Nihoner

与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

私娼の撲滅について

ししょうのぼくめつについて

  • Hard
  • 5,930 characters
  • about 15 min
  • 2 sections
  • Public domain

一木いちき博士はかせを主務しゅむ大臣おとどとする内務ないむ省が突如とつじょとして私娼ししょう絶滅ぜつめつの実行じっこうに取掛ったことは最近さいきんの奇異きいな現象げんしょうである。私はこれについていろいろのことを考かんがえて見た。

娼婦しょうふとは奴隷どれいの一種いっしゅである。経済けいざい上の独立どくりつ精神せいしんと独立どくりつ能力のうりょくとの麻痺まひした女が、良心りょうしんと肉体にくたいとを男子だんしに捧げて財物ざいもつと換かえることが娼婦しょうふの職業しょくぎょうである。

こういう不徳ふとくな職業しょくぎょうの起源きげんを尋たずねることはむずかしい。それは渺茫びょうぼうとして歴史れきし以前いぜんの雲の中に隠がくれている。唯ただ人類じんるいがなにがしかの文明ふみあきを持もつ時代じだいに入って後に発生はっせいした現象げんしょうであることだけは、現げんに最もっとも素朴そぼくな男女なんにょ関係かんけいを保存ほぞんしているらしく見受みうけられる或種の土人間じんかんに売淫ばいいんを職業しょくぎょうとする女の絶無ぜつむなのに考かんがえて仮定かていせられる。

男には強健きょうけんな体質たいしつを持っている限かぎり、そうして克己こっき的の節制せっせいを加くわえるだけの理性りせいと意志いしの微弱びじゃくである限かぎり、一婦いっぷとの接触せっしょくに甘心しておられないような性欲せいよくの過剰かじょうがある。また体質たいしつの如何いかんにかかわらず他の新あたらしい婦人ふじんとの触接しょくせつに由って享楽きょうらくしようとする欲望よくぼう、或学者がくしゃのいわゆる性欲せいよく上の好新欲が男にある。

女の性欲せいよくは概がいして消極しょうきょく的、受動的どうてきである。少すこしくも男のようにやむにやまれないような強烈きょうれつな自発じはつがない(かようなことは在来ざいらいの習慣しゅうかんとして女の口から述のべることを憚はばかる所であるけれど、私は人間じんかんの真実しんじつを研究けんきゅうする必要ひつようから押切おしきりって言おう)。殊ことに純潔じゅんけつな処女しょじょにあっては性欲せいよくの肉体にくたい的自覚じかくは全く眠っている。異性いせいに誘導ゆうどうされない若わかい女が性欲せいよくに対たいする好奇こうき心は感かんじていても、徴兵ちょうへい適齢てきれい前の男が早くもその肉体にくたい的自覚じかくに悩なやむような性欲せいよくの自燃自爆じばくを見みることは全くない。病的びょうてきとしての特例とくれいはあるであろうが、一般いっぱんの女についてこの性欲せいよくの消極しょうきょく性は真実しんじつであると私は思おもう。太抵の若わかい女は男に比例ひれいするだけの性欲せいよくを知らずに母となってしまう。そうして妊娠にんしん時や産後さんごやにおいてかえって著しく性欲せいよくの減退げんたいを余儀よぎなくされる。それがためにもまた男は一婦いっぷとの触接しょくせつに不足ふそくを感かんじる理由りゆうがある。

この性欲せいよくの不平ふへい等が概がいして男を反貞操ていそう的たらしめ、女を貞操ていそう的たらしめる重要じゅうような原因げんいんとなる。男が一人ひとりの愛あいする女を守まもるには概がいして肉体上たいじょうの苦痛くつうが伴ともなう。少すこしくも理性りせいと意志いしを以て肉体にくたいを制御せいぎょして性欲せいよくを転化かするだけの克己こっき的努力どりょくを要ようする。女が一人ひとりの愛あいする男を守まもるには、精神せいしん的にも肉体にくたい的にもそれが自然じねんの経過けいかである如く極きわめて容易たやすいである。若わかい男は性欲せいよくに由って自動的どうてきに堕落だらくする。若わかい女は直接ちょくせつ自みずからの性欲せいよくに由って堕落だらくすることはない。性欲せいよくに対たいする好奇こうき心からも堕落だらくするには到らない。若わかい女が性的せいてきに堕落だらくするのは男の脅迫きょうはくもしくは誘惑ゆうわくと、女自身おのれの無力むりょく、無智むち、無財産ざいさん、依頼いらい心、遊惰性ゆうだせいと、女を今日きょうのような弱者じゃくしゃの位地いちに置おく社会しゃかい的事情じじょうとがその原はら因を成なすのである。

男女なんにょ問題もんだいを論ろんずる多数たすうの識者しきしゃが、この男女なんにょの性欲せいよくの不平ふへい等を重要じゅうような一つの資料しりょうとして商量しょうりょうしないのは迂濶うかつの甚はなはだしいものである。娼婦しょうふの問題もんだいについては特とくに重点じゅうてんをこれに置いて考かんがえるのでなければ批評ひひょうの正確せいかくを期しがたいであろう。

娼婦しょうふがまだ発生はっせいしなかった蒙昧もうまい時代じだいの男は、腕力うでじからで多数たすうの女を脅迫きょうはくして、その強烈きょうれつな性欲せいよくと性欲せいよくの好新欲とを満足まんぞくさせていた。それは現げんに動物界ぶっかいで見みるような状態じょうたいであった。一夫かずお多妻たさいも、一婦いっぷ多夫たふも、その様式ようしきこそ違え、共に女の性欲せいよく的欲求よっきゅうからでなくて、男の性欲せいよく的欲求よっきゅうから脅迫きょうはく的にしからしめた現象げんしょうであった。この時代じだいの女は性交せいこうの一事いちじにおいてのみ男の暴力ぼうりょくに身を任さねばならなかったが、経済けいざい的には確たしかに一個の人として独立どくりつしていた。女もまた自己じこの労働ろうどうに由って自己じこを生かせて行ゆく人間じんかんであった。男と対等たいとうに生産せいさん的職業しょくぎょうを持っていた。男から経済けいざい的に扶養ふようせられることがなかった。かえって男との間に生れた子供こどもを男の保護ほごを借らずに養育よういくして行ゆくだけの実力じつりょくを、女自身おのれの労作ろうさくに由って備えていた。丁度ちょうど現げんに動物どうぶつの雌が雄の扶養ふようを求もとめずに自活じかつしているのと同おんなじ状態じょうたいであった。おのずから一家かずやの戸主こしゅは女(母)であった。男は性欲せいよく遂行すいこうの後に女を見捨てて去り、もしくは女と関係かんけいを続つずけているにしても一人ひとりの女の所に留らずに多くの情婦じょうふの家を寄食きしょくして廻った。

次の時代じだいに入いると男は暴力ぼうりょくを以て女の経済けいざい的独立どくりつの位地いちをも奪っていた。もう概がいして男(父)が家長かちょうであった。女は奴隷どれいとして男の性欲せいよく遂行すいこうに奉仕ほうしするばかりでなく、奴隷どれいとして男のために耕作こうさく、紡織ぼうしょく、家事かじ、育児いくじ等に役立たねばならなかった。女の労働ろうどうから得える財貨ざいかは当然とうぜん男の所有しょゆうに帰きするのであった。

そこで良心りょうしんと肉体にくたいとを男に対して売うることを余儀よぎなくせられる二種の女が生じた。第一種いっしゅは長期ちょうきの生活せいかつの保障ほしょうを得えるために一生いっしょうを男に託たくする女、即すなわちその当時とうじの妻たり妾たる者がそれである。第二種は短期たんきの生活せいかつの保障ほしょうを得えるために一夜いちやを男に託して遊楽ゆうらくの器械きかいとなる女、即すなわち娼婦しょうふのともがらである。この第二種の女には労働ろうどうを避けて物質的しつてきの奢侈しゃしを得ようとする遊惰ゆうだ性と虚栄きょえい心に富んだ女が多く当った。

その二種の女が後世ごせになって、一は妻及および妾たるその位地いちを倫理りんり的に――仏教ぶっきょう、儒教じゅきょう、神道しんとう、武士道しどうが妾を是認ぜにんした如く――正ただしいものとして認したためられ、一は醜業しゅうぎょう婦として倫理りんり的に排斥はいせきせられるに至ったのは、男に便利べんりな妻妾さいしょうの制度せいどを男が維持いじする必要ひつようからの便宜べんぎ手段しゅだんであって、男の倫理りんり的観念かんねんが妻及および妾に対等たいとうの人権じんけんを認したためるまでに進歩しんぽしたからではなかった。男はその独占どくせん欲から妻妾さいしょうの貞操ていそうを厳しく監視かんしするにかかわらず、男自身おのれの貞操ていそうを尊重そんちょうしようとはしなかった。妻妾さいしょうの貞操ていそうは偏務的のものであった。そうして男は妻妾さいしょう以外いがいに娼婦しょうふとの触接しょくせつに由よってその性欲せいよくの好新欲を満足まんぞくさせるのであった。

妻の意義いぎは近代きんだいに至いたって大おういに変化へんかしている。しかし現代げんだいの妻たる婦人ふじんの中にも、愛情あいじょうと権利けんりとの平等びょうどうを夫婦ふうふの間に必要ひつようとしないで、なお昔の第一種いっしゅの売淫婦いんぷ型に甘んじている者が尠すくなくない。それらの婦人ふじんが自己じこの醜を忘わすれて、第二種の売淫婦いんぷばかりを良心りょうしんの麻痺まひした堕落だらく婦人ふじんであるように侮蔑なみするのは笑わらうべきことである。私はそれらの婦人ふじんが醜業しゅうぎょう婦を憎にくむのを見みるたびに、彼らは無意識いしきに商売しょうばい仇がたきを憎んでいるのであるという感を禁じ得ない。

私は娼婦しょうふの発生はっせいした主おもな原因げんいんを以上いじょうのように推定すいていする。即すなわち男子だんしの性欲せいよくの過剰かじょうと好新欲とが第一因いちいんとなり、女の経済けいざい的無力むりょくが第二因となって発生はっせいしたのである。しかし昔から現代げんだいに到いたるまでの間にはこの外いろいろの原因げんいんが加くわわっている。その重おもなものをいえば、娼婦しょうふの需要じゅよう者たる男の側に、経済けいざい的事情じじょうと、年齢ねんれいの関係かんけいと、その他の事情じじょうから来くる結婚けっこん不能ふのう者もしくは結婚けっこん未能者が多数たすうにある。ここにいう結婚けっこんとは妻を迎むかえて家庭かていを作ずくることである。即すなわち或男は妻を養やしなう財力ざいりょくのないために結婚けっこんを避けねばならない。薄給はっきゅうと薄利はくりの職業しょくぎょうに従事じゅうじしている男及および無産むさん無職ぶしょくの男は悉ことごとく結婚けっこん不能ふのう者である。また或男は年齢ねんれいが若わかいのと成年せいねんの教育きょういくを受うけていないのとで社会しゃかいの習慣しゅうかんが結婚けっこんを許さない。この意味いみで多数たすうの学生がくせいや兵士へいしの類は結婚けっこん未能者である。また経済けいざい事情じじょうからも年齢ねんれい関係かんけいその他からも結婚けっこんは可能かのうでありながら、男女なんにょ交際こうさいの自由じゆうが許されない現代げんだいにおいて媒妁ばいしゃく結婚けっこんの不安ふあんを感かんじて結婚けっこんを躊躇ちゅうちょしている男があり、媒妁ばいしゃく結婚けっこんに甘あまんじるにしてもまだその意味いみの良縁りょうえんを得ないで模索もさくしている男がある。それらの男も結婚けっこん未能者である。こういう結婚けっこん不能ふのう者と結婚けっこん未能者はあながち有妻の男におけるような性欲せいよくの過剰かじょうと好新欲とからばかりではなく、男の体質たいしつとして或程度ていど以上いじょうに抑制せいすることの困難こんなんである性欲せいよくの自発じはつから娼婦しょうふを必要ひつようとするのである。

また供給きょうきゅう者たる女の側にも、女自身おのれの経済けいざい的無力むりょくもしくは労働ろうどうを嫌きらう遊惰ゆうだ心や物質的しつてき虚栄きょえい心から以外いがいに父兄ふけい及および良人おっとの経済けいざい的不幸ふこうや利欲りよくやの犠牲ぎせいとなり、または悪辣あくらつな売淫ばいいん周旋しゅうせん業者ぎょうしゃと売淫ばいいん業者ぎょうしゃとの巧弁悪計あっけいに欺あざむかれて身を売うるというような原因げんいんも加っている。

それから娼婦しょうふには更さらに公娼こうしょうと私娼ししょうの二種がある。そうして一定いっていの場所ばしょに集って売淫いんするものを集娼といい、個々に諸処しょしょへ散在さんざいして売淫いんするものを散娼さんしょうというのであるが、公娼こうしょうにも巴里パリイのそれのように散娼さんしょうと集娼とがあり、私娼ししょうにも散娼さんしょうと集娼とがある。

これらの娼婦しょうふが倫理りんり的及および衛生えいせい的にその女自身おのれを腐敗ふはいさせるばかりでなく、倫理りんり的及および衛生えいせい的に人類じんるいを毒どくするものであることはいうまでもない。この意味いみにおいて主張しゅちょうせられる廃娼はいしょう説の正ただしいことは何人なんぴとも認したためる所である。しかし廃娼はいしょう説を実行じっこうに移そうとすると、娼婦しょうふの発生はっせいするいろいろの原因げんいんから先まず絶滅ぜつめつして掛らねばならないことに何人なにじんも気が附つく。そうしてそれらの原因げんいんが現在げんざいの文明ふみあき程度ていどにおいて一朝いっちょう一夕いっせきに絶滅ぜつめつし得られるものでないことを実証じっしょう的に知しる時は、何人なにじんも甚はなはだ遺憾いかんながら娼婦しょうふの存在そんざいを或程度ていどまで寛仮かんかせねばならないことに一致いっちするのである。

そこで廃娼はいしょう説は一転いってんして存娼説となり、存娼説は公娼こうしょうを存して置おくか、私娼ししょうを存して置おくかの二つに分わかれる。同時どうじに娼婦しょうふの発生はっせいするような根本こんぼん原因げんいんを出来できるだけ刈除かいじょするために社会しゃかい組織そしきの改善かいぜんがますます必要ひつようになる。社会しゃかい組織そしきの改善かいぜんを眼中がんちゅうに置かない存娼説は在来ざいらいの素朴そぼくな廃娼はいしょう説と共に最早もはや迂濶うかつの論議ろんぎたるを免れないように私は思おもう。

私は有妻者にして公私こうしの娼婦しょうふを買かう男の尠くないことを知っている。それらの男の性欲せいよくの過剰かじょうと好新欲とは、男自身おのれに反省はんせいして克己こっきと節制せっせいの習慣しゅうかんを作ずくると共に、その旺盛おうせいな性欲せいよく的能力のうりょくを他の労働ろうどうもしくは精神せいしん的作業さぎょうに転換てんかんするように努力どりょくすればその放恣ほうしを防ふせぎ得えるものであろうと私は想像そうぞうする。一婦いっぷを守らずに娼婦しょうふに戯たわむれることは男の理性りせいの不明ふめい、意志いしの弛緩しかんとして男みずから恥ずべきことであるのみならず、その妻の愛と貞操ていそうを凌辱りょうじょくするものであり、子孫しそんの徳性とくせいと健康けんこうとを破壊はかいするものである。男にこの事の反省はんせいを促うながすことは学者がくしゃ、教育きょういく者、社会しゃかい改良家りょうけの責任せきにんであるが、国家こっかもまた法規ほうきを設もうけて或程度ていどまでその責任せきにんを分って好かろうと思おもう。この意味いみから私は近ちかく政府せいふが学生がくせいの売淫ばいいんを取締ろうとする以上いじょうに、有妻の男の買淫をも厳しく取締とりしまりって欲ほしい。在来ざいらいは私娼ししょうの現行げんこう犯を発見はっけんした場合ばあいに政府せいふはその娼婦しょうふを罰して需要じゅよう者たる男を寛仮した。もし有妻の男の買淫者に限ってその氏名しめいを公示こうじするようにしたなら、それらの男子だんしに対たいする一種いっしゅの有効ゆうこうな制裁せいさいとなるであろう。有妻の男の買淫を制裁せいさいすることは、娼婦しょうふ発生はっせいの根本こんぼん原因げんいんの一つを刈除じょすることであり、それだけ娼婦しょうふの需要じゅよう者を減じて、娼婦しょうふの営業えいぎょうの過半かはんを衰退すいたいせしめる所以ゆえんである。内務ないむ省が官人と政党せいとうとの内務ないむ省でなくて、現代げんだい日本にぽん人中にんちゅうの進歩しんぽした文明ふみあき思想しそうを代表しようとする意気いきのある内務ないむ省であるなら、これくらいの英断えいだんを行って欲ほしいものである。

前述ぜんじゅつの方法ほうほうで有妻者の買淫を或程度ていどまで減退げんたいさせることが出来れば、あとは概がいして独身どくしん男子だんしが娼婦しょうふの需要じゅよう者となる訳である。それらの独身どくしん男子だんしの性欲せいよくが或程度ていど以上いじょうに自制じせいしがたいものであり、また人生じんせいに享楽きょうらくの自由じゆうが或程度ていどまで許さるべきものでありとすれば、主としてそれらの男子だんしが娼婦しょうふを要求ようきゅうすることはやむをえない。不徳ふとくであるが寛仮さるべき不徳ふとくである。但ただし人間じんかんが人間じんかんの肉体にくたいを買かうという事実じじつが、文明ふみあき生活せいかつの理想りそうに乖そむいた不徳ふとくであり、公衆こうしゅうの間に多大ただいの羞恥しゅうちを感ずべき行為こういであることをあくまでもそれらの独身どくしん男子だんしと娼婦しょうふとに自覚じかくさせることは、併せて衛生えいせい思想しそうを自覚じかくさせると共に緊要きんようである。このことは国民くにたみ一般いっぱんが相戒いましめねばならぬことは勿論もちろんであるが、政府せいふにもまた或程度ていどまでこれに対たいする用意よういがあって欲ほしい。

1 / 2 Next →

Where this text comes from

This work is in the public domain — its copyright has expired. The digital text was produced by volunteers at Aozora Bunko (青空文庫), Japan's free digital library, from the printed edition named below.

First published
「太陽」1916(大正5)年6月
Source edition (底本)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年8月16日初版発行

   1994(平成6年)年6月6日10刷発行

底本の親本:「我等何を求むるか」天弦堂書房

   1917(大正6)年1月初版発行

初出:「太陽」

   1916(大正5)年6月

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2002年5月14日作成

2012年9月16日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
門田裕志

Aozora library card for this work ↗ · How Nihoner sources and licenses its content

More by 与謝野晶子

Browse the whole library →