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寺田寅彦 Torahiko Terada 1878.11.28〜1935.12.31

アインシュタインの教育観

アインシュタインのきょういくかん

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近頃ちかごろパリに居おる知人ちじんから、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物しょもつを送ってくれた。「停車ていしゃ場などで売っている俗書ぞくしょだが、退屈たいくつしのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。

欧米おうべいにおける昨今さっこんのアインシュタインの盛名せいめいは非常ひじょうなもので、彼かの名や「相対そうたい原理げんり」という言葉ことばなどが色々な第二次的な意味いみの流行はやり語になっているらしい。ロンドンからの便たよりでは、新聞しんぶんや通俗つうぞく雑誌ざっしくらいしか売っていない店先みせさきにも、ちゃんとアインシュタインの著書ちょしょ(英訳えいやく)だけは並なべてあるそうである。新聞しんぶんの漫画まんがを見ていると、野良のらのむすこが親爺おやじの金を誤魔化ごまかしておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦にがい顔をしている事であろう。

我邦わがくにではまだそれほどでもないが、それでも彼かの名前なまいは理学者がくしゃ以外いがいの方面ほうめんにも近頃ちかごろだいぶ拡まって来たようである。そして彼かの仕事しごとの内容ないようは分らないまでも、それが非常ひじょうに重要じゅうようなものであって、それを仕遂げた彼が非常ひじょうな優れた頭脳ずのうの所有しょゆう者である事を認したため信じている人はかなりに多数たすうである。そうして彼かの仕事しごとのみならず、彼かの「人」について特別とくべつな興味きょうみを抱いていて、その面影おもかげを知りたがっている人もかなりに多おおい。そういう人々にとってこのモスコフスキーの著書ちょしょは甚はなはだ興味きょうみのあるものであろう。

モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身おのれの序文じょぶんにもそうらしく見まみえる事が書いてある。いずれにしても著述ちょじゅつ家として多少たしょう認したためられ、相当そうとうな学識がくしきもあり、科学かがくに対してもかなりな理解りかいを有もっている人である事は、この書の内容ないようからも了解かいする事が出来できる。

この人のアインシュタインに対たいする関係かんけいは、一見いちげんボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対たいするようなものかもしれない。彼自身おのれも後者こうしゃの類例るいれいをある程度ていどまで承認しょうにんしている。「琥珀こはくの中の蝿はえ」などと自分じぶんで云っているが、単たんなるボスウェリズムでない事は明あきらかに認したためられる。

時々アインシュタインに会って雑談ざつだんをする機会きかいがあるので、その時々の談片を題目だいもくとし、それの注釈ちゅうしゃくや祖述そじゅつ、あるいはそれに関かんする評論ひょうろんを書いたものが纏まとまった書物しょもつになったという体裁ていさいである。無論むろん記事きじの全責任せきにんは記者きしゃすなわち著者ちょしゃにあることが特とくに断ってある。

一体いったい人の談話だんわを聞いて正当せいとうにこれを伝つたえるという事は、それが精密せいみつな科学かがく上の定理ていりや方則まさのりでない限かぎり、厳密げんみつに云えばほとんど不可さえる能なほど困難こんなんな事である。たとえ言葉ことばだけは精密せいみつに書き留めても、その時の顔の表情ひょうじょうや声のニュアンスは全然ぜんぜん失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形がいけいだけ正しく伝つたえることによって、話した本人ほんにんを他人たにんの前に陥おとしいれることも揚あげることも勝手かってに出来できる。これは無責任せきにんないし悪意あくいあるゴシップによって日常行つねゆきわれている現象げんしょうである。

それでこの書物しょもつの内容ないようも結局けっきょくはモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝つたえるのだから、更さらに一層いっそうアインシュタインから遠とおくなってしまう、甚はなはだ心細こころぼそい訳である。しかし結局けっきょく「人」の真相しんそうも相対そうたい性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事きじもやはり一つの「真」の相かもしれない。そうでない場合ばあいでも、何かしら考かんがえる事の種子しゅしくらいにはならない事はあるまい。

余談よだんはさておき、この書物しょもつの一章かずあきにアインシュタインの教育きょういくに関かんする意見いけんを紹介しょうかい論評ろんぴょうしたものがある。これは多くの人に色々な意味いみで色々な向むきの興味きょうみがあると思われるから、その中ちゅうから若干じゃっかんの要点ようてんだけをここに紹介しょうかいしたいと思おもう。アインシュタイン自身おのれの言葉ことばとして出ている部分ぶぶんはなるべく忠実ただざねに訳やくするつもりである。これに対たいする著者ちょしゃの論議ろんぎはわざと大部分ぶぶんを省略しょうりゃくするが、しかし彼かの面目めんぼくを伝つたえる種類しゅるいの記事きじは保存ほぞんすることにする。

アインシュタインはヘルムホルツなどと反対はんたいで講義こうぎのうまい型の学者がくしゃである。のみならず講義こうぎ講演こうえんによって人に教おしえるという事に興味きょうみと熱心ねっしんをもっているそうである。それで学生がくせいや学者がくしゃに対してのみならず、一般いっぱん人の知識ちしき慾を満足まんぞくさせる事を煩わしく思わない。例たとえば労働ろうどう者の集団しゅうだんに対しても、分わかりやすい講演こうえんをやって聞かせるとある。そんな風であるから、ともかくも彼が教育きょういくという事に無関心かんしんな仙人せんにん肌でない事は想像そうぞうされる。

アインシュタインの考かんがえでは、若わかい人の自然じねん現象げんしょうに関かんする洞察どうさつの眼を開あけるという事が最もっとも大切な事であるから、従って実科じっか教育きょういくを十分じゅうぶんに与あたえるために、古典こてん的な語学ごがくのみならず「遠慮えんりょなく云えば」語学ごがくの教育きょういくなどは幾分いくぶん犠牲ぎせいにしても惜しくないという考かんがえらしい。これについて持出もちだしされた So viele Sprachen einer versteht, so viele Male ist er Mensch. というカール五世の言葉ことばに対して彼は、「語学競技者シュプラハ・アトレーテン」は必かならずしも「人間じんかん」の先頭せんとうに立だつものではない、強こわい性格せいかく者であり認識にんしきの促進そくしん者たるべき人の多面ためん性は語学ごがく知識ちしきの広ひろい事ではなくて、むしろそんなものの記憶きおくのために偏頗へんぱに頭脳ずのうを使わないで、頭の中を開放かいほうしておく事にある、と云っている。

「人間じんかんは『鋭敏えいびんに反応はんのうする』(subtil zu reagieren)ように教育きょういくされなければならない。云わば『精神せいしん的の筋肉きんにく』(geistige Muskeln)を得てこれを養成ようせいしなければならない。それがためには語学ごがくの訓練ドリルはあまり適しない。それよりは自分じぶんで物を考かんがえるような修練しゅうれんに重おもきを置いた一般いっぱん的教育きょういくが有効ゆうこうである。」

「尤もっとも生徒せいとの個性的せいてき傾向けいこうは無論むろん考かんがえなければならない。通例つうれいそのような傾向けいこうは、かなりに早くから現あらわれるものである。それだから自分じぶんの案では、中等学校ギムナジウムの三年頃としごろからそれぞれの方面ほうめんに分派ぶんぱさせるがいいと思おもう。その前に教おしえる事は極きわめて基礎きそ的なところだけを、偏しない骨の折れない程度ていどに止とどめた方がいい。それでもし生徒せいとが文学ぶんがく的の傾向けいこうがあるなら、それにはラテン、グリーキも十分じゅうぶんにやらせて、その代り性に合わない学科がっかでいじめるのは止よした方がいい……」

これは明あきらかに数学すうがくなどを指したものである。数学すうがく嫌ぎらいの生徒せいとは日本にぽんに限らないと見えて、モスコフスキーの云いうところに拠よると、かなりはしっこい頭でありながら、数学すうがくにかけてはまるで低能ていのうで、学校がっこう生活せいかつ中に襲われた数学すうがくの悪夢あくむに生涯しょうがい取り付かれてうなされる人が多おおいらしい。このいわゆる数学的がくてき低能ていのう者についてアインシュタインは次のような事を云っている。

「数学すうがく嫌ぎらいの原因げんいんが果はたして生徒せいとの無能むのうにのみよるかどうだか私にはよく分らない。むしろ私は多くの場合ばあいにその責任せきにんが教師きょうしの無能むのうにあるような気がする。大概たいげいの教師きょうしはいろんな下らない問題もんだいを生徒せいとにしかけて時間じかんを空費くうひしている。生徒せいとが知らない事を無理むりに聞いている。本当ほんとの疑問ぎもんのしかけ方は、相手あいてが知っているか、あるいは知り得える事を聞きき出だす事でなければならない。それで、こういう罪過ざいかの行われるところでは大概たいげい教師きょうしの方が主おもな咎とがを蒙こうむらなければならない。学級がっきゅうの出来栄できばえは教師きょうしの能力のうりょくの尺度しゃくどになる。一体いったい学級がっきゅうの出来栄できばえには自おのずから一定いっていの平均へいきん値があってその上下うえしたに若干じゃっかんの出入ではいりがある。その平均へいきんが得られれば、それでかなり結構けっこうな訳である。しかしもしある学級がっきゅうの進歩しんぽが平均へいきん以下いかであるという場合ばあいには、悪わるい学年がくねんだというより、むしろ先生せんせいが悪わるいと云った方がいい。大抵たいていの場合ばあいに教師きょうしは必要ひつような事項じこうはよく理解りかいもし、また教材きょうざいとして自由じゆうにこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍わざわいの源になるのである。先生せんせいが退屈たいくつの呼吸いきを吹きかけた日には生徒せいとは窒息ちっそくしてしまう。教おしえる能力のうりょくというのは面白く教おしえる事である。どんな抽象ちゅうしょう的な教材きょうざいでも、それが生徒せいとの心の琴線きんせんに共鳴きょうめいを起させるようにし、好奇こうき心をいつも活かしておかねばならない。」

これは多数たすうの人にとって耳の痛いたい話である。

この理想りそうが実現せられるとして、教案きょうあんを立たてる際に材料ざいりょうと分布ぶんぷをどうするかという問に対しては、具体ぐたい的の話は後日ごにちに譲ゆずると云って、話頭わとうを試験しけん制度せいどの問題もんだいに転じている。

「要は時間じかんの経済けいざいにある。それには無駄むだな生徒せいといじめの訓練くんれん的な事は一切いっさい廃はいするがいい。今日きょうでも一切いっさいの練習れんしゅうの最後さいごの目的もくてきは卒業そつぎょう試験しけんにあるような事になっている。この試験しけんを廃しなければいけない。」「それは修学しゅうがく期の最後さいごにおける恐おそろしい比武競技きょうぎのように、遥はるかの手前てまえまでもその暗影あんえいを投なげる。生徒せいとも先生せんせいも不断ふだんにこの強制きょうせい的に定さだめられた晴はれの日の準備じゅんびにあくせくしていなければならない。またその試験しけんというのが人工じんこう的に無闇むやみに程度ていどを高く捻ねじり上げたもので、それに手の届とどくように鞭撻べんたつされた受験者げんじゃはやっと数時間じかんだけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘わすれて再ふたたび取とりかえす事はない。それを忘わすれてしまえば厄介やっかいな記憶きおくの訓練くんれんの効果こうかは消えてしまう。試験しけんさえすめば数カ月げつ後には大丈夫だいじょぶ綺麗きれいに忘わすれてしまうような、また忘わすれて然るべきような事を、何年なにどしもかかって詰つめ込こむ必要ひつようはない。吾々は自然じねんに帰かえるがいい。そして最小さいしょうの仕事しごとを費やして最大さいだいの効果こうかを得えるという原則げんそくに従った方がいい。卒業そつぎょう試験しけんは正まさにこの原則げんそくに反はんするものである。」

それでは大学だいがく入学にゅうがくの資格しかくはどうしてきめるかとの問に対して、

「偶然ぐうぜんに支配しはいされるような火の試練フォイアプローベでなく、一体いったいの成績せいせきによればいい。これは教師きょうしにはよく分わかるもので、もし分らなければ罪はやはり教師きょうしにある。教案きょうあんが生徒せいとを圧迫あっぱくする度が少なければ少ずくないほど、生徒せいとは卒業そつぎょうの資格しかくを得やすいだろう。一日ついたち六時間じかん、そのうち四時間じかんは学校がっこう、二時間じかんは宅で練習れんしゅうすれば沢山だくさんで、それすら最大さいだい限である。もしこれで少な過すぎると思うなら、まあ考かんがえてみるがいい。若わかいものは暇な時間じかんでも強こわい興奮こうふん努力どりょくを経験けいけんしている。何故なぜと云えば、彼等は全世界せかいを知覚ちかくし認識にんしきし呑み込まなければならないから。」

「時間じかんを減へらして、その代りあまり必須ひっしゅでない科目かもくを削けずるがいい。『世界せかい歴史れきし』と称しょうするものなどがそれである。これは通例つうれい乾燥かんそう無味むみな表に詰め込んだだらしのないものである。これなどは思い切って切きり詰つめ、年代としよいじりなどは抜ぬきにして綱領こうりょうだけに止とどめたい。特とくに古ふるい時代じだいの歴史れきしなどはずいぶん抜かしてしまっても吾人ごじんの生活せいかつに大たいした影響えいきょうはない。私は学生がくせいがアレキサンダー大王だいおうその外何ダースかの征服せいふく者の事を少すこしも知らなくても、大たいした不幸ふこうだとは思わない。こういう人物じんぶつが残した古文書ぶんしょ的の遺産いさんは、無駄むだなバラストとして記憶きおくの重荷おもにになるばかりである。どうしても古代こだいに溯さかのぼりたいなら、せめてサイラスやアルタセルキセスなどは節約せつやくして、文化ぶんかに貢献こうけんしたアルキメーデス、プトレモイス、ヘロン、アポロニウスの事でも少すこし話はなしてもらいたい。全課程かていを冒険ぼうけん者や流血りゅうけつ者の行列ぎょうれつにしないために発明はつめい家や発見はっけん家も入れてもらいたい。」

歴史れきしの時間じかんの一部いちぶを割いて、実際じっさいの国家こっか組織そしきに関かんする事項じこう、社会しゃかい学や法律ほうりつなども授さずけてはどうかという問に対してはむしろ不賛成さんせいだと答えている。彼自身おのれ個人こじんとしては公生活せいかつの組織そしきに関してかなりな興味きょうみをもっているが、学校がっこうで政治せいじ的素養そようを作ずくる事は面白くないと云っている。その理由りゆうは第一だいいちこういう教育きょういくは官辺かんぺんの影響えいきょうのために本質的ザハリヒに出来しゅったいにくいし、また頭の成熟せいじゅくしないものが政治せいじ上の事にたずさわるのは一体いったい早過すぎるというのである。その代り生徒せいとに何かしら実用じつようになる手工しゅこうを必修ひっしゅうさせ、指物さしものなり製本もとなり錠前じょうまえなりとにかく物になるだけに仕込んでやりたいという考かんがえである。これに対してモスコフスキーが、一体いったいそれは腕を仕込しこむのが主意しゅいか、それとも民衆みんしゅう一般いっぱんとの社会しゃかい的連帯れんたいの感かんじを持もたせるためかと聞きくと、

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First published
「科学知識」1921(大正10)年7月
Source edition (底本)
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店


   1997(平成9)年5月6日発行

入力:Nana ohbe

校正:浅原庸子

2004年12月13日作成

2005年10月26日修正

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Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
浅原庸子

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