Nihoner

島崎藤村 Toson Shimazaki 1872.03.25〜1943.08.22

新生

しんせい

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  • Public domain

一

「岸本きしもと君――僕は僕の近来きんらいの生活せいかつと思想しそうの断片だんぺんを君に書いて送ろうと思おもう。然しかし実を言えば何も書かく材料ざいりょうは無なあいのである。黙していて済すむことである。君と僕との交誼まじわりが深ければ深ぶかいほど、黙していた方が順当じゅんとうなのであろう。旧ふるい家を去って新あたらしい家に移った僕は懶惰らんだに費ついやす日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働はたらくということが出来しゅったいない。他人たにんの意志いしの下に働はたらくということは無論むろんどうあっても出来しゅったいない。そんなら自分じぶんの意志いしの鞭むちを背にうけて、厳粛げんしゅくな人生じんせいの途みちに上のぼれるかというに、それも出来しゅったいない。今までに一つとして纏まとまった仕事しごとをして来なかったのが何よりの証拠しょうこである。空と雲と大地だいちとは一日ついたち眺ながめくらしても飽くことを知らないが、半日はんじつの読書どくしょは僕を倦うましめることが多おおい。新あたらしい家に移ってからは、空地あきちに好める樹木じゅもくを栽うえたり、ほんの慰なぐさみ半分はんぶんに畑をいじったりするぐらいの仕事しごとしかしないのである。そして僅わずかに発芽はつがする蔬菜そさいのたぐいを順次じゅんじに生に忠実ただざねな虫に供養くようするまでである。勿論もちろん厨房ちゅうぼうの助に成ろう筈はずはない。こんな有様ありさまであるから田園でんえん生活せいかつなんどは毛頭もうとう思おもいも寄らぬことである。僕の生活せいかつは相変らず空くうな生活せいかつで始終しじゅうしている。そして当然とうぜん僕の生涯しょうがいの絃げんの上には倦怠けんたいと懶惰らんだが灰色はいいろの手を置いているのである。考かんがえて見れば、これが生の充実じゅうじつという現代げんだいの金口きんくに何等なんらの信仰しんこうをも持たぬ人間じんかんの必定ひつじょう堕おちて行ゆく羽目はめであろう。それならそれを悔くやむかというに、僕にはそれすら出来しゅったいない。何故なぜかというに僕の肉体にくたいには本能ほんのう的な生の衝動しょうどうが極きわめて微弱びじゃくになって了しまったからである。永遠えいえんに堕ちて行ゆくのは無為むいの陥穽かんせいである。然しかしながら無為むいの陥穽かんせいにはまった人間じんかんにもなお一つ残されたる信仰しんこうがある。二千年ちとしも三千年みちとしも言い古した、哲理てつりの発端ほったんで総合そうごうである無常むじょう――僕は僕の生気せいきの失せた肉体にくたいを通とおして、この無常むじょうの鐘の音を今更いまさらながらしみじみと聴き惚ほるることがある。これが僕のこのごろの生活せいかつの根調である……」

郊外こうがいの中野なかのの方に住すむ友人ゆうじんの手紙てがみが岸本きしもとの前に披ひろげてあった。

これは数月前げつぜんに岸本きしもとの貰もらった手紙てがみだ。それを彼は取出して来て、読返して見た。若かった頃は彼も友人ゆうじんに宛あてて随分ずいぶ長ながい手紙てがみを書かき、また友人ゆうじんの方からも貰もらいもしたものであったが、次第しだいに書かきかわす文通ぶんつうもほんの用事ようじだけの短みじかいものと成って行った。それも葉書はがきで済ませる場合ばあいにはなるべく簡単かんたんに。それだけ書かくべき手紙てがみの数が一方いっぽうには増ふえて来た。一日ついたちかかって何通となく書かくことはめずらしくない。その意味いみから言えば、彼かの前に披げてあったものは、めったに友人ゆうじんから貰もらうことの出来できる手紙てがみでもなかった。手紙てがみの形式けいしきをかりて書いて寄よこしてくれた手紙てがみでない手紙てがみだ。読んで行ゆくうちに、彼は何よりも先まず人生じんせいの半なかばに行き着いた人一人ひとりとしての友人ゆうじんの生活せいかつのすがたに、その告白こくはくに、ひどく胸を打たれた。ある夕方ゆうがたが来て見みると、あだかも彼方あっちの木に集り是方こっちの木に集りして飛び騒いでいた小鳥ことりの群が、一羽黙り、二羽黙り、がやがやとした楽たのしい鳴声なきごえが何時いつの間にか沈まって行ったように、丁度ちょうどそうした夕方ゆうがたが岸本きしもとの周囲しゅういへも来た。中にも、この手紙てがみをくれた友人ゆうじんが中野なかのの方へ新あたらしい家を造って引移ってからというものは、ずっと声を潜めてしまった。ほんとに黙ってしまった。

読よみかけた手紙てがみを前に置いて、岸本きしもとは十四五しご年このかた変かわることのない敬愛けいあいの情を寄よせたこの友人ゆうじんに自分じぶんの生涯しょうがいを比くらべて見た。

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First published
「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日
Source edition (底本)
底本:「新生(上)」新潮文庫、新潮社

   1955(昭和30)年3月25日発行

   1969(昭和44)年11月20日20刷改版

   1982(昭和57)年3月20日39刷

   「新生(下)」新潮文庫、新潮社

   1955(昭和30)年5月10日発行

   1970(昭和45)年1月20日20刷改版

   1983(昭和58)年2月15日41刷

初出:「東京朝日新聞」

   1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

※定本版「藤村文庫」第七篇(新潮社、1938年6月刊)は、本作品の前編だけを「寝覚」と題して収録している。上巻末尾の「『寝覚』附記」は、著者が同書に後書きとして付したものである。

入力:H・大野

校正:かとうかおり

2000年3月23日作成

2016年5月23日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
H・大野
Proofread by (校正)
かとうかおり

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