Nihoner

島崎藤村 Toson Shimazaki 1872.03.25〜1943.08.22

北村透谷の短き一生

きたむらとうこくのみじかきいっしょう

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北村きたむら透谷とうこく君の事に就ては、これまでに折がある毎に少すこしずつ自分じぶんの意見いけんを発表はっぴょうしてあるから、私の見た北村きたむら君というものの大体だいたいの輪廓りんかくは、已すでに世に紹介しょうかいした積ずもりである。北村きたむら君の生涯しょうがいの中の晩年ばんねんの面影おもかげだとか、北村きたむら君の開こうとした途みちだとか、そういう風のものに就ては私は已すでにいくらか発表はっぴょうしてある。明治あきはる年代としよも終おわりを告げて、回顧かいこの情が人々の心の中に浮んで来た時に、どういう人の仕事しごとを挙あげるかという問に対しては、いつでも私は北村きたむら君を忘わすれられない人の一人ひとりに挙あげて置いた。北村きたむら君の一番いちばん終しまいの仕事しごとは、民友みんゆう社から頼まれて書いたエマルソンの評伝ひょうでんであった。それは十二とうに文豪ぶんごうの一篇として書いたものだが、すっかり書かき終らなかったもので、丁度ちょうど病中びょうちゅうに細君さいくんが私の処へその原稿げんこうを持って来て、これを纏まとめて呉れないかという話があって、その断片だんぺん的な草稿そうこうを文字もんじの足りない処を書き足して、一冊の本ほんに纏まとめたという縁故えんこもあり、それから同君どうくんが亡くなった後で書いたものなどが散って了じまうのが惜おしいと思って、種々の雑誌ざっしなどから集めて透谷とうこく集というものに作ったのも自分じぶんであった。元々私はそう長く北村きたむら君を知っていた訳では無なあい。付き合って見たのは晩年ばんねんの三年間ねんかん位に過すぎない。しかし、その私が北村きたむら君と短みじかい知合しりあいになった間は、私に取っては何か一生いっしょう忘わすれられないものでもあり、同君どうくんの死んだ後でも、書いた反古ほごだの、日記にっきだの、種々いろいろ書かき残のこしたものを見みる機会きかいもあって、長ながい年月としつきの間私は北村きたむら君というものをスタディして居た形である。『春』の中に、多少たしょう北村きたむら君の面影おもかげを伝えようと思ったが、それも見たり聞いたりした事をその儘漫然まんぜんと叙述じょじゅつしたというようなものでは無くて、つまり私がスタディした北村きたむら君を写したものである。北村きたむら君のように進んで行った人の生涯しょうがいは、実げに妙なもので、掘っても掘っても尽きずに、後から後から色々なものが出て来くるように思われる。これは北村きたむら君を知っていたからと云って、無暗むやみに友達ともだちを賞めようという積ずもりではない。成程なるほど過ぎ去った歴史上しじょうには種々優れた人もあるが、同時代じだいにいた、しっかりした友達ともだちの方に、却かえって教えられた事は多おおいのである。

北村きたむら君が亡くなった後で、京橋きょうばし鎗屋町の煙草屋そうおくの二階にかい(北村きたむら君の阿母おっかさんは煙草たばこ店を出だして居られた)へ上って、残のこして置いて行ったものを調べた事があった。その時細君さいくんが取とり出だして来たいくつかの葛籠つづらを開けたら、種々反古ほごやら、書かき掛かけたものやらが、部屋へや中一杯いっぱいになるほど出て来た。北村きたむら君はどんな破って了いたいようなものでも、自分じぶんの書いたものは、皆大切たいせつに、細君さいくんに仕舞わせて置いた。そんな一寸ちょっとした事にも北村きたむら君の人ひととなりというものは出ていると思おもう。その中には小説しょうせつの書かき掛かけがあったり、種々な劇詩げきしの計画けいかくを書いたものがあったり、その題目だいもくなどは二度目に版にした透谷とうこく全集ぜんしゅうの端に序文じょぶんの形で書かきつけて置いたが、大部分ぶぶんはまあ、遺稿いこうとして発表はっぴょうする事を見合わした方が可いいと思った位で、戯曲ぎきょくの断片だんぺん位しか、残った草稿そうこうとしては世に出さなかった。然しかしその古ふるい反古ほごを見みると、北村きたむら君の歩いて行った途の跡が付いているような気がした。例を挙あげて見みると『蓬莱ほうらい曲』を書かく以前いぜんに『楚囚詩』というものを書いている。あれなぞをこう比くらべて見みると、北村きたむら君の行ゆき方がたは、一度ひとたびある題目だいもくを捉つらまえると容易たやすいにそれを放擲ほうてきして了じまうという質たちの人では無なあい、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上のぼれる度に、段々作物さくぶつの味あじわいが深くなってゆくという感かんじがする。『富嶽ふがくの詩神を懐ふ』という一篇なぞは、矢張やはり、『蓬莱ほうらい曲』の後に書いたものだが、よく読んで見みると、作と作との相連絡れんらくしている処が解わかるように思おもう。一体いったい北村きたむら君の書いたものは、死しぬ三四さんし年前まえあたりから、急に光って来たような処があって、一呼吸ひといきにああいう処へ躍り入ったような風に見えたが、その残のこして置いた反古ほごなぞを見みると、透谷とうこく集の中にある面白おもしろい深味ふかみのあるものが、皆ずっと以前いぜんの幼稚ようちなものから、出発しゅっぱつして来ていることが解った。その反古ほごは今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重かさねて、同おんなじ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味おもしろみのあった処だ。

北村きたむら君の文学ぶんがく生活せいかつは種々な試こころみを遣やって見た、準備じゅんび時代じだいから始まったものではあるが、真個ほんとに自分じぶんを出だして来くるようになったのは、『蓬莱ほうらい曲』を公おうやけにした頃からであろう。当時とうじ巌本いわもと善治よしはる氏の主宰しゅさいしていた女学じょがく雑誌ざっしは、婦人ふじん雑誌ざっしではあったが、然しかし文学ぶんがく宗教しゅうきょう其他種々の方面ほうめんに渉って、徳富とくとみ蘇峰そほう氏の国民くにたみの友と相対そうたいした、一つの大おおきな勢力せいりょくであった。北村きたむら君を先まず文壇ぶんだんに紹介しょうかいしたのは、この巌本いわもと善治よしはる氏であった。『厭世えんせい詩家しかと女性じょせい』その他のものを、北村きたむら君が発表はっぴょうし始はじめたのは女学じょがく雑誌ざっしであったし、ああいう様式ようしきを取って、自分じぶんを現わそうとしたという事も、つまりこの女学じょがく雑誌ざっしという舞台ぶたいがあったからだ。殊ことに雑誌ざっしが雑誌ざっしだったから、婦人ふじんに読ませるということを中心ちゅうしんにして、題目だいもくを択んだものもあった。処女しょじょの純潔じゅんけつを論じたり、その他恋愛れんあい観なぞを書き現わしたものにも、一面いちめん婦人ふじんのために書いているような趣おもむきのあるのはその故である。その頃女学じょがく雑誌ざっしには星野ほしの天知あまち君もかなり深く関係かんけいしていた。巌本いわもと氏は清教徒きょうと的の見地けんちから、文学ぶんがくを考かんがえているような人だったから、純文芸ぶんげいに向おうとするものは、意見いけんの合わないような処が出来しゅったいて来た。星野ほしの君の家は日本橋にっぽんばし本町ほんちょう四丁目ちょうめの角にあった砂糖さとう問屋とんやで、男三郎君ろうくんというシッカリした弟があり、おゆうさんという妹もあり兄弟けいてい挙こぞって文学ぶんがくに趣味しゅみを持もつという人達だったから、その星野ほしの君が女学じょがく雑誌ざっしから離はなれて、一つ吾々の手で遣ろうではないかという相談そうだんを持もち出だして、それに平田ひらた禿木とくぼく君が主なる相談そうだん対手あいてになり、北村きたむら君と私とも雑誌ざっしに関係かんけいする事になった。そんな風にして出来上ったのが、文学界がっかいの始はじまりだった。平田ひらた君の家は日本橋にっぽんばし伊勢町いせちょうにあって、星野ほしの君の家とも近ちかく、男三郎君ろうくんとは一緒いっしょに高等こうとう学校がっこうへ通って居られるという時代じだいだった。吾々はよく、あの砂糖さとう屋の奥にあった、茶室ちゃしつ風の部屋へやに集って、其処そこで一緒いっしょに茶を呑みながら、雑誌ざっしを編輯へんしゅうしたり、それから文学ぶんがくを談じたりして時の経たつのを忘わすれる位であった。戸川とがわ秋骨君、馬場うまば孤蝶こちょう君は、私が明治あきはる学院がくいん時代じだいの友達ともだちという関係かんけいから、自然じねんと文学界がっかいの仲間なかま入をされるようになった。こんな風にして、皆親しく往来おうらいするようになったのだが、兎とに角かく文学界がっかいというものを起そうとしたのは、星野ほしの君兄弟けいていと、平田ひらた禿木とくぼく君とで、殊ことに男三郎君ろうくんは、大学だいがくへ行って工科こうかでも択ぼうという位の綿密めんみつな、落ち着いた人だったから、殆ほとんど自分じぶんでは表立って何も発表はっぴょうしなかったが、種々な面倒めんどう臭くさい雑用ぞうようなんかを一人ひとりで引ひき受うけて、随分ずいぶあの雑誌ざっしのためには蔭になって力を尽した人であった。文学界がっかいの先まず受けた非難ひなんは、不健全けんぜんという事であった。それに対しても吾々若わかいものは皆激はげしい意気いき込を持っていたから、北村きたむら君などは「どうも世間せけんの奴等は不健全けんぜんで可いかん」とあべこべに健全けんぜんを以て任にんずる人達を、罵ののしるほどの意気いきで立っていた。北村きたむら君が最初さいしょの自殺じさつを企くわだてる前、病やまいにある床の上に震ふるえながらも、斯こういう豪語ごうごを放っていたという事は、如何いかにも心のひるまなかった証拠しょうこであると思おもう。文学界がっかいへ書かくようになってからの北村きたむら君は、殆ほとんど若わかい戦士せんしの姿で、『人生じんせいに相渉わたるとは何ぞや』とか『頑執盲排の弊を論ず』とか、激越げきえつな調子ちょうしの文章ぶんしょうが続々出て来て、或ある号なぞは殆ほとんど一人ひとりで、雑誌ざっしの半分はんぶんを埋めた事もあった。明治あきはる年代としよの文学ぶんがくを回顧かいこすると民友みんゆう社というものは、大おおきな貢献こうけんをした事は事実じじつであるし、蘆花ろか、独歩どっぽ、湖処子こしょしの諸君しょくんの仕事しごとも、民友みんゆう社という事からは離しては考かんがえられない。遠とおくから望のぞむと一群いちぐんの林のような観をなしていたが、民友みんゆう社にも種々異った意見いけんを持った人が混っていて、透谷とうこく君の激はげしい論戦ろんせんは主おもに民友みんゆう社の徳富とくとみ蘇峰そほう氏、山路やまじ愛山あいざん氏などを対手あいて取ったものであった。でも愛山あいざん氏などは、殆ほとんど正反対はんたいに立たった論敵ろんてきではあったが、一面いちめん北村きたむら君とは仲の宜よい友達ともだちでもあった。それから喧嘩けんかをして却かえって対手あいてに知られた形で、北村きたむら君は国民くにたみの友や、国民くにたみ新聞しんぶんなにかへも寄稿きこうするようになった。その中で、『他界たかいに対たいする観念かんねん』は、北村きたむら君の宗教しゅうきょう的な、考かんがえ深ぶかい気質きしつをよく現わしたものである。それから国民くにたみの友の附録ふろくに、『宿魂しゅっこん鏡』という小説しょうせつを寄稿きこうした事があったが、あれは自分じぶんで非常ひじょうに不出来ふできだったと云って、透谷とうこくの透の字を桃という字に換えて、公おうやけにしようかと私に話した位であった。あの作は透谷とうこく君の得意とくいの作では無論むろん無かったと思おもうが、でも私にはその病的びょうてきな方面ほうめんが窺うかがわれるかと思おもう。文学界がっかいに関係かんけいされる頃から、透谷とうこく君は半なかば病やめる人であったと、後になって気が着いたが、皆と一緒いっしょになって集って話はなしていても、直すぐに身体しんたいを横にしたり、何か身を支つかえるものが欲ほしいというような様子ようすをしていた。斯こういう身体しんたいだったから、病的びょうてきな人間じんかんの事にも考え及んでいたらしく、その事は内田うちだ魯庵ろあん氏の訳された『罪と罰』の評なぞにも現あらわれていると思おもう。透谷とうこく君の晩年ばんねんを慰めた一人ひとりの女の友達ともだちがあったが、病床びょうしょうにいる時に、それとなくこの人に書いて宛てた慰めの言葉ことばは、確たしか『山庵雑記ざっき』の中に出ている筈だ。あれは極ごく短みじかいものだが、兎とに角かく病人びょうにんに対たいする深ぶかい理解りかいや、同情どうじょうが籠っていると思おもう。この女の友達ともだちが死んだ時に、透谷とうこく君が『哀詞』というものを書いた。ああいうものを書かく時分じぶんから、透谷とうこく君自身おのれのライフも、次第しだいに磨り減らされて行ったように見まみえる。

透谷とうこく君がよく引ひっ越こして歩いた事は、已すでに私は話した事があるから、知っている読者どくしゃもあるであろうと思おもうが、一時いちじ高輪たかなわの東禅寺ぜんでらの境内けいだいを借かりて住んでいた事があって、彼処そこで娘のふさ子こさんが生れた。彼処かしこに一人ひとり食客しょっかくがいた事は、戸川とがわ君も一度ひとたび書いた事があるが、何を為そうとするでもないような、心細こころぼそい人を世話せわして、一緒いっしょに飯を分わけて食くうというような処が北村きたむら君にはあった。或ある日、私が訪ねて行ゆくと、結婚けっこんの問題もんだいで考かんがえに悩んで、北村きたむら君の処へ相談そうだんに来ている婦人ふじんがあった。私共三人は、墓場はかばの石に腰掛こしかけて、話した事なぞを覚おぼえている。北村きたむら君の書いたものは、論文ろんぶんと云っても皆みんな自分じぶんの生活せいかつに交渉こうしょうの深ぶかい、一種いっしゅの創作そうさくであった。殊ことにサイコロジカルな処が、外の人達と違った特色とくしょくであると思おもう。『鬼心非鬼心』という文章ぶんしょうは、寺の借住居すまいの附近ふきんにあった事を、主おもにして書いたものだ。それから、麻布霞町あざぶかすみちょうの方へ移って、山羊やぎなぞを飼って見た事もあったが、これには余程よほど詩人しじん風の空想くうそうが混っていた。星野ほしの天知あまち君は、その後鎌倉かまくらの方へ引き込まれた北村きたむら君から、その山羊やぎを引き取った事がある。そして「どうも北村きたむら君には一杯いっぱい嵌はめられました。子供こどもをお腹なかに持っているというから、その積ずもりで引き取ったら、子供こどもがあるんではなかった」と私に話はなして、笑った事があった。北村きたむら君は又芝公園しばこうえんへ移ったが、其処そこは紅葉もみじ館の裏手うらてに方あたる処で、土地とちが高く樹木じゅもくが欝蒼うっそうとした具合ぐわいが、北村きたむら君の性質せいしつによく協かなったという事は、書いたものの中にも出ている。あの芝公園しばこうえんの家は余程よほど気に入ったものと見えて、彼処かしこで書いたものの中には、懐しみの多おおいものが沢山だくさん出来しゅったいた。『星夜せいや』というものを書いたのもあの林の中だ。短みじかい冥想めいそうの記録きろくのようなもので、彼処かしこで書いたものには、私の好すきなものが沢山だくさんある。意地いじの悪わるい鳥が来て高だかい梢の上で啼なくのを聞いて、皮肉屋にくやというものが、文壇ぶんだんにばかりいると思ったら、こんな処にもいた、というような事を書かきつけた事があったが、斯こういう軽かるい気分きぶんを持もつ事が出来しゅったいたほど、彼処かしこの住居すまいは楽しかったのであろうと思おもう。彼処かしこから奥州おうしゅうの方へ旅をして、帰って来て、『松島まつしまに於て芭蕉ばしょう翁を読よむ』という文章ぶんしょうを発表はっぴょうしたが、その旅から帰かえる頃から、自分じぶんでも身体しんたいに異状いじょうの起って来た事を知ったと見えて、「何でも一つ身体しんたいを丈夫たけおにしなくちゃならない」というので、国府津こうずの前川村かわむらの方へ引き移ったのだ。丁度ちょうど文学界がっかいを出だす時分じぶんから、私も一時いちじ漂泊ひょうはくの生活せいかつを送ったが、その以前いぜんに私は巌本いわもと君に勧すすめられて、明治あきはる女学校がっこうで教えていた。北村きたむら君もそう収入しゅうにゅうが無なあいと思ったから、僅わずかばかりの自分じぶんの学校がっこうの仕事しごとを北村きたむら君に譲って、私は旅へ出懸けたりした。北村きたむら君は国府津こうずへ移ってからも矢張やはり其処そこから、明治あきはる女学校がっこうへ教えに通っていた。或ある時私に、「幸田こうたという人は仕合者しあわせものだね」と云って、当時とうじの文学者がくしゃとしては相応そうおうな酬いを受うけていた露伴ろはん氏の事を、羨うらやんで話した事があったが、それほど貧しく暮さなければならない境涯きょうがいで、そのためには異人ことひとの仕事しごとをしたり、それから『平和へいわ』という宗教しゅうきょう雑誌ざっしを編輯へんしゅうしたりした事があるように記憶きおくしている。国府津こうずの寺は、北村きたむら君の先祖せんぞの骨を葬ってある、そういう所縁ゆかりのある寺で、彼処かしこでは又北村きたむら君の外の時代じだいで見られない、静しずかな、半なかば楽たのしい、半なかば傷ついている時が来たようであった。「国府津こうず時代じだいは楽しゅうござんした」とよく細君さいくんが北村きたむら君の亡くなった後で、私達に話した事があった。『蝶の歌』が出来しゅったいたのもあの海岸かいがんだし、それから『一夕いっせき観』などを書いたのも彼処かしこだった。あの『一夕いっせき観』なんかになると、こう激し易かったり、迫り易かったりした北村きたむら君が、余程よほど広ひろい処へ出て行ったように思われる。けれども惜おしい事に、そういう広ひろい処へ出て行った頃には、身体しんたいの方はもう余程よほど弱っていた。国府津こうず時代じだいに書いたものは皆味の深ぶかいものばかりだが、然しかし余あまり長ながいものはもう書けなかった。エマルソンの評伝ひょうでんの稿を起おこしたのも、彼処かしこの寺だ。それから、『五縁』、『十夢』、大おおきな史劇しげきの計画けいかくなぞを立てていたのも、彼処かしこだ。この国府津こうず時代じだいに書かきつけた、ノオト・ブックを後で見たが、自分じぶんはもうどうにもこうにも仕様しようが無くなったから、一切いっさいの義務ぎむなんかというものを棄てて了って、西行せいこうのような生活せいかつでも送って見たい、というようなことが書かきつけてある所もあり、自分じぶんの子供こどもにはもう決けっして文学ぶんがくなぞは遣やらせない、という事なぞを書いたものがあった。それから何も物の書けないような可傷いたましい状態じょうたいになって、数寄屋すきや橋の煙草屋そうおくの二階にかいへ帰かえる事になった。北村きたむら君と阿母おっかさんとの関係かんけいは、丁度ちょうどバイロンと阿母さんとの関係かんけいのようで、北村きたむら君の一面いちめん非常ひじょうに神経しんけい質な処は、阿母さんから伝わったのだ。それに阿母さんという人が、女でも煙草屋そうおくの店に坐って、頑張っていようという人だから、北村きたむら君の苛々いらいらした所は、阿母さんには喜ばれなかった。暫しばらく病んでいた後で、北村きたむら君が自殺じさつを企くわだてた当時とうじの心境しんきょうは、私は『春』の中でいくらか辿たどって見た。それを家の人に見付かって、病院びょういんへ送られて、兎とに角かく傷は癒った。細君さいくんも心配しんぱいして、も一度ひとたび芝公園しばこうえんの家を借かりて、それには友達ともだちながらも種々心配しんぱいして呉くれた人があって、其処そこで養生ようじょうした。丁度ちょうど彼かれ是これ半年はんとし近ちかくも、あの公園こうえんの家で暮くらしたろうか。もう余程よほど違った頭脳あたまの具合ぐわいだったから、なるべく人にも会わなかったし、細君さいくんも亦客なぞ断ことわるという風であった。二度目に其処そこへ移ってからは、もう殆ほとんど筆を執とるような人ではなかった。巌本いわもと君が心配しんぱいして、押川方かわかた義氏よしうじを連ずれて、一度ひとたび公園こうえんの家を訪ねて、宗教しゅうきょう事業じぎょうにでも携わったらどうか、という話をしたという事を聞いたが、後で私が訪ねて行ゆくと、「巌本いわもと君達きんだちが来て、宗教しゅうきょうの話をして呉れたが、どうしても僕には信しんじるという心が起らないからね」と、そんな風に話した事もあった。北村きたむら君もそんな風になった以上いじょうは仕方しかたが無なあいし、吾々は吾々で、又更さらに新しく進んで見ようという心持こころもちになって、文学界がっかいの連中れんじゅうは各自めいめい思い思いに歩き始はじめた時であった。たまに訪ねて行ゆくと、奥の方の小ちいさい、薄暗うすぐらいいような部屋へやに這入っていて、「滅多めったに人にも会わないのだが、君等だから会あうのだ」と云って、突いて癒った咽喉のどの傷などを、出だして見せた。「何なにしろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、頻しきりにその傷の跡を気にしていた。戸川とがわ君と一緒いっしょに訪ねた時には、何でもエマルソンの本が出来しゅったいた時で、細君さいくんが民友みんゆう社から届いた本を持って来て、私に見せたが、北村きたむら君はその本を手に取って見たという位で、中を開けて見みる気も無なあいという風であった。細君さいくんはもう夜中やちゅうも、夫の様子ようすに注意ちゅういするという風になって、非常ひじょうに気を付けて看護かんごをしたのであったが、丁度ちょうど五月さつき十六日むいかの晩の月夜つきよに、自分じぶんの病室びょうしつを脱け出して、家の周囲まわりにある樹に細引ほそびきを掛かけて、それに縊くびれて二十にじゅう七歳で死んだ。その素質そしつに於いては稀まれに見みる詩人しじんであり、思想しそう家であった、北村きたむら君の惜おしむ可き一生いっしょうは斯こうして終った。

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First published
「文章世界」1912(大正1)年10月
Source edition (底本)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房


   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行

   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行

初出:「文章世界」

   1912(大正1)年10月

※初出情報は「藤村全集第6巻」(筑摩書房)に拠った。

入力:kamille

校正:鈴木厚司

2004年10月31日作成

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
kamille
Proofread by (校正)
鈴木厚司

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