Nihoner

太宰治 Osamu Dazai 1909.06.19〜1948.06.13

兄たち

あにたち

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父がなくなったときは、長兄ちょうけいは大学だいがくを出たばかりの二十にじゅう五歳、次兄じけいは二十三じゅうそう歳、三男みつおは二十歳はたち、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても、少すこしも心細く感かんじませんでした。長兄ちょうけいを、父と全く同おんなじことに思おもい、次兄じけいを苦労くろうした伯父おじさんの様に思おもい、甘あまえてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘わがままいっても、兄たちは、いつも笑って許ゆるしてくれました。私には、なんにも知しらせず、それこそ私の好すきなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上いじょうはあったのでしょう、その遺産いさんと、亡父ぼうふの政治せいじ上の諸勢力せいりょくとを守まもるのに、眼に見えぬ努力どりょくをしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯父おじさんというような人も無かったし、すべては、二十にじゅう五歳の長兄ちょうけいと、二十三じゅうそう歳の次兄じけいと、力を合あわせてやって行ゆくより他に仕方しかたがなかったのでした。長兄ちょうけいは、二十にじゅう五歳で町長ちょうちょうさんになり、少すこし政治せいじの実際じっさいを練習れんしゅうして、それから三十一といち歳で、県会けんかい議員ぎいんになりました。全国ぜんこくで一いちばん若年じゃくねんの県会けんかい議員ぎいんだったそうで、新聞しんぶんには、A県の近衛このえ公とされて、漫画まんがなども出てたいへん人気じんきがありました。

長兄ちょうけいは、それでも、いつも暗ぐらい気持きもちのようでした。長兄ちょうけいの望のぞみは、そんなところに無かったのです。長兄ちょうけいの書棚しょだなには、ワイルド全集ぜんしゅう、イプセン全集ぜんしゅう、それから日本にぽんの戯曲ぎきょく家の著書ちょしょが、いっぱい、つまって在りました。長兄ちょうけい自身おのれも、戯曲ぎきょくを書いて、ときどき弟妹おとうとたちを一室いっしつに呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の長兄ちょうけいの顔は、しんから嬉しそうに見えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、長兄ちょうけいの戯曲ぎきょくは、たいてい、宿命しゅくめいの悲しさをテエマにしているような気がいたしました。なかでも、「奪うばい合あい」という長編ちょうへん戯曲ぎきょくに就ついては私は、いまでも、その中の人物じんぶつの表情ひょうじょうまでも、はっきり思おもい出ですことができるのであります。

長兄ちょうけいが三十さんじゅう歳のとき、私たち一家かずやで、「青んぼ」という可笑おかしな名前なまいの同人どうじん雑誌ざっしを発行はっこうしたことがあります。そのころ美術びじゅつ学校がっこうの塑像そぞう科に在籍ざいせき中だった三男みつおが、それを編輯へんしゅういたしました。

「青んぼ」という名前なまいも、三男みつおがひとりで考案こうあんして得意とくいらしく、表紙ひょうしも、その三男みつおが画かいたのですけれども、シュウル式の出鱈目でたらめのもので、銀粉ぎんぷんをやたらに使用しようした、わからない絵でありました。長兄ちょうけいは、創刊そうかん号に随筆ずいひつを発表はっぴょうしました。

「めし」という題で、長兄ちょうけいが、それを私に口述こうじゅつ筆記ひっきさせました。いまでも覚おぼえて居ります。二階にかいの西洋間ようまで、長兄ちょうけいは、両手りょうてをうしろに組んで天井てんせいを見つめながら、ゆっくり歩きまわり、

「いいかね、いいかね、はじめるぞ。」

「はい。」

「おれは、ことし三十さんじゅうになる。孔子こうしは、三十さんじゅうにして立だつ、と言ったが、おれは、立だつどころでは無なあい。倒たおれそうになった。生き甲斐がいを、身にしみて感じることが無くなった。強しいて言えば、おれは、めしを食くうとき以外いがいは、生きていないのである。ここに言ゆう『めし』とは、生活せいかつ形態けいたいの抽象ちゅうしょうでもなければ、生活せいかつ意慾いよくの概念がいねんでもない。直接ちょくせつに、あの茶碗ちゃわん一いっぱいのめしのことを指さして言っているのだ。あのめしを噛かむ、その瞬間しゅんかんの感かんじのことだ。動物的ぶってきな、満足まんぞくである。下品げぼんな話だ。……」

私は、未いまだ中学生がくせいであったけれども、長兄ちょうけいのそんな述懐じゅっかいを、せっせと筆記ひっきしながら、兄を、たまらなく可哀想かわいそうに思いました。A県の近衛このえ公だなぞと無智むちなおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。

次兄じけいは、この創刊そうかん号には、何も発表はっぴょうなさらなかったようですが、この兄は、谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうの初期しょきからの愛読者どくしゃでありました。それから、また、吉井よしい勇の人柄ひとがらを、とても好いていました。次兄じけいは、酒にも強く、親分おやぶん気質きしつの豪快ごうかいな心を持っていて、けれども、決けっして酒に負まけず、いつでも長兄ちょうけいの相談そうだん相手あいてになって、まじめに物事ものごとを処理しょりし、謙遜けんそんな人でありました。そうしてひそかに、吉井よしい勇の、「紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。」というような鬱勃うつぼつの雄心おごころを愛して居られたのではないかと思われます。いつか鳩はとに就いての随筆ずいひつを、地方じかたの新聞しんぶんに発表はっぴょうして、それに次兄じけいの近影きんえいも掲載けいさいされて在りましたがその時、どうだ、この写真しゃしんで見みると、おれも、ちょっとした文士ぶんしだね、吉井よしい勇に似ているね、と冗談じょうだんに威張いばりって見せました。顔も、左団次さだんじみたいな、立派りっぱな顔をしていました。長兄ちょうけいの顔は、線が細く、松蔦しょうちょうのようだと、これも家中かちゅうの評判ひょうばんでありました。ふたり共、それをちゃんと意識いしきしていて、お酒に酔ったとき、掛合かけあいで左団次さだんじ松蔦の鳥辺山とりべやま心中しんちゅうや皿屋敷さらやしきなどの声色せいしょくを、はじめることさえ、たまにはありました。

そんなとき、二階にかいの西洋間ようまのソファにひとり寝ころんで、遠とおく兄たち二人ふたりの声色せいしょくを聞きき、けッと毒笑しているのが、三男みつおでありました。この兄は美術びじゅつ学校がっこうにはいっていたのですが、からだが弱よわいので、あまり塑像そぞうのほうへは精を出さず、小説しょうせつに夢中むちゅうになって居りました。文学ぶんがくの友ともだちもたくさんあって、その友人ゆうじんたちと「十字じゅうじ街」という同人どうじん雑誌ざっしを発行はっこうし、ご自身おのれは、その表紙ひょうしの絵をかいたり、また、たまには「苦笑くしょうに終おわる」などという淡彩たんさいの小説しょうせつを書いて発表はっぴょうしたりしていました。夢川利一としかずという筆名ひつめいだったので、兄や姉たちは、ひどい名前なまいだといって閉口へいこうし、笑っていました。RIICHI UMEKAWA とロオマ字でもって印刷いんさつした名刺めいしを作らせ、少すこし気取って私にも一枚くださいましたが、読んでみると、リイチ・ウメカワとなっているので、私まで、ひやっとして、兄さんは、ユメカワでしょう? わざと、こう刷らせたの? とたずねたら、兄は、

「やあ、しまった。おれは、ウメカワじゃ無いんだ。」と言って、顔を真赤まっかになさいました。もう、名刺めいしを、友人ゆうじんや先輩せんぱい、または馴染なじみの喫茶きっさ店に差し上げてしまっていたのです。印刷いんさつ所の手落ておちでは無く、兄がちゃんと UMEKAWA と指定していしてやったものらしく、uという字を、英語えいご読よみにユウと読んでしまうことは、誰でも犯し易やすい間違まちがいであります。家中かちゅう、いよいよ大笑おうわらいになって、それからは私の家では、梅川うめかわ先生せんせいだの、忠兵衛ちゅうべい先生せんせいだのと呼ばれるようになりました。この兄は、からだが弱くて、十年まえ、二十にじゅう八歳で死しにました。顔が、不思議ふしぎなくらい美しく、そのころ姉たちが読んでいた少女しょうじょ雑誌ざっしに、フキヤ・コウジとかいう人の画いた、眼の大おおきい、からだの細こまい少女しょうじょの口絵くちえが毎月まいげつ出ていましたけれど、兄の顔は、あの少女しょうじょの顔にそっくりで、私は時々ぼんやり、その兄の顔を眺ながめていて、ねたましさでは無く、へんにくすぐったいような楽しさを感かんじていました。

性質せいしつはまじめな、たいへん厳格げんかくで律儀りちぎなものをさえ、どこかに隠し持っていましたが、それでも趣味しゅみとして、むかしフランスに流行はやりしたとかいう粋紳士風プレッシュウ、または鬼面毒笑風ビュルレスクを信奉しんぽうしている様子ようすらしく、むやみやたらに人を軽蔑けいべつし、孤高ここうを装って居りました。長兄ちょうけいは、もう結婚けっこんしていて、当時とうじ、小ちいさい女おんなの子こがひとり生れていましたが、夏休なつやすみになると、東京とうきょうから、A市から、H市から、ほうぼうの学校がっこうから、若わかい叔父おじや叔母しゅくぼが家へ帰って来て、それが皆一室いっしつに集り、おいで東京とうきょうの叔父おじさんのとこへ、おいでA叔母しゅくぼさんのとこへ、とわいわい言って小ちいさい姪めいひとりを奪うばい合あうのですけれど、そんなときには、この兄は、みんなから少すこし離はなれて立っていて、なんだ、まだ赤あかいじゃないか、気味きみがわるい、などと、生れたばかりの小ちいさい姪の悪口あっこうを言い、それから、仕方なさそうに、ちょっと両手りょうてを差し伸べ、おいでフランスの叔父おじさんのとこへ、と言ゆうのでした。また、晩ばんごはんのときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐すわり、祖母そぼ、母、長兄ちょうけい、次兄じけい、三兄、私という順序じゅんじょに並ならび、向むこう側がわは、帳場ちょうばさん、嫂あによめ、姉たちが並んで、長兄ちょうけいと次兄じけいは、夏、どんなに暑あついときでも日本にぽん酒を固執こしつし、二人ふたりとも、その傍に大型おうがたのタオルを用意よういさせて置いて、だらだら流ながれる汗を、それでもって拭ぬぐい拭ぬぐい熱燗あつかんのお酒を呑みつづけるのでした。ふたりで毎晩まいばん一升以上いじょうも呑のむようでしたが、どちらも酒に強こわいので、座の乱みだれるようなことは、いちどもありませんでした。三兄は、決けっしてそのお仲間なかまに加わらず、知らんふりして自分じぶんの席に坐って、凝こったグラスに葡萄ぶどう酒をひとりで注いで颯さっと呑みほし、それから大急おういそぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目まじめにお辞儀じぎして、もう掻かき消すように、いなくなってしまいます。とても、水際みずぎわ立たったものでした。

「青んぼ」という雑誌ざっしを発行はっこうしたときも、この兄は編輯へんしゅう長という格で、私に言いつけて、一家かずや中ちゅうから、あれこれと原稿げんこうを集めさせ、そうして集った原稿げんこうを読んでは、けッと毒笑していました。私が、やっと、長兄ちょうけいから「めし」という随筆ずいひつを、口述こうじゅつ筆記ひっきさせてもらって、編輯へんしゅう長のところへ少すこし得意とくいで呈出ていしゅつしたら、編輯へんしゅう長はそれを読よむなりけッと笑って、

「なんだいこれは。号令ごうれい口調くちょうというんだね。孔子こうし曰いわく、はひどいね。」と、さんざ悪口あっこう言いました。ちゃんと長兄ちょうけいの侘わびしさを解していながら、それでも自身おのれの趣味しゅみのために、いつも三兄は、こんな悪口あっこうを言ゆうのでした。人の作品さくひんを、そんなに悪く言いながら、この兄ご自身おのれの作品さくひんは、どうかということになれば、そうなると、なんだか心細こころぼそいものでした。この「青んぼ」という変な名前なまいの雑誌ざっしの創刊そうかん号には、編輯へんしゅう長は自重じじゅうして小説しょうせつを発表はっぴょうせず、叙情じょじょう詩を二篇、発表はっぴょういたしましたが、どうも、それは、いま、いくら考かんがえてみても傑作けっさくとは思えないものなのであります。あの、兄ともあろうお人が、どうしてこんなものを発表はっぴょうする気になったか、私は、いまは残念ざんねんにさえ思います。甚はなはだ、書かきにくいのでありますが、それは、こんな詩なのであります。「あかいカンナ」というのと、「矢車やぐるまの花いとし」というのと、二つでありますが、前者ぜんしゃは「あかいカンナの花でした。私の心に似ています。云々。」なんだか、とても、書かきにくい思おもいなのですが、後者こうしゃは、「矢車やぐるまの花いとし。一つ、二つ、三つ、私のたもとに入れました。云々。」というのであります。どういうものでしょうか。やはり、之これは、大事だいじに筐底きょうてい深く蔵して置いたほうが、よかったのでは無かったかと、私は、あのお洒落しゃれな粋いき紳士しんしの兄のために、いまになって、そう思おもうのでありますが、当時とうじは、私は兄の徹底てっていしたビュルレスクを尊敬そんけいし、それに東京とうきょうの「十字じゅうじ街」というかなり有名ゆうめいらしい同人どうじん雑誌ざっしの仲間なかまではあり、それにまた兄には、その詩がとても自慢じまんのものらしく、町の印刷いんさつ所で、その詩の校正こうせいをしながら、「あかいカンナの花でした。私の心に似ています。」と、変な節をつけて歌うたい出だす仕末しまつなので、私にもなんだか傑作けっさくのような気がして参ったのであります。この「青んぼ」という雑誌ざっしについては、いろいろと、なつかしく、また噴ふき出だすような思おもい出でが、あるのですけれど、きょうは、なんだか、めんどうくさく、この三番目の兄が、なくなった頃の話をして、それでおわかれ致したく思います。

この兄は、なくなる二、三年まえから、もう寝たり起きたりでありました。結核けっかく菌が、からだのあちこちを虫食むしくいはじめていたのでした。それでも、ずいぶん元気げんきで、田舎いなかにもあまり帰がえりたがらず、入院にゅういんもせず、戸山とやまが原のちかくに一軒、家を借かりて、同郷どうきょうのWさん夫婦ふうふにその家の一間にはいってもらって、あとの部屋へやは全部ぜんぶ、自分じぶんで使って、のんきに暮くらしていました。私は、高等こうとう学校がっこうへはいってからは、休暇きゅうかになっても田舎いなかへ帰らず、たいてい東京とうきょうの戸塚とつかの、兄の家へ遊あそびに行って、そうして兄と一緒いっしょに東京とうきょうのまちを歩きまわりました。兄は、ずいぶん嘘をつきました。銀座ぎんざを歩きながら、

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Where this text comes from

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First published
「婦人画報」1940(昭和15)年1月
Source edition (底本)
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房


   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房

   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月刊行

入力:柴田卓治

校正:小林繁雄

1999年11月10日公開

2005年10月23日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
柴田卓治
Proofread by (校正)
小林繁雄

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