Nihoner

宮沢賢治 Kenji Miyazawa 1896.08.27〜1933.09.21

イギリス海岸

イギリスかいがん

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夏休なつやすみの十五日の農場実習のうじょうじっしゅうの間に、私わたくしどもがイギリス海岸かいがんとあだ名なをつけて、二日か三日ごと、仕事しごとが一きりつくたびに、よく遊あそびに行った処ところがありました。

それは本とうは海岸かいがんではなくて、いかにも海岸かいがんの風をした川の岸きしです。北上きたかみ川の西岸せいがんでした。東の仙人峠せんにんとうげから、遠野とおのを通とおり土沢つちざわを過すぎ、北上きたかみ山地さんちを横截よこぎって来くる冷つめたい猿ヶ石さるがいし川の、北上川かみかわへの落合おちあいから、少すこし下流かりゅうの西岸せいがんでした。

イギリス海岸かいがんには、青白あおじろい凝灰質ぎょうかいしつの泥岩でいがんが、川に沿そってずいぶん広く露出ろしゅつし、その南のはじに立ちますと、北きたのはずれに居いる人は、小指こゆびの先よりもっと小さく見えました。

殊ことにその泥岩層そうは、川の水の増ますたんび、奇麗きれいに洗あらわれるものですから、何とも云いえず青白くさっぱりしていました。

所々ところどころには、水増みずましの時できた小ちいさな壺穴つぼあなの痕あとや、またそれがいくつも続つづいた浅あさい溝みぞ、それから亜炭あたんのかけらだの、枯かれた蘆あしきれだのが、一列れつにならんでいて、前の水増みずましの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。

日が強く照てるときは岩は乾かわいてまっ白しろに見え、たて横よこに走ったひび割われもあり、大おおきな帽子ぼうしを冠かむってその上をうつむいて歩あるくなら、影法師かげぼうしは黒く落おちましたし、全まったくもうイギリスあたりの白堊はくあの海岸かいがんを歩いているような気がするのでした。

町の小学校がっこうでも石いしの巻まきの近ちかくの海岸かいがんに十五日も生徒せいとを連つれて行きましたし、隣となりの女学校がっこうでも臨海りんかい学校がっこうをはじめていました。

けれども私わたくしたちの学校がっこうではそれはできなかったのです。ですから、生あれるから北上きたかみの河谷かこくの上流じょうりゅうの方にばかり居いた私たちにとっては、どうしてもその白じろい泥岩層でいがんそうをイギリス海岸かいがんと呼よびたかったのです。

それに実際じっさいそこを海岸かいがんと呼よぶことは、無法むほうなことではなかったのです。なぜならそこは第だい三紀きと呼ばれる地質時代ちしつじだいの終おわり頃ごろ、たしかにたびたび海の渚なぎさだったからでした。その証拠しょうこには、第一だいいちにその泥岩でいがんは、東の北上きたかみ山地さんちのへりから、西の中央分水嶺ちゅうおうぶんすいれいの麓ふもとまで、一枚まいの板いたのようになってずうっとひろがっていました。ただその大部分だいぶぶんがその上に積つもった洪積こうせきの赤砂利あかじゃりや※ローム

、それから沖積ちゅうせきの砂すなや粘土ねんどや何かに被おおわれて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の岸きしや崖がけの脚あしには、きっとこの泥岩でいがんが顔を出だしているのでもわかりましたし、また所々ところどころで掘ほり抜ぬき井戸いどを穿うがったりしますと、じきこの泥岩層そうにぶっつかるのでもしれました。

第二に、この泥岩でいがんは、粘土ねんどと火山灰かざんばいとまじったもので、しかもその大部分だいぶぶんは静しずかな水の中で沈しずんだものなことは明あきらかでした。たとえばその岩には沈んでできた縞しまのあること、木の枝えだや茎くきのかけらの埋うずもれていること、ところどころにいろいろな沼地ぬまちに生はえる植物しょくぶつが、もうよほど炭化たんかしてはさまっていること、また山の近ちかくには細こまかい砂利じゃりのあること、殊ことに北上きたかみ山地さんちのへりには所々この泥岩層がんそうの間に砂丘さきゅうの痕あとらしいものがはさまっていることなどでした。そうしてみると、いま北上きたかみの平原へいげんになっている所は、一度いちどは細長ほそながい幅はば三里さんりばかりの大おおきなたまり水みずだったのです。

ところが、第三に、そのたまり水みずが塩しおからかった証拠しょうこもあったのです。それはやはり北上きたかみ山地さんちのへりの赤砂利あかじゃりから、牡蠣かきや何か、半鹹はんかんのところにでなければ住すまない介殻かいがらの化石かせきが出ました。

そうしてみますと、第三紀みきの終おわり頃ごろ、それは或あるいは今から五、六十万年まんねん或あるいは百万年まんねんを数かぞえるかも知れません、その頃今の北上きたかみの平原ひらはらにあたる処ところは、細長ほそながい入海いりうみか鹹湖かんこで、その水は割合わりあい浅あさく、何万年まんねんの永ながい間には処々ところどころ水面すいめんから顔を出だしたりまた引っ込こんだり、火山かざん灰や粘土ねばつちが上に積つもったりまたそれが削けずられたりしていたのです。その粘土ねばつちは西と東の山地さんちから、川が運はこんで流ながし込こんだのでした。その火山灰かざんばいは西の二列れつか三列の石英粗面岩せきえいそめんがんの火山かざんが、やっとしずまった処ところではありましたが、やっぱり時々噴火ふんかをやったり爆発ばくはつをしたりしていましたので、そこから降ふって来たのでした。

その頃ころ世界せかいには人はまだ居いなかったのです。殊ことに日本にぽんはごくごくこの間、三、四千年ちとし前までは、全まったく人が居なかったと云いいますから、もちろん誰だれもそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていない昔むかしの空がやっぱり繰くり返かえし繰くり返かえし曇くもったりまた晴はれたり、海の一とこがだんだん浅あさくなってとうとう水の上に顔を出だし、そこに草や木が茂しげり、ことにも胡桃くるみの木が葉はをひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒くろにしげり、しげったかと思おもうと忽たちまち西の方の火山かざんが赤黒あかぐろい舌したを吐はき、軽石かるいしの火山礫かざんれきは空もまっくらになるほど降って来て、木は圧おし潰つぶされ、埋うめられ、まもなくまた水が被かぶさって粘土ねんどがその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考かんがえても変へんな気がします。そんなことはほんとうだろうかとしか思われません。ところがどうも仕方しかたないことは、私わたくしたちのイギリス海岸かいがんでは、川の水からよほどはなれた処に、半分はんぶん石炭せきたんに変かわった大おおきな木の根株ねかぶが、その根を泥岩でいがんの中に張はり、そのみきと枝えだを軽石かるいしの火山礫層かざんれきそうに圧し潰されて、ぞろっとならんでいました。尤もっともそれは間もなく日光にっこうにあたってぼろぼろに裂さけ、度々たびたびの出水いずみに次つぎから次と削けずられて行きましたが、新あたらしいものもまた出て来ました。そしてその根株ねかぶのまわりから、ある時私たちは四十しじゅう近ちかくの半分はんぶん炭化たんかしたくるみの実みを拾ひろいました。それは長さが二寸すんぐらい、幅はばが一寸ちょっとぐらい、非常ひじょうに細長く尖とがった形でしたので、はじめは私どもは上の重おもい地層ちそうに押おし潰されたのだろうとも思いましたが、縦たてに埋まっているのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思われませんでした。

それからはんの木きの実も見附みつかりました。小ちいさな草の実もたくさん出て来ました。

この百万年まんねん昔むかしの海の渚なぎさに、今日は北上川かみかわが流ながれています。昔、巨おおきな波なみをあげたり、じっと寂しずまったり、誰だれも誰も見ていない所ところでいろいろに変ったその巨おうきな鹹水かんすいの継承者けいしょうしゃは、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔むかしの渚なぎさをうちながら夜昼よるひる南へ流ながれるのです。

ここを海岸かいがんと名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。

それにも一つここを海岸かいがんと考かんがえていいわけは、ごくわずかですけれども、川の水が丁度ちょうど大おおきな湖みずうみの岸きしのように、寄よせたり退ひいたりしたのです。それは向むこう側がわから入って来くる猿ヶ石さるがいし川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少すこし上流じょうりゅうがかなりけわしい瀬せになってそれがこの泥岩層でいがんそうの岸にぶっつかって戻もどるためにできるのか、それとも全まったくほかの原因げんいんによるのでしょうか、とにかく日によって水が潮しおのように差さし退ひきするときがあるのです。

そうです。丁度ちょうど一学期がっきの試験しけんが済すんでその採点さいてんも終おわりあとは三十さんじゅう一日ついたちに成績せいせきを発表はっぴょうして通信簿つうしんぼを渡わたすだけ、私わたくしのほうから云いえばまあそうです、農場のうじょうの仕事しごとだってその日の午前ごぜんで麦むぎの運搬うんぱんも終おわり、まあ一段落いちだんらくというそのひるすぎでした。私たちは今年ことし三度目どめ、イギリス海岸かいがんへ行きました。瀬川せがわの鉄橋てっきょうを渡わたり牛蒡ごぼうや甘藍かんらんが青白あおじろい葉はの裏うらをひるがえす畑はたけの間の細こまい道を通とおりました。

みちにはすずめのかたびらが穂ほを出だしていっぱいにかぶさっていました。私たちはそこから製板所せいばんしょの構内こうないに入いりました。製板所の構内こうないだということはもくもくした新あたらしい鋸屑おがくずが敷しかれ、鋸のこぎりの音が気きまぐれにそこを飛とんでいたのでわかりました。鋸屑のこくずには日が照てって恰度ちょうど砂すなのようでした。砂の向むかうの、青あおい水と救助区域きゅうじょくいきの赤あかい旗はたと、向むかうのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスウェーデンの峡湾きょうわんにでも来たような気がしてどきっとしました。たしかにみんなそう云いう気きもちらしかったのです。製板の小屋こやの中は藍あいいろの影かげになり、白く光ひかる円鋸まるのこが四、五梃ちょう壁かべにならべられ、その一梃は軸じくにとりつけられて幽霊ゆうれいのようにまわっていました。

私たちはその横よこを通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣いしがきの下、さっきの救助きゅうじょ区域くいきの赤あかい旗の下には筏いかだもちょうど来ていました。花城かじょうや花巻はなまきの生徒せいとがたくさん泳およいでおりました。けれども元来がんらい私どもはイギリス海岸かいがんに行こうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸かいがんの南のはじなのでした。私わたくしたちでなくたって、折角せっかく川の岸までやって来ながらその気持きもちのいい所ところに行かない人はありません。町の雑貨商店ざっかしょうてんや金物店かなものてんの息子むすこたち、夏なつやすみで帰ったあちこちの中等ちゅうとう学校がっこうの生徒せいと、それからひるやすみの製板せいばんの人たちなどが、あるいは裸はだかになって二人ふたり、三人ずつそのまっ白しろな岩に座すわったり、また網あみシャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白あおじろい大おおきな麦稈帽むぎわらぼうをかぶったりして歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい気持きもちでした。

そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。殊ことに一番いちばんいいことは、最上等さいじょうとうの外国がいこく犬が、向むこうから黒ぐろい影法師かげぼうしと一緒いっしょに、一目散いちもくさんに走って来たことでした。実じつにそれはロバートとでも名の附つきそうなもじゃもじゃした大おおきな犬でした。

「ああ、いいな。」私どもは一度いちどに叫さけびました。誰だれだって夏海岸かいがんへ遊あそびに行きたいと思わない人があるでしょうか。殊ことにも行けたら、そしてさらわれて紡績工場ぼうせきこうじょうなどへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云いう遠とおい所ところへ行きたいと誰も思おもうのです。

私たちは忙いそがしく靴くつやずぼんを脱ぬぎ、その冷つめたい少すこし濁にごった水へ次つぎから次と飛とび込こみました。全まったくその水の濁にごりようときたら素敵すてきに高尚こうしょうなもんでした。その水へ半分はんぶん顔を浸ひたして泳およぎながら横目よこめで海岸かいがんの方を見ますと、泥岩でいがんの向むかうのはずれは高い草ぐさの崖がけになって木もゆれ雲もまっ白しろに光ひかりました。

それから私たちは泥岩でいがんの出張でばった処ところに取とりついてだんだん上のぼりました。一人ひとりの生徒せいとはスイミングワルツの口笛くちぶえを吹ふきました。私たちのなかでは、ほんとうのオーケストラを、見たものも聴きいたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋ようひんやの蓄音器ちくおんきから来たのですけれども、恰度ちょうどそのように冷つめたい水は流ながれたのです。

私たちは泥岩層そうの上をあちこちあるきました。所々に壺穴つぼあなの痕あとがあって、その中には小ちいさな円まるい砂利じゃりが入っていました。

「この砂利じゃりがこの壺穴を穿ほるのです。水がこの上を流ながれるでしょう、石が水の底そこでザラザラ動うごくでしょう。まわったりもするでしょう、だんだん岩が穿れていくのです。」

また、赤あかい酸化鉄さんかてつの沈しずんだ岩の裂さけ目に沿そって、層そうがずうっと溝みぞになって窪くぼんだところもありました。それは沢山たくさんの壺穴つぼあなを連結れんけつしてちょうどひょうたんをつないだように見えました。

「こう云いう溝は水の出でるたんびにだんだん深ふかくなるばかりです。なぜなら流ながされて行ゆく砂利じゃりはあまりこの高だかい所ところを通とおりません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方いっぽうでしょう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦たての棒ぼうのようになっています。みんなこれです。」

「ああ、騎兵きへいだ、騎兵きへいだ。」誰だれかが南を向むいて叫さけびました。

下流かりゅうのまっ青さおな水の上に、朝日橋あさひばしがくっきり黒く一列れつ浮うかび、そのらんかんの間を白じろい上着うわぎを着た騎兵きへいたちがぞろっと並ならんで行きました。馬の足あしなみがかげろうのようにちらちらちらちら光ひかりました。それは一中隊ちゅうたいぐらいで、鉄橋てっきょうの上を行ゆく汽車きしゃよりはもっとゆるく、小学校がっこうの遠足えんそくの列よりはも少すこし早く、たぶんは中隊長たいちょうらしい人を先頭せんとうにだんだん橋を渡わたって行きました。

「どごさ行ぎょうぐのだべ。」

「水馬演習すいばえんしゅうでしょう。白じろい上着うわぎを着ているし、きっと裸馬はだかうまだろう。」

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Source edition (底本)
底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店

   1996(平成8)年3月25日初版発行

底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十巻 童話 本文篇」筑摩書房

   1995(平成7)年9月25日初版第1刷発行

入力:ゆうき

校正:noriko saito

2010年9月5日作成

2023年7月8日修正

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Typed by (入力)
ゆうき
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