Nihoner

与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

激動の中を行く

げきどうのなかをいく

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人生じんせいは静態せいたいのものでなくて動態どうたいのものであり、それの固定こていを病的びょうてき状態じょうたいとし、それの流動りゅうどうを正統しょうとう状態じょうたいとして、常に動揺どうよう変化へんかの中にあるものであるということは説明せつめいの必要ひつようもないことですが、戦後せんごの世界せかいは戦前せんぜんにおいてさまで優勢ゆうせいでなかった思想しそうが勃興ぼっこうし初はじめたために、経済けいざい的、政治せいじ的、社会しゃかい的のいずれの方面ほうめんにおいても、これまでになかった急激きゅうげきな動揺どうよう変化へんかを生じて、それがために人間じんかんの思想しそうと実際じっさい生活せいかつとは紛糾ふんきゅうに紛糾ふんきゅうを重ねようとしています。即すなわち今日きょうの新あたらしい合言葉あいことばとなっている人道にんどう主義しゅぎとか、民主みんしゅ主義しゅぎとか、国際こくさい平和へいわ主義しゅぎとかいうものは、戦前せんぜんにおいて学者がくしゃ、詩人しじん、社会しゃかい改良かいりょう論者ろんしゃ、宗教しゅうきょう家等の空想くうそうとして、大多数たすうの人類じんるいから軽視けいしされていたものですが、今は普魯西プロシヤのカイゼル父子ちちことそれを繞めぐっていた軍閥ぐんばつ者流とが代表だいひょうとして固執こしつしていた旧式きゅうしきな浪曼ローマン主義しゅぎに根ねざす軍国ぐんこく主義しゅぎや専制せんせい主義しゅぎがこの度の戦争せんそうの末期まっきにおいて頓挫とんざしたために、英仏えいふつ米諸国しょこくの一流いちりゅうの学者がくしゃ、政治せいじ家、芸術げいじゅつ家に由って支持しじされる新あたらしい浪曼ろまん主義しゅぎに根ねざした人道にんどう主義しゅぎや民主みんしゅ主義しゅぎの思想しそうが天下てんかの権威けんいであるが如き外観がいかんを呈ていするに到りました。そうして、今や世界せかいは、この新あたらしい権威けんいである思想しそうに向って俄にわかに自己じこの生活せいかつを適応てきおうさせるために照準しょうじゅんの大転換てんかんを行おうとして焦燥あせる者と、この思想しそうに反抗はんこうして時代じだい遅おくれの専制せんせい的、階級かいきゅう的、官僚かんりょう的、資本家ほんけ的の旧思想しそうを維持いじするために、あらゆる非合理ごうりと陰険いんけんと暴力ぼうりょくとを手段しゅだんとして固執しゅうする者と、この急劇きゅうげきな世界せかいの変化へんかに対し、こういう場合ばあいに処しょすべき修養しゅうようと訓練くんれんとをそれまでから欠いていたために、どうすれば好いか、全く策の出いずる所を知らないで徒いたずらに狼狽ろうばいして右往うおう左往さおうする者と、大体だいたいにおいてこの三種みたねに分わかつべき人々に由って未曾有みぞうの混乱こんらん状態じょうたいを引起しています。

私はこれを以て人類じんるいがやむをえず一度ひとたび経験けいけんしなければならない過程かていであると思います。母が一人ひとりの子を生うむにも精神せいしんと肉体にくたいとの尠すくなからぬ苦痛くつうを払います。人類じんるいが遠とおく釈迦しゃかや基督キリストの時代じだいから憧あこがれて来た、愛、正義せいぎ、自由じゆう、平等びょうどうを精神せいしんとする最高さいこう価値かちの新生しんせいに向って、大股おおまたに一つの飛躍ひやくを取ろうとするには、八百はっぴゃく万人ばんにんの死傷者しょうしゃと三千さんぜん億円の戦費せんぴとを犠牲ぎせいとしてまだ足らず、更さらに思想しそう的、経済けいざい的、政治せいじ的、社会しゃかい的の猛烈もうれつな戦争せんそうと混乱こんらんとの中に、劇甚げきじんな苦痛くつうの試錬しれんを受うけねばならないのは理由りゆうのあることだと思います。

新あたらしい浪曼ろまん主義しゅぎの代表だいひょう者であるウィルソン大統領だいとうりょうの戦時せんじ中ちゅうから今日きょうに到いたるまでの度々の提議ていぎは、一語ひとこととして新時代じだいを指導しどうする聖経風の金言きんげんでないものはありません。古いにしえから大国おうくにの元首げんしゅにしてウィルソンのように正大せいだいと高華こうかとを極めた提議ていぎを、ウィルソンだけの徳望とくぼうと権威けんいを持もちつつ世界せかいに対して指導しどう的に為なし得た者があるでしょうか。私はウィルソンの人格じんかくの偉大いだいであることを驚嘆きょうたんしています。しかしそういう特別とくべつに飛び離れて偉大いだいな人格じんかくが今日きょうもなお世界せかいに存在そんざいする如くに見え、大多数たすうの人類じんるいがそういう偉大いだいなと見まみえる人格じんかくに由って音頭おんどを取ってもらわねばならないという事実じじつが、私の考察こうさつでは、まだ世界せかいの文化ぶんかが非常ひじょうに偏頗へんぱな状態じょうたいにある証拠しょうこであり、従って大多数たすうの人類じんるいがウィルソンの提議ていぎに現あらわれたような正大せいだいな思想しそうを、何どの凝滞ぎょうたいも曲解きょっかいも反抗はんこうもなしに、空気くうきを吸い水を飲のむように、安々と肯定こうていし、受容じゅようし、味解かいすることの出来できる程度ていどに達たっしていないものであることを思わせます。

民主みんしゅ主義しゅぎということは、大多数たすうの人類じんるいが平等びょうどうの機会きかいと、平等びょうどうの教育きょういくと、平等びょうどうの経済けいざい的保障ほしょうとに由って、すべて平等びょうどうに最高さいこうの人格じんかくを完成かんせいすることを、それの極致きょくちとしているものであると私は解しているのですが、この解釈かいしゃくにして誤っていないならば、大多数たすうの人類じんるいがまだ完全かんぜんに民主みんしゅ主義しゅぎの意義いぎさえ知らず、人格じんかくの差異さいの甚はなはだしい今日きょうにおいて一躍いちやくして容易たやすいにウィルソンの提議ていぎ通とおりの世界せかい改造かいぞうが実現じつげんされようとは考かんがえられません。ウィルソンのような思想しそうはまだ特別とくべつに優秀ゆうしゅうな人格じんかくを持っている少数しょうすう者の間の思想しそうです。その思想しそうは人類じんるいの平等化とうかを目的もくてきとする民主みんしゅ主義しゅぎであっても、その思想しそうの主張しゅちょう者が高だかい飛び離れた位地いちにいて、まだ階級かいきゅう的に指導しどう者または支配しはい者という態度たいどを以て大多数たすうの人類じんるいに臨まざるを得ない有様ありさまである限かぎり、それが果はたして勝利しょうりを得て、大多数たすうの人類じんるいの間に家常茶飯かじょうさはんとして普及ふきゅうすることを疑わないにしても、それまでには多少たしょうの期間きかんを要ようすることは免れがたく、その期間きかんには幾多いくたの逆流ぎゃくりゅうがあり、幾多いくたの故障こしょうの起おこることを予想よそうせねばなりません。現げんにウィルソンの思想しそうを講和こうわ条件じょうけんに具体ぐたいして決行けっこうしようとすれば各国かっこくの軍備ぐんびの絶対ぜったい的撤廃てっぱいを主張しゅちょうしなければならないはずであるのに、ウィルソンの代表ひょうする米国べいこくでは、反対はんたいに自国じこくの海軍かいぐんの大拡張かくちょうを声明しょうみょうして世界せかいの人にその一大いちだい矛盾むじゅんを掩おおうことの出来しゅったいないような見苦みぐるしい現象げんしょうのあるのは、民主みんしゅ主義しゅぎの本場ほんばである米国べいこくにおいてさえ、国内こくないにおける複雑ふくざつな政争せいそう関係かんけいから、ウィルソンをして敢あえてこの一大いちだい矛盾むじゅんを忍ばしめるに到ったことが想像そうぞうされます。

私はウィルソンだけが唯だ一人ひとり傑出けっしゅつした大人格じんかくであると考かんがえていません。ウィルソンぐらいの愛と識見しきけんと勇気ゆうきとを持った人格じんかくは我国の少壮しょうそう学者がくしゃたちの中にも幾人かを数かぞえることが出来できると思おもうのですが、世人せじんがウィルソンとかロイド・ジョオジとかだけを特とくに崇拝すうはいして殆ほとんど神様扱あつかいにするばかりに推尊するというのは、それだけ世人せじんがまだ他人たにんに対たいする公平こうへいな批判ひはん力を持たず、自己じこの力量りきりょうをウィルソンの力量りきりょうと比較ひかくして同等どうとうに信頼しんらいし得えるだけの修養しゅうようも自覚じかくも持っていないことの反映はんえいに過すぎないのです。民主みんしゅ主義しゅぎの徹底てっていする時代じだいには偶像ぐうぞう崇拝すうはいの思想しそうの幻滅ほろぼすべきは勿論もちろんのこと、法外ほうがいな英雄えいゆう崇拝すうはいの思想しそうもまた自我じがの退嬰萎縮たいえいいしゅくとして峻拒しゅんきょされねばならないことだと思います。

こういう風に、人類じんるいの教養きょうようと訓練くんれんとに優劣ゆうれつの差が甚だしくあって、思想しそう的には急進きゅうしん派と保守ほしゅ派と無定見ていけん派、経済けいざい的には富豪ふごうと中産ちゅうさん階級かいきゅうと第四階級かいきゅう、政治せいじ的には官僚かんりょうと、商工しょうこう業者ぎょうしゃと労働ろうどう者、こういう風に分離ぶんりして、それが互に反撥はんぱつし合ってる限かぎり、人道にんどう主義しゅぎや民主みんしゅ主義しゅぎを標準ひょうじゅんとして真実しんじつに全人ぜんじん類の生活せいかつを浄化じょうかするということは、まだまだこれを未来みらいの時日じじつに待たねばなりません。

殊ことに近代きんだい文明ふみあきの中心ちゅうしんから遠ざかっていた日本人ほんにんにおいては、これまで久しくそれらの理想りそうとは反対はんたいの思想しそうの中に養われて来た者です。現げんにそれらの反対はんたいの思想しそうが日にち本ほんのあらゆる方面ほうめんに浸潤しんじゅんして容易たやすいに抜ぬきがたい勢力せいりょくを持っているのです。日本人ほんにんは個人こじんの魂から深海しんかいの魚のように自覚じかくの眼をなくすることのみを強制きょうせいされて来ました。個性こせいの尊貴そんきとか人格じんかくの自由じゆう独立どくりつとかいう普通ふつう教育きょういくとして最もっとも大切な部分ぶぶんは、日本にぽんのどの学校がっこうにおいても教えられずに来たのです。教えられる所は、何事なにごとも要ようするに唯だ少数しょうすうの権力者りきしゃと、少数しょうすうの資本家ほんけと、一人ひとりの家長かちょうとへの奴隷どれい的奉仕ほうしに役立やくだつという以外いがいのことはないのです。教育きょういくばかりでなく、宗教しゅうきょうも道徳どうとくも専もっぱら奴隷どれい的奉仕ほうしの器械きかいたるべく他律たりつ的に日本人ほんにんを圧抑あつよくする手段しゅだんたるに過すぎません。そのうえに私たち婦人ふじんにあっては一切いっさいの男子だんしの下風かふうに立ってそれに奉仕ほうしする絶対ぜったいの屈従くつじゅうを天命てんめいとし、無上むじょう権威けんいの道徳どうとくとして課せられているのです。それがためには、特とくに婦人ふじんを愚にして魂の覚醒かくせいを禁圧あっする必要ひつようから、男子だんしと対等たいとうの教育きょういくを私たちに施ほどこすことを拒み、名は高等こうとう女学校がっこう卒業そつぎょうといいながら、男子だんしの中学ちゅうがくの二年生程度ていどにも匹敵ひってきしない低級ていきゅうな教育きょういくを、文明ふみあき国の体面たいめんを保存ほぞんする言訳いいわけだけに授さずけて置おくに過すぎないのです。男子だんしとても教育きょういくの自由じゆうを実際じっさいには許されていないのですから、高等こうとう教育きょういくを受うける男子だんしは少数しょうすうの経済けいざい上の僥倖者ぎょうこうしゃに限られ、その少数しょうすうの男子だんしも卒業そつぎょうの後は官僚かんりょうとなり、財閥ざいばつの成員せいいん乃至ないし奉仕ほうし者となる人たちが大部分ぶぶんを占めているのですから、大多数たすうの日本人ほんにんを無学むがく無産むさんの第二次的国民くにたみとして蔑視べっしする階級かいきゅう思想しそうと、日本にぽんの政治せいじ、学問がくもん、財力ざいりょくのいずれをも少数しょうすう者の福利ふくりのために独占どくせんしようとする専制せんせい思想しそうとは、次つぎ次つぎにその立派りっぱな後継こうけい者を得て繁昌はんじょうしつつあります。

こういう保守ほしゅ思想しそうがまだ優勢ゆうせいを示している日本にぽんにおいて、人道にんどう主義しゅぎや民主みんしゅ主義しゅぎの思想しそうが容いれられず、反対はんたいに危険きけん思想しそうであるが如き冤名えんめいをこれに着せようとする頑冥がんめいな反抗はんこうを見みるのはやむをえない事だと思います。独逸ドイツという外敵がいてきに勝かった各国かっこくの人道にんどう主義者ぎしゃは、これより更さらに、その各おのおのの国内こくないにおける非人道にんどう思想しそうや、専制せんせい思想しそうと戦わねばなりませんが、日本人ほんにんの国内こくないにおけるこの意味いみの戦たたかいは、最もっとも多くの苦闘くとうを覚悟かくごする必要ひつようがあると私は考かんがえます。

新あたらしい人間じんかん生活せいかつの方針ほうしんである唯だ一つの理想りそうを、自我じが実現じつげんと愛と正義せいぎとの方面ほうめんから見て人道にんどう主義しゅぎと名づけ、人類じんるい平等びょうどうの方面ほうめんから見て民主みんしゅ主義しゅぎと名づけたのであると概括がいかつして考かんがえている私は、これを一言いちごんに簡約かんやくして新理想りそう主義しゅぎと呼びましょう。そうしてこの新理想りそう主義しゅぎを拒こばむ保守ほしゅ主義者ぎしゃの言動げんどうが既すでに日本にぽんの各方面ほうめんに起っていることは、敏感びんかんな自由じゆう思想しそう家の見逃さない所であろうと思います。その一つをいえば、官僚かんりょう的教育きょういく者の集団しゅうだんである臨時りんじ教育きょういく会議かいぎが、最近さいきんに女子じょし教育きょういくを以て家族かぞく制度せいどの精神せいしんに集中しゅうちゅうせしめたいという事、及および国民くにたみの思想しそうを統一とういつしようという事を政府せいふに向って建議けんぎした事実じじつなどがそれでしょう。

かつては家族かぞく制度せいどを必要ひつようとした未開みかい時代じだいもありました。しかしながら家長かちょう一人ひとりの力で全家ぜんか族の衣食いしょくと教育きょういくとに要ようする経済けいざい的条件じょうけんを負担ふたんすることが出来しゅったいない上に、個人こじんの欲望よくぼうが大きくなり多様たようになって、家族かぞくの各があながち父祖ふそ以来いらいの家業かぎょうを守まもることを好まず、何人なんぴとも適材てきざいを抱いて適所てきしょに奔はしろうとし、また父祖ふそ以来いらいの家業かぎょうを守ろうとしても、その家業かぎょうが現代げんだいに適しないものであったり、あるいは辛かろうじて家長かちょう一人ひとりに属ぞくする家族かぞくの最小さいしょう限度げんどの経済けいざい生活せいかつを支つかえるに足って、到底とうていその他の大家族かぞくを養やしなうことが出来しゅったいなかったりする現代げんだいの家庭かていの経済けいざい状態じょうたいにおいて、どうして家族かぞく制度せいどを維持いじすることが出来しゅったいましょう。家族かぞく制度せいどの今一いまいちつの要素ようそとなるものは親子おやこ兄弟けいていという血縁けつえん関係かんけいですが、今日きょうの実際じっさい生活せいかつにおいては、第一だいいちに前に挙げた経済けいざい状態じょうたいの圧迫あっぱくがその血縁けつえん関係かんけいの結合けつごうをも解き放ち、その上、各人かくじんの事業欲ごうよくや名誉めいよ欲も手伝てつだいって、戸主こしゅ以外いがいの青年せいねん男女なんにょをその故郷こきょうの家に固着こちゃくさせて置おきません。家族かぞく制度せいどを最もっとも遅おそくまで守持じするであろうと思われる農家のうかが、かえって第一だいいちにその子こ女の大多数たすうを他郷たごうの人たらしめねばならない時代じだいとなっています。都会とかいにおける戦後せんごの失職しっしょく者に帰農きのうを勧誘かんゆうするような事は、この理由りゆうから、或程度ていど以上いじょうは実行じっこうしがたい、無理むりな註文ちゅうもんであるのです。家族かぞく制度せいどを維持いじせよと強制せいすることは、一般いっぱん国民くにたみの経済けいざい状態じょうたいを考かんがえない官僚かんりょう教育きょういく者の僻説へきせつであって、人と制度せいどとの主客しゅかく関係かんけいを顛倒てんとうし、制度せいどのために個人こじんの自我じが発展はってんを阻止そしし、個人こじんの活力かつりょくを圧殺あっさつして顧みないものだと思います。

高田保馬たかだやすま氏の新著しんちょ『社会しゃかい学的がくてき研究けんきゅう』の中には、また特殊とくしゅの見地けんちから家族かぞく制度せいどに対たいする弱点じゃくてんが暗示あんじされています。即すなわち人間じんかんが家族かぞく的乃至ないし民族みんぞく的というような関係かんけいに由って小さく結合がっする事は、それが内に向って鞏固きょうこであるほど、それだけ排他はいた的精神せいしんが強く働はたらき、従って社会しゃかい的人類じんるい的の大おおきな結合けつごうが困難こんなんになるという議論ぎろんです。私はこの議論ぎろんに敬服けいふくします。家族かぞく制度せいどの精神せいしんは一種いっしゅの小ちいさな党派とうは根性こんじょうです。他と自分じぶんとを水と油の関係かんけいに置いて分離ぶんりし、新理想りそう主義しゅぎの極致きょくちたる、世界せかい人類じんるいを以て連帯れんたい責任せきにんの共存きょうそん生活せいかつ体と見みる精神せいしんと相容あいいれないものです。家族かぞく制度せいどの排他はいた思想しそうを最もっとも露骨ろこつに示しめすものは、貴族きぞくや富豪ふごうの家屋かおくが塀を高くし門を堅くして、他に向って小ちいさな城塞じょうさいにひとしい威圧いあつを示さなければ満足まんぞくしないのでも見みることが出来しゅったいます。彼らはその家屋かおくと庭園ていえんとを公開こうかいして民衆みんしゅうと共に楽もうとするような新理想りそう主義しゅぎ的な雅懐を持っていないのです。また家族かぞく制度せいどの下に家系かけいに繋つながる特殊とくしゅの栄誉えいよを世襲せしゅうする彼らは、祖先そせんの美名びめいと現在げんざいの爵位しゃくいとを誇示こじして、他の一般いっぱん民衆みんしゅうと分離ぶんりし、幾段か高だかい名門めいもん貴種きしゅの人であることを是認ぜにんせしめようとします。みすぼらしい家屋かおくに住んで、平凡へいぼん無能むのうな祖先そせんしか持たず、その上に何どちらの社会しゃかい的地位ちいもない私たち大多数たすうの無産むさん者に取って、最もっとも頑固がんこな家族かぞく制度せいどの中に旧式きゅうしきな生活せいかつを維持いじしている大華族かぞくや大富豪ふごうほど四民しみん平等びょうどう的の親したしみを持もちがたい者はありません。今は成金なりきんと称しょうする新富しんとみ豪さえも彼らに擬して、その邸宅ていたくと日常にちじょう生活せいかつを民衆みんしゅうと区別くべつし、その称呼しょうこをも御前ごぜん様お姫様を以て自みずから僭せんしつつあります。家族かぞく制度せいどの結合けつごうが固かたまるほど社会しゃかいと極端きょくたんに分離ぶんりする性質せいしつのものであることは高田たかた氏のお説の通とおりだと思います。

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Source edition (底本)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年8月16日初版発行

   1994(平成6)年6月6日10刷発行

底本の親本:「激動の中を行く」アルス

   1919(大正8)年8月初版発行

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2001年12月22日公開

2012年9月15日修正

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Nana ohbe
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門田裕志

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