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夏目漱石 Soseki Natsume 1867.02.09〜1916.12.09

元日

がんじつ

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元日がんじつを御目出おめでたいものと極きめたのは、一体いったい何処どこの誰か知らないが、世間せけんが夫それに雷同らいどうしているうちは新聞しんぶん社が困こまる丈だけである。雑録ざつろくでも短篇たんぺんでも小説しょうせつでも乃至ないしは俳句はいく漢詩かんし和歌わかでも、苟いやしくも元日がんじつの紙上しじょうにあらわれる以上いじょうは、いくら元日がんじつらしい顔をしたって、元日がんじつの作でないに極きまっている。尤もっとも師走しわすに想像そうぞうを逞たくましくしてはならぬと申し渡された次第しだいでないから、節季せっきに正月しょうがつらしい振をして何か書いて置けば、年内ねんないに餅もちを搗ついといて、一夜いちや明あけるや否や雑煮ぞうにとして頬張ほおばる位のものには違ないが、御目出めでたい実景じっけいの乏とぼしい今日きょう、御目出めでたい想像そうぞうなどは容易たやすいに新聞しんぶん社の頭に宿やどるものではない。それを無理むりに御目出たがろうとすると、所謂いわゆる太倉たいそうの粟ぞく陳々相依ちんちんあいよるという頗すこぶる目出度めでたくない現象げんしょうに腐化して仕舞しまう。

諸君しょくん子は已やむを得ず年にちなんで、鶏の事を書いたり、犬の事を書いたりするが、これは寧むしろ駄洒落だじゃれを引ひき延のばした位のもので、要ようするに元日がんじつ及および新年しんねんの実質じっしつとは痛痒相冒つうようあいおかす所なき閑事業じぎょうである。いくら初刷しょさつだって、そんな無駄話むだばなしで十頁ページも二十にじゅう頁も埋られた日には、元日がんじつの新聞しんぶんは単たんに重量じゅうりょうに於おいて各社かくしゃともに競争きょうそうする訳になるんだから、其その出来しゅったい不出来ふできに対たいする具眼ぐがんの審判者はんじゃは、読者どくしゃのうちでただ屑屋くずや丈だけだろうと云われたって仕方しかたがない。

さればと云って、既すでに何十なんじゅう頁と事が極きまってる上に、頭数とうすうを揃そろえる方が便利べんりだと云いう訳であって見れば、たとい具眼ぐがん者が屑屋くずやだろうが経師屋きょうじやだろうが相手あいてを択えらんで筆を執とるなんて贅沢ぜいたくの云われた家業かぎょうじゃない。去年こぞは「元旦がんたん」と見出みだしを置いて一寸ちょっと考かんがえた。何も浮うかんで来なかったので、一昨年おととしの元日がんじつの事を書いた。一昨年おととしの元日がんじつに虚子きょしが年始ねんしに来たから、東北とうぼくと云いう謡うたいをうたったところ、虚子きょしが鼓を打うち出でしたので、余の謡うたいが大崩おおくずれになったという一段いちだんを編輯へんしゅうへ廻まわした。実は本当ほんとの元日がんじつなら、余の謡はもっと上手うわてになってる訳だから、其その上手うわてになった所を有ありの儘ままに告白こくはくしたかったのだが、如何いかんせん、筆を執とってる時は、元日がんじつにまだ間まがあったし、且かつ虚子きょしが年始ねんしに見まみえるとも見えないとも極きまっていなかった上に、謡をうたう事も全然ぜんぜん未定みていだったので、営業上已やむを得ず一年ひととせ前の極きわめて告白こくはくし難なんい所を告白こくはくしたのである。此この順で行ゆくと此年は又去年こぞの元日がんじつを読者どくしゃに御覧ごらんに入れなければならん訳であるが、そうそう過去かこのまずい所しょばかり吹聴ふいちょうするのは、如何いかにも現在げんざいの己に対して侮辱ぶじょくを加くわえるようで済まない気がするから故意わざと略した。それで猶なおのこと塞つかえた。

元日がんじつ新聞しんぶんへ載のせるものには、どうも斯こう云いう困難こんなんが附帯ふたいして弱よわる。現げんに今原稿げんこう紙に向っているのは、実を云いうと十二とうに月二十三じゅうそう日である。家うちでは餅もちもまだ搗つかない。町内ちょうないで松飾まつかざりを立てたものは一軒もない。机の前に坐すわりながら何を書こうかと考かんがえると、書かく事の困難こんなん以外いがいに何だか自分じぶん一人ひとり御先走おさきばしってる様な気がする。それにも拘かかわらず、書いてる事が何処どことなく屠蘇とその香かを帯おびているのは、正月しょうがつを迎むかえる想像そうぞう力が豊富とよとみなためではない。何でも接つぎ合わせて物にしなければならない義務ぎむを心得こころえた文学者がくしゃだからである。もし世間せけんが元日がんじつに対たいする僻見へきけんを撤回てっかいして、吉凶禍福きっきょうかふく共にこもごも起り得べき、平凡へいぼん且かつ乱雑らんざつなる一日ついたちと見做みなして呉くれる様になったら、余も亦また余所行よそゆきの色気いろけを抜いて平常へいじょうの心に立たち返かえる事が出来できるから、たとい書かく事に酔払よっぱらいの調子ちょうしが失せないにしても、もっと楽に片付かたずけられるだろうと思おもう。尤もっともそうなれば、初刷しょさつの頁も平常へいじょうに復ふくする訳だから、とくに元日がんじつに限って書かねばならぬ必要ひつようも消滅しょうめつするかも知れない。それも物淋ものさびしい様だが、昨今さっこんの如き元日がんじつに対して調子ちょうしを合あわせた文章ぶんしょうを書こうとするのは、丁度ちょうど文部もんぶ大臣おとどが新あたらしい材料ざいりょうのないのに拘かかわらず、あらゆる卒業そつぎょう式に臨んで祝詞しゅくしを読よむと一般いっぱんである。

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First published
「朝日新聞」1910(明治43)年1月1日
Source edition (底本)
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房 


   1972(昭和47)年1月10日第1刷発行

初出:「朝日新聞」

   1910(明治43)年1月1日

入力:Nana ohbe

校正:米田進

2002年5月10日作成

2003年5月11日修正

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Typed by (入力)
Nana ohbe
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米田進

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