Nihoner

有島武郎 Takeo Arishima 1878.03.04〜1923.06.09

星座

せいざ

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その日も、明あけがたまでは雨になるらしく見えた空が、爽さわやかな秋の朝の光となっていた。

咳の出ない時は仰向あおむけに寝ているのがよかった。そうしたままで清逸せいいちは首だけを腰高こしだか窓の方に少すこしふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままに厠かわやに立たった。その帰がえりに空模様もようを見ようとして、一枚繰くった戸がそのままになっているので、三尺さんじゃくほどの幅だけ障子そうじが黄色く光っていた。それが部屋へやをよけい小暗く感じさせた。

隣となりの部屋へやは戸を開け放って戸外こがいのように明あかるいのだろう。そうでなければ柿江も西山にしやまもあんな騒々しい声を立たてるはずがない。早起はやおきの西山にしやまは朝寝あさねの柿江をとうとう起おこしてしまったらしい。二人ふたりは慌あわてて学校がっこうに出でる支度したくをしているらしいのに、口だけは悠々ゆうゆうとゆうべの議論ぎろんの続きらしいことを饒舌しゃべっている。やがて、

「おい、そのばか馬まをこっちに投なげてくれ」

という西山にしやまの声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに微笑ほほえんだ。

ゆうべ、柿江のはいているぼろ袴ばかまに眼をつけて、袴ほど今の世に無意味いみなものはない。袴をはいていると白痴はくちの馬に乗っているのと同おんなじで、腰から下は自分じぶんのものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山にしやまがいったのを、清逸は思いだしたのだ。

隣のドアがけたたましく開いたと思おもうと清逸のドアがノックされた。

「星野ほしの、今日はどうだ。まだ起きられんのか」

そう廊下ろうかから不必要ひつように大おおきな声を立てたのは西山にしやまだった。清逸は聞きこえる聞こえないもかまわずに、障子そうじを見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分きぶんはどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考かんがえてみねばならぬことが多かった。

けれども西山にしやまたちの足音あしおとが玄関げんかんの方に遠ざかろうとすると、清逸は浅あさい物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪きっかいにさえ思われることだった。で、自分じぶんを強しいるようにその物足らない気分きぶんを打うち消けすために、先さきほどから明あかるい障子そうじに羽根ばねを休めている蝿はえに強く視線しせんを集めようとした。その瞬間しゅんかんにしかし清逸は西山にしやまを呼びとめなければならない用事ようじを思いついた。それは西山にしやまを呼びとめなければならないほどの用事ようじであったのだろうか。とにかく清逸は大おおきな声で西山にしやまを呼んでしまった。彼は自分じぶんの喉のどから老人ろうじんのようにしわがれた虚うつろな声の放たれるのを苦々にがにがしく聞いた。

「さあ園の奴まだいたかな」

そう西山にしやまは大おおきな声で独語どくごしながら、けたたましい音をたてて階子段はしごだんを昇のぼるけはいがしたが、またころがり落おちるように二階にかいから降おりてきた。

「星野ほしの、園はいたからそういっておいたぞ」

その声は玄関げんかんの方から叫ばれた。傍若無人ぼうじゃくぶじんに何か柿江と笑わらい合あう声がしたと思おもうと、野心やしん家西山にしやまと空想くうそう家柿江とはもつれあってもう往来おうらいに出ているらしかった。

清逸の心はこのささやかな攪拌かくはんの後に元どおり沈んでいった。一度ひとたび聞耳ききみみを立たてるために天井てんじょうに向けた顔をまた障子そうじの方に向けなおした。

十月かんなずきの始はじめだ。けれども札幌さっぽろでは十分じゅうぶん朝寒あさざむといっていい時節じせつになった。清逸は綿の重おもい掛蒲団ふとんを頸の所にたくし上げて、軽かるい咳せきを二つ三つした。冷えきった空気くうきが障子そうじの所で少すこし暖あたたまるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静しずかに動いていた。黄色く光ひかる障子そうじを背景はいけいにして、黒子ほくろのように黒く点ぜられたその蝿は、六本ほんの脚の微細びさいな動うごきかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番いちばん前の両脚りょうあしと、一番いちばん後うしろの両脚りょうあしとをかたみがわりに拝おがむようにすり合せて、それで頭を撫なでたり、羽根ばねをつくろったりする動作どうさを根気こんきよく続つずけては、何なんの必要ひつようがあってか、素早くその位置いちを二三にさん寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置いちに真白く光ひかる像が残った。それが不思議ふしぎにも清逸の注意ちゅういを牽ひきつけたのだ。戸外おもてでは生活せいかつの営いとなみがいろいろな物音ものおとを立てているのに、清逸の部屋へやの中は秋らしくもの静しずかだった。清逸は自分じぶんの心の澄すむのを部屋へやの空気くうきに感かんずるように思った。

やはりおぬいさんは園に頼たのむが一番いちばんいい。柿江はだめだ。西山にしやまでも悪くはないが、あのがさつさはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山にしやまは剽軽ひょうきんなようで油断ゆだんのならないところがある。あの男はこうと思おもいこむと事情じじょうも顧みないで実行じっこうに移うつる質たちだ。人からは放漫ほうまんと思われながら、いざとなると大掴おうずかみながらに急所きゅうしょを押おさえることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。……

蝿が素早く居所きょしょをかえた。

俺はおぬいさんを要ようするわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性いせいに眼を与あたえることなどは知らない。それだから平気へいきでたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見みる時、少すこし上気じょうきした皮膚ひふの中ちゅうから大きくつやつやしく輝いて、ある羞はにかみを感かんじながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼しんらいを信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切うらぎりっている。おぬいさんは何なんにも知らないのだ。

蝿がまた動いた。軽かるい音……

おぬいさんのその眼のいうところを心に気づかせるのは俺にとっては何なんでもないことだ。それは今までも俺にはかなりの誘惑ゆうわくだった。……

清逸はそこまで考かんがえてくると眼の前には障子そうじも蝿もなくなっていた。彼かの空想くうそうの魔杖まじょうの一振ふりに、真白まっしろな百合ゆりのような大おおきな花がみるみる蕾つぼみの弱々しさから日輪にちりんのようにかがやかしく開いた。清逸は香かおりの高だかい蕊しべの中に顔を埋めてみた。蒸むすような、焼やくような、擽くすぐるような、悲しくさせるようなその香かおり、……その花から、まだ誰も嗅かがなかった高だかい香かおり……清逸はしばらく自分じぶんをその空想くうそうに溺おぼれさせていたが、心臓しんぞうの鼓動こどうの高たかまるのを感かんずるやいなや、振ふり捨すてるように空想くうそうの花からその眼を遠ざけた。

その時蝿は右の方に位置いちを移した。

清逸の心にある未練みれんを残のこしつつその万花鏡まんげきょうのような花は跡形あとかたもなく消え失うせた。

園ならばいい。あの純粋じゅんすいな園にならおぬいさんが与えられても俺には不服ふふくはない。あの二人ふたりが恋し合あうのは見ていても美うつくしいだろう。二人ふたりの心が両方りょうほうから自然じねんに開けていって、ついに驚おどろきながら喜よろこびながら互に抱だき合あうのはありそうなことであって、そしていいことだ。俺はとにかく誘惑ゆうわくを避さけよう。俺はどれほど蠱惑的こわくてきでもそんなところにまごついてはいられない。しかも今のところおぬいさんは処女しょじょの美うつくしい純潔じゅんけつさで俺の心を牽ひきつけるだけで、これはいつかは破やぶれなければならないものだ。しかしそれは誘惑ゆうわくには違ちげいないが、それだけの好奇こうき心でおぬいさんの心を俺の方に眼ざめさすのは残酷ざんこくだ。……

清逸はくだらないことをくよくよ考かんがえたと思った。そして前どおりに障子そうじにとまっている一匹の蝿にすべての注意ちゅういを向けようとした。

しかも園が……清逸が十二分じゅうにぶんの自信じしんをもって掴つかみうべき機会きかいを……今までの無興味きょうみな学校がっこうの課業かぎょうと、暗ぐらい淋さびしい心の苦悶くもんの中に、ただ一つ清浄無垢せいじょうむくな光を投なげていた処女しょじょを根ねこそぎ取って園に与あたえるということは……清逸は何なんといっても微かすかな未練みれんを感じた。そして未練みれんというものは微かすかであっても堪えがたいほどに苦にがい……。清逸はふとこの間読よみ終ったレ・ミゼラブルを思いだしていた。老おいたジャン・ルジャンが、コーセットをマリヤスに与えた時の心持こころもちを。

階子段はしごだんを規律きりつ正しく静しずかに降りてくる足音あしおとがして、やがてドアが軽くたたかれた。

その瞬間しゅんかん清逸は深く自分じぶんを恥じた。それまで彼を困らしていた未練みれんは影を隠かくしていた。

顔は十七八しちはちにしか見えないほど若く、それほど規則きそく正ただしい若さの整ととのいを持っているが、二十二とうにになったばかりだと思えないくらい落ちつきの備わった園の小ちいさな姿が、清逸の寝床ねどこ近ちかくきちんと坐ったらしかった。

清逸は園が側近ちかく来たのを知しると、なぜともなく心の中が暖あたたまるのを覚おぼえて、今までの物臭ものぐささに似ず、急いで窓から戸口ここうの方に寝返った。が、それまで眩まばゆい日の光に慣なれていた眼は、そこに瞳を痛いたくする暗闇くらやみを見出みいだすばかりだった。その暗闇くらやみのある一点いってんに、見つづけていた蝿が小さく金剛こんごう石のように光っていた。

「学校がっこうは休んだの」

眼をつぶりながら、それと思おもわしい方に顔を向けて清逸はいってみた。

「一時間じかん目は吉田よしださんだから……僕に用というのは何?」

低ひくいけれど澄んだ声、それは園のものだ。

「そうか。吉田よしだのペンタゴンか。カルキュラスもあんないい加減かげんですまされては困こまるな。高等こうとう数学すうがくはしっかり解っておく必要ひつようがあるんだが……」

清逸は当面とうめんの用事ようじをそっちのけにしてこんなことをいった。そんなことを言いながら、吉田よしだ教授きょうじゅをぺンタゴンという異名いみょうで呼んだのが園に対して気がひけた。吉田よしだというのは、まだ若くって頭のいい人だったが、北海道ほっかいどうというような処に赴任ふにんさせられたのが不満ふまんであるらしく、ややともすると肝心な授業じゅぎょうを捨てておいて、旧藩主はんしゅの奥御殿ごてんに起ったという怪談かいだんめいた話などをして、学生がくせいを笑わせている人だった。そうした人に対しても、園は異名いみょうを用いて噂うわさすることなどは絶えてしなかった。

「ほんとに困こまる。しかしどうせ何なんでも自分じぶんでやらないじゃならない学校がっこうだからかまわないといえばかまわないことだが……今日は少すこしはいいの」

澄んで底力そこじからのある声が、清逸の眼にだんだん明瞭めいりょうな姿を取ってゆく園の方から静しずかに響いた。健康けんこうを尋たずねられると清逸はいつでも不思議ふしぎにいらだった。それに答こたえる代りに、何なんとなくいい渋っていた肝心かんじんの用事ようじを切きりだすほかはなくなった。清逸は首をもたげ加減かげんにして、机の方に眼をやった。そしてその引ひき出だしの中にある手紙てがみを出だしてくれと頼んでしまった。

園はすぐ机の方に手を延ばして、引ひき出だしを開けにかかった。その時清逸は、自分じぶんの瞳が光って、園の方にある鋭するどい注意ちゅういを投なげているのを気づかずにはいられなかった。園が手紙てがみを取りだした時、星野ほしのとだけ書いてある封筒ふうとうの裏が上になっていたので、名宛なあて人が誰であるかはもとより判りようはずがないのに、園の顔にはふとある混乱こんらんが浮んだようにも思え、少すこしもそんなことがないようにも清逸には思えた。清逸はまたかかることに注意ちゅういする自分じぶんを腑甲斐ふがいなく思った。そして思わずいらいらした。

「僕はたぶん明日あす親父おやじに会いに千歳ちとせまで帰ってくる。都合つごうではむこうの滞在たいざいが少すこし長ながびくかもしれない。できるなら僕は秋のうちに……冬にならないうちに東京とうきょうに出たいと思っているんだがね。そんなことは貧乏びんぼうな親父しんぷに相談そうだんしてみたところで埒らちは明あくまいけれども、順序じゅんじょだから話だけはしてみるつもりなのだ。……でその手紙てがみをおぬいさんにとどけてくれないか。僕は熱があるようだから行ぎょうかれないと思おもうから……おぬいさんが聞いたら千歳ちとせの番地ばんちを知しらせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙てがみにも書いておいたが、僕の留守るすの間、おぬいさんの英語えいごを君に見てもらうわけにはいかないかね」

いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを畳たたみかけるようにいって退のけた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ぶっち明ゃけないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉ことばの中に自分じぶんを苦しめたり鞭むちうったりする多くのものが潜んでいるのだ。

清逸は何なんということなく園から眼を放はなして仰向あおむけに天井てんせいを見た。白じろい安西あんざい洋紙ようしで張はりつめた天井てんせいには鼠の尿ででもあるのか、雲形くもがたの汚染しみがところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島はんとうのようにも、背中せなか合あわせの二匹の犬のようにも見まみえる形、腕のつけ根ねに起き上り小法師こぼしの喰いついた形、醜みにくい女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪きっかいな形を清逸は順々に眺ながめはじめた。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
1922(大正11)年5月
Source edition (底本)
底本:「日本文学全集25 有島武郎集」集英社


   1968(昭和43)年4月12日発行

※底本の誤記と思われる部分は、角川文庫「星座」と筑摩書房「有島武郎全集 第5巻」中の「星座」を元に修正した。

入力:大野晋

校正:地田尚

2000年5月15日公開

2005年11月21日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
大野晋
Proofread by (校正)
地田尚

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