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江戸川乱歩 Ranpo Edogawa 1894.10.21〜1965.07.28

江川蘭子

えがわらんこ

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赤き泉

ビヘヴィアリズムの新心理学りがくによれば、人間じんかん生涯しょうがいの運命うんめいというものは、遺伝いでんよりも教育きょういくよりも、生後せいご数ヶ月の環境かんきょうによって殆ほとんど左右さゆうされるものだそうである。で、女妖じょよう江川蘭子えがわらんこの悪魔あくまの生涯しょうがいも、恐おそらくは彼女かのじょの赤あかちゃんであった時代じだいの世にも奇異ことなる環境かんきょうのせいであったに違いない。

ワットサン氏曰いわく、赤あかちゃんに対しては「一見いちげん明白めいはくに唯ただ二つの刺戟しげきが、吾々が恐怖きょうふ反応はんのうと呼よぶ行動こうどうの型を呼よび起おこす。その一つは高だかい音であり、他の一は支持しじの滅失めっしつである」

赤あかちゃんが鋭するどい物音ものおとにおびえ、寝ている敷蒲団ふとんを急激きゅうげきに引かれたり、お湯に入れた刹那せつななどに泣なき出だすのがそれだ。むつかしい言葉ことばで言ゆうと、その時容易たやすいに観察かんさつされる反作用さようは、呼吸こきゅうの急激きゅうげきなる停止ていし、動悸どうき及および呼吸こきゅうの調子ちょうしの著いちじるしい変化へんか、号泣ごうきゅう及および両手りょうてを上方じょうほうに投なげることである。

世の親達は(少すこしくとも母親ははおや達は)育児いくじの本能ほんのうによって、彼等の赤あかちゃんに、この二種の恐怖きょうふを出来できる丈だけ与えまいと骨折ほねおるものだ。スヤスヤと寝入っている赤あかちゃんの側そばを歩あるく時は足音あしおとを盗ぬすみ、お湯に入いれる時は、赤あかちゃんの身体からだをタオルで巻いて、ギュッと抱きしめてやるという工合ぐあいに。

ところが赤あかちゃん江川えがわ蘭子らんこの場合ばあいは正反対はんたいであった。と云っても、必かならずしも彼女かのじょの若わかい母親ははおやばかりの罪ではなかったのだが、先まず第一だいいちの不幸ふこうは、彼女かのじょ一家かずやの住宅じゅうたくが、余あまりに高過すぎた事だ。つまり蘭子らんこは有名ゆうめいな大アパートの七階の一室いっしつで生れたのである。「音の恐怖きょうふ」の代表だいひょう的なものでは、日に三度、アパートの隣の製菓せいか会社かいしゃのサイレンが鳴り響いた。蘭子らんこはその怪音かいおんから二間けんとは隔たぬ窓際まどぎわに寝かされていたのである。

「支持しじの滅失めっしつ」の代表だいひょう的なものは、母親ははおやが日にちに幾度の外出そとでに、彼女かのじょを抱いて乗のり込こむ、アパートの高速度そくどリフトであった。その都度つど蘭子らんこの心臓しんぞうは、リフトの床と共に、一刹那せつなに百尺の奈落ならくへと落ち込んで行った。

第二の不幸ふこうは、彼女かのじょの両親りょうしんが非常ひじょうに若くて(父は二十三じゅうそう歳母は十八歳であった)はつらつとしていて、感情かんじょうをおし殺ころす術に不慣ふなれな為に、絶たえ間まなく無邪気むじゃきな争闘そうとうが行ぎょうわれていたことだ。父と母とはいつもガンガンと怒鳴り合っているか、そうでなければ、歌を唄っていた。歌丈だけならいいのだが、若き母のヴァイオリンの伴奏ばんそうが伴った。それが赤あかちゃん蘭子らんこにとって、如何いかに恐怖きょうふすべき音響おんきょうであったことか。

それでも、合唱がっしょうはまだ我慢がまんが出来しゅったいた。悲惨ひいさんなる赤あかちゃんにとっては、それが(如何いかに狂暴きょうぼうであろうとも)この世よでの一番いちばんなごやかな子守こもり歌に相違そういなかったのだから。と云いう意味いみは、父母ちちははの闘争とうそう時に於おけるはつらつさは、どうして、ヴァイオリンの奏かなで出いだす恐怖きょうふ音の如きなまやさしいものではなかったからである。

その闘争とうそうが激しくなった時には、赤あかちゃんは最早もはや一個の物体ぶったいに過すぎなかった。西洋せいよう流に云いうと一本いっぽんのパンのし棒ぼうに過すぎなかった。つまり生物せいぶつとしての存在そんざいを失ってしまうのである。具体ぐたい的に云いうと、甚はなはだしい場合ばあいには、彼女かのじょの父母ちちははは、半間はんげん乃至ないし一間の距離きょりで蘭子らんこの柔やわい肉塊にっかいを、ゴムまりみたいに抛ほうりっこするのである。その時こそ我わが江川えがわ蘭子らんこは、「支持しじの滅失めっしつ」を心行こころゆくばかり味あじわうことが出来しゅったいたのである。

ところで、右の如き事情じじょうのみであったなら、江川えがわ蘭子らんこは、生長せいちょうの後、恐おそらくはダイヴィングの大選手せんしゅになったことであろうが、彼女かのじょの幼時ようじの印象いんしょう群の内には、この物語ものがたりを成功せいこう小説しょうせつに終らしめぬ所の、少々毒々しいものがあった。

と云いうのは、第一だいいちに(この作者さくしゃは指折ゆびおり数かぞえることが好すきである)彼女かのじょの二十三じゅうそう歳の父はアメリカ風の瀟洒しょうしゃたる悪漢あっかんであり、彼女かのじょの母は飛とび切きり美うつくしいけれど、近代きんだい風の貞操ていそう盲目めくら者であったからである。

彼女かのじょの父は、日頃ひごろ口癖くちぐせの様に「ダグラス・フェアバンクスとなって、王侯おうこう貴族きぞくの生活せいかつをするか、でなければ、第二世仕立屋したてや銀次ぎんじになり度たい」と云っていた。つまり彼はスリ、かっぱらい、其他類似るいじの小悪事あくじによって暮くらしを立てていたのである。

若き母は、無論むろん、夫であるこの青年せいねんの、はつらつたる主義しゅぎ思想しそうを讃美さんび渇仰かつごうしていた。彼女かのじょは悪事あくじの助手じょしゅを勤つとめることは勿論もちろん、夫の命令めいれいとあらば、貞操ていそうでも売うる美うつくしい犠牲ぎせい的精神せいしんを持っていた。では、どうして闘争とうそうが起おこるのかと云いうに、若き妻は夫の不身持みもちを微塵みじんも仮藉かしゃくしなかった。つまり彼女かのじょの方が幾倍も夫に惚れ込んでいたからである。

その母の子である蘭子らんこは、勢いきおい父悪漢あっかんの主義しゅぎ思想しそうを渇仰かつごうしないではいられなかった。彼女かのじょの場合ばあいは精神せいしん分析ぶんせき家の所謂しょいファザア・コンプレックスである。幼きものは、母を競争きょうそう者として、父の寵ちょうを争った。そして、蘭子らんこは赤あかちゃんの時代じだい已すでに「ダグラスか然しからざれば仕立屋したてや銀次ぎんじ」の思想しそうを植えつけられていた。

第二は(毒々しき印象いんしょうの第二である)二歳の時、ほんの少年しょうねん少女しょうじょに過すぎなかった彼女かのじょの両親りょうしんが、果敢はかなくも変死へんしをとげてしまったことだ。

ある夜一人ひとりのおじさんが(と云っても二十にじゅう何歳の青年せいねんなのだが)蘭子らんこ達の寝室しんしつへ這入はいって来た。蘭子らんこはそのおじさんを二三にさん度見たことを覚おぼえていたけれど、誕生たんじょうがすんだばかりの赤あかちゃんには、これがどうした青年せいねんで、何という名前なまいだか分わかり様筈がない。随したがってその夜突然とつぜんの兇行きょうこうの動機どうきも、兇行きょうこうそのことさえも、彼女かのじょには全く無意味いみでしかなかった。

兎とも角かく、彼女かのじょは寝台しんだいの上を稲妻いなずまの様にピカピカと光ひかるものを見た。次に変な唸声うなりごえを聞いた。二歳の彼女かのじょではあったが、又日頃ひごろ罵声ばせいやヴァイオリンの恐怖きょうふ音に慣なれた彼女かのじょではあったが、その時父母ちちははの身体しんたいから発した、断末魔だんまつまの唸うなり声ごえ丈たけは、一生涯しょうがい忘わすれることが出来しゅったいぬ程、深ぶかい印象いんしょうとなって残った。

その次の瞬間しゅんかんには、彼女かのじょは父母ちちははの大おおきな身体しんたいと一緒いっしょに、ベッドから床の上に転がり落ちた。だが、転落てんらくそのものは、彼女かのじょにとってこよなき快感かいかんであった。彼女かのじょは母親ははおやの死体したいにおしつぶされてもがきながらも、転落てんらくの快感かいかんで、キャッキャッと笑っていた。

という訳は、彼女かのじょは前述ぜんじゅつの環境かんきょうのお蔭かげで、その頃は已すでに、かの「支持しじの滅失めっしつ」を日常にちじょう茶飯事ままごとと心得こころえ、寧むしろそれを無上むじょうの快楽かいらくとして喜よろこぶ様な、変態へんたい児になり終っていたからだ。だが、それについては、もっとあとで述のべる機会きかいがあろう。

ベッドを転ころがり落おちると、直ただちに花の様な真赤まっかな色が彼女かのじょの目を刺戟しげきし、ヌルヌルした液体えきたいが彼女かのじょの触覚しょっかくをくすぐった。母親ははおやの白じろい肉体にくたいから、乳とは違った、真赤まっかな見事みごとな泉が滾々こんこんとして湧わき出だしていたのだ。彼女かのじょは心酔しんすいせる父親ちちおやの狐色きつねいろの肉体にくたいを眺ながめた。すると、そこからも同おんなじ紅くれないの泉だ。それが何を意味いみするか、無論むろん彼女かのじょには分らなかったけれど。

またたく間に、絨毯じゅうたんもなにもない、コンクリートそのままの床の上に、真赤まっかなドロドロした水溜みずたまりが出来上った。蘭子らんこは訳の分らぬ奇声きせいを発しながら、その血ちの池いけを、もみじの様な両手りょうてで、丁度ちょうど水いたずらをする時と同おんなじに、ピシャンピシャン叩いていた。

それから、若わかい母親ははおやの死骸しがいの胸に、ベタベタと血の手型てがたを捺おしながら、出ぬ乳房ちぶさをチュウチュウ吸った。だが、吸っても吸っても、乳が出ぬものだから、傷口きずぐちに口をつけて、乳の代りに、赤あかい液体えきたいを五勺しゃく程も飲んでしまった。

余あまりおいしくもなかったし、いくらかお腹なかもくちくなったので、彼女かのじょは間もなく傷口きずぐちを離はなれて、今度こんどは室内しつない運動うんどうにとりかかった。

彼女かのじょは血ちの池いけを転ころがり、父母ちちははの死体したいを這はい越こえ、パックリ口を開いた傷口きずぐちを蹴飛ばして、部屋へや中を這はい廻まわり、白亜はくあの壁を力に立上ろうとしては、幾度も幾度も失敗しっぱいした。

翌朝よくあさ、アパートの一階下かいかの住人じゅうにんが、火のつく様に泣なき叫さけぶ蘭子らんこの声に不審ふしんを抱いだいて、その部屋へやへ上って来たので、初はじめてこの殺人さつじん事件じけんが発見はっけんされた。蘭子らんこの父は、後暗うしろぐらい商売しょうばい柄、借手かりてのない七階を選んで住んでいたので、その七階は彼等一家かずや丈たけで、あとは皆空部屋あきべやになっていたのだ。それが、犯人はんにんを安心あんしんさせ、又犯罪はんざいの発見はっけんをおくらせた訳でもある。

人々は若わかい美うつくしい男女なんにょの死体したいと、血ちまみれになって、殊ことに口のまわりは、まるで化ばけ猫ねこみたいな物凄ものすごいさで、じだんだ踏んで泣き叫んでいる小怪物かいぶつと、部屋へや中に、壁と云わず床と云わず、点々として印しるされた、可愛かわいらしい血の手型てがたを見た。

みなし児は、丁度ちょうど子供こどもを欲しがっていたそのアパートの支配しはい人老夫婦ふうふが、引取ひきとりって養女ようじょとした。

犯人はんにんは遂ついに発見はっけんされずに終しまった。故人こじんの友達ともだちなどの言葉ことばから、人々の想像そうぞうした所によると、蘭子らんこの父はその美うつくしい妻を囮おとりにして、ちょくちょく美人局つつもたせを働いていたというから、今度こんどの犯人はんにんも恐おそらく蘭子らんこの母親ははおやの甘あまあい空言そらごとに酔わされた一人ひとりであろう。それが余あまり真剣しんけんに恋をしたものだから、美人局つつもたせと分ってもあきらめられず、遂ついに恋人こいびとと、恋人こいびとの夫とを殺ころす気になったのかも知れないと云いうことであった。

この殺人さつじん事件じけんでは、被害者がいしゃに同情どうじょうがなかったので、世間せけんの騒さわぎもさして大きくならず、いつまでも犯人はんにんが発見はっけんされずとも誰も警察けいさつの無能むのうを罵ののしるものはなかった。従ってこの事件じけんは、警察けいさつ当局とうきょく者からさえも、やや黙殺もくさつされた形であった。

後年こうねん、江川えがわ蘭子らんこが、世間せけんの冷淡れいたんを憤いきどおり、自みずから当時とうじの状況じょうきょうを調査ちょうさして、父母ちちははの敵討かたきうちをでも目論もくろまぬ限かぎり、犯人はんにんは永久えいきゅうにその処刑しょけいを免れたかに見えたのである。

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Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「新青年」博文館、1930(昭和5)年9月
Source edition (底本)
底本:「江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面」光文社文庫、光文社

   2003(平成15)年9月20日初版1刷発行

底本の親本:「江戸川乱歩全集 第四巻」平凡社

   1931(昭和6)年8月

初出:「新青年」博文館

   1930(昭和5)年9月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:入江幹夫

校正:A.K.

2019年6月28日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
入江幹夫
Proofread by (校正)
A.K.

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