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太宰治 Osamu Dazai 1909.06.19〜1948.06.13

老ハイデルベルヒ

アルトハイデルベルヒ

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八年まえの事でありました。当時とうじ、私は極きわめて懶惰らんだな帝国大こくだい学生がくせいでありました。一夏ひとなつを、東海道とうかいどう三島さんとうの宿で過したことがあります。五十ごじゅう円を故郷こきょうの姉から、これが最後さいごだと言って、やっと送って戴いただき、私は学生がくせい鞄かばんに着更の浴衣ゆかたやらシャツやらを詰つめ込こみ、それを持ってふらと、下宿げしゅくを立ち出で、そのまま汽車きしゃに乗りこめばよかったものを、方角ほうがくを間違え、馴染なじみのおでんやにとびこみました。其処そこには友達ともだちが三人来合わせて居ました。やあ、やあ、めかして何処どこへ行ゆくのだと、既すでに酔っぱらっている友人ゆうじん達は、私をからかいました。私は気弱く狼狽ろうばいして、いや何処いずこということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無なあい勧誘かんゆうがふいと口から辷すべり出て、それからは騎虎きこの勢で、僕にね、五十ごじゅう円あるんだ、故郷こきょうの姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行りょこうに出ようよ、なに、仕度したくなんか要らない、そのままでいいじゃないか、行こう、行こう、とやけくそになり、しぶる友人ゆうじん達を引張ひっぱるようにして連れ出してしまいました。あとは、どうなることか、私自身おのれにさえわかりませんでした。あの頃は私も、随分ずいぶ、呑気のんきなところのある子供こどもでした。世よの中なかも亦また、私達を呑気のんきに甘あまえさせてくれていました。私は、三島さんとうに行って小説しょうせつを書こうと思って居たのでした。三島さんとうには高部たかべ佐吉さきちさんという、私より二つ年下とししたの青年せいねんが酒屋さかやを開いて居たのです。佐吉さきちさんの兄さんは沼津ぬまずで大おおきい造酒屋さかやを営いとなみ、佐吉さきちさんは其その家の末すえっ子こで、私とふとした事から知合しりあいになり、私も同様どうように末弟ばっていであるし、また同様どうように早くから父に死なれている身みの上うえなので、佐吉さきちさんとは、何かと話が合あうのでした。佐吉さきちさんの兄さんとは私も逢ったことがあり、なかなか太ふとっ腹ぱらの佳よい方かただし、佐吉さきちさんは家中かちゅうの愛を独占どくせんして居おるくせに、それでも何かと不平ふへいが多おおい様で、家を飛出し、東京とうきょうの私の下宿げしゅくへ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。さまざま駄々をこねて居たようですが、どうにか落おち附き、三島さんとうの町まちはずれに小ぢんまりした家を持もち、兄さんの家の酒樽さかだるを店に並べ、酒の小売こうりを始はじめたのです。二十歳はたちの妹さんと二人ふたりで住んで居ました。私は、其その家へ行ゆくつもりであったのです。佐吉さきちさんから、手紙てがみで様子ようすを聞いているだけで、まだ其その家を見た事も無かったので、行ってみて具合ぐわいが悪わるいようだったらすぐ帰ろう、具合ぐわいがいいようだったら一夏ひとなつ置いて貰って、小説しょうせつを一篇書こう、そう思って居たのでありましたが、心ならずも三人の友人ゆうじんを招待しょうたいしてしまったので、私は、とにかく三島さんとう迄の切符きっぷを四枚買かい、自信じしんあり気に友人ゆうじん達を汽車きしゃに乗のせたものの、さてこんなに大勢たいせいで佐吉さきちさんの小ちいさい酒店さけてんに御厄介やっかいになっていいものかどうか、汽車きしゃの進すすむにつれて私の不安ふあんは増大ぞうだいし、そのうちに日も暮くれて、三島さんとう駅近ちかくなる頃には、あまりの心細こころぼそいさに全身ぜんしんこまかにふるえ始はじめ、幾度となく涙ぐみました。私は自身おのれのこの不安ふあんを、友人ゆうじんに知しらせたくなかったので、懸命けんめいに佐吉さきちさんの人柄ひとがらの良さを語がたり、三島さんとうに着いたらしめたものだ、三島さんとうに着いたらしめたものだと、自分じぶんでもイヤになる程ほど、その間の抜けた無意味いみな言葉ことばを幾度も幾度も繰返くりかえして言ゆうのでした。あらかじめ佐吉さきちさんに電報でんぽうを打って置いたのですが、はたして三島さんとうの駅に迎むかえに来てくれて居おるかどうか、若もし迎むかえに来て居てくれなかったら、私は此この三人の友人ゆうじんを抱かかえて、一体いったいどうしたらいいでしょう。私の面目めんぼくは、まるつぶれになるのではないでしょうか。三島さんとう駅に降りて改札かいさつ口を出でると、構内こうないはがらんとして誰も居りませぬ。ああ、やはり駄目だめだ。私は泣なきべそかきました。駅は田畑たはたの真中まなかに在って、三島さんとうの町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇くらやみ、稲田いなだを撫なでる風の音がさやさや聞え、蛙かえるの声も胸にしみて、私は全く途方とほうにくれました。佐吉さきちさんでも居なければ、私にはどうにも始末しまつがつかなかったのです。汽車賃しゃちんや何かで、姉から貰った五十ごじゅう円も、そろそろ減って居りますし、友人ゆうじん達には勿論もちろん持合もちあわせのある筈はずは無なし、私がそれを承知しょうちで、おでんやからそのまま引張はり出だして来たのだし、そうして友人ゆうじん達は私を十分じゅうぶんに信用しんようしている様子ようすなのだから、いきおい私も自信じしんある態度たいどを装わねばならず、なかなか苦くるしい立場たちばでした。無理むりに笑って私は、大声たいせいで言いました。

「佐吉さきちさん、呑気のんきだなあ。時間じかんを間違えたんだよ。歩あるくよりほかは無なあい。この駅にはもとからバスも何も無なあいのだ。」と知ったかぶりして鞄を持直もちなおし、さっさと歩あるき出でるしたら、其そのとき、闇のなかから、ぽっかり黄色いヘッドライトが浮び、ゆらゆらこちらへ泳いで来ます。

「あ、バスだ。今は、バスもあるのか。」と私はてれ隠かくしに呟つぶやき、「おい、バスが来たようだ。あれに乗ろう!」と勇んで友人ゆうじん達に号令ごうれいし、みな道端みちばたに寄って並び立ち、速力そくりょくの遅おそいバスを待って居ました。やがてバスは駅前えきまえの広場ひろばに止とまり、ぞろぞろ人が降りて、と見みると佐吉さきちさんが白浴衣ゆかた着てすまして降りました。私は、唸うなるほどほっとしました。

佐吉さきちさんが来たので、助かりました。その夜は佐吉さきちさんの案内あんないで、三島さんとうからハイヤーで三十さんじゅう分、古奈温泉おんせんに行きました。三人の友人ゆうじんと、佐吉さきちさんと、私と五人、古奈でも一番いちばんいい方の宿屋やどやに落ちつき、いろいろ飲んだり、食べたり、友人ゆうじん達も大おおいに満足まんぞくの様子ようすで、あくる日ひ東京とうきょうへ、有難う、有難うと朗ほがらかに言って帰って行きました。宿屋やどやの勘定かんじょうも佐吉さきちさんの口利きで特別とくべつに安くして貰もらい、私の貧まずしい懐中かいちゅうからでも十分じゅうぶんに支払しはらえるうことが出来しゅったいましたけれど、友人ゆうじん達に帰がえりの切符きっぷを買ってやったら、あと、五十ごじゅう銭も残のこりませんでした。

「佐吉さきちさん。僕、貧乏びんぼうになってしまったよ。君の三島さんとうの家には僕の寝ねる部屋へやがあるかい。」

佐吉さきちさんは何も言わず、私の背中せなかをどんと叩たたきました。そのまま一夏ひとなつを、私は三島さんとうの佐吉さきちさんの家で暮しました。三島さんとうは取残された、美うつくしい町であります。町中まちなかを水量すいりょうたっぷりの澄んだ小川こがわが、それこそ蜘蛛くもの巣のように縦横たてよこ無尽むじんに残のこる隈くまなく駈けめぐり、清冽せいれつの流ながれの底には水藻みずもが青々と生えて居て、家々の庭先にわさきを流ながれ、縁えんの下したをくぐり、台所だいどころの岸をちゃぷちゃぷ洗あらい流ながれて、三島さんとうの人は台所だいどころに座ったままで清潔せいけつなお洗濯せんたくが出来できるのでした。昔は東海道とうかいどうでも有名ゆうめいな宿場しゅくばであったようですが、だんだん寂さびれて、町の古ふるい住民じゅうみんだけが依怙地いこじに伝統でんとうを誇ほこり、寂れても派手はでな風習ふうしゅうを失わず、謂いわば、滅亡めつぼうの民の、名誉めいよある懶惰らんだに耽っている有様ありさまでありました。実げに遊あそび人にんが多おおいのです。佐吉さきちさんの家の裏に、時々糶市せりいちが立ちますが、私もいちど見に行って、つい目をそむけてしまいました。何でも彼でも売っちゃうのです。乗って来た自転じてん車を、其そのまま売うり払はらうのは、まだよい方で、おじいさんが懐からハアモニカを取とり出だして、五銭に売ったなどは奇怪きっかいでありました。古ふるい達磨だるまの軸物じくもの、銀鍍金メッキの時計とけいの鎖、襟垢えりあかの着いた女の半纏はんてん、玩具がんぐの汽車きしゃ、蚊帳かや、ペンキ絵、碁石ごいし、鉋かんな、子供こどもの産衣うぶぎまで、十七銭だ、二十にじゅう銭だと言って笑わらいもせずに売うり買かいするのでした。集たかる者は大抵たいてい四十しじゅうから五十ごじゅう、六十ろくじゅうの相当そうとう年輩ねんぱいの男ばかりで、いずれは道楽どうらくの果、五合の濁酒だくしゅが欲しくて、取縋とりすがる女房にょうぼう子供こどもを蹴飛ばし張りとばし、家中かちゅうの最後さいごの一物いちぶつまで持ち込んで来たという感かんじでありました。或いは又、孫のハアモニカを、爺じいに借せと騙だまして取上げ、こっそり裏口うらぐちから抜け出し、あたふた此所ここへやって来たというような感かんじでありました。珠数じゅずを二銭に売り払った老爺ろうやもありました。わけてもひどいのは、半分はんぶんほどきかけの、女の汚けがれた袷あわせをそのまま丸まるめて懐へつっこんで来た頭の禿はげた上品じょうぼんな顔の御隠居いんきょでした。殆ほとんど破やぶれかぶれに其その布を、(もはや着物きものではありません。)拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自嘲じちょうの笑を浮べながら値を張らせて居ました。頽廃たいはいの町なのであります。町へ出て飲のみ屋やへ行っても、昔の、宿場しゅくばのときのままに、軒の低ひくい、油障子そうじを張った汚ぎたない家でお酒を頼たのむと、必かならずそこの老主人しゅじんが自みずからお燗かんをつけるのです。五十ごじゅう年間ねんかんお客にお燗をつけてやったと自慢じまんして居ました。酒がうまいもまずいも、すべてお燗のつけよう一つだと意気いき込んで居ました。としよりがその始末しまつなので、若わかい者は尚なおの事、遊あそび馴なれて華奢きゃしゃな身体しんたいをして居ます。毎日まいにち朝から、いろいろ大小だいしょうの与太者よたものが佐吉さきちさんの家に集ります。佐吉さきちさんは、そんなに見掛みかけは頑丈がんじょうでありませんが、それでも喧嘩けんかが強こわいのでしょうか、みんな佐吉さきちさんに心服しんぷくしているようでした。私が二階にかいで小説しょうせつを書いて居おると、下のお店で朝からみんながわあわあ騒いでいて、佐吉さきちさんは一際ひときわ高だかい声で、

「なにせ、二階にかいの客人きゃくじんはすごいのだ。東京とうきょうの銀座ぎんざを歩いたって、あれ位の男っぷりは、まず無なあいね。喧嘩けんかもやけに強くて、牢に入ったこともあるんだよ。唐手からてを知って居おるんだ。見ろ、この柱を。へこんで居おるずら。これは、二階にかいの客人きゃくじんがちょいとぶん殴って見せた跡だよ。」と、とんでも無なあい嘘を言って居ます。私は、頗すこぶる落ちつきません。二階にかいから降りて行って梯子段はしごだんの上のぼり口ぐちから小声こごえで佐吉さきちさんを呼び、

「あんな出鱈目でたらめを言ってはいけないよ。僕が顔を出されなくなるじゃないか。」そう口を尖らせて不服ふふくを言ゆうと、佐吉さきちさんはにこにこ笑わらい、

「誰も本気ほんきに聞いちゃ居ません。始はじめから嘘だと思って聞いて居おるのですよ。話が面白ければ、きゃつら喜んで居おるんです。」

「そうかね。芸術げいじゅつ家ばかり居おるんだね。でもこれからは、あんな嘘はつくなよ。僕は落ちつかないんだ。」そう言い捨てて又二階にかいへ上のぼり、其その「ロマネスク」という小説しょうせつを書かき続つずけて居おると、又も、佐吉さきちさんの一際ひときわ高だかい声が聞えて、

「酒が強こわいと言ったら、何と言ったって、二階にかいの客人きゃくじんにかなう者はあるまい。毎晩まいばん二合徳利とっくりで三本みもと飲んで、ちょっと頬ほっぺたが赤くなる位だ。それから、気軽きがるに立って、おい佐吉さきちさん、銭湯せんとうへ行こうよと言い出だすのだから、相当そうとうだろう。風呂ふろへ入って、悠々と日本にぽん剃刀かみそりで髯ひげを剃そるんだ。傷一つつけたことが無なあい。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、又一またいち仕事しごとだ。落ちついたもんだよ。」

これも亦また、嘘であります。毎晩まいばん、私が黙って居ても、夕食ゆうげのお膳に大おおきい二合徳利とっくりがつけてあって、好意こういを無にするのもどうかと思おもい、私は大急おういそぎで飲のむのでありますが、何なにせ醸造じょうぞう元から直接ちょくせつ持って来て居おるお酒なので、水など割ってある筈は無なし、頗すこぶる純粋じゅんすい度が高く、普通ふつうのお酒の五合分位ぶんいに酔ようのでした。佐吉さきちさんは自分じぶんの家のお酒は飲のみません。兄貴あにきが造こしらえて不当ふとうの利益りえきを貪むさぼって居おるのを、此この眼で見て知って居ながら、そんな酒とても飲まれません。げろが出そうだ、と言って、お酒を飲のむときは、外へ出てよその酒を飲のみます。佐吉さきちさんが何も飲まないのだから、私一人ひとりで酔っぱらって居おるのも体裁ていさいが悪く、頭がぐらぐらして居ながらも、二合飲みほしてすぐに御飯ごはんにとりかかり、御飯ごはんがすんでほっとする間もなく、佐吉さきちさんが風呂ふろへ行こうと私を誘さそうのです。断ことわるのも我儘わがままのような気がして、私も、行こうと応じて、連れ立って銭湯せんとうへ出でかけるのです。私は風呂ふろへ入って呼吸こきゅうが苦しく死しにそうになります。ふらふらして流ながし場ばから脱衣だつい場へ逃れ出ようとすると、佐吉さきちさんは私を掴つかまえ、髯がのびて居ます。剃ってあげましょう、と親切しんせつに言って下くださるので、私は又も断り切きれず、ええ、お願ねがいします、と頼んでしまうのでした。くたくたになり、よろめいて家へ帰がえり、ちょっと仕事しごとをしようかな、と呟いて二階にかいへ這い上り、そのまま寝ころんで眠ってしまうのであります。佐吉さきちさんだって、それを知って居おるに違いないのに、何だってあんな嘘の自慢じまんをしたのでしょう。三島さんとうには、有名ゆうめいな三島さんとう大社たいしゃがあります。年に一度ひとたびのお祭は、次第しだいに近づいて参まいりました。佐吉さきちさんの店先みせさきに集って来くる若者わかもの達も、それぞれお祭の役員やくいんであって、様々の計画けいかくを、はしゃいで相談そうだんし合って居ました。踊おどり屋台やたい、手古舞てこまい、山車だし、花火はなび、三島さんとうの花火はなびは昔から伝統でんとうのあるものらしく、水花火はなびというものもあって、それは大社たいしゃの池の真中まなかで仕掛しかける花火はなびを行おこない、その花火はなびが池面ちめんに映うつり、花火はなびがもくもく池の底から涌わいて出でるように見まみえる趣向しゅこうになって居おるのだそうであります。凡およそ百種くらいの仕掛しかける花火はなびの名称めいしょうが順序じゅんじょを追おうて記されてある大おおきい番附が、各家かっか毎に配布はいふされて、日一日ついたちとお祭気分きぶんが、寂れた町の隅々まで、へんに悲しくときめき浮うき立たせて居りました。お祭の当日とうじつは朝からよく晴はれていて私が顔を洗あらいに井戸いど端へ出たら、佐吉さきちさんの妹さんは頭の手拭てぬぐいを取って、おめでとうございます、と私に挨拶あいさついたしました。ああ、おめでとう、と私も不自然じねんでなくお祝いわいの言葉ことばを返かえす事が出来しゅったいました。佐吉さきちさんは、超然ちょうぜんとして、べつにお祭の晴着はれぎを着きるわけでなし、ふだん着のままで、店の用事ようじをして居ましたが、やがて、来くる若者わかもの、来くる若者わかもの、すべて派手はでな大浪おうなみ模様もようのお揃そろいの浴衣ゆかたを着て、腰に団扇うちわを差ざし、やはり揃そろいの手拭てぬぐいを首に巻きつけ、やあ、おめでとうございます、やあ、こんにちはおめでとうございますと、晴々した笑顔えがおで、私と佐吉さきちさんとに挨拶あいさつしました。其その日は私も、朝から何となく落ちつかず、さればといって、あの若者わかもの達と一緒いっしょに山車だしを引張り廻して遊あそぶことも出来しゅったいず、仕事しごとをちょっと仕掛じかけては、また立たち上あがり、二階にかいの部屋へやをただうろうろ歩き廻って居ました。窓に倚よりかかり、庭を見下せば、無花果いちじくの樹蔭こかげで、何事なにごとも無さそうに妹さんが佐吉さきちさんのズボンやら、私のシャツやらを洗濯せんたくして居ました。

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Where this text comes from

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First published
「婦人画報」1940(昭和15)年3月
Source edition (底本)
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房


   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房

   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月刊行

入力:柴田卓治

校正:小林繁雄

1999年12月20日公開

2005年10月23日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
柴田卓治
Proofread by (校正)
小林繁雄

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