Nihoner

寺田寅彦 Torahiko Terada 1878.11.28〜1935.12.31

案内者

あんないしゃ

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どこかへ旅行りょこうがしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行りょこう案内記ないきの類をあけて見みると、あるいは海浜かいひん、あるいは山間さんかんの湖水こすい、あるいは温泉おんせんといったように、行ゆくべき所がさまざま有ありすぎるほどある。そこでまずかりに温泉おんせんなら温泉おんせんときめて、温泉おんせんの部を少すこし詳しく見て行ゆくと、各温泉おんせんの水質すいしつや効能こうのう、周囲しゅういの形勝けいしょう名所などころ旧跡きゅうせきなどのだいたいがざっとわかる。しかしもう少すこし詳しく具体ぐたい的の事が知りたくなって、今度こんどは温泉おんせん専門せんもんの案内書うちがきを捜し出して読んでみる。そうするとまずぼんやりとおおよその見当けんとうがついて来くるが、いくら詳細しょうさいな案内記ないきを丁寧ていねいに読んでみたところで、結局けっきょくほんとうのところは自分じぶんで行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物しょもつだけ読んでいればわざわざ出でかける必要ひつようはないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言ゆう事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後さいごには、つまりいいかげんに、賽さいでも投なげると同じような偶然ぐうぜんな機縁きえんによって目的もくてきの地をどうにかきめるほかはない。

こういうやり方は言ゆわばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最もっとも安全あんぜんな方法ほうほうであって、こうすればめったに大おおきな失望しつぼうやとんでもない違算いさんを生しょうずる心配しんぱいが少ずくない。そうして主要しゅような名所などころ旧跡きゅうせきをうっかり見落みおとす気づかいもない。

しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行りょこうがしたくなると同時どうじに最初さいしょから賽をふって行ゆく所をきめてしまう。あるいは偶然ぐうぜんに読んだ詩編しへんか小説しょうせつかの中である感興かんきょうに打たれたような場所ばしょに決ぎめてしまう。そうして案内記ないきなどにはてんでかまわないで飛とび出だして行ゆく。そうして自分じぶんの足と目で自由じゆうに気に向むくままに歩き回り見て回まわる。この方ほう法はとかくいろいろな失策しっさくや困難こんなんをひき起こしやすい。またいわゆる名所などころ旧跡きゅうせきなどのすぐ前を通とおりながら知らずに見みのがしてしまったりするのは有ありがちな事である。これは危険きけんの多おおいヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般いっぱんの人にすすめる事のできかねるやり方である。

しかし前の安全あんぜんな方法ほうほうにも短所たんしょはある。読んだ案内書うちがきや聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分じぶんの目を隠かくし耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出でかけて来た自分じぶん自身おのれは言ゆわば行李こうりの中にでも押しこめられたような形になり、結局けっきょく案内記ないきや話した人が湯にはいったり見物けんぶつしたり享楽きょうらくしたりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐おそれがある。もちろんこれは案内書うちがきや教えた人の罪ではない。

しかしそれでも結構けっこうであるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。

しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考かんがえる人もある。曲まがりなりにでも自分じぶんの目で見て自分じぶんの足で踏んで、その見みる景色けいしょく、踏ふむ大地だいちと自分じぶんとが直接ちょくせつにぴったり触ふれ合あう時にのみ感かんじ得られる鋭するどい感覚かんかくを味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書うちがきや人の話を無視むしし、あるいはわざと避けたがる。便利べんりと安全あんぜんを買かうために自分じぶんを売うる事を恐おそれるからである。こういう変かわり者ものはどうかすると万人ばんにんの見みるものを見落みおとしがちである代がわりに、いかなる案内記ないきにもかいてないいいものを掘ほり出だす機会きかいがある。

私が昔二三にさん人連ずれで英国えいこくの某離宮りきゅうを見物けんぶつに行った時に、その中のある一人ひとりは、始終しじゅう片手かたでに開いたベデカを離さず、一室いっしつ一室いっしつこれと引ひき合あわせては詳細しょうさいに見物けんぶつしていた。そのベデカはちゃんと一度ひとたび下調したしらべをしてところどころ赤鉛筆えんぴつで丁寧ていねいにアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行ひとくだりをさしながら、「この窓から見みると景色けいしょくがいいと書いてある」と言って聞かせた。一同いちどうはそうかと思って、この見みのがしてならない景色けいしょくを充分じゅうぶんに観賞しょうする事ができた。

私はこの人の学者がくしゃらしい徹底てっていしたアカデミックなしかたに感心かんしんすると同時どうじに、なんだかそこに名状めいじょうのできない物足りなさあるいは一種いっしゅのはかなさとでもいったような心持こころもちがするのを禁きんずる事ができなかった。なんだかこれでは自分じぶんがベデカの編者へんしゃそれ自身おのれになってその校正こうせいでもしているような気がし、そしてその窓が不思議ふしぎなこだわりの網を私のあたまの上に投なげかけるように思われて来た。室に付随ふずいした歴史れきしや故実こじつなどはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分じぶんの目で見つけ出だし選択せんたくする自由じゆうを許ゆるしてもらいたいような気もした。

ベデカというものがなかった時の不自由じゆうは想像そうぞうのほかであろうが、しかしまれには最新刊しんかんのベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学だいがくを尋たずねて行ったらそこが何かの役所やくしょになっていたり、名高なだかい料理りょうり屋を捜さがしあてると貸かし家や札が張ってあったりした事もある。杜撰ずざんな案内記ないきででもあればそういう失敗しっぱいはなおさらの事である。しかし、こういう意味いみで完全かんぜんな案内記ないきを求もとめるのは元来がんらい無理むりな事でなければならない。そういうものがあると思おもうのが困難こんなんのもとであろう。

それで結局けっきょく案内記ないきがなくても困こまるが、あって困こまる場合ばあいもないとは限らない。

中学ちゅうがく時代じだいに始はじめての京都きょうと見物けんぶつに行った事がある。黒谷くろだにとか金閣寺きんかくじとかいう所へ行ゆくと、案内あんないの小僧しょうそうさんが建築けんちくの各部かくぶ分の什物じゅうもつの品々の来歴らいれきなどを一々説明せつめいしてくれる。その一種いっしゅ特別とくべつな節をつけた口調くちょうも田舎者いなかものの私には珍しかったが、それよりも、その説明せつめいがいかにも機械きかい的で、言っている事ことがらに対たいする情緒じょうしょの反応はんのうが全くなくて、説明せつめい者が単たんにきまっただけの声を出だす器械きかいかなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議ふしぎに感ぜられた。その時に見た宝物たからものや襖ふすまの絵などはもう大概たいげいきれいに忘わすれてしまっているが、その時の案内あんない者の一種いっしゅの口調くちょうと空虚くうきょな表情ひょうじょうとだけは今でも頭の底にありありと残っている。

その時に一つ困った事は、私がたとえばある器物いれものか絵かに特別とくべつの興味きょうみを感かんじて、それをもう少すこし詳しくゆっくり見たいと思っても、案内あんない者はすべての品物しなもんに平等びょうどうな時間じかんを割わり当あてて進行しんこうして行ゆくのだから、うっかりしているとその間にずんずんさきへ行ってしまって、その間に私はたくさんの見みるべき物を見みのがしてしまわなければならない事になる。それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者ぎょうじゃの間でちょうど自分じぶんの見落みおとしたいいものについての話題わだいが持ち上がった時に、なんだか少すこし惜おしい事をしたという気の起おこるのは免れ難かった。

学校がっこう教育きょういくやいわゆる参考さんこう書によって授さずけられる知識ちしきは、いろいろの点で旅行りょこう案内記ないきや、名所などころの案内あんない者から得える知識ちしきに似たところがある。

もし学校がっこうのようなありがたい施設しせつがなくて、そしてただ全くの独学どくがくで現代げんだい文化ぶんかの蔵している広大こうだいな知識ちしきの林に分け入り何物なにものかを求めようとするのであったら、その困難こんなんはどんなものであろうか。始はじめから終おわりまで道に迷い通しに迷って、無用むような労力ろうりょくを浪費ろうひするばかりで、結局けっきょく目的もくてき地の見当けんとうもつかずに日が暮くれてしまうのがおちであろうと思われる。

しかし学校がっこう教育きょういくの必要ひつようといったような事を今いまさら新しくここで考かんがえ論じてみようというのではない。ただ学校がっこう教育きょういくを受うけるという事が、ちょうど案内あんない者に手を引かれて歩あるくとよく似ているという事をもう少すこし立ち入って考かんがえてみたいだけである。

案内記ないきが詳密しょうみつで正確せいかくであればあるほど、これに対たいする信頼しんらいの念が厚ければ厚あついほど、われわれは安心あんしんして岐路きろに迷まよう事なしに最少さいしょう限の時間じかんと労力ろうりょくを費やして安全あんぜんに目的もくてき地に到着とうちゃくすることができる。これに増ますありがたい事はない。しかしそれと同時どうじについその案内記ないきに誌しるしてない横道おうどうに隠がくれた貴重きちょうなものを見みのがしてしまう機会きかいははなはだ多おおいに相違そういない。そういう損失そんしつをなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記ないきをひろく参照さんしょうするといい。ただ困こまるのは、すでに在ある案内記ないきの内容ないようをそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記ないきの多おおい事である。これに反して、むしろ間違まちがいだらけの案内記ないきでも、それが多少たしょうでも著者ちょしゃの体験たいけんを材料ざいりょうにしたものである場合ばあいには、存外ぞんがい何かの参考さんこうになる事が多おおい。

しかしいくら完全かんぜんでも結局けっきょく案内記ないきである。いくら読んでも暗唱あんしょうしても、それだけでは旅行りょこうした代がわりにはならない事はもちろんである。

案内記ないきが系統けいとう的に完備かんびしているという事と、それが読よむ人の感興かんきょうをひくという事とは全然ぜんぜん別な事で、むしろ往々相容あいいれないような傾向けいこうがある。いわゆる案内記ないきの無味むみ乾燥かんそうなのに反してすぐれた文学者がくしゃの自由じゆうな紀行文こうぶんやあるいは鋭するどい科学者がくしゃのまとまらない観察かんさつ記は、それがいかに狭せまい範囲はんいの題材だいざいに限られていても、その中に躍動やくどうしている生きた体験たいけんから流露りゅうろするあるものは、直接ちょくせつに読者どくしゃの胸にしみ込こむ、そしてたとえそれが間違っている場合ばあいでさえも、書いた人の真を求もとめる魂だけは力強く読者どくしゃに訴うったえ、読者どくしゃ自身おのれの胸裏きょうりにある同じようなものに火をつける。そうして誌しるされた内容ないようとは無関係かんけいにそこに取り扱われている土地とちその物に対たいする興味きょうみと愛着あいちゃくを呼よび起おこす。

専門せんもんの学術がくじゅつの参考さんこう書でもよく似た事がある。何かある題目だいもくに関して広く文献ぶんけんを調べようという場合ばあいにはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類しゅるいのものはなくてならない重宝ちょうほうなものであるが、少すこし立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文ろんぶんや著書ちょしょを見なければならない。それでこのような参照さんしょう用の大部たいぶなものを、骨折こっせつって始はじめから終おわりまで漫然まんぜんと読よみ通とおし暗唱あんしょうしたところで、すでになんらかの「題目だいもく」を持っていない学生がくせいにとってはきわめて効果こうかの薄うすい骨折ほねおり損になりやすいものである。またこんなものから題目だいもくを選み出だすという事も、できそうでできないものである。これに反して個々の研究けんきゅう者の直接ちょくせつの体験たいけんを記述きじゅつした論文ろんぶんや著書ちょしょには、たとえその題材だいざいが何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受うける暗示あんじは読よむ人の自発じはつ的な活動かつどうを誘発はっするある不思議ふしぎな魔力まりょくをもっている。そうして読者どくしゃ自身おのれの研究けんきゅう心を強く喚よびさます。こういう意味いみからでも、自分じぶんの専門せんもん以外いがいの題目だいもくに関かんするいい論文ろんぶんなどを読よむのは決けっして無益むえきな事ではない。

それで案内記ないきばかりにたよっていてはいつまでも自分じぶんの目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記ないきを無視むししていると、時々道に迷ったり、事によると滝たきつぼや火口かこうに落おちる恐おそれがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科きょうか書とノートばかりをたよりにする学生がくせいがかなり多数たすうである一方いっぽうには、また現代げんだい既成きせいの科学かがくを無視むししたために、せっかくいい考かんがえはもちながら結局けっきょく失敗しっぱいする発明はつめい家や発見はっけん者も時々出て来くる。

名所などころ旧跡きゅうせきの案内あんない者のいちばん困こまるのは何か少すこしよけいなものを見ようとすると No time, Sir ! などと言って引ひっ立たてる事である。しかしこれも時間じかんの制限せいげんがあってみれば無理むりもない事である。それでほんとうに自分じぶんで見物ものするには、もう一いっぺんひとりで出直さなければならない事になる、ただその時に、例の案内あんない者が「邪魔じゃま」をしてくれさえしなければいい。

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This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「改造」1922(大正11)年1月
Source edition (底本)
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店


   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行

   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行

   1997(平成9)年12月15日第81刷発行

入力:(株)モモ

校正:かとうかおり

2003年5月18日作成

青空文庫作成ファイル:

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(株)モモ
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かとうかおり

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