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坂口安吾 Ango Sakaguchi 1906.10.20〜1955.02.17

新らしき文学

あたらしきぶんがく

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その本質に就て

近年きんねん、新興しんこう芸術げいじゅつの名に於て幾多いくたの文芸ぶんげい運動うんどうが試こころみられてきたが、徒いたずらに皮相ひそうの新奇しんきを追おうほかに為なすところを知らなかった。従来じゅうらい幾多いくたの此この如き新(?)文学ぶんがく運動うんどうの完全かんぜんな失敗しっぱいは、「新らしさ」を誤らしめ、同時どうじに文学ぶんがくを過らしめた。

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私の考かんがえによれば、芸術げいじゅつは反撥はんぱつ精神せいしんのあらわれであり、時代じだい創造そうぞう的な激はげしい意志いしによって為なさるべきものであると思われるに拘らず、最近さいきん日本にぽん文学ぶんがくの新あたらしい傾向けいこうは、老人ろうじんの趣味しゅみに一致いっちすることを最もっとも純粋じゅんすいと見做みなし、最もっとも無気むき力な、自慰じい的な人間じんかん探究たんきゅうに過った亢奮こうふんを感かんじている。不動ふどうのもの永遠えいえんのものは已すでに亡びている。われわれは変化へんかの中に、発展はってんの一過程かていの中に、反撥はんぱつから創造そうぞうへ向むかう人間じんかんを探究たんきゅうし創りつづけてゆかなければならない。

然しかし、日本にぽん文壇ぶんだんの此この過った新傾向けいこうは、実は常軌じょうきを逸した従来じゅうらい幾多いくたの新芸術げいじゅつ運動うんどうの浅薄せんぱくきわまる新らしさが、人に新らしさの本質ほんしつを疑わしめた罪による。

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昔アリストテレス以前いぜんには、人々は虹に三色のみを識別しきべつした。更さらに昔は人々は色感しきかんに於て赤と黄の二色にしきを識別しきべつし得たにすぎない。リグ・ベエダの時代じだいには赤と黒は殆ほとんど識別しきべつされておらず、サンスクリットの全時代じだいに於て緑は完全かんぜんに発見はっけんされておらぬ。(Hugo Magnus. Sens des Couleurs)我々以後いごの時代じだいに於て、さらに多くの分類ぶんるいが色彩しきさいに就てなされることは予想よそうに難くない。これは単たんに感覚かんかくに於おける新らしさの一例にすぎない。

人物じんぶつの僅かな身振みぶりによって、何どちらの説明せつめいなしに複雑ふくざつな感情かんじょうを判断はんだんさせようとする文学ぶんがく上の一技術ぎじゅつは、恐おそらく映画えいが以前いぜんには存在そんざいせず映画えいが以前いぜんの老人ろうじんには理解りかいできまい。

然しかし、上述じょうじゅつの如き新らしさは尚末節まっせつにすぎない。そして我々の文学ぶんがくは此この程度ていどの愚劣ぐれつな末梢まっしょう的新らしさによって毒されすぎた。

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文学ぶんがくに形式けいしきを提出ていしゅつすることは末梢まっしょうである。言葉ことばや形式けいしきの新様式ようしきはそれも新らしさには違ちげいないが、本質的しつてきなものではない。小説しょうせつ家の観念かんねんは直接ちょくせつ言葉ことばの形に於て形けい成なし、画家がかの観念かんねんは色彩しきさいの組合せに、音楽家がくけの観念かんねんは音の組合せに於て形成けいせいする。小説しょうせつ家の観念かんねんは言葉ことばの形に於てのみ結晶けっしょうするが、問題もんだいはあくまで「観念かんねん」であって、言葉ことばそのものではない。言葉ことば、音、色彩しきさい etc. は芸術げいじゅつ家にとって単たんに当然とうぜんな基本きほん条件じょうけんであって、観念かんねんそのものの必然ひつぜん性に動かされぬ単たんなる言葉ことばや形式けいしきは芸術げいじゅつ活動かつどう以前いぜんに属ぞくする。単たんなる言葉ことばや形式けいしきを問題もんだいにするが如きは芸術げいじゅつ家に最大さいだいの恥辱ちじょくである。

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文学ぶんがくの真の新らしさは此この如き末梢まっしょう的装飾そうしょくによって瞞着まんちゃくさるべきでない。同時どうじに此この如き末梢まっしょう的装飾そうしょくを新らしさの全すべてと誤解ごかいし、軽率けいそつに本質的しつてきな新らしささえ背を向け去った現下げんかの現象げんしょうは、これ又甚はなはだ非文ひぶん学的がくてきな現象げんしょうと言わねばならぬ。なぜなら、「まことの新らしさ」は同時どうじに文学ぶんがくの本質ほんしつであるから。

年齢ねんれいには年齢ねんれいの、若さには若さの果実かじつがある。そして時代じだいに時代じだいの果実かじつがある。進歩しんぽと退歩たいほに拘らず、全すべては常に変化かする。変化へんかそれ自みずからが常に厳然げんぜんたる新らしさであるが、文学ぶんがくは変化へんかの流ながれに押し流されるものではなく、時代じだい創造そうぞう的な「意志いし」によって、変化へんかに方向ほうこうと意志いしを与え得えるものである。

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First published
「時事新報」1933(昭和8)年5月4日~6日
Source edition (底本)
底本:「坂口安吾選集 第十巻エッセイ1」講談社

   1982(昭和57)年8月12日第1刷発行

初出:「時事新報」

   1933(昭和8)年5月4日~6日号

入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース

校正:小林繁雄

2006年9月16日作成

2011年11月21日修正

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Typed by (入力)
高田農業高校生産技術科流通経済コース
Proofread by (校正)
小林繁雄

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