Nihoner

宮沢賢治 Kenji Miyazawa 1896.08.27〜1933.09.21

インドラの網

インドラのあみ

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そのとき私は大たいへんひどく疲つかれていてたしか風と草穂くさぼとの底そこに倒たおれていたのだとおもいます。

その秋風あきかぜの昏倒こんとうの中で私は私の錫すずいろの影法師かげぼうしにずいぶん馬鹿ばかていねいな別わかれの挨拶あいさつをやっていました。

そしてただひとり暗くらいこけももの敷物カアペットを踏ふんでツェラ高原こうげんをあるいて行きました。

こけももには赤あかい実みもついていたのです。

白いそらが高原こうげんの上いっぱいに張はって高陵産カオリンさんの磁器じきよりもっと冷つめたく白じろいのでした。

稀薄きはくな空気くうきがみんみん鳴っていましたがそれは多分たぶんは白磁器はくじきの雲の向むこうをさびしく渡わたった日輪にちりんがもう高原こうげんの西を劃かぎる黒ぐろい尖々とげとげの山稜さんりょうの向むかうに落おちて薄明はくめいが来たためにそんなに軋きしんでいたのだろうとおもいます。

私は魚のようにあえぎながら何べんもあたりを見まわしました。

ただ一かけの鳥も居いず、どこにもやさしい獣けだもののかすかなけはいさえなかったのです。

(私は全体ぜんたい何をたずねてこんな気圏きけんの上の方、きんきん痛いたむ空気くうきの中をあるいているのか。)

私はひとりで自分じぶんにたずねました。

こけももがいつかなくなって地面じめんは乾かわいた灰はいいろの苔こけで覆おおわれところどころには赤あかい苔の花もさいていました。けれどもそれはいよいよつめたい高原こうげんの悲痛ひつうを増ますばかりでした。

そしていつか薄明はくめいは黄昏たそがれに入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜さんりょうの上のそらばかりかすかに黄きいろに濁にごりました。

そのとき私ははるかの向むこうにまっ白しろな湖みずうみを見たのです。

(水ではないぞ、また曹達ソーダや何かの結晶けっしょうだぞ。いまのうちひどく悦よろこんで欺だまされたとき力を落おとしちゃいかないぞ。)私は自分じぶんで自分じぶんに言いました。

それでもやっぱり私は急いそぎました。

湖はだんだん近ちかく光ってきました。間もなく私はまっ白な石英せきえいの砂すなとその向むかうに音なく湛たたえるほんとうの水とを見ました。

砂がきしきし鳴なりました。私はそれを一つまみとって空の微光びこうにしらべました。すきとおる複六方錐ふくろくほうすいの粒つぶだったのです。

(石英安山岩せきえいあんざんがんか流紋岩りゅうもんがんから来た。)

私はつぶやくようにまた考かんがえるようにしながら水際みずぎわに立ちました。

(こいつは過冷却かれいきゃくの水だ。氷相当官こおりそうとうかんなのだ。)私はも一度いちどこころの中でつぶやきました。

全まったく私のてのひらは水の中で青じろく燐光りんこうを出だしていました。

あたりが俄にわかにきいんとなり、

(風だよ、草の穂ほだよ。ごうごうごうごう。)こんな語ことばが私の頭の中で鳴なりました。まっくらでした。まっくらで少すこしうす赤あかかったのです。

私はまた眼めを開ひらきました。

いつの間にかすっかり夜になってそらはまるですきとおっていました。素敵すてきに灼やきをかけられてよく研みがかれた鋼鉄製こうてつせいの天の野原のはらに銀河ぎんがの水は音なく流ながれ、鋼玉こうぎょくの小砂利こじゃりも光ひかり岸きしの砂も一つぶずつ数えられたのです。

またその桔梗ききょういろの冷つめたい天盤てんばんには金剛石こんごうせきの劈開片へきかいへんや青宝玉せいほうぎょくの尖とがった粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶きずいしょうのかけらまでごく精巧せいこうのピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手かってに呼吸こきゅうし勝手かってにぷりぷりふるえました。

私はまた足あしもとの砂すなを見ましたらその砂粒すなつぶの中にも黄きいろや青や小ちいさな火がちらちらまたたいているのでした。恐おそらくはそのツェラ高原こうげんの過冷却湖畔かれいきゃくこはんも天の銀河ぎんがの一部いちぶと思われました。

けれどもこの時は早くも高原こうげんの夜は明あけるらしかったのです。

それは空気くうきの中に何かしらそらぞらしい硝子ガラスの分子ぶんしのようなものが浮うかんできたのでもわかりましたが第一だいいち東の九つの小ちいさな青あおい星で囲かこまれたそらの泉水せんすいのようなものが大たいへん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青こうせいから天河石てんがせきの板いたに変かわっていたことから実じつにあきらかだったのです。

その冷つめたい桔梗色ききょういろの底光そこびかりする空間くうかんを一人ひとりの天が翔かけているのを私は見ました。

(とうとうまぎれ込こんだ、人の世界せかいのツェラ高原こうげんの空間くうかんから天でんの空間くうかんへふっとまぎれこんだのだ。)私は胸むねを躍おどらせながら斯こう思いました。

天人てんにんはまっすぐに翔けているのでした。

(一瞬いっしゅん百由旬ゆじゅんを飛んでいるぞ。けれども見ろ、少すこしも動うごいていない。少すこしも動かずに移うつらずに変らずにたしかに一瞬いっしゅん百由旬ゆじゅんずつ翔けている。実げにうまい。)私は斯こうつぶやくように考かんがえました。

天人てんにんの衣ころもはけむりのようにうすくその瓔珞ようらくは昧爽まいそうの天盤てんばんからかすかな光を受うけました。

(ははあ、ここは空気くうきの稀薄きはくが殆ほとんど真空しんくうに均ひとしいのだ。だからあの繊細せんさいな衣のひだをちらっと乱みだす風もない。)私はまた思いました。

天人てんにんは紺こんいろの瞳ひとみを大きく張はってまたたき一つしませんでした。その唇くちびるは微かすかに哂わらいまっすぐにまっすぐに翔かけていました。けれども少すこしも動かず移らずまた変りませんでした。

(ここではあらゆる望のぞみがみんな浄きよめられている。願ねがいの数はみな寂しずめられている。重力じゅうりょくは互たがいに打うち消けされ冷つめたいまるめろの匂においが浮動ふどうするばかりだ。だからあの天衣てんいの紐ひもも波なみ立たずまた鉛直えんちょくに垂たれないのだ。)

けれどもそのとき空は天河石てんがせきからあやしい葡萄瑪瑙ぶどうめのうの板いたに変かわりその天人てんにんの翔かける姿すがたをもう私は見ませんでした。

(やっぱりツェラの高原こうげんだ。ほんの一時いちじのまぎれ込こみなどは結局けっきょくあてにならないのだ。)斯こう私は自分じぶんで自分じぶんに誨おしえるようにしました。けれどもどうもおかしいことはあの天盤てんばんのつめたいまるめろに似にたかおりがまだその辺へんに漂ただよっているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界せかいの空間くうかんを夢ゆめのように感かんじたのです。

(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間くうかんは私の感覚かんかくのすぐ隣となりに居いるらしい。みちをあるいて黄金きんいろの雲母うんものかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩かこうがんに近づいたなと思おもうのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々たびたびになるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度いちどこの高原こうげんで天の世界せかいを感かんずることができる。)私はひとりで斯こう思おもいながらそのまま立っておりました。

そして空から瞳ひとみを高原こうげんに転てんじました。全まったく砂すなはもうまっ白しろに見えていました。湖みずうみは緑青ろくしょうよりももっと古ふるびその青さは私の心臓しんぞうまで冷つめたくしました。

ふと私は私の前に三人の天の子供こどもらを見ました。それはみな霜しもを織おったような羅うすものをつけすきとおる沓くつをはき私の前の水際みずぎわに立ってしきりに東の空をのぞみ太陽たいようの昇のぼるのを待まっているようでした。その東の空はもう白く燃もえていました。私は天の子供こどもらのひだのつけようからそのガンダーラ系統けいとうなのを知りました。またそのたしかに于コウタン大寺おうてらの廃趾はいしから発掘はっくつされた壁画へきがの中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ進すすみ愕おどろかさないようにごく声低ひくく挨拶あいさつしました。

「お早はよう、于大寺おうてらの壁画へきがの中の子供こどもさんたち。」

三人一緒いっしょにこっちを向むきました。その瓔珞ようらくのかがやきと黒ぐろい厳いかめしい瞳。

私は進すすみながらまた云いいました。

「お早はよう。于コウタン大寺おうてらの壁画へきがの中の子供こどもさんたち。」

「お前まえは誰だれだい。」

右みぎはじの子供こどもがまっすぐに瞬またたきもなく私を見て訊たずねました。

「私は于大寺おうてらを沙すなの中ちゅうから掘ほり出した青木晃あおきあきらというものです。」

「何しに来たんだい。」少すこしの顔色がんしょくもうごかさずじっと私の瞳ひとみを見ながらその子こはまたこう云いいました。

「あなたたちと一緒いっしょにお日さまをおがみたいと思ってです。」

「そうですか。もうじきです。」三人は向むこうを向むきました。瓔珞ようらくは黄や橙だいだいや緑みどりの針はりのようなみじかい光を射い、羅うすものは虹にじのようにひるがえりました。

そして早くもその燃もえ立たった白金しろかねのそら、湖みずうみの向むかうの鶯うぐいすいろの原のはてから熔とけたようなもの、なまめかしいもの、古ふるびた黄金こがね、反射炉はんしゃろの中の朱しゅ、一きれの光ひかるものが現あらわれました。

天の子供こどもらはまっすぐに立ってそっちへ合掌がっしょうしました。

それは太陽たいようでした。厳おごそかにそのあやしい円まるい熔けたようなからだをゆすり間もなく正しく空に昇のぼった天の世界せかいの太陽たいようでした。光は針や束たばになってそそぎそこらいちめんかちかち鳴なりました。

天の子供こどもらは夢中むちゅうになってはねあがりまっ青さおな寂静印じゃくじょういんの湖の岸硅砂きしけいしゃの上をかけまわりました。そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛とびのきながら一人ひとりが空を指さして叫さけびました。

「ごらん、そら、インドラの網あみを。」

私は空を見ました。いまはすっかり青あおぞらに変かわったその天頂てんちょうから四方しかたの青白あおじろい天末てんまつまでいちめんはられたインドラのスペクトル製せいの網、その繊維せんいは蜘蛛くものより細く、その組織そしきは菌糸きんしより緻密ちみつに、透明とうめい清澄せいちょうで黄金こがねでまた青く幾億いくおく互たがいに交錯こうさくし光って顫ふるえて燃もえました。

「ごらん、そら、風の太鼓たいこ。」も一人ひとりがぶっつかってあわてて遁にげながら斯こう云いいました。ほんとうに空のところどころマイナスの太陽たいようともいうように暗くらく藍あいや黄金こがねや緑みどりや灰はいいろに光ひかり空から陥おちこんだようになり誰だれも敲たたかないのにちからいっぱい鳴っている、百千ひゃくせんのその天の太鼓たいこは鳴っていながらそれで少すこしも鳴っていなかったのです。私はそれをあんまり永ながく見て眼も眩くらくなりよろよろしました。

「ごらん、蒼孔雀あおくじゃくを。」さっきの右みぎはじの子供こどもが私と行きすぎるときしずかに斯こう云いました。まことに空のインドラの網のむこう、数しらず鳴なりわたる天鼓てんこのかなたに空一いっぱいの不思議ふしぎな大おおきな蒼あおい孔雀くじゃくが宝石製ほうせきせいの尾おばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀くじゃくはたしかに空には居おりました。けれども少すこしも見えなかったのです。たしかに鳴いておりました。けれども少すこしも聞えなかったのです。

そして私は本統ほんとうにもうその三人の天の子供こどもらを見ませんでした。

却かえって私は草穂くさぼと風の中に白く倒たおれている私のかたちをぼんやり思おもい出でしました。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「インドラの網」角川文庫、角川書店

   1996(平成8)年4月25日初版発行

   1996(平成8)年6月20日再版発行

底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話」筑摩書房

   1995(平成7)年6月発行

入力:浜野智

校正:浜野智

1999年1月31日公開

2011年2月15日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
浜野智
Proofread by (校正)
浜野智

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