Nihoner

有島武郎 Takeo Arishima 1878.03.04〜1923.06.09

クララの出家

クララのしゅっけ

  • Demanding
  • 13,791 characters
  • about 34 min
  • 4 sections
  • Public domain

○

これも正しく人間じんかん生活せいかつ史の中に起った実際じっさいの出来事できごとの一つである。

○

また夢に襲われてクララは暗ぐらい中うちに眼をさました。妹のアグネスは同おんなじ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静しずかに眠ねむりつづけていた。千二百にひゃく十二とうに年の三月十八日、救世きゅうせい主のエルサレム入城にゅうじょうを記念きねんする棕櫚しゅろの安息日あんそくびの朝の事。

数多おおい見知みしり越しの男たちの中で如何どういう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現あらわれた。その一人ひとりはやはりアッシジの貴族きぞくで、クララの家からは西北せいほくに当あたる、ヴィヤ・サン・パオロに住すむモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至いたるしなやかさが眼についた。クララの父親ちちおやは期待きたいをもった微笑えみを頬ほおに浮べて、品よくひかえ目めにしているこの青年せいねんを、もっと大胆だいたんに振舞えと、励はげますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいて来た。そして仏蘭西フランスから輸入ゆにゅうされたと思われる精巧せいこうな頸飾くびかざりを、美うつくしい金象眼きんぞうがんのしてある青銅からかねの箱から取出して、クララの頸に巻こうとした。上品じょうぼんで端麗たんれいな若わかい青年せいねんの肉体にくたいが近寄ちかよるに従って、クララは甘あまあい苦痛くつうを胸に感じた。青年せいねんが近寄ちかよるなと思おもうとクララはもう上気じょうきして軽かるい瞑眩めまいに襲われた。胸の皮膚ひふは擽くすぐられ、肉はしまり、血は心臓しんぞうから早く強く押出おしだしされた。胸から下の肢体したいは感触かんしょくを失ったかと思おもうほどこわばって、その存在そんざいを思おもう事にすら、消きえ入いるばかりの羞恥しゅうちを覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美うつくしい暗緑あんりょくの瞳ひとみは、涙よりももっと輝かがやく分泌ぶんぴ物の中に浮き漂った。軽く開いた唇くちびるは熱あつい息気いきのためにかさかさに乾いた。油汗あぶらあせの沁しみ出た両手りょうては氷のように冷えて、青年せいねんを押もどそうにも、迎むかえ抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体にくたいはややともすると後うしろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二しゃにむに前の方に押し進もうとした。

クララは半分はんぶん気を失いながらもこの恐おそろしい魔術まじゅつのような力に抵抗ていこうしようとした。破滅はめつが眼の前に迫った。深淵しんえんが脚の下に開けた。そう思って彼女かのじょは何とかせねばならぬと悶もだえながらも何なんにもしないでいた。慌あわて戦おののく心は潮うしおのように荒れ狂いながら青年せいねんの方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分じぶんの首に感じた。熱あつい指先ゆびさきと冷つめたい金属きんぞくとが同時どうじに皮膚ひふに触ふれると、自制じせいは全く失われてしまった。彼女かのじょは苦痛くつうに等ひとしい表情ひょうじょうを顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。

もうパオロの胸に触ふれると思った瞬間しゅんかんは来て過ぎ去ったが、不思議ふしぎにもその胸には触れないでクララの体は抵抗ていこうのない空間くうかんに傾き倒れて行った。はっと驚おどろく暇もなく彼女かのじょは何所どことも判わからない深ふかみへ驀地まっしぐらに陥って行ゆくのだった。彼女かのじょは眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目めしいのようだった。真暗まっくらな闇の間を、颶風ぐふうのような空気くうきの抵抗ていこうを感かんじながら、彼女かのじょは落おち放題ほうだいに落おちて行った。「地獄じごくに落おちて行ゆくのだ」胆きもを裂さくような心咎こころとがめが突然とつぜんクララを襲った。それは本統ほんとうはクララが始はじめから考かんがえていた事なのだ。十六の歳としから神の子基督キリストの婢女しもべとして生き通そうと誓った、その神聖しんせいな誓言せいごんを忘わすれた報むくいに地獄じごくに落おちるのに何どの不思議ふしぎがある。それは覚悟かくごしなければならぬ。それにしても聖処女しょじょによって世に降誕こうたんした神の子基督きりすとの御顔を、金輪際こんりんざい拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落おちながら一心いっしん不乱ふらんに聖母せいぼを念じた。

ふと光ったものが眼の前を過すぎて通ったと思った。と、その両肱りょうひじは棚たなのようなものに支つかえられて、膝ひざがしらも堅がたい足場あしばを得ていた。クララは改悛者かいしゅんしゃのように啜泣すすりなきながら、棚らしいものの上に組み合せた腕の間に顔を埋めた。

泣いてる中うちにクララの心は忽たちまち軽くなって、やがては十ばかりの童女どうじょの時のような何事なにごとも華はなやかに珍めずらしい気分きぶんになって行った。突然とつぜん華やいだ放胆ほうたんな歌声うたごえが耳に入った。クララは首をあげて好奇こうきの眼を見張った。両肱りょうひじは自分じぶんの部屋へやの窓枠まどわくに、両膝りょうひざは使つかいなれた樫かしの長椅子ながいすの上に乗っていた。彼女かのじょの髪は童女どうじょの習慣しゅうかんどおり、侍童ページのように、肩かたあたりまでの長さに切下きりさげにしてあった。窓からは、朧夜おぼろよの月の光の下に、この町の堂母ドーモなるサン・ルフィノ寺院じいんとその前の広場ひろばとが、滑かな陽春ようしゅんの空気くうきに柔やわらめられて、夢のように見渡された。寺院じいんの北側きたがわをロッカ・マジョーレの方に登のぼる阪さかを、一つの集団しゅうだんとなってよろけながら、十五、六人の華車きゃしゃな青年せいねんが、声をかぎりに青春せいしゅんを讃美さんびする歌をうたって行ゆくのだった。クララはこの光景こうけいを窓から見みおろすと、夢の中にありながら、これは前に一度ひとたび目撃もくげきした事があるのにと思っていた。

そう思おもうと、同時どうじに窓の下の出来事できごとはずんずんクララの思おもう通とおりにはかどって行った。

夏には夏の我われを待て。

春には春の我われを待て。

夏には隼たかを腕に据えよ。

春には花に口を触れよ。

春なり今は。春なり我われは。

春なり我われは。春なり今は。

我わがめぐわしき少女おとめ。

春なる、ああ、この我われぞ春なる。

寝しずまった町並まちなみを、張はりのある男声だんせいの合唱がっしょうが鳴なりひびくと、無頓着むとんじゃくな無恥むちな高笑たかわらいがそれに続いた。あの青年せいねんたちはもう立止たちどまる頃だとクララが思おもうと、その通とおりに彼らは突然とつぜん阪の中途ちゅうとで足をとめた。互に何か探し合っているようだったが、やがて彼らは広場ひろばの方に、「フランシス」「ベルナルドーネの若わかい騎士きし」「円卓子パンサ・ロトンダの盟主めいしゅ」などと声々に叫び立てながら、はぐれた伴侶なかまを探しにもどって来た。彼らは広場ひろばの手前てまえまで来た。そして彼らの方に二十にじゅう二、三に見まみえる一人ひとりの青年せいねんが夢遊むゆう病者びょうしゃのように足あしもともしどろに歩いて来くるのを見つけた。クララも月影つきかげでその青年せいねんを見た。それはコルソの往還おうかんを一つへだてたすぐ向むかうに住すむベルナルドーネ家のフランシスだった。華美かびを極めた晴着はれぎの上に定紋じょうもんをうった蝦茶えびちゃのマントを着て、飲のみ仲間なかまの主権者けんじゃたる事を現あらわす笏しゃくを右手みぎてに握った様子ようすは、ほかの青年せいねんたちにまさった無頼ぶらいの風俗ふうぞくだったが、その顔は痩やせ衰えて物凄ものすごいほど青く、眼は足あしもとから二、三間さきの石畳いしだたみを孔あなのあくほど見入ったまま瞬またたきもしなかった。そしてよろけるような足あしどりで、見えないものに引ずられながら、堂母ドーモの広場ひろばの方に近づいて来た。それを見みつけると、引返ひきかえして来た青年せいねんたちは一度ひとたびにときをつくって駈かけよりざまにフランシスを取かこんだ。「フランシス」「若わかい騎士きし」などとその肩まで揺ゆすって呼よびかけても、フランシスは恐おそろしげな夢からさめる様子ようすはなかった。青年せいねんたちはそのていたらくにまたどっと高笑たかわらいをした。「新妻にいづまの事でも想像そうぞうして魂がもぬけたな」一人ひとりがフランシスの耳に口をよせて叫んだ。フランシスはついた狐きつねが落おちたようにきょとんとして、石畳いしだたみから眼をはなして、自分じぶんを囲かこむいくつかの酒にほてった若わかい笑顔えがおを苦々しげに見廻みまわりわした。クララは即興そっきょう詩でも聞きくように興味きょうみを催もよおして、窓から上体じょうたいを乗出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて自分じぶんの纏まとったマントや手に持もつ笏しゃくに気がつくと、甫はじめて今まで耽ふけっていた歓楽かんらくの想出おもいでの糸口いとぐちが見つかったように苦笑にがわらいをした。

「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻にいつまの事を考かんがえている。しかし私が貰もらおうとする妻は君らには想像そうぞうも出来しゅったいないほど美うつくしい、富裕ありな、純潔じゅんけつな少女しょうじょなんだ」

そういって彼あれは笏を上あげて青年せいねんたちに一足先あしさききに行けと眼で合図あいずした。青年せいねんたちが騒さわぎ合あいながら堂母ドーモの蔭に隠かくれるのを見届みとどけると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着はれぎとをずたずたに破りすてた。

次の瞬間しゅんかんにクララは錠のおりた堂母ドーモの入口いりぐちに身を投なげかけて、犬のようにまろびながら、悔恨かいこんの涙にむせび泣なく若わかいフランシスを見た。彼女かのじょは奇異きいの思おもいをしながらそれを眺ながめていた。春の月は朧おぼろに霞かすんでこの光景こうけいを初はじめからしまいまで照している。

寺院じいんの戸が開いた。寺院じいんの内部うつべは闇で、その闇は戸の外に溢あふれ出でるかと思おもうほど濃かった。その闇の中ちゅうから一人ひとりの男が現あらわれた。十歳の童女どうじょから、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当そうとうした長ながい髪を編下さげにして寝衣ねまきを着たクララは、恐怖きょうふの予覚よかくを持もちながらその男を見つめていた。男は入口いりぐちにうずくまるフランシスに眼をつけると、きっとクララの方に鋭するどい眸ひとみを向けたが、フランシスの襟元えりもとを掴つかんで引きおこした。ぞろぞろと華はなやかな着物きものだけが宙につるし上って、肝腎かんじんのフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐おそろしい衝動しょうどうを感かんじてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物きものが二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人ふたりの間に立だつその男は、クララの許婚いいなずけのオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美うつくしい芝生しばふより一段いちだん低ひくい沼地ぬまちがかった黒土くろつちの上に単調たんちょうにずらっとならんで立っていた――父は脅おびやかすように、母は歎なげくように、男は怨うらむように。戦たたかいの街ちまたを幾度もくぐったらしい、日に焼やけて男性的せいてきなオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名こうみょう心と、強こわい意志いしと、生一本きいっぽんな気象きしょうとで、固かたい輪郭りんかくを描いていた。そしてその上を貴族きぞく的な誇ほこりが包んでいた。今まで誰だれの前にも弱味よわみを見せなかったらしいその顔が、恨うらみを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚いいなずけの仲であるくせに、そしてこの青年せいねんの男らしい強さを尊敬そんけいしているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありながら生うまれ落おちるとから神に献ささげられていたような不思議ふしぎな自分じぶんの運命うんめいを思いやった。晩おそかれ早かれ生うみの親おやを離はなれて行ゆくべき身みの上うえも考かんがえた。見みると三人は自分じぶんの方に手を延ばしている。そしてその足は黒土こくどの中にじりじりと沈みこんで行ゆく。脅おびやかすような父の顔も、歎なげくような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見みる見みる変って、眼に逼せまる難儀なんぎを救ってくれと、恥も忘わすれて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに死のように静しずかで陰鬱いんうつだった。クララは芝生しばふの上からそれをただ眺ながめてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙を一いっぱいためた眼でじっとクララに物をいおうとする三人の顔の外ほかに、果はてしのないその泥の沼には多くの男女なんにょの頭が静しずかに沈んで行きつつあるのだ。頭が沈しずみこむとぬるりと四方しかたからその跡を埋めに流ながれ寄よる泥の動揺どうようは身みの毛けをよだてた。クララは何もかも忘わすれて三人を救すくうために泥の中に片足かたあしを入れようとした。

その瞬間しゅんかんに彼女かのじょは真黄まっきいに照てり輝かがやく光の中に投げ出された。芝生しばふも泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがいた。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使てんしガブリエルである事を知った。「天国てんごくに嫁とつぐためにお前まえは浄きよめられるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時どうじにガブリエルは爛々らんらんと燃もえる炎の剣をクララの乳房ちぶさの間からずぶりとさし通した。燃えさかった尖頭きっさきは下腹部ふくぶまで届いた。クララは苦悶くもんの中うちに眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅めいめつして十字じゅうじ架にかかった基督キリストの姿が厳かに見やられた。クララは有頂天うちょうてんになった。全身ぜんしんはかつて覚おぼえのない苦くるしい快こころよい感覚かんかくに木この葉はの如ごとくおののいた。喉のども裂け破やぶれる一声いっせいに、全身ぜんしんにはり満ちた力を搾しぼり切ろうとするような瞬間しゅんかんが来た。その瞬間しゅんかんにクララの夢はさめた。

1 / 4 Next →

Compound words in this book

Longer words built from shorter ones — they read as one word, so learn them whole.

Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「太陽」1917(大正6)年9月
Source edition (底本)
底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店


   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行

   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行

   1990(平成2)年4月15日第35刷発行

底本の親本:「有島武郎著作集」第三輯、新潮社

   1918(大正7)年2月刊

初出:「太陽」

   1917(大正6)年9月

入力:鈴木厚司

校正:染川隆俊

2001年2月14日公開

2005年9月24日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
鈴木厚司
Proofread by (校正)
染川隆俊

Aozora library card for this work ↗ · How Nihoner sources and licenses its content

More by 有島武郎

Browse the whole library →