Nihoner

有島武郎 Takeo Arishima 1878.03.04〜1923.06.09

碁石を呑んだ八っちゃん

ごいしをのんだやっちゃん

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八やっちゃんが黒ぐろい石も白じろい石もみんなひとりで両手りょうてでとって、股ももの下に入れてしまおうとするから、僕は怒ってやったんだ。

「八っちゃんそれは僕んだよ」

といっても、八っちゃんは眼めばかりくりくりさせて、僕の石までひったくりつづけるから、僕は構わずに取りかえしてやった。そうしたら八っちゃんが生意気いきに僕の頬ほっぺたをひっかいた。お母さんがいくら八っちゃんは弟だから可愛かあいがるんだと仰有おっしゃったって、八っちゃんが頬ぺたをひっかけば僕だって口惜くやしいから僕も力ちからまかせに八っちゃんの小ちっぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先さきが眼にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配しんぱいだった。ひっかいたらすぐ泣くだろうと思った。そうしたらいい気持きもちだろうと思ってひっかいてやった。八っちゃんは泣かないで僕にかかって来た。投げ出していた足を折りまげて尻しりを浮かして、両手りょうてをひっかく形にして、黙ったままでかかって来たから、僕はすきをねらってもう一度ひとたび八っちゃんの団子だんご鼻の所をひっかいてやった。そうしたら八っちゃんは暫しばらく顔中かおじゅうを変へんちくりんにしていたが、いきなり尻をどんとついて僕の胸の所がどきんとするような大おおきな声で泣なき出した。

僕はいい気味きみで、もう一つ八っちゃんの頬ぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足許あしもとにころげている碁石ごいしを大急おういそぎでひったくってやった。そうしたら部屋へやのむこうに日ひなたぼっこしながら衣物きものを縫っていた婆ばあやが、眼鏡めがねをかけた顔をこちらに向けて、上眼うわめで睨にらみつけながら、

「また泣かせて、兄さん悪わるいじゃありませんか年としかさのくせに」

といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死しにそうに泣なくものだから、いきなり立って来て八っちゃんを抱き上げた。婆ばあやは八っちゃんにお乳を飲ませているものだから、いつでも八っちゃんの加勢かせをするんだ。そして、

「おおおお可哀かあいそうに何処どこを。本当ほんとに悪わるい兄さんですね。あらこんなに眼の下を蚯蚓みみずばれにして兄さん、御免ごめんなさいと仰有おっしゃいまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」

誰たれが八っちゃんなんかに御免ごめんなさいするもんか。始はじめっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆ばあやを睨みつけてやった。

婆ばあやはわあわあ泣なく八っちゃんの脊中せなかを、抱いたまま平手ひらてでそっとたたきながら、八っちゃんをなだめたり、僕に何なんだか小言こごとをいい続つずけていたが僕がどうしても詫あやまってやらなかったら、とうとう

「それじゃよう御座ござんす。八っちゃんあとで婆ばあやがお母さんに皆みんないいつけてあげますからね、もう泣なくんじゃありませんよ、いい子ね。八っちゃんは婆ばあやの御秘蔵ごひぞうっ子こ。兄さんと遊ばずに婆ばあやのそばにいらっしゃい。いやな兄さんだこと」

といって僕が大急おういそぎで一ひとかたまりに集めた碁石ごいしの所に手を出だして一掴ひとつかみ掴もうとした。僕は大急おういそぎで両手りょうてで蓋ふたをしたけれども、婆ばあやはかまわずに少すこしばかり石を拾って婆ばあやの坐すわっている所に持っていってしまった。

普段ふだんなら僕は婆ばあやを追いかけて行って、婆ばあやが何なんといっても、それを取りかえして来くるんだけれども、八っちゃんの顔に蚯蚓みみずばれが出来しゅったいていると婆ばあやのいったのが気きがかりで、もしかするとお母さんにも叱しかられるだろうと思おもうと少すこし位ぐらい碁石ごいしは取られても我慢がまんする気になった。何なにしろ八っちゃんよりはずっと沢山だくさんこっちに碁石ごいしがあるんだから、僕は威張いばりっていいと思った。そして部屋へやの真中まんなかに陣どって、その石を黒と白とに分わけて畳の上に綺麗きれいにならべ始はじめた。

八っちゃんは婆ばあやの膝ひざに抱かれながら、まだ口惜くやしそうに泣なきつづけていた。婆ばあやが乳をあてがっても呑のもうとしなかった。時々思い出しては大おおきな声を出した。しまいにはその泣声なきごえが少すこし気になり出だして、僕は八っちゃんと喧嘩けんかしなければよかったなあと思おもい始はじめた。さっき八っちゃんがにこにこ笑わらいながら小ちいさな手に碁石ごいしを一杯いっぱい握って、僕が入用いらないといったのも僕は思おもい出でした。その小ちいさな握拳にぎりこぶしが僕の眼の前でひょこりひょこりと動いた。

その中うちに婆ばあやが畳の上に握っていた碁石ごいしをばらりと撒まくと、泣なきじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆ばあやの膝からすべり下りてそれをおもちゃにし始はじめた。婆ばあやはそれを見みると、

「そうそうそうやっておとなにお遊あそびなさいよ。婆ばあやは八っちゃんのおちゃんちゃんを急いで縫ぬい上あげますからね」

といいながら、せっせと縫物ぬいものをはじめた。

僕はその時、白じろい石で兎うさぎを、黒ぐろい石で亀かめを作ろうとした。亀の方は出来しゅったいたけれども、兎の方はあんまり大きく作ったので、片方かたかたの耳の先さきが足りなかった。もう十ほどあればうまく出来上できあがるんだけれども、八っちゃんが持っていってしまったんだから仕方しかたがない。

「八っちゃん十だけ白じろい石くれない?」

といおうとしてふっと八っちゃんの方に顔を向けたが、縁側えんがわの方を向むいて碁石ごいしをおもちゃにしている八っちゃんを見たら、口をきくのが変になった。今喧嘩けんかしたばかりだから、僕から何かいい出だしてはいけなかった。だから仕方なしに僕は兎をくずしてしまって、もう少すこし小さく作りなおそうとした。でもそうすると亀の方が大きくなり過すぎて、兎が居眠いねむりしないでも亀の方が駈かけっこに勝かちそうだった。だから困っちゃった。

僕はどうしても八っちゃんに足らない碁石ごいしをくれろといいたくなった。八っちゃんはまだ三つですぐ忘わすれるから、そういったら先刻さっきのように丸まるい握拳にぎりこぶしだけうんと手を延ばしてくれるかもしれないと思った。

「八っちゃん」

といおうとして僕はその方ほうを見た。

そうしたら八っちゃんは婆ばあやのお尻の所で遊んでいたが真赤まっかな顔になって、眼に一杯いっぱい涙をためて、口を大きく開いて、手と足とを一生いっしょう懸命けんめいにばたばたと動かしていた。僕は始はじめ清正公様せいしょうこうさまにいるかったいの乞食こじきがお金をねだる真似まねをしているのかと思った。それでもあのおしゃべりの八っちゃんが口をきかないのが変だった。おまけに見ていると、両手りょうてを口のところにもって行って、無理むりに口の中に入れようとしたりした。何なんだかふざけているのではなく、本気ほんきの本気ほんきらしくなって来た。しまいには眼を白くしたり黒くしたりして、げえげえと吐はきはじめた。

僕は気味きみが悪くなって来た。八っちゃんが急に怖こわい病気びょうきになったんだと思おもい出でした。僕は大おおきな声で、

「婆ばあや……婆ばあや……八っちゃんが病気びょうきになったよう」

と怒鳴どなってしまった。そうしたら婆ばあやはすぐ自分じぶんのお尻の方をふり向いたが、八っちゃんの肩に手をかけて自分じぶんの方に向けて、急に慌あわてて後うしろから八っちゃんを抱いて、

「あら八っちゃんどうしたんです。口をあけて御覧ごらんなさい。口をですよ。こっちを、明あかるい方を向むかいて……ああ碁石ごいしを呑んだじゃないの」

というと、握にぎり拳こぶしをかためて、八っちゃんの脊中せなかを続つずけさまにたたきつけた。

「さあ、かーっといってお吐きなさい……それもう一度ひとたび……どうしようねえ……八っちゃん、吐つくんですよう」

婆ばあやは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中せなかをたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中うちに婆ばあやの側に来て立たったままで八っちゃんの顔を見下みおろしていた。八っちゃんの顔は血が出でるほど紅あかくなっていた。婆ばあやはどもりながら、

「兄さんあなた、早くいって水を一杯いっぱい……」

僕は皆まで聞かずに縁側えんがわに飛とび出だして台所だいどころの方に駈かけて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気びょうきはなおるにちがいないと思った。そうしたら婆ばあやが後うしろからまた呼よびかけた。

「兄さん水は……早くお母さんの所にいって、早く来て下さいと……」

僕は台所だいどころの方に行ゆくのをやめて、今度こんどは一生いっしょう懸命けんめいでお茶ちゃの間まの方に走った。

お母さんも障子そうじを明けはなして日ひなたぼっこをしながら静しずかに縫物ぬいものをしていらしった。その側そばで鉄瓶てつびんのお湯がいい音をたてて煮えていた。

僕にはそこがそんなに静しずかなのが変に思えた。八っちゃんの病気びょうきはもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中うちは駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった。

「お母さん……お母さん……八っちゃんがね……こうやっているんですよ……婆ばあやが早く来てって」

といって八っちゃんのしたとおりの真似まねを立ちながらして見せた。お母さんは少すこしだるそうな眼をして、にこにこしながら僕を見たが、僕を見みると急に二つに折っていた背中せなかを真直まっすぐになさった。

「八っちゃんがどうかしたの」

僕は一生いっしょう懸命けんめい真面目まじめになって、

「うん」

と思おもい切きり頭を前の方にこくりとやった。

「うん……八っちゃんがこうやって……病気びょうきになったの」

僕はもう一度ひとたび前と同おんなじ真似まねをした。お母さんは僕を見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急おういそぎで頭にさしていた針を抜いて針はりさしにさして、慌あわてて立ち上って、前まえかけの糸いとくずを両手りょうてではたきながら、僕のあとから婆ばあやのいる方に駈けていらしった。

「婆ばあや……どうしたの」

お母さんは僕を押しのけて、婆ばあやの側に来てこう仰有おっしゃった。

「八っちゃんがあなた……碁石ごいしでもお呑のみになったんでしょうか……」

「お呑みになったんでしょうかもないもんじゃないか」

お母さんの声は怒った時の声だった。そしていきなり婆ばあやからひったくるように八っちゃんを抱き取って、自分じぶんが苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足しゅそくを動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。

「象牙ぞうげのお箸はしを持って参まいりましょうか……それで喉のどを撫なでますと……」婆ばあやがそういうかいわぬに、

「刺とげがささったんじゃあるまいし……兄さんあなた早く行って水を持っていらっしゃい」

と僕の方を御覧ごらんになった。婆ばあやはそれを聞きくと立上ったが、僕は婆ばあやが八っちゃんをそんなにしたように思ったし、用は僕がいいつかったのだから、婆ばあやの走はしるのをつき抜ぬけて台所だいどころに駈けつけた。けれども茶碗ちゃわんを探してそれに水を入いれるのは婆ばあやの方が早かった。僕は口惜くやしくなって婆ばあやにかぶりついた。

「水は僕が持ってくんだい。お母さんは僕に水を……」

「それどころじゃありませんよ」

と婆ばあやは怒ったような声を出だして、僕がかかって行ゆくのを茶碗ちゃわんを持っていない方の手で振りはらって、八っちゃんの方にいってしまった。僕は婆ばあやがあんなに力があるとは思わなかった。僕は、

「僕だい僕だい水は僕が持って行ゆくんだい」

と泣きそうに怒って追っかけたけれども、婆ばあやがそれをお母さんの手に渡わたすまで婆ばあやに追おいつくことが出来しゅったいなかった。僕は婆ばあやが水をこぼさないでそれほど早く駈けられるとは思わなかった。

お母さんは婆ばあやから茶碗ちゃわんを受取うけとると八っちゃんの口の所にもって行った。半分はんぶんほど襟頸えりくびに水がこぼれたけれども、それでも八っちゃんは水が飲めた。八っちゃんはむせて、苦しがって、両手りょうてで胸の所を引ひっかくようにした。懐ふところの所に僕がたたんでやった「だまかし船ふね」が半分はんぶん顔を出だしていた。僕は八っちゃんが本当ほんとに可愛そうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死しぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死しぬにちがいないと思った。

今まで口惜しがっていた僕は急に悲しくなった。お母さんの顔が真蒼まっさおで、手がぶるぶる震ふるえて、八っちゃんの顔が真紅まっかで、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ひとりぼっちになってしまったようで、我慢がまんのしようもなく涙が出た。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「一房の葡萄 他四篇」岩波文庫、岩波書店


   1988(昭和63)年12月16日改版第1刷発行

底本の親本:「一房の葡萄」叢文閣

   1922(大正11)年6月

入力:鈴木厚司

校正:地田尚

2000年10月18日公開

2005年11月18日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
鈴木厚司
Proofread by (校正)
地田尚

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