Nihoner

有島武郎 Takeo Arishima 1878.03.04〜1923.06.09

生まれいずる悩み

うまれいずるなやみ

  • Demanding
  • 50,640 characters
  • about 127 min
  • 16 sections
  • Public domain

一

私は自分じぶんの仕事しごとを神聖しんせいなものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分じぶんの心をひっぱたいて、できるだけ伸のび伸のびしたまっすぐな明あかるい世界せかいに出て、そこに自分じぶんの芸術げいじゅつの宮殿くうでんを築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜よろこばしい事だったろう。と同時どうじにどれほど苦くるしい事だったろう。私の心の奥底おくそこには確たしかに――すべての人の心の奥底おくそこにあるのと同様どうような――火が燃もえてはいたけれども、その火を燻いぶらそうとする塵芥ちりあくたの堆積たいせきはまたひどいものだった。かきのけてもかきのけても容易たやすいに火の燃え立って来ないような瞬間しゅんかんには私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行ゆく一面いちめんの畑を見渡みわたしながら、滞とどこおりがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。

寒さむい。原稿げんこう紙の手てざわりは氷のようだった。

陽ひはずんずん暮くれて行ゆくのだった。灰色はいいろからねずみ色いろに、ねずみ色いろから墨色すみいろにぼかされた大おおきな紙を目の前にかけて、上から下へと一気いっきに視線しせんを落おとして行ゆく時に感かんずるような速さで、昼の光は夜の闇やみに変わって行こうとしていた。午後ごごになったと思うまもなく、どんどん暮くれかかる北海道ほっかいどうの冬を知らないものには、日がいち早はやく蝕むしばまれるこの気味きみ悪わるいさびしさは想像そうぞうがつくまい。ニセコアンの丘陵きゅうりょうの裂さけ目めからまっしぐらにこの高原こうげんの畑地はたちを目がけて吹きおろして来くる風は、割合わりあいに粒の大おおきい軽かろやかな初冬しょとうの雪片せっぺんをあおり立てあおり立て横よこざまに舞い飛ばした。雪片せっぺんは暮れ残った光の迷子まいごのように、ちかちかした印象いんしょうを見みる人の目に与えながら、いたずら者らしくさんざん飛び回った元気げんきにも似ず、降りたまった積雪せきせつの上に落おちるや否や、寒さむい薄紫うすむらさきの死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪片せっぺんだけがさらさらさらさらとささやかに音を立たてるばかりで、他のすべてのやつらは残らず唖おしだ。快活かいかつらしい白じろい唖の群むれの舞踏ぶとう――それは見みる人を涙ぐませる。

私はさびしさのあまり筆をとめて窓の外をながめてみた。そして君の事を思った。

1 / 16 Next →

Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「小さき者へ・生まれいずる悩み」岩波文庫、岩波書店

   1940(昭和15)年3月26日第1刷発行

   1962(昭和37)年10月16日第26刷改版発行

   1998(平成10)年4月6日第71刷改版発行

底本の親本:「生れ出る悩み」叢文閣

   1918(大正7)年9月初版発行

入力:土田一柄

校正:丹羽倫子

2000年10月10日公開

2012年8月21日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
土田一柄
Proofread by (校正)
丹羽倫子

Aozora library card for this work ↗ · How Nihoner sources and licenses its content

More by 有島武郎

Browse the whole library →