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坂口安吾 Ango Sakaguchi 1906.10.20〜1955.02.17

アンゴウ

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矢島やしまは社用しゃようで神田かんだへでるたび、いつもするように、古本屋ほんやをのぞいて歩いた。すると、太田おうた亮氏著「日本にぽん古代こだいに於おける社会しゃかい組織そしきの研究けんきゅう」が目についたので、とりあげた。

一度ひとたびは彼も所蔵しょぞうしたことのある本であるが、出征しゅっせい中戦火せんかでキレイに蔵書ぞうしょを焼き払ってしまった。失われた書物しょもつに再会さいかいするのはなつかしいから手にとらずにいられなくなるけれども、今いまさら一冊二冊買かい戻もどしてみてもと、買かう気持きもちにもならない。そのくせ別わかれづらくもあり、ほろにがいものだ。

頁をくると、扉に「神尾かみお蔵書ぞうしょ」と印がある。見覚みおぼえのある印である。戦死せんしした旧友きゅうゆうの蔵本ぞうほんに相違そういない。彼かの留守るす宅も戦火せんかにやかれ、その未亡人みぼうじんは仙台せんだいの実家じっかにもどっている筈であった。

矢島やしまはなつかしさに、その本を買った。社へもどって、ひらいてみると、頁の間から一枚の見覚みおぼえのある用箋ようせんが現あらわれた。魚紋ぎょもん書館しょかんの用箋ようせんだ。矢島やしまも神尾かみおも出征しゅっせいまではそこの編輯へんしゅう部につとめていたのだ。紙面しめんには次のように数字すうじだけ記されていた。

34 14 14

37 1 7

36 4 10

54 11 2

370 1 2

366 2 4

370 1 1

369 3 1

367 9 6

365 10 3

365 10 7

365 11 4

365 10 9

368 6 2

370 10 7

367 6 1

370 4 1

心覚こころおぼえに頁を控えたものかと思ったが、同おんなじ数字すうじがそろっているから、そうでもないらしい。まさか暗号あんごうではあるまいが、ヒマな時だから、ふとためす気持きもちになって、三十さんじゅう四頁十四行十四宇目うめ、四字まですゝむと、彼はにわかに緊張きんちょうした。語をなしているからだ。

「いつもの処にいます七月ふみつき五日午後ごご三時」

全部ぜんぶでこういう文句もんくになる。あきらかに暗号あんごうだ。

神尾かみおは達筆たっぴつな男であったが、この数字すうじはあまり見事みごとな手蹟しゅせきじゃなく、どうやら女手おんなでらしい様子ようすである。然しかし、この本が疎開そかいに当って他に売られたにしても、魚紋ぎょもん書館しょかんの用箋ようせんだから、この暗号あんごうが神尾かみおに関係かんけいしていることは先まず疑うたがいがないようだ。

用箋ようせんは四つに折られている。すると彼かの恋人こいびとからの手紙てがみらしい。

矢島やしまは神尾かみおと最もっとも親したしい友達ともだちだった。それというのも二人ふたりの趣味しゅみが同おんなじで、歴史れきし、特とくに神代かみよの民族みんぞく学的がくてき研究けんきゅうに興味きょうみをそゝいでいた。文献ぶんけんを貸し合ったり、研究けんきゅうを報告ほうこくし合ったり、お揃そろいで研究けんきゅう旅行りょこうにでかけることも屡々しばしばだった。それはどの親しさだから、お互に生活せいかつの内幕うちまくも知りあい、友人ゆうじんもほゞ共通きょうつうしていたが、さて、ふりかえると、趣味上みかみの友人ゆうじんは二人ふたりだけで、魚紋ぎょもん書館しょかんの社員しゃいんの中に同好どうこうの士は見当けんとうらない。のみならず、この本は殆ほとんど市場いちばに見みかけることのできなかったもので、矢島やしまは古くから蔵していたが、たしか神尾かみおが手に入れたのは、矢島やしまが出征せいする直前ちょくぜんぐらいであったような記憶きおくがある。

それに矢島やしまが出征せいするまで、神尾かみおに恋人こいびとがあったという話をきかない。そのことがあれば、細君さいくんには隠かくしても、矢島やしまにだけは告白こくはくしている筈であった。

矢島やしまの出征しゅっせいは昭和十わじゅう九年三月二日、神尾かみおは翌二十にじゅう年二月に出征しゅっせいして、北支ほくしへ渡って戦死せんししている。してみると、この七月ふみつき五日は、矢島やしまが出征しゅっせいしたあとの十九年のその日であるに相違そういない。

矢島やしまは社の用箋ようせんを持ち帰って使っていた。他の社員しゃいんもみなそうで、当時とうじは紙が店頭てんとうにないのであるから、銘々が自宅じたくへ持もちこむ量も長期ちょうきのストックを見こんでおり、矢島やしまの出征しゅっせい後の留守るす宅にも少からぬこの用箋ようせんが残されていた筈であった。

矢島やしまは妻のタカ子のことを考かんがえる。神尾かみおの知人ちじんにこの本を蔵しているのは矢島やしまの留守るす宅だけであり、そして、そこにはこの用箋ようせんもあったのだ。

神尾かみおは軽薄けいはくな人ではなかった。漁色ぎょしょく漢でもなかった。然しかし、浮気心きごころのない人間じんかんは存在そんざいせず、その可能かのう性をもたない人は有あり得ない。

矢島やしまが復員ふくいんしてみると、タカ子は失明しつめいして実家じっかにいた。自宅じたくに直撃ちょくげきをうけ、その場に失明しつめいして倒たおれたタカ子はタンカに運ばれて助かったが、そのドサクサに二人ふたりの子供こどもと放れたまゝ、どこで死んだか、二人ふたりの子供こどもの消息しょうそくはそのまゝ絶えてしまっていた。

病院びょういんへ収容しゅうようされたタカ子が実家じっかとレンラクがついて、父が上京じょうきょうした時は罹災りさいの日から二週間しゅうかんあまりすぎており、父に焼跡やけあとを見てもらったが、何一つ手がゝりはなかったそうだ。

タカ子の顔の焼痕は注意ちゅういして眺ながめなければ認したためることができないほど昔のまゝに治っていたが、両眼りょうがんの失明しつめいは取とり返かえすことができなかった。

神尾かみおは戦死せんしした。タカ子は失明しつめいした。天罰てんばつの致いたすところだと考かんがえている自分じぶんに気づいて、矢島やしまはあさましいと思ったが、苦痛くつうの念はやりきれないものがあった。

タカ子の書いた暗号あんごうだという確証かくしょうはないのだから、まして一人ひとりは失明しつめいし、一人ひとりは死んだ今となって、過去かこをほじくることもない。戦争せんそうが一つの悪夢あくむなんだから、と気持きもちをととのえるように努力どりょくして、買った本は家へ持って帰ったが、片隅かたすみへ押しこんで、タカ子に一切いっさい知しらせないつもりであった。けれども、そういう心労しんろうが却かえって重荷おもにになってきて、なまじいに自分じぶんの胸ひとつにたたんでおくために、秘密ひみつになやむ苦しさが積み重なってくるように思われた。

そのうちに、矢島やしまはふと気がついた。出征せいするまで、タカ子はいつも矢島やしまの左側さそくに寄りそってきた。新婚しんこんのころの甘あまあい追憶ついおくがタカ子に残のこり、ひとつの習性しゅうせいをなしているのだ。

夜よふけて矢島やしまが机に向むかい読書どくしょにふけっている。タカ子が寄よりそう。矢島やしまは読書どくしょの手をやすめて、タカ子にくちづけをしてやる。そして、くすぐったり、キャア/\笑いさざめいて、たあいもない新婚しんこんの日夜にちやを明あけ暮くれしたが、当時とうじから、タカ子は必かならず矢島やしまの左側さそくに寄より添そうのであった。寝室しんしつでも、タカ子はいつも良人おっとの左側さそくに自分じぶんの枕を用意よういした。

新婚しんこんは、新あたらしい世界せかいをひらいてくれる。矢島やしまはタカ子がひらいてくれた女の世界せかいを賞玩しょうがんした。時には、好奇こうきし、探究たんきゅう慾を起おこしもした。そういう新あたらしい好奇こうきの世界せかいで、タカ子がいつも左側さそくへ寄りそい、左側さそくへねる、ハンで捺したように狂ぐるいのないその習性しゅうせいについて思いめぐらしてみたものだ。本能ほんのうである筈はない。古来こらいからのシキタリがあり、タカ子はそれを教えられており、自分じぶんだけが知らないのかとも考かんがえたが、二十にじゅう年ちかくも史書ししょに親しんでそれらしい故実こじつを読んだこともないから、たぶんそうでもないのだろう。

してみると、男の右手みぎてが愛撫あいぶの手というわけであろうか。そう考かんがえると、タカ子の左側さそくということが、あまり動物どうぶつの本能ほんのうめいて、たのしい想像そうぞうではなかったが、事実じじつに於て右側うそくでは自分じぶん自身おのれカッコウがつかないような感かんじもするから、別に深ぶかい意味いみのない感かんじの世界せかいから発して、二人ふたりの習慣しゅうかんが自然じねんに固定こていしただけのことかも知れなかった。

ところが戦争せんそうから戻ってみると、タカ子は左側さそくへ寄りそったり、右側うそくへ寄りそったり、ねむる時にも左右さゆう不定ふじょうになっていた。然しかし、それもムリがない。タカ子は失明しつめいしているのだから。矢島やしまはそう考かんがえていた。

然しかし、暗号あんごうの手紙てがみから、それからそれへと思おもいめぐらすうち、矢島やしまはふと怖おそろしいことに気がついて、一時いちじは混乱こんらんのために茫然ぼうぜんとしたものである。

神尾かみおは左ギッチョであった。

★

矢島やしまは復員ふくいん後、かなり著名ちょめいな出版しゅっぱん社の出版しゅっぱん部長ぶちょうをつとめていた。ちょうど社用しゃようで、仙台せんだいへ原稿げんこう依頼いらいにでかけることになったので、仙台せんだいには神尾かみおの細君さいくんが疎開そかいしており、どっちみち訪問ほうもんすべき機会きかいであるから、カバンの中へ例の本をつめこんだ。

社用しゃようを果はたしてのち、神尾かみお夫人ふじんの疎開先かいさきを訪たずねると、そこは焼け残った丘の上で、広瀬川せかわのうねりを見下す見晴みはらしのよい家であった。

神尾かみお夫人ふじんは再会さいかいをよろこんで酒肴さけさかなをすゝめたが、夫人ふじんもともに杯をあげて、その目に酔がこもると、いかにも生いき生いきと情感じょうかんに燃もえて、目のある女の美しさ、それをつくづく発見はっけんしたような思おもいがした。

神尾かみお夫人ふじんは元々美うつくしい人であったが、目のないタカ子にくらべて、なんという生いき生いきとした距へだたりであろうか。然しかし、この生いき生いきとした人が、自分じぶんと同じように、神尾かみおとタカ子に裏切うらぎりられている被害者がいしゃなのだと考かんがえると、加害者がいしゃのみすぼらしさが皮肉ひにくであり、わが現実げんじつがまことに奇妙きみょうにも思われた。

タカ子が単たんなる失明しつめいにとゞまらず、子供こどもたちと同じように死んでいたら、あるいは自分じぶんは今日きょうの機会きかいに求婚きゅうこんして、この人と結婚けっこんしたかも分らない。ふと、そんなことを考かんがえる。そして変に情慾じょうよく的になりかけている自分じぶんに気付きずくと、思おもいは再ふたたび神尾かみおとタカ子のこと、自分じぶんが現げんにこうあるように、彼らがそうであったという劇はげしい実感じっかんに脅やかされずにいられなかった。

神尾かみおの長女おさめが学校がっこうから戻ってきた。もう、女学校がっこうの二年生であった。矢島やしまの娘が生きていれば、やっぱり、その年の筈であった。神尾かみおの長女おさめは、生いき生いきと明あかるい、そして、美うつくしい女学生がくせいになっていた。その母よりも、さらに生いき生いきと明るく、立たち歩あるき、坐すわり、身をひるがえして去り、来り、笑わらい、羞恥しゅうちする目。矢島やしまは、いつもションボリ坐っている妻、壁に手を当てゝ這はいずるように動うごく女、またある時は彼かの肩にすがって、単たんなる物体ぶったいの重さだけとなってポソポソとずり進すすむ動物どうぶつについて考かんがえる。せめて二人ふたりの子供こどもが生きていてくれたなら、そしてこの娘のように生いき生いきと自分じぶんの四周ししゅうを立ち歩いていてくれたなら、そんなことをふと思って、泣なき迷しりたい思おもいになった。にわかに心は沈しずみ、再ふたたび浮き立ちそうもなくなって、坐にたえがたくなったので、最後さいごに例の一件をもちだした。

「実は神田かんだの古本屋ほんやで、神尾かみお君の蔵書ぞうしょを一冊みつけましてね、買いもとめて、形見かたみがわり珍蔵ちんぞうしているのです」

彼はカバンからその本をとりだした。

「神尾かみおの本は全部ぜんぶお売うりになったのですか」

夫人ふじんは本を手にとって、扉の蔵書ぞうしょ印を眺ながめていた。

「神尾かみおが出征しゅっせいのとき、売ってよい本、悪わるい本、指定していして、でかけたのです。できれば売らずに全部ぜんぶ疎開そかいさせたいと思いましたが、そのころは輸送ゆそう難で、何段かに指定していしたうち、最小さいしょう限の蔵書ぞうしょしか動かすことができなかったのです。二束三文に売り払った始末しまつで、神尾かみおが生きて帰ったら、さだめし悲かなしい思おもいを致いたすでしょうと一時いちじは案じたほどでした」

「欲ほしい人には貴重きちょうな書物しょもつばかりでしたのに、まとめて古本屋ほんやへお売うりでしたか」

「近所きんじょの小ちいさな古本屋ほんやへまとめて売ってしまったのです。あまりの安値やすねで、お金がほしいとは思おもいませんけど、あれほど書物しょもつを愛していた主人しゅじんの思おもいのこもった物をと思いますと、身をきられるようでしたの」

「然しかし、焼やけだされる前に疎開そかいなさって、賢明けんめいでしたね」

「それだけは幸しあわせでした。出征しゅっせいと同時どうじに疎開そかいしましたから、二十にじゅう年の二月のことで、まだ東京とうきょうには大空襲くうしゅうのない時でしたの」

してみれば、神尾かみおの蔵書ぞうしょが魚紋ぎょもん書館しょかんの同僚どうりょうの手に渡ったという事もない。あの暗号あんごうの七月ふみつき五日は十九年に限られており、その筆者ひっしゃはタカ子以外いがいに誰がいるというのだろうか。

その本ほんのなかに、変な暗号あんごうめくものがありましたが、と何気なくきりだしたいと思ったが、堅く改あらたまるに相違そういないからどうしても言いだせない。目のある人間じんかんはこんな時には都合つごうの悪わるいものであると矢島やしまは思った。

すると本を改あらためていた神尾かみお夫人ふじんがふと顔をあげて、

「でも、妙ですわね。たしかこの本はこちらへ持って来ているように思いますけど。たしかに見覚みおぼえがあるのです」

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First published
「サロン別冊 特選小説集・第二輯」1948(昭和23)年5月20日
Source edition (底本)
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房


   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行

底本の親本:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」

   1948(昭和23)年5月20日発行

初出:「サロン別冊 特選小説集・第二輯」

   1948(昭和23)年5月20日発行

入力:tatsuki

校正:土井 亨

2006年7月24日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
tatsuki
Proofread by (校正)
土井亨

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