Nihoner

夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

一夜

いちや

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「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ひげある人が二たび三たび微吟びぎんして、あとは思案しあんの体ていである。灯ひに写うつる床柱とこばしらにもたれたる直なおき背せの、この時少すこしく前にかがんで、両手りょうてに抱いだく膝頭ひざがしらに険けわしき山が出来できる。佳句かくを得て佳句かくを続つぎ能あたわざるを恨うらみてか、黒くゆるやかに引ひける眉まゆの下より安からぬ眼の色が光ひかる。

「描えがけども成らず、描けども成らず」と椽えんに端居はしいして天下てんか晴はれて胡坐あぐらかけるが繰くり返かえす。兼かねて覚おぼえたる禅語ぜんごにて即興そっきょうなれば間まに合あわすつもりか。剛こわき髪を五分ぶに刈かりて髯貯たくわえぬ丸顔まるがおを傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高たからかに誦じゅし了おわって、からからと笑わらいながら、室へやの中なる女を顧かえりみる。

竹籠たけかごに熱き光ひかりを避けて、微かすかにともすランプを隔へだてて、右手みぎてに違ちがい棚だな、前は緑り深き庭に向えるが女である。

「画家がかならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠わくに張って、縫ぬいにとりましょ」と云いながら、白地しろじの浴衣ゆかたに片足かたあしをそと崩くずせば、小豆皮あずきがわの座布団ざぶとんを白き甲が滑すべり落ちて、なまめかしからぬほどは艶えんなる居いずまいとなる。

「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝ひざ抱いだく男が再ふたたび吟じ出だすあとにつけて「縫ぬいにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態わざとらしからぬ様さまながらちょと笑わらう。やがて朱塗しゅぬりの団扇うちわの柄えにて、乱みだれかかる頬ほおの黒髪くろかみをうるさしとばかり払えば、柄えの先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫かおりの中に躍おどり入る。

「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑わらう。女の頬には乳色ちちいろの底から捕えがたき笑の渦うずが浮き上って、瞼まぶたにはさっと薄き紅くれないを溶とく。

「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目まじめにきく。

「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹にじの糸、夜と昼との界さかいなる夕暮ゆうぐれの糸、恋の色、恨うらみの色は無論むろんありましょ」と女は眼をあげて床柱とこばしらの方を見みる。愁うれいを溶といて錬ねり上あげし珠たまの、烈はげしき火には堪たえぬほどに涼すずしい。愁の色は昔むかしから黒である。

隣へ通かよう路次ろじを境に植うえ付つけたる四五しご本ほんの檜ひのきに雲を呼んで、今やんだ五月雨さみだれがまたふり出だす。丸顔まるがおの人はいつか布団ふとんを捨てて椽えんより両足りょうあしをぶら下げている。「あの木立こだちは枝を卸おろした事がないと見まみえる。梅雨つゆもだいぶ続いた。よう飽あきもせずに降ふるの」と独ひとり言ごとのように言いながら、ふと思おもい出でした体ていにて、吾わが膝頭ひざがしらを丁々ちょうちょうと平手ひらてをたてに切って敲たたく。「脚気かっけかな、脚気かっけかな」

残のこる二人ふたりは夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話はなしの緒いとぐちをたぐる。

「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世よは汚けがれたりと云いえる顔かおつきである。「世よの中なかが古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と扇がんせんに軽かろく玉肌ぎょっきを吹ふく。「古き壺つぼには古き酒があるはず、味あじわいたまえ」と男も鵞鳥がちょうの翼はねを畳たたんで紫檀したんの柄えをつけたる羽団扇はうちわで膝のあたりを払はらう。「古き世に酔よえるものなら嬉うれしかろ」と女はどこまでもすねた体である。

この時「脚気かっけかな、脚気かっけかな」としきりにわが足を玩もてあそべる人、急に膝頭ひざがしらをうつ手を挙あげて、叱しっと二人ふたりを制せいする。三人の声が一度ひとたびに途切とぎれる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝うわえだを掠かすめて裏の禅寺ぜんでらの方へ抜ける。ククー。

「あの声がほととぎすか」と羽団扇はうちわを棄すててこれも椽側えんがわへ這はい出す。見上みあげる軒端のきばを斜ななめに黒ぐろい雨が顔にあたる。脚気かっけを気にする男は、指を立てて坤ひつじさるの方かたをさして「あちらだ」と云いう。鉄牛寺てつぎゅうじの本堂ほんどうの上うえあたりでククー、ククー。

「一声ひとこえでほととぎすだと覚さとる。二声で好い声だと思うた」と再ふたたび床柱とこばしらに倚よりながら嬉しそうに云いう。この髯男は杜鵑ほととぎすを生れて初はじめて聞いたと見まみえる。「ひと目見まみてすぐ惚ほれるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥はずかしと云いう気色けしきも見えぬ。五分刈ごぶがりは向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚ほれたら胸は痞つかえるだろ。惚ほれぬ事。惚ほれぬ事……。どうも脚気かっけらしい」と拇指おやゆびで向脛むこうずねへ力穴ちからあなをあけて見みる。「九仞きゅうじんの上に一簣いっきを加くわえる。加えぬと足らぬ、加くわえると危あやうい。思おもう人には逢あわぬがましだろ」と羽団扇はうちわがまた動うごく。「しかし鉄片てっぺんが磁石じせきに逢おうたら?」「はじめて逢あうても会釈えしゃくはなかろ」と拇指ぼしの穴を逆さかに撫なでて澄ましている。

「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識にんしきするのが不思議ふしぎだ」と仔細しさいらしく髯を撚ひねる。「わしは歌麻呂うたまろのかいた美人びじんを認識にんしきしたが、なんと画えを活いかす工夫こうふはなかろか」とまた女の方を向むく。「私わたしには――認識にんしきした御本人ほんにんでなくては」と団扇うちわのふさを繊ほそい指に巻まきつける。「夢にすれば、すぐに活いきる」と例の髯が無造作むぞうさに答こたえる。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語がたり出そうとする時、蚊遣火かやりびが消えて、暗きに潜ひそめるがつと出でて頸筋くびすじにあたりをちくと刺さす。

「灰が湿しめっているのか知らん」と女が蚊遣かやり筒を引ひき寄よせて蓋ふたをとると、赤あかい絹糸けんしで括くくりつけた蚊遣かやり灰が燻いぶりながらふらふらと揺ゆれる。東隣とうりんで琴ことと尺八しゃくはちを合あわせる音が紫陽花あじさいの茂しげみを洩もれて手にとるように聞え出だす。すかして見みると明け放ちたる座敷ざしきの灯ひさえちらちら見まみえる。「どうかな」と一人ひとりが云いうと「人並じゃ」と一人ひとりが答こたえる。女ばかりは黙っている。

「わしのはこうじゃ」と話はなしがまた元へ返かえる。火をつけ直なおした蚊遣かやりの煙が、筒に穿うがてる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度こんどはつきました」と女が云いう。三つの煙りが蓋ふたの上に塊かたまって茶色ちゃいろの球たまが出来できると思おもうと、雨を帯びた風が颯さっと来て吹ふき散ちらす。塊まらぬ間うちに吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描えがいて、黒塗くろぬりに蒔絵まきえを散らした筒の周囲まわりを遶めぐる。あるものは緩ゆるく、あるものは疾とく遶る。またある時は輪わさえ描えがく隙ひまなきに乱みだれてしまう。「荼毘だびだ、荼毘だびだ」と丸顔まるがおの男は急に焼場やきばの光景こうけいを思おもい出だす。「蚊かの世界せかいも楽じゃなかろ」と女は人間じんかんを蚊に比較ひかくする。元へ戻もどりかけた話しも蚊遣かやり火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語がたりつづけようともせぬ。世よの中なかはすべてこれだと疾とうから知っている。

「御夢の物語ものがたりは」とややありて女が聞きく。男は傍かたわらにある羊皮ようひの表紙ひょうしに朱で書名しょめいを入れた詩集ししゅうをとりあげて膝の上に置おく。読よみさした所に象牙ぞうげを薄く削けずった紙かみ小刀ナイフが挟はさんである。巻かんに余って長く外へ食はみ出した所だけは細こまかい汗をかいている。指の尖さきで触さわると、ぬらりとあやしい字が出来できる。「こう湿気しけてはたまらん」と眉まゆをひそめる。女も「じめじめする事」と片手かたでに袂たもとの先を握って見て、「香こうでも焚たきましょか」と立だつ。夢の話はなしはまた延のびる。

宣徳せんとくの香炉こうろに紫檀したんの蓋があって、紫檀したんの蓋の真中まなかには猿を彫きざんだ青玉せいぎょくのつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛くもが」と云いうて長ながい袖そでが横に靡なびく、二人ふたりの男は共に床とこの方を見みる。香炉こうろに隣となる白磁はくじの瓶へいには蓮はすの花はながさしてある。昨日きのうの雨を蓑みの着て剪きりし人の情なさけを床とこに眺ながむる莟つぼみは一輪、巻葉まきばは二つ。その葉を去さる三寸ばかりの上に、天井てんせいから白金しろがねの糸を長く引いて一匹の蜘蛛くもが――すこぶる雅がだ。

「蓮の葉に蜘蛛くも下くだりけり香を焚たく」と吟じながら女一度ひとたびに数弁すうべんを攫つかんで香炉こうろの裏うちになげ込こむ。「蛸しょうしょう懸かかって不揺うごかず、篆煙てんえん遶竹梁ちくりょうをめぐる」と誦じゅして髯ひげある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛くもも動かぬ。ただ風吹ふく毎に少すこしくゆれるのみである。

「夢の話はなしを蜘蛛くももききに来たのだろ」と丸まるい男が笑わらうと、「そうじゃ夢に画えを活いかす話はなしじゃ。ききたくば蜘蛛くもも聞け」と膝の上なる詩集ししゅうを読よむ気もなしに開あく。眼は文字もじの上に落つれども瞳裏とうりに映えいずるは詩の国の事か。夢の国の事か。

「百二十にじゅう間の廻廊かいろうがあって、百二十にじゅう個の灯籠とうろうをつける。百二十にじゅう間の廻廊かいろうに春の潮うしおが寄よせて、百二十にじゅう個の灯籠とうろうが春風しゅんぷうにまたたく、朧おぼろの中、海の中には大おおきな華表とりいが浮かばれぬ巨人きょじんの化物ばけもののごとくに立だつ。……」

折おりから烈はげしき戸鈴ベルの響がして何者なにものか門口かどぐちをあける。話はなし手てははたと話をやめる。残のこるはちょと居いずまいを直なおす。誰も這入はいって来た気色けしきはない。「隣だ」と髯ひげなしが云いう。やがて渋蛇しぶじゃの目を開あく音がして「また明晩みょうばん」と若わかい女の声がする。「必かならず」と答えたのは男らしい。三人は無言むごんのまま顔を見合せて微かすかに笑わらう。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面へいめんにつづめればやはり画がだ」「しかしあの声は?」「女は藤紫ふじむらさき」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向むく。女は「緋ひ」と賤いやしむごとく答こたえる。

「百二十にじゅう間の廻廊かいろうに二百にひゃく三十さんじゅう五枚の額が懸かかって、その二百にひゃく三十さんじゅう二枚目にまいめの額に画かいてある美人びじんの……」

「声は黄色こうしょくですか茶色ちゃいろですか」と女がきく。

「そんな単調たんちょうな声じゃない。色には直なおせぬ声じゃ。強しいて云えば、ま、あなたのような声かな」

「ありがとう」と云いう女の眼の中うちには憂をこめて笑の光が漲みなぎる。

この時いずくよりか二疋ひきの蟻ありが這はい出して一疋は女の膝ひざの上に攀よじ上のぼる。おそらくは戸迷とまどいをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物えものもなくて下くだり路みちをすら失うた。女は驚ろいた様さまもなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払はらい落おとす。落されたる拍子ひょうしに、はたと他の一疋と高麗縁こうらいべりの上で出逢であう。しばらくは首と首を合あわせて何かささやき合あえるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里こいまりの菓子かし皿を端はじまで同行どうぎょうして、ここで右と左へ分わかれる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯なき男がやがて云いう。

「八畳の座敷ざしきがあって、三人の客が坐わる。一人ひとりの女の膝へ一疋の蟻が上のぼれる。一疋の蟻が上った美人びじんの手は……」

「白じろい、蟻は黒ぐろい」と髯がつける。三人が斉ひとしく笑わらう。一疋の蟻は灰吹はいふきを上りつめて絶頂ぜっちょうで何か思案しあんしている。残のこるは運よく菓子かし器の中で葛餅くずもちに邂逅かいこうして嬉しさの余あまりか、まごまごしている気合けわいだ。

「その画えにかいた美人びじんが?」と女がまた話を戻もどす。

「波さえ音もなき朧月夜おぼろづきよに、ふと影がさしたと思えばいつの間まにか動うごき出だす。長く連つらなる廻廊かいろうを飛とぶにもあらず、踏ふむにもあらず、ただ影のままにて動うごく」

「顔は」と髯なしが尋たずねる時、再ふたたび東隣ひがしどなりの合奏がっそうが聞え出だす。一曲は疾とくにやんで新あらたなる一曲を始はじめたと見まみえる。あまり旨うまくはない。

「蜜を含んで針を吹ふく」と一人ひとりが評ひょうすると

「ビステキの化石かせきを食わせるぞ」と一人ひとりが云いう。

「造つくり花なら蘭麝らんじゃでも焚たき込めばなるまい」これは女の申もうし分ぶんだ。三人が三様さんようの解釈かいしゃくをしたが、三様さんよう共すこぶる解しにくい。

「珊瑚さんごの枝は海の底、薬を飲んで毒を吐つく軽薄けいはくの児じ」と言いかけて吾に帰がえりたる髯が「それそれ。合奏がっそうより夢の続きが肝心かんじんじゃ。――画から抜ぬけだした女の顔は……」とばかりで口くちごもる。

「描えがけども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子ちょうしをとりて軽く銀椀ぎんわんを叩たたく。葛餅くずもちを獲えたる蟻はこの響ひびきに度を失して菓子かし椀の中を右左みぎひだりへ馳かけ廻まわる。

「蟻の夢が醒さめました」と女は夢を語かたる人に向って云いう。

「蟻の夢は葛餅くずもちか」と相手あいては高からぬほどに笑わらう。

「抜ぬけ出でるぬか、抜ぬけ出でるぬか」としきりに菓子かし器を叩たたくは丸まるい男である。

「画から女が抜ぬけ出でるより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。

「それは気がつかなんだ、今度こんどからは、こちが画になりましょ」と男は平気へいきで答こたえる。

「蟻も葛餅くずもちにさえなれば、こんなに狼狽うろたえんでも済すむ事を」と丸まるい男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻はまきを鷹揚おうようにふかしている。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房

   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房

   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月

※底本本文では、「」は、「虫+嘯のつくり」とつくってある。しかし、底本の注記では、つくりにくさかんむりのある「」が用いられている。下記の異本とも照合の上、当該の箇所は「」で入力した。

   「倫敦塔・幻影の盾」岩波文庫、岩波書店

   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行

   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行

   1997(平成9)年9月5日第30刷発行

   「倫敦塔・幻影の盾」新潮文庫、新潮社

   1952(昭和27)年7月10日初版発行

   1968(昭和43)年9月15日20刷改版発行

   1997(平成9)年4月25日69刷発行

入力:柴田卓治

校正:LUNA CAT

2000年9月11日公開

2011年12月5日修正

青空文庫作成ファイル:

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柴田卓治
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LUNA CAT

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