎろんも織り込まれてはいるが)ただ装飾そうしょく的で左程さほど他ひとの情緒じょうしょをそそる事の出来しゅったいないものもあると申もうし添そえなければならなくなります。悪口あっこうの序ついでだから、「北きたより南へ」という短篇たんぺんの評も此処ここに付つけ加くわえて置おきたいと思います。ああ云った調子ちょうしのものは、アナトール・フランスの短篇たんぺんに沢山たくさんあります。そうして遺憾いかんながら彼かの方が貴方きほうよりずっと旨うまいと思います。

あなたの作に就いて情調じょうちょうとか、ムードとか云いうものを挙あげて、それを具合ぐわい好すく説明せつめいすれば、既すでに大半たいはんの批評ひひょうは出来上ったように考かんがえられるのですが、其ムードを作つくり上あげるために、河岸かしの寿司屋すしやとか、通とおりの丸花とか、乃至ないしは坊間ぼうかんの音曲おんぎょくなど丈だけが道具どうぐになっているという意味いみでは決けっしてないのです。あなたの書かき下くだす人間じんかんが、人間じんかんとして一人前いちにんまえに活動かつどうしつつ、同時どうじに其一篇のムードを構成こうせいしている事は疑もない事実じじつです。亮さんでも、京さんでも、彼等のする事は皆此両様りょうようの主意しゅいを同時どうじに満足まんぞくさせてるではありませんか。「三人の従兄弟いとこ」などになると、其上に又親父しんぷさんの青年せいねんに対たいする反抗はんこう的な感情かんじょうが一篇の主意しゅいもしくは哲理てつりとして後の方に出ています。

次にあなたの理解りかい力に就いて一言いちごん其特色とくしょくを述べたいと思います。あなたの頭の働はたらきは全く科学的がくてきでありながら、其濃こまやかな点が、あなたの情緒じょうしょの描写びょうしゃによく調和ちょうわして、綿密めんみつによく行き渡っています。そうして不思議ふしぎにもそれが普通ふつうのありふれた作物さくぶつのように、くだくだしくならないのです。いくら微細びさいな心的しんてき現象げんしょうの解剖かいぼうでも、又は外観がいかんからくる人間じんかんの精密せいみつな描写びょうしゃでも、決けっして干乾ひからびていません。必かならず委曲いきょく要領ようりょうをつくすのみならず、其所そこにあなたの独得どくとくの一種いっしゅの趣おもむきが漂ただよっているのです。私の見みる所によると其趣はあなたの観察かんさつが突飛とっぴに走らない程度ていどで、場合ばあい々々に適当てきとうな新あたらしい刺戟しげきを読者どくしゃに与え得えるからだろうと思います。「霊岸れいがん島の自殺じさつ」や「船室せんしつ」の前半ぜんはんの如きは、その方ほう面のいい作例さくれいと見て差支さしつかえないでしょう。ことに前者ぜんしゃに於て、ある男とある女の性的せいてき関係かんけいの階級かいきゅう等差とうさが、あれ程細かく書いてありながら、些ちっとも卑猥ひわいな心持こころもちを起させずに、ただ精緻せいちな観察かんさつ其物として、他をぐいぐい引ひき付つけて行ゆく処などは、何どうしても旨うまいと云わなければなりません。此小説しょうせつは主人しゅじん公が東京とうきょうへ出てからの心の変化へんかに、前半ぜんはん程緻密ちみつな且かつ穏当おんとうな、芸術げいじゅつ的描写びょうしゃが欠けているため、多少たしょうのむらがあると思いますが、世間せけんでいう小説しょうせつの意味いみから批判ひはんすると、或は圧巻あっかんの作かも知れません。

要ようするに貴方きほうの書かき方は絹漉きぬごし豆腐とうふのように、又婦人ふじんの餅肌もちはだのように柔やわらかなのです、上部うわべばかり手触てざわりが好いのかと思おもうと、中味なかみ迄ふくふくしているのです。線でいうと、外ほかの人の文章ぶんしょうが直線ちょくせんで出来しゅったいているのに反して、あなたのは何処どこも婉曲えんきょくな曲線きょくせんの配合はいごうで成り立っているような気がします。しかも其曲線きょくせんのカーヴが非常ひじょうに細こまかいのです。外の人が一尺で継つぎ易かえる所を、あなたは僅わずか一寸ちょっとか二寸の長さで細かに調子ちょうしよく継つぎ足たしては前へ進んで行ゆくとしか形容けいよう出来しゅったいません。其所そこにあなたの作物さくぶつには、他に発見はっけんする事の出来しゅったいないデリケートな美くしさが伏在ふくざいしているのでしょう。もう一つ比喩ひゆを改あらためて云えば、あなたの文章ぶんしょうは楷書かいしょでなくって悉ことごとく草書そうしょです。それも懐素かいそのような奇怪きっかいな又飄逸ひょういつなものではありません、もっと柔やわらかに、もっと穏おだやかに、そうして時々粋な所を仄ほのめかすといったような草書そうしょです。

此冗長じょうちょうな手紙てがみが、もし貴方きほうの小説しょうせつ集の序文じょぶんとして御役に立だつならば何どうぞ御使つかい下さい。私は貴方きほうに対たいする愉快ゆかいな義務ぎむとして、それを認したためたのですから。

一月十八日夜にちや

夏目なつめ金之助きんのすけ

木下きのした杢太郎もくたろう様

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房


   1972(昭和47)年1月10日第1刷発行

※吉田精一による底本の「解説」によれば、発表年月は、1915(大正4)年2月。

入力:Nana ohbe

校正:米田進

2002年4月27日作成

2003年5月11日修正

青空文庫作成ファイル:※底本では、促音、拗音のふりがなは普通の大きさの仮名になっている。(校正者記す)

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
米田進

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