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国木田独歩 Doppo Kunikida 1871.08.30〜1908.06.23

画の悲み

えのかなしみ

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画えを好かぬ小供こどもは先まず少ないとしてその中うちにも自分じぶんは小供こどもの時、何よりも画が好すきであった。(と岡本おかもとの某が語がたりだした)。

好すきこそ物の上手じょうずとやらで、自分じぶんも他の学課がっかの中うち画では同級どうきゅう生の中自分じぶんに及およぶものがない。画と数学すうがくとなら、憚はばかりながら誰たれでも来いなんて、自分じぶんも大おおいに得意とくいがっていたのである。しかし得意とくいということは多少たしょう競争きょうそうを意味いみする。自分じぶんの画の好すきなことは全く天性てんせいといっても可よかろう、自分じぶんを独ひとりで置けば画ばかり書いていたものだ。

独で画を書いているといえば至極しごく温順おとなしく聞きこえるが、そのくせ自分じぶんほど腕白者わんぱくものは同級どうきゅう生の中うちにないばかりか、校長こうちょうが持もて余あまして数々しばしば退校たいこうを以もって嚇おどしたのでも全校ぜんこう第一だいいちということが分わかる。

全校ぜんこう第一だいいち腕白わんぱくでも数学すうがくでも。しかるに天性てんせい好すきな画では全校ぜんこう第一だいいちの名誉めいよを志村しむらという少年しょうねんに奪われていた。この少年しょうねんは数学すうがくは勿論もちろん、その他の学力がくりょくも全校ぜんこう生徒せいと中、第二流にりゅう以下いかであるが、画の天才てんさいに至いたっては全く並ならぶものがないので、僅わずかに塁を摩そうかとも言われる者は自分じぶん一人ひとり、その他は、悉ことごとく志村しむらの天才てんさいを崇あがめ奉っているばかりであった。ところが自分じぶんは志村しむらを崇拝すうはいしない、今に見ろという意気いき込ごみで頻しきりと励はげんでいた。

元来がんらい志村しむらは自分じぶんよりか歳としも兄、級も一年上としうえであったが、自分じぶんは学力がくりょく優等ゆうとうというので自分じぶんのいる級クラスと志村しむらのいる級とを同時どうじにやるべく校長こうちょうから特別とくべつの処置しょちをせられるので自然じねん志村しむらは自分じぶんの競争きょうそう者となっていた。

然しかるに全校ぜんこうの人気じんき、校長こうちょう教員きょういんを始はじめ何百なんびゃくの生徒せいとの人気じんきは、温順おとなしい志村しむらに傾いている、志村しむらは色の白じろい柔和にゅうわな、女にして見たいような少年しょうねん、自分じぶんは美少年しょうねんではあったが、乱暴らんぼうな傲慢ごうまんな、喧嘩けんか好すきの少年しょうねん、おまけに何時いつも級の一番いちばんを占めていて、試験しけんの時は必かならず最優さいゆう等の成績せいせきを得える処から教員きょういんは自分じぶんの高慢こうまんが癪しゃくに触さわり、生徒せいとは自分じぶんの圧制あっせいが癪に触さわり、自分じぶんにはどうしても人気じんきが薄うすい。そこで衆人みんなの心持こころもちは、せめて画でなりと志村しむらを第一だいいちとして、岡本おかもとのの鼻柱はなばしらを挫くだいてやれというつもりであった。自分じぶんはよくこの消息しょうそくを解していた。そして心中しんちゅうひそかに不平ふへいでならぬのは志村しむらの画必かならずしも能よく出来しゅったいていない時でも校長こうちょうをはじめ衆人みんながこれを激賞げきしょうし、自分じぶんの画は確たしかに上出来じょうできであっても、さまで賞ほめてくれ手てのないことである。少年こどもながらも自分じぶんは人気じんきというものを悪にくんでいた。

或日学校がっこうで生徒せいとの製作物さくぶつの展覧てんらん会が開かれた。その出品しゅっぴんは重に習字しゅうじ、図画ずが、女子じょしは仕立物したてもの等で、生徒せいとの父兄ふけい姉妹あねいもとは朝からぞろぞろと押かける。取とりどりの評判ひょうばん。製作物さくぶつを出した生徒せいとは気が気でない、皆みなそわそわして展覧てんらん室を出たり入ったりしている。自分じぶんもこの展覧てんらん会に出品しゅっぴんするつもりで画紙えがみ一枚に大きく馬の頭を書いた。馬の顔を斜はすに見た処で、無論むろん少年しょうねんの手には余あまる画題がだいであるのを、自分じぶんはこの一挙いっきょに由よって是非ぜひ志村しむらに打勝うちかとうという意気いき込だから一生いっしょう懸命けんめい、学校がっこうから宅に帰かえると一室いっしつに籠こもって書かく、手本てほんを本もとにして生意気いきにも実物じつぶつの写生しゃせいを試こころみ、幸い自分じぶんの宅から一丁いっちょばかり離はなれた桑園くわばたけの中に借馬屋しゃくばやがあるので、幾度いくたびとなく其処そこの厩うまやに通かよった。輪廓りんかくといい、陰影いんえいといい、運筆うんぴつといい、自分じぶんは確たしかにこれまで自分じぶんの書いたものは勿論もちろん、志村しむらが書いたものの中うちでこれに比ぶべき出来しゅったいはないと自信じしんして、これならば必かならず志村しむらに勝かつ、いかに不公平こうへいな教員きょういんや生徒せいとでも、今度こんどこそ自分じぶんの実力じつりょくに圧倒あっとうさるるだろうと、大勝利しょうりを予期よきして出品しゅっぴんした。

出品しゅっぴんの製作せいさくは皆みんな自宅じたくで書かくのだから、何人なんぴとも誰が何を書かくのか知らない、また互に秘密ひみつにしていた。殊ことに志村しむらと自分じぶんは互の画題がだいを最もっとも秘密ひみつにして知らさないようにしていた。であるから自分じぶんは馬を書かきながらも志村しむらは何を書いているかという問といを常に懐いだいていたのである。

さて展覧てんらん会の当日とうじつ、恐おそらく全校ぜんこう数百すうひゃくの生徒せいと中尤もっとも胸を轟とどろかして、展覧てんらん室に入った者は自分じぶんであろう。図画室がしつは既すでに生徒せいと及および生徒せいとの父兄ふけい姉妹あねいもとで充満いっぱいになっている。そして二枚の大画(今日きょうのいわゆる大作だいさく)が並なべて掲げてある前は最もっとも見物けんぶつ人が集たかっている。二枚の大画は言わずとも志村しむらの作と自分じぶんの作。

一見いちげん自分じぶんは先まず荒胆あらぎもを抜かれてしまった。志村しむらの画題がだいはコロンブスの肖像ちょさんならんとは! しかもチョークで書いてある。元来がんらい学校がっこうでは鉛筆画ひっかくばかりで、チョーク画は教えない。自分じぶんもチョークで画えがくなど思おもいもつかんことであるから、画の善悪よしあしはともかく、先まずこの一事いちじで自分じぶんは驚いてしまった。その上ならず、馬の頭と髭髯しぜん面めんを被おおう堂々たるコロンブスの肖像ちょさんとは、一見いちげんまるで比くらべ者にならんのである。かつ鉛筆えんぴつの色はどんなに巧たくみに書いても到底とうていチョークの色には及ばない。画題がだいといい色彩しきさいといい、自分じぶんのは要ようするに少年しょうねんが書いた画、志村しむらのは本物ほんものである。技術ぎじゅつの巧拙こうせつは問とう処でない、掲げて以て衆人しゅうじんの展覧てんらんに供きょうすべき製作せいさくとしては、いかに我慢がまん強こわい自分じぶんも自分じぶんの方が佳いいとは言えなかった。さなきだに志村しむら崇拝すうはいの連中れんじゅうは、これを見て歓呼かんこしている。「馬も佳よいがコロンブスは如何どうだ!」などいう声があっちでもこっちでもする。

自分じぶんは学校がっこうの門を走はしり出でるた。そして家うちには帰らず、直すぐ田甫たんぼへ出た。止めようと思おもうても涙が止まらない。口惜くやしいやら情なさけないやら、前後ぜんご夢中むちゅうで川の岸まで走って、川原かわらの草の中に打倒ぶったおれてしまった。

足をばたばたやって大声たいせいを上あげて泣いて、それで飽き足らず起上って其処そこらの石を拾ひろい、四方しかた八方はっぽうに投げ付けていた。

こう暴あばれているうちにも自分じぶんは、彼奴きゃつ何時いつの間まにチョーク画を習ったろう、何人だれが彼奴あいつに教えたろうとそればかり思おもい続けた。

泣いたのと暴れたので幾干いくらか胸がすくと共に、次第しだいに疲つかれて来たので、いつか其処そこに臥ねてしまい、自分じぶんは蒼々そうそうたる大空おうぞらを見上げていると、川瀬かわせの音が淙々そうそうとして聞きこえる。若草わかくさを薙ないで来くる風が、得ならぬ春の香かを送って面かおを掠かすめる。佳いい心持こころもちになって、自分じぶんは暫時しばらくじっとしていたが、突然とつぜん、そうだ自分じぶんもチョークで画いて見よう、そうだという一念いちねんに打たれたので、そのまま飛び起き急いで宅うちに帰えり、父の許ゆるしを得て、直すぐチョークを買い整え画板がばんを提ひっさげ直すぐまた外に飛とび出でるした。

この時まで自分じぶんはチョークを持ったことがない。どういう風に書かくものやら全然まるで不案内あんないであったがチョークで書いた画を見たことは度々たびたびあり、ただこれまで自分じぶんで書かないのは到底とうていまだ自分じぶんどもの力に及ばぬものとあきらめていたからなので、志村しむらがあの位い書かけるなら自分じぶんも幾干いくらか出来できるだろうと思ったのである。

再ふたたび先の川辺かわばたへ出た。そして先まず自分じぶんの思いついた画題がだいは水車みずぐるま、この水車すいしゃはその以前いぜん鉛筆えんぴつで書いたことがあるので、チョークの手始てはじめに今一度ひとたびこれを写生しゃせいしてやろうと、堤を辿たどって上流じょうりゅうの方へと、足を向けた。

水車すいしゃは川向かわむこうにあってその古ふるめかしい処、木立こだちの繁しげみに半なかば被おおわれている案排あんばい、蔦葛つたかずらが這はい纏まとうている具合ぐわい、少年心こどもごころにも面白おもしろい画題がだいと心得こころえていたのである。これを対岸たいがんから写うつすので、自分じぶんは堤を下おりて川原かわはらの草原くさはらに出でると、今まで川柳かわやなぎの蔭かげで見えなかったが、一人ひとりの少年しょうねんが草の中に坐って頻しきりに水車すいしゃを写生しゃせいしているのを見つけた。自分じぶんと少年しょうねんとは四、五十間けん隔たっていたが自分じぶんは一見いちげんして志村しむらであることを知った。彼は一心いっしんになっているので自分じぶんの近ちかづいたのに気もつかぬらしかった。

おやおや、彼奴きゃつが来ている、どうして彼奴あいつは自分じぶんの先へ先さきへと廻まわるだろう、忌いま忌いましい奴だと大おおいに癪しゃくに触さわったが、さりとて引返かえすのはなお慊いやだし、如何どうしてくれようと、そのまま突立つったって志村しむらの方を見ていた。

彼は熱心ねっしんに書いている。草の上に腰から上が出て、その立てた膝ひざに画板がばんが寄掛よせかけてある、そして川柳かわやなぎの影が後うしろから彼かの全身ぜんしんを被い、ただその白じろい顔の辺あたりから肩先かたさきへかけて楊やなぎを洩もれた薄うすい光が穏おだやかに落おちている。これは面白おもしろいろい、彼奴きゃつを写うつしてやろうと、自分じぶんはそのまま其処そこに腰を下おろして、志村しむらその人の写生しゃせいに取りかかった。それでも感心かんしんなことには、画板がばんに向むかうと最早もはや志村しむらもいまいましい奴など思おもう心は消えて書かく方に全く心を奪とられてしまった。

彼は頭かしらを上あげては水車すいしゃを見、また画板がばんに向むかう、そして折おり折おりさも愉快ゆかいらしい微笑えみを頬ほおに浮べていた。彼が微笑えみするごとに、自分じぶんも我知らず微笑えみせざるを得なかった。

そうする中うちに、志村しむらは突然とつぜん起たち上がって、その拍子ひょうしに自分じぶんの方を向むかいた、そして何なんにも言いがたき柔和にゅうわな顔をして、にっこりと笑った。自分じぶんも思わず笑った。

「君きみは何を書いているのだ、」と聞きくから、

「君を写生しゃせいしていたのだ。」

「僕は最早もはや水車すいしゃを書いてしまったよ。」

「そうか、僕はまだ出来しゅったいないのだ。」

「そうか、」と言って志村しむらはそのまま再ふたたび腰を下おろし、もとの姿勢しせいになって、

「書かき給え、僕はその間まにこれを直なおすから。」

自分じぶんは画き初はじめたが、画いているうち、彼を忌いま忌いましいと思った心は全く消えてしまい、かえって彼が可愛くなって来た。そのうちに書かき終ったので、

「出来しゅったいた、出来しゅったいた!」と叫さけぶと、志村しむらは自分じぶんの傍そばに来り、

「おや君はチョークで書いたね。」

「初はじめてだから全然まるで画にならん、君はチョーク画を誰に習った。」

「そら先達せんだって東京とうきょうから帰って来た奥野おくのさんに習った。しかしまだ習ならいたてだから何なんにも書けない。」

「コロンブスは佳よく出来しゅったいていたね、僕は驚いちゃッた。」

それから二人ふたりは連立つれだって学校がっこうへ行った。この以後いご自分じぶんと志村しむらは全く仲が善よくなり、自分じぶんは心から志村しむらの天才てんさいに服し、志村しむらもまた元来がんらいが温順おとなしい少年しょうねんであるから、自分じぶんをまたなき朋友ほうゆうとして親しんでくれた。二人ふたりで画板がばんを携え野山のやまを写生しゃせいして歩いたことも幾度か知れない。

間もなく自分じぶんも志村しむらも中学校がっこうに入いることとなり、故郷こきょうの村落そんらくを離はなれて、県の中央ちゅうおうなる某町に寄留きりゅうすることとなった。中学ちゅうがくに入っても二人ふたりは画を書かくことを何よりの楽たのしみにして、以前いぜんと同おなじく相伴しょうばんうて写生しゃせいに出掛でかけていた。

この某町から我村落そんらくまで七里しちり、もし車道しゃどうをゆけば十三里さんりの大迂廻おおまわりになるので我々は中学校がっこうの寄宿きしゅく舎から村落そんらくに帰かえる時、決けっして車に乗らず、夏と冬の定期ていき休業きゅうぎょうごとに必かならず、この七里しちりの途みちを草鞋わらじがけで歩いたものである。

七里しちりの途はただ山ばかり、坂あり、谷あり、渓流けいりゅうあり、淵ふちあり、滝あり、村落そんらくあり、児童じどうあり、林あり、森あり、寄宿きしゅく舎の門を朝早く出て日の暮に家うちに着つくまでの間、自分じぶんはこれらの形、色、光、趣おもむきを如何どういう風に画いたら、自分じぶんの心を夢のように鎖とざしている謎なぞを解くことが出来できるかと、それのみに心を奪とられて歩いた。志村しむらも同おんなじ心、後あとになり先になり、二人ふたりで歩いていると、時々は路傍ろぼうに腰を下おろして鉛筆えんぴつの写生しゃせいを試こころみ、彼が起たたずば我も起たず、我筆をやめずんば彼もやめないという風で、思わず時が経たち、驚ろいて二人ふたりとも、次の一里を駆足かけあしで飛んだこともあった。

爾来じらい数年すねん、志村しむらは故ゆえありて中学校がっこうを退いて村落そんらくに帰がえり、自分じぶんは国を去って東京とうきょうに遊学することとなり、いつしか二人ふたりの間には音信おんしんもなくなって、忽たちまちまた四、五年経ってしまった。東京とうきょうに出てから、自分じぶんは画を思おもいつつも画を自みずから書かなくなり、ただ都会とかいの大家たいけの名作めいさくを見て、僅わずかに自分じぶんの画心えごころを満足まんぞくさしていたのである。

ところが自分じぶんの二十にじゅうの時であった、久しぶりで故郷こきょうの村落そんらくに帰った。宅の物置ものおきにかつて自分じぶんが持もちあるいた画板がばんがあったのを見つけ、同時どうじに志村しむらのことを思いだしたので、早速さそく人に聞いて見みると、驚おどろくまいことか、彼は十七の歳とし病死びょうししたとのことである。

自分じぶんは久しぶりで画板がばんと鉛筆えんぴつを提ひっさげて家を出た。故郷こきょうの風景ふうけいは旧もとの通とおりである、しかし自分じぶんは最早もはや以前いぜんの少年しょうねんではない、自分じぶんはただ幾歳いくつかの年を増ましたばかりでなく、幸か不幸ふこうか、人生じんせいの問題もんだいになやまされ、生死しょうしの問題もんだいに深入ふかいりし、等しく自然じねんに対しても以前いぜんの心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁あんしゅうは暫時しばらくも自分じぶんを安やすめない。

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Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「日本児童文学名作集(上)」桑原三郎・千葉俊二編、岩波文庫、岩波書店


   1994(平成6)年2月16日第1刷発行

底本の親本:「国木田独歩全集 2」学習研究社

   1964(昭和39)年7月1日初版発行

初出:「青年界」第一巻第二号

   1902(明治35)年8月1日発行

入力:鈴木厚司

校正:mayu

2001年5月28日公開

2004年7月8日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
鈴木厚司
Proofread by (校正)
mayu

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