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坂口安吾 Ango Sakaguchi 1906.10.20〜1955.02.17

青い絨毯

あおいじゅうたん

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僕らが「言葉ことば」という飜訳ほんやく雑誌ざっし、それから「青あおい馬」という同人どうじん雑誌ざっしをだすことになって、その編輯へんしゅうに用いた部屋へやは芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの書斎しょさいであった。というのは、同人どうじんの葛巻義敏くずまきよしとしが芥川あくたがわの甥おいで、彼はそのころ二十にじゅう一、二の若年じゃくねんだったが、芥川あくたがわ死後しごの整理せいり、全集ぜんしゅう出版しゅっぱんなど責任せきにんを負おうて良くやっており、同人どうじん雑誌ざっしの出版しゅっぱんに就ついても僕らの知らないことに通つうじていて、彼が主としてやってくれたからである。当時とうじは芥川あくたがわの死後しご三年目であった。

芥川あくたがわの家は僕の知しる文士ぶんしの家では最もっともましな住家じゅうかだけれども、中流ちゅうりゅう以上いじょうの家ではない。和風わふうの小こざっぱりとした家で、とりわけ金をかけたと思われる部分ぶぶんもなく、特とくに凝った作ずくりもない。僕の知しるのは二階にかい二間ふたまと離はなれの書斎しょさい二間と座敷ざしき二間、それから庭だけ、家族かぞくの居間いまは知らない。日当ひあたりの良いい家だけれども、なぜか陰気いんきで、死の家とはこんなものかと考かんがえ、青年せいねん客気かっきのあのころですら、暗さを思おもうと、足のすすまぬ思おもいがしたものである。

僕の生れた新潟にいがたの家は昔坊主ぼうずの学校がっこうで、だからお寺のような建築けんちくであった。おまけに二抱ふたかかえから三抱みかかえぐらいの天然てんねんの松林まつばやしの中にあって、ろくろく日の目を見ることも出来しゅったいず、鴉からすと梟ふくろうの巣であった。坊主ぼうずの一人ひとりが屋根裏やねうらの梁はりに首をくくって死しに、その部分ぶぶんだけ一間けんぐらい切りとってある。この屋根裏やねうらは女中じょちゅう部屋へやだが、子供こどもの僕は坊主ぼうずのお化ばけが出でるなどとおどされながらも梁から梁を渡って歩いて、あの建築けんちくに就て一向いっこうに暗ぐらい印象いんしょうを持たないのである。

牧野ぼくや信一しんいちの自殺じさつした小田原おだわらの家、あの家にも暫しばらく泊っていたことがある。お寺の隣で、前後ぜんご左右さゆう墓地ぼちを通りぬけて出入しゅつにゅうするという家であり、彼が首をくくった子供こども部屋へやは三畳ぐらいの板敷いたじきの日当ひあたり悪わるい陰気いんきな部屋へやだが、一向いっこうに「死の家」という感かんじは残らぬ。

それらの家に比べれば、芥川あくたがわ家は高台こうだいの日当ひあたりの良いい瀟洒しょうしゃな家で、屋根裏やねうら、病的びょうてき、陋巷ろうこう、凡およそ「死の家」を思わせる条件じょうけんの何一つにも無関係かんけいだが、僕にとっては陰鬱いんうつ極きわまる家であった。葛巻くずまきの起居ききょしていた二階にかい八畳の青あおい絨毯じゅうたんなど特とくに僕の呪のろったもので、あの絨毯じゅうたんの陰気いんきな色を考かんがえると、方向ほうこうを変えて、ほかの所へ行きたくなってしまったものだ。この絨毯じゅうたんは、僕の記憶きおくに誤あやまりがなければ、芥川あくたがわ全集ぜんしゅうの最初さいしょの版の表紙ひょうしに用いた青布あおぬのの残のこりで、部屋へやいっぱい敷しきつめると、汚けがれたような黒ずんだ青だ。実げに陰鬱いんうつな絨毯じゅうたんだ、よしたまえよ、と言って、あの頃も頻しきりに呪って、でも君、葛巻くずまき少年しょうねん、実際じっさい彼は少年しょうねん貴族きぞくという感かんじであったが、そういう時には急にクスリと老人ろうじんのような笑わらい方をして言葉ことばを濁にごす習慣しゅうかんであった。彼かの好すきな絨毯じゅうたんであったに相違そういない。そして、生前せいぜんの芥川あくたがわには一切いっさい無関係かんけいの絨毯じゅうたんであったと思おもう。

この部屋へやには、違ちがい棚だなの下にガス管があり、叔父おじ(芥川あくたがわのこと)がこのガス管をくわえて死しにかけていたことがあってネと葛巻くずまきが言っていたが、なぜか僕は死んだあるじにひどく敵意てきいをいだいていて、この自裁じさい者の心事しんじなどには一向いっこうに思おもいを馳はせていなかった。又、この部屋へやでは、芥川あくたがわの遺稿いこうを読まされたこともある。この遺稿いこうは数年後、再読さいどくしたときに驚嘆きょうたんした未完みかんの小品しょうひんで、この作品さくひんに就てはすでに二度僕の感想かんそうを発表はっぴょうしたが、当時とうじは全然ぜんぜんわからなかった。否いな、旺盛おうせいな敵意てきいによって、ろくろく目も通さず押し返して、つまらないと断言だんげんしたのを覚おぼえている。

この部屋へやでは、よく徹夜てつやした。実げにくだらなく徹夜てつやした。こんな下らない原稿げんこうばかりで雑誌ざっしをだすのは厭いやだと言いだすのは葛巻くずまきで、いいじゃないか、人の原稿げんこうは下らなくても、自分じぶんだけ立派りっぱな仕事しごとをすればよい、同人どうじん雑誌ざっしはそういう性質せいしつのものだと言って、年中ねんじゅう二人ふたりで口論こうろんする、葛巻くずまきは文学ぶんがく的名門めいもんに生育せいいくした人であるから、自分じぶんが編輯へんしゅうにたずさわる以上いじょうくだらぬ原稿げんこうはのせられぬという誇ほこりを放はなすことができぬ。もう印刷いんさつ所へ原稿げんこうが廻まわしてあり、校正こうせいがでている最中さなかにすねはじめて、あしたまでに何か書いて頂戴ちょうだいよ、とか、之これを飜訳ほんやくして頂戴ちょうだいよ、とか、じゃ君自身おのれ書かきたまえ、ウン僕も書かくけどさ、弱々しく笑わらいだされると仕方しかたがないので、二人ふたりでよく徹夜てつやして原稿げんこうを書いた。葛巻くずまきという人は、こういう時に、たった一夜いちやで百何十なんじゅう枚という小説しょうせつを書かく、破りすてて結局けっきょく一作いっさくも発表はっぴょうはしなかったが、実際じっさい一夜いちやに百枚二百にひゃく枚という信じられない書かき方をする。毎日まいにち丹念たんねんに短篇たんぺんを書いた叔父おじとは全く似ていなかった。僕も仕方なく飜訳ほんやくにとりかかって、たった一夜いちやにいくつか相当そうとう厚味あつみのある原書げんしょを訳してしまったものだ。ジッドの「ワイルドの思おもい出で」という本も三日ぐらいで全部ぜんぶ訳してしまったし、マリイ・シェイケビッチ夫人ふじんという有閑ゆうかんマダムの「プルウストの思おもい出で」この本も一夜いちやで訳した。尤もっとも、一冊の本ではあるが、有閑ゆうかんマダムの豪華ごうか本であるから、全訳ぜんやくして三十さんじゅう枚ぐらいのもの。何分なにぶん僕は大たいしてフランス語はできないところへ、一晩という時間じかんであるから、辞書じしょをひかぬ、分らぬところは面倒めんどうくさい飛とばしてしまえ、というわけで、諸所しょしょに五行ごぎょうぐらいずつ飛とばしたところもある始末しまつで、「プルウストの思おもい出で」でも、プルウストの好すきな献立こんだての半分はんぶんぐらい料理りょうりの名前なまいや原料げんりょうに知らない言葉ことばがでてきたので、此奴こいつ面倒めんどうと飛とばしてしまった。無責任せきにんなことをしたもので、僕の飜訳ほんやくを読んだ人はプルウストという男は随分ずいぶ皿数さらかずの少すくない宴会えんかいをひらく奴だと思おもいこんだであろう。ヴァレリイの「ヴァリエテ」などの幾つかもこうして飜訳ほんやくしたものだから、分らぬところはみんな抜ぬかす、結局けっきょくあの晦渋かいじゅうな原文げんぶんが、僕の手にかかると明快めいかい至極しごくなものになり、原文げんぶんを知らない人々が讃嘆さんたんしたものであるが、分らぬ所を抜ぬくのだから明快めいかい流麗りゅうれい、無茶むちゃな話であった。飜訳ほんやくをほめられる度たびに困った思おもいをしたものである。

いったい徹夜てつやというものは壮年そうねん健康けんこうな時ほど疲労ひろうが劇はげしいようである。近頃ちかごろは徹夜てつやをしてもさのみ疲つかれを覚おぼえず徹夜てつやを生活せいかつの一部分ぶぶんに心得こころえてしまっているが、あの頃の疲労ひろうはひどかった。事実じじつ本を一冊訳しあげるようなワキ目もふらぬ緊張きんちょうのせいもあったであろうが、顔に表あらわれる憔悴しょうすいが顕著けんちょで、目はくぼみ、顔全体ぜんたいが脂あぶらでギラギラ皺しわだらけで黄色こうしょくであった。ウサギ屋のモナカを食くい濃こい珈琲コーヒーをよく呑んだ。そうして朝は大概たいげいカレーライスの食卓しょくたくだったことを忘わすれない。食慾しょくよくなどは殆ほとんどなかった記憶きおくである。

僕は徹夜てつやを呪った。葛巻くずまきがすねはじめると、僕は怒気どき満々、食ってかかる勢いきおいで口論こうろんになるのであったが、葛巻くずまきは女性じょせいのように柔和にゅうわな病弱びょうじゃくにも拘かかわらず、自説じせつの執着しゅうちゃくに至いたっては話の外ほかで、おだやかな言い方と、弱々しい微笑えみと、持もって廻まわった表現ひょうげんで、最後さいごの最後さいごまで食くいさがる。結局けっきょく僕の根負こんまけであった。尤もっとも、葛巻くずまきの主張しゅちょうの方に多くの道理どうりがあったのだろう。なぜなら僕らの原稿げんこうが下らないという彼かの説は正しかったし、彼かの野心やしんに邪念じゃねんが少すくない。というのは、彼は有名ゆうめいな文士ぶんしになりたいなどとは考かんがえず、良いい雑誌ざっしをだしたいということを専一せんいちに考かんがえていた。彼はある令嬢れいじょうを熱愛ねつあいして、それが生活せいかつのほぼ全部ぜんぶであり、そのほかにも別の希ねがいがあるとすれば、三、四の名流めいりゅう婦人ふじんに好かれたいという名家めいかの少年しょうねんらしい願望がんぼうであった。良いい雑誌ざっしはいわば彼かの身みだしなみの一つであり、どうしても「良いい」雑誌ざっしでなければならぬ。下らぬ原稿げんこうがあっては困こまる。彼かの気風きふう心事しんじは王朝おうちょうさながら、之に対たいする僕の心事しんじに至いたっては粗放蕪雑そほうぶざつ、野武士もののふの心事しんじの如ごとくである。天下てんかに名を為なしたいということだけで目がくらみ、自家じかの菲才浅学ひさいせんがくの如きを恬てんとして念頭ねんとうにおきたがらぬ。この家の自殺じさつしたあるじに本能ほんのう的な敵意てきいを懐いだいてしまったのも、たまたまあるじの書斎しょさいを本拠ほんきょとしたために世人せじんの買かい被かぶりを受けたような風説ふうせつとなり、あたら槍やり一筋ひとすじの手柄てがらに傷をつけては残念ざんねんだという向むかう見ずな意気込きごみによるものであった。

己おのれの愛情あいじょうに就て葛巻くずまきは至極しごく率直そっちょくで、この愛情あいじょうは一方いっぽう的な片思かたおもいにすぎないのだが、葛巻くずまきは万事ばんじ友人ゆうじんに隠かくしておらぬ。ただ令嬢れいじょうに向ってだけ打開あけることができないという気きの毒どくなものであった。だから、良いい雑誌ざっしによって身を飾かざりたい、あわよくば、それによって令嬢れいじょうの心を惹ひく一助いちじょともしたい、という願望がんぼうは純一じゅんいち無垢むくで、原稿げんこうの良非りょうひに対たいする追求ついきゅうは邪念じゃねんがない。ところが僕らは全くの野武士もののふで、拾ひろい首をしてでも立身りっしん出世しゅっせがしたいという根性こんじょうであるから、純粋じゅんすいな批判ひはんによっては不良ふりょう品でも、商品しょうひんとして通用つうようし、むしろ営利えいり的に成立なりたち得えるような作品さくひんだったら、その方ほうがいいじゃないか、というような良からぬ思おもいを蔵している。さすがにそれを表向おもてむきふりかざすわけにも行かないので、あれやこれや持って廻って言いい廻まわしているが、心底しんていをわれば、君はそういうけれども、案外あんがいこんな作品さくひんが受うけやしないかというサモしい性根しょうねが本心ほんしんだ。

編輯へんしゅうに当あたるのは葛巻くずまきと僕で、時には詩人しじんの本多ほんだ信が加くわわることもあったけれども、大体だいたい同人どうじん全体ぜんたいは野武士もののふの心を持っている。だから僕が何かにつけて有利ゆうりのようだけれども、有ありていはそうではないので、何と言っても葛巻くずまきの純粋じゅんすいな立場たちばには千鈞せんきんの重味おもみがあるのである。野武士もののふの僕といえども少年しょうねん期をすぎたばかりの多感たかんな年頃としごろであるから、曇くもりなきものに打たれる素直すなおな心を失ってはおらぬ。葛巻くずまきの道理どうりに勝てないものが必かならず残のこり、常に心中しんちゅう無念ぶねんであった。

ふと昔を思おもいだす。二十にじゅうの年、二十にじゅう五の年、三十さんじゅうの年。京都きょうと伏見ふしみの弁当べんとう仕出しだし屋やの二階にかいに住んでいた頃は最もっとも太平楽たいへいらく、利根とね川かわべりの取手とりでにいた時は水だけ飲んで暮さねばならないことが時々あったが、その思おもい出でも楽たのしいものだ。あと八銭しかない、一週間しゅうかんは金のはいる見込もない、という時に、八銭でソバを食くうべきか、タバコを買かうべきか、と深刻しんこくなる難関なんかんに逢着ほうちゃくする。幾度かあったが、結局けっきょくタバコを買かうもので、最後さいごの金でウドンを食ったという記憶きおくは一度ひとたびもない。後日ごにち同好どうこうの士に訊きき合せてみるに、結局けっきょくタバコを買かう方が共通きょうつうの心事しんじのようである。

だが伏見ふしみでも苦くるしい病気びょうきの思おもい出でがあった。このとき葛巻くずまきに助たすけられたので今歴々思いだしたが、まだ弁当べんとう仕出屋しだしやの二階にかいに移らぬ前に、火薬かやく庫の前の計理けいり士の二階にかいを借かりていたことがあった。僕が京都きょうとに住んだのは、一切いっさい友人ゆうじんを離はなれ、本当ほんとに孤独こどくというものを底の底まで突きつめてやれ、という一時いちじの気きまぐれに発した移住いじゅうであったが、計理けいり士の二階にかいで病気びょうきになった。背中せなかの手だけは辛かろうじてとどくけれども絶対ぜったいに見みることの出来しゅったいぬ場所ばしょに腫はれ物ものができ、構わずにおくと、一ヶ月目ぐらいにだしぬけに高熱こうねつがでて、目はくらみ、耳は唸うなり、苦痛くつうのために身体しんたいをエビの如くに曲まげてみても冷汗ひやあせが流ながれ、自然じねんのたうちまわって、まったく意識いしきせずして唸うなり声ごえを発してしまう。

あいにく月末つきずえで、僕自身おのれ一文いちもんの金もないのみならず、宿主しゅくしゅの計理けいり士が月末つきずえの例によって行方ゆくえをくらませてしまった。彼は常に月末つきずえになると行方ゆくえをくらます習慣しゅうかんで、自然じねん僕が借金しゃっきん取の応待おうたいをせざるを得ぬ立場たちばになる。借金しゃっきん取と言っても、事実じじつは家主やぬし、八百屋やおや、電燈でんとう、水道すいどう、そういう当然とうぜんなる料金りょうきんの類たぐい。この計理けいり士は五十ごじゅうがらみの年齢ねんれいに似もやらぬ少年しょうねん詩人しじんの如き気分きぶん屋で、ええ天気てんきやさかい仕事しごとしてられえへんどすわと言って大概たいげいのお天気てんきの日は外出そとでし、酒も飲まず女遊おんなあそびもしないけれども、仕事しごとの期日きじつに遅おくれるために顧客こきゃくも失い貧乏びんぼうもするという様子ようすである。細君さいくんと別居べっきょして自分じぶんはこの事務じむ室階下かいかに(階上かいじょうは僕)ヤモメ暮くらしをしており、一人ひとりぐらしは清々とええどすわと述懐じゅっかいしていたが、先生せんせい(僕のこと)ウチに気兼きがねせんと、ええ人云々うんぬんということをすすめるだけの雅量がりょうを失わぬ通人つうじんでもあった。だから、月末つきずえになると姿を消けす。一週間しゅうかんぐらいは雲隠くもがくれで、之には僕も参ったけれども、他人たにんの借金しゃっきんの言訳いいわけというものは極きわめて気楽きらくでさしたる苦労くろうでもなかったから、僕もとりわけこだわらず、雲隠くもがくれを咎とがめだてたことは一度ひとたびもなかった。又、この男は五十ごじゅうぐらいの年にもなり鼻下びかにヒゲなどというものまで貯たくわえているくせに、ちょっとのことで赤面せきめんしてマッカになってしまうという奇妙きみょうな好人物じんぶつであった。

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Where this text comes from

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First published
「中央公論」1955(昭和30)年4月号
Source edition (底本)
底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波書店、岩波文庫

   2008(平成20)年11月14日第1刷発行

   2013(平成25)年1月25日第3刷発行

底本の親本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房

   1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行

初出:「中央公論」

   1955(昭和30)年4月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:酒井裕二

2015年6月9日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
酒井裕二

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