Nihoner

島崎藤村 Toson Shimazaki 1872.03.25〜1943.08.22

食堂

しょくどう

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お三輪みわが東京とうきょうの方にいる伜せがれの新七しんしちからの便たよりを受取うけとりって、浦和うらわの町からちょっと上京じょうきょうしようと思おもい立たつ頃は、震災しんさい後満一みつかず年にあたる九月一日ついたちがまためぐって来た頃であった。お三輪みわに、彼女かのじょが娵よめのお富に、二人ふたりの孫に、子守こもり娘に、この家族かぞくは震災しんさいの当時とうじ東京とうきょうから焼出されて、浦和うらわまで落ちのびて来たものばかりであった。

何となく秋めいた空の色も、最早もはや九月のはじめらしい。風も死んだ日で、丁度ちょうど一年ひととせ前と同じような暑あつい日ひあたりが、またお三輪みわの眼の前に帰って来た。彼女かのじょは娵や孫達と集っていて、一緒いっしょに正午ひる近い時を送った。

「おばあちゃん、地震じしん?」

と誰かの口真似くちまねのように言って、お三輪みわの側へ来くるのは年上としうえの方の孫だ。五つばかりになる男の児だ。

「坊ぼうやは何を言うんだねえ」

とお三輪みわは打うち消けすように言って、お富と顔を見合せた。過ぐる東京とうきょうでの震災しんさいの日には、打うち続つずく揺ゆり返かえし、揺ゆり返かえしで、その度に互たがいに眼の色を変えたことが、言わず語らずの間に二人ふたりの胸を通り過ぎた。お富は無心むしんな子供こどもの顔をみまもりながら、

「お母さん、御覧ごらんなさい、この児はもうあの地震じしんを覚おぼえていないようですよ」

とお三輪みわに言って見せた。

そこはお三輪みわに取って彼女かのじょが両親りょうしんの生れ故郷こきょうにあたる。そこには旧ふるい親戚しんせきの家もある。そこの古ふるい寺の墓地ぼちには、親達の遺骨いこつも分わけて納めてある。埼玉さいたま気分きぶんをそそるような機場はたばの機の音も聞えて来ている。お三輪みわはほんの一時いっとき落おちつくつもりで伜の新七しんしちが借かりてくれた家に最早もはや一年ひととせも暮くらして来た。彼女かのじょは、お富や孫達を相手あいてに、東京とうきょうの方から来くる好い便たよりを待ち暮した。

一年ひととせ前の大おおきな出来事できごとを想い起させるような同おんなじ日の同おんなじ時刻じこくも、どうやら、無事ぶじに過すぎた。一ひとしきりの沈黙ちんもくの時が過すぎて、各自めいめいの無事ぶじを思おもう心がそれに変った。日頃ひごろ台所だいどころにいて庖丁ほうちょうに親したしむことの好すきなお三輪みわは、こういう日にこそ伜や親戚しんせきを集め、自分じぶんの手作てずくりにしたもので一緒いっしょに記念きねんの食事しょくじでもしたいと思ったが、それも叶かなわなかった。親戚しんせきも多く散ちり散じりばらばらだ。お三輪みわと同じように焼出された親戚しんせきの中には、東京とうきょうの牛込うしごめへ、四谷よつやへ、あるいは日暮里にっぽりへと、落おちつく先を尋たずね惑まどい、一年ひととせのうちに七度も引越ひっこして歩いて、その頃になってもまだ住居すまいの定まらない人達すらあった。

お三輪みわは思おもい出でしたように、仮の仏壇ぶつだんのところへ線香せんこうをあげに行った。お三輪みわが両親りょうしんの古ふるい位牌いはいすら焼いてしまって、仏壇ぶつだんらしい仏壇ぶつだんもない。何もかもまだ仮の住居すまいの光景こうけいだ。部屋へやの内には、ある懇意こんいなところから震災しんさい見舞みまいにと贈られた屏風びょうぶなどを立て廻して、僅わずかにそこいらを取り繕ってある。長ながいことお三輪みわが大切たいせつにしていた黒柿くろがきの長手ながての火鉢ひばちも、父の形見かたみとして残っていた古ふるい箪笥たんすもない。お三輪みわはその火鉢ひばちを前に、その箪笥たんすを背後うしろにして、どうかしてもう一度ひとたび以前いぜんのような落ちついた心持こころもちに帰って見たいと願っていた。

このお三輪みわが震災しんさいに逢った頃は最早もはや六十ろくじゅうの上を三つも四つも越していた。父は浦和うらわから出て、東京とうきょう京橋きょうばしの目貫めぬきな町中まちなかに小竹こだけの店を打ち建てた人で、お三輪みわはその家附きの娘、彼女かのじょの旦那だんなは婿養子ようこにあたっていた。この二人ふたりの間に生れた一人ひとり子息むすこが今の新七しんしちだ。お三輪みわが小竹こだけの隠居いんきょと言われる時分じぶんには、旦那だんなは疾とっくにこの世よにいない人で、店も守まもる一方いっぽうであったが、それでも商法しょうほうはかなり手広くやり、先代せんだいが始はじめた上海シャンハイの商人あきゅうどとの取引とりひきは新七しんしちの代までずっと続いていた。

お三輪みわは濃こい都会とかいの空気くうきの中に、事もなく暮くらしていた日のことをまだ忘わすれかねている。広ひろい板敷いたじきの台所だいどころがあって、店のものに食わせる昼飯ちゅうはんの支度したくがしかけてある。番頭ばんがしらや小僧しょうそうの茶碗ちゃわん、箸はしなぞも食卓しょくたくの上に既すでに置き並べてある。そこは小竹こだけとした暖簾のれんのかかっていた店の奥だ。お三輪みわは女中じょちゅうを相手あいてに、その台所だいどころで働いていた。そこへ地震じしんだ。やがて火だ。当時とうじを想おもうと、新七しんしちはじめ、店の奉公ほうこう人でも、近所きんじょの人達でも、自分じぶん等の町の界隈かいわいが焼けようなぞと思おもうものは一人ひとりもなかったのである。あの時ほどお三輪みわも自分じぶんの弱よわいことを知ったためしはなかった。新七しんしちでも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。彼女かのじょはお富達と手をつなぎ合せ、一旦いったん日比谷ひびや公園こうえんまで逃れようとしたが、火を見みると足も前へ進まなかった。眼は眩くらみ、年老としよりいたからだは震ふるえた。そしてあの暗ぐらい樹のかげで一夜いちやを明そうとした頃は、小竹こだけの店も焼け落ちてしまった。芝公園しばこうえんの方にある休茶屋ちゃやが、ともかくも一時いちじこの人達の避難ひなんする場所ばしょにあてられた。その休茶屋ちゃやには、以前いぜんお三輪みわのところに七年も奉公ほうこうしたことのあるお力が内儀かみさんとしていて、漸ようやくのことでそこまで辿たどり着いた旧主人しゅじんを迎むかえてくれた。こんな非常時じょうじの縁が、新七しんしちとお力夫妻ふさいとを結びつけ、震災しんさい後はその休茶屋ちゃやに新あたらしい食堂しょくどうを設もうけ、所謂いわゆる割烹かっぽう店でなしに好い料理りょうりを食わせるところを造つくり、協力きょうりょくでそれを経営けいえいするようになって行こうとは、お三輪みわとしても全く思い設けない激はげしい生涯しょうがいの変化へんかであった。

「お前まえはどうしてそんなに泣なくの」

とお三輪みわは自分じぶんの側へ来くる子守こもり娘に声を掛かけて見た。

「去年こぞのことでも思おもい出でしたのかい」

とまたお三輪みわが言ゆうと子守こもり娘はそれを聞いて、一層いっそうしくしく泣いた。この娘は、焼やけない前から小竹こだけの家に奉公ほうこうしていたもので、東京とうきょうにある身内しんないという身内しんないは一人ひとりも大火たいか後に生き残らなかった。全く独ひとりぼっちになってしまったような娘だ。お三輪みわについて一緒いっしょに浦和うらわまで落ちのびて来たものは、この不幸ふこうな子守こもり娘だけであった。多勢たせ使っていた店の奉公ほうこう人もそれぞれ暇を取って、皆ちりぢりばらばらになってしまった。

お三輪みわは子守こもり娘をつれて町へでも買物かいものに行ゆく度に、秩父ちちぶの山々を望んで来た。山を見みると、彼女かのじょは東京とうきょうの方の空を恋しく思った。

新七しんしちから来た手紙てがみには浦和うらわまで母を迎むかえに行ゆくとあって、ともかくもお三輪みわは伜の来くるのを待まつことにしていた。彼女かのじょは何を置いても、新七しんしちの言葉ことばに従わねばならないように思った。それをしなければ気が済まないように思った。折角せっかく伜がそう言ってよこして、新しく開業かいぎょうした食堂しょくどうを母に見せたいと言ゆうのだから。

お三輪みわは震災しんさい後の東京とうきょうを全く知らないでもない。一度ひとたび、新七しんしちに連ずれられて焼跡やけあとを見に上京じょうきょうしたこともある。小竹こだけとした暖簾のれんの掛っていたところは仮の板囲いたがこいに変って、ただ礎いしずえばかりがそこに残っていた。香、扇子おうぎ、筆墨ひつぼく、陶器とうき、いろいろな種類しゅるいの紙、画帖がじょう、書籍しょじゃくなどから、加工かこうした宝石ほうせきのようなものまで、すべて支那しな産の品物しなもんが取りそろえてあったあの店はもう無なあい。三代さんだいもかかって築きあげた一家かずやの繁昌はんじょうもまことに夢の跡のようであった。その時はお三輪みわも胸が迫って来て、二度とこんな焼跡やけあとなぞを訪ねまいと思った。その足でお三輪みわは芝公園しばこうえんの休茶屋ちゃやの方へも寄って来たが、あの食堂しょくどうもまだ開業かいぎょうの支度したく最中さなかであった。新七しんしち、お力夫婦ふうふの外に、広瀬こうせさんという人も加わって、四人で食器しょっき諸道具どうぐの相談そうだんに余念よねんもなかった頃だ。この広瀬こうせさんは一時いちじは小竹こだけの家に身を寄よせていたこともあり、お力なぞもこの人に就ついて料理りょうりというものに眼が開いたくらいだから、そういう人が心棒しんぼうになっての食堂しょくどうなら、あるいは成なり立たちもするかとお三輪みわにも思われた。

「それにしても、小竹こだけの店はどうなるだろう。新七しんしちはどういう気でいるんだろう」

そこまで考かんがえて行ゆくと、お三輪みわは茫然ぼうぜんとしてしまった。

単調たんちょうな機場はたばの機の音は毎日まいにちのようにお三輪みわの針仕事はりしごとする部屋へやまで聞えて来ていた。お三輪みわはその音を聞ききながら、東京とうきょうの方にいる新七しんしちのために着物きものを縫った。亡くなった母のことが頻しきりに恋しく思い出されるのも、そういう時だ。お三輪みわはあの母の晩年ばんねんに言ったこと為したことなぞをいろいろと思おもい出だすようになったほど、自分じぶんも同じように年をとったかと思った。母はなかなかきかない気象きしょうの婦人ふじんであったから、存命ぞんめい中は婿養子ようことの折合おりあいも好くなく、とかく家庭かていに風波かぜなみの絶間たえまもなかったが、それだけ一方いっぽうにはしゃんとしたところを持っていた。お三輪みわが娘時分じぶんに朝寝あさねの枕まくらもとへ来て、一声いっせいで床を離はなれなかったら、さっさと蒲団ふとんを片付かたずけてしまわれるほど厳きびしい育て方をされたのも母だ。そういう母が同おんなじ浦和うらわ生れの父を助たすけて小竹こだけの店を持もつ前に、しばらく日本橋にっぽんばし石町こくちょうの御隠居いんきょさんの家に勤ずとめていた頃は、朝も暗ぐらいうちに起き、夜が明あけてから髪なぞを結ったためしは殆ほとんどなかったという。そして御隠居いんきょさんの寝間ねまの障子そうじを細目さいもくにあけ、敷居しきいのところに手をついて、毎朝まいあさの御機嫌ごきげんを伺ったものだという。年若わかい頃のお三輪みわに、三年の茶の道と、三味さみ線や踊おどりの芸を仕込んでくれたのも母だ。財産ざいさんも、店の品物しなもんも、着物きものも、道具どうぐも――一切いっさいのものを失った今となって見みると、年老いたお三輪みわが自分じぶんの心を支つかえる唯一ただいちつの柱と頼たのむものは、あの生みの母より外になかった。

生きている人にでも相談そうだんするように、お三輪みわはこの母の前に自分じぶんを持って行って見た。母は年を取れば取どるほど、ますます疑い深くなって行ったような人であった。仮かりに母がこの世よに生きながらえていて、一回の震災しんさいの打撃だげきに小竹こだけの店の再興さいこうも覚束おぼつかないと聞いたなら、あの疑うたがい深ぶかい人はまた何を言いい出でるしたかも知れない。三代さんだいと続つずく商家しょうかも少すくないとよく言われるように、今度こんどの震災しんさいを待まつまでもなく、旧ふるいものの壊こわれる日が既すでに来ていたろうかとは、母のような人でなければ疑えない事であった。先代せんだいを助たすけて店をあれまでにした母として見たら、新あたらしい食堂しょくどうなぞに新七しんしちの手を出だすことは好まないと言ゆうかも知れない。しかし、お三輪みわはどこまでも新七しんしちを信じようとした。

母はまた、年をとるほど好き嫌きらいも激しかった。そのためにお三輪みわの旦那だんなとは合わないで、幼少ちいさな時分じぶんの新七しんしちをひどく贔屓ひいきにした。母はどれ程あの児を可愛かわいいがったものとも知れなかった。この好すき嫌きらいの激はげしい母が今のお富と一緒いっしょに暮くらしているとしたら、そこにも風波かぜなみは絶えなかったかも知れないが、しかしお三輪みわは唯の一度ひとたびもお富と争った事がない。「そうかい、そうかい」と言って何事なにごとも娵よめに従って来た。いたずら盛さかりの孫が障子そうじを破ろうと、お三輪みわはそれを叱ったこともない。自分じぶんで糊のりと紙を持って行って、何度でも子供こどもの破った障子そうじを繕ってやった。それほど孫にまで逆さからうまいとして来た。母の思惑おもわくもさることながら、お三輪みわは自分じぶんで台所だいどころに出て皆のために働はたらくことを何よりの楽たのしみに思おもい、夜も遅おそくまで皆のために着物きものを縫ぬい、時には娵や子守こもり娘まで自分じぶんの側に坐らせて、昔をしのぶ端唄はうたの一つも歌って聞かせながら、田舎いなか住居すまいのつれづれを慰めようとしたこともある。

「お三輪みわ、お前まえはそれでいい。死しぬまで皆のために働いて、自分じぶんに出来できるだけのことをするがいい」

そういう母の声を耳の底に聞ききつけるまでは、お三輪みわは安心あんしんしなかった。

「おばあちゃん、東京とうきょうへ行ゆくの」

この孫の問に驚かされて、お三輪みわは我に返った。娵と二人ふたりぎりになると、出ない日のない東京とうきょうの方の噂うわさが、いつの間にか子供こどもの耳に入っているのにも、びっくりした。

「ああ、坊ぼうやはおとなしくお留守るす居しているんだよ」

と事もなげに言って見せた。

焼やけない前の小竹こだけの奥座敷ざしきを思出しながら今の部屋へやを見みると、江戸えど好このみの涼しそうな団扇うちわ一本いっぽんお三輪みわの眼には見当けんとうらなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜おしい着物きもののことなぞがつぎつぎにお三輪みわの胸に浮んで来くる。彼女かのじょはまたよくそれを覚おぼえていて、新七しんしちのにするつもりでわざわざ西京さいきょうまで染そめにやった羽織はおりの裏の模様もようや、一度ひとたびも手を通さず仕舞しまいに焼いてしまったお富の長襦袢ながじゅばんの袖までも、ありありと眼に見みることが出来しゅったいた。もう一度ひとたび東京とうきょうへ――娘時分じぶんからの記憶きおくのある東京とうきょうへ――その考かんがえは一日ついたちも彼女かのじょから離はなれなかった。それなしには落ちついて坐った気にもなれない黒柿くろがきの長手ながての火鉢ひばちも、古ふるい馴染なじみの箪笥たんすも、あの都会とかいの方には彼女かのじょを待っているように思われた。

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This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

Source edition (底本)
底本:「嵐・ある女の生涯」新潮文庫、新潮社


   1969(昭和44年)2月10日発行

   1994(平成6年)5月30日32刷

入力:山崎一磨

校正:林 幸雄

2009年1月14日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
山崎一磨
Proofread by (校正)
林幸雄

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