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与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

階級闘争の彼方へ

かいきゅうとうそうのかなたへ

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人類じんるいが連帯れんたい責任せきにんの中に協力きょうりょくして文化ぶんか主義しゅぎの生活せいかつを建設けんせつし、その生活せいかつの福祉ふくしに均霑きんてんすることが、人生じんせいの最高さいこう唯一ただいちの理想りそうであると私は信じています。文化ぶんか生活せいかつが或程度ていどの成熟期じゅくきに入れば、そこには個人こじんの能力のうりょくに適てきする正当せいとうな社会しゃかい的分業ぶんぎょうの生活せいかつがあるばかりで、只今ただいまのように、同おんなじ人類じんるいの内に甲と乙とで利害りがいを異にし、甲の幸福こうふくのためには乙の幸福こうふくを犠牲ぎせいとせねばならず、従って甲と乙とはその境遇きょうぐうに由って人格じんかく価値かちに優劣ゆうれつを分わかち、生活せいかつの機会きかいと享楽きょうらくとに差等さとうを生しょうじる、いわゆる階級かいきゅう思想しそうの如きものは、全く一掃いっそうされてしまうでしょう。

正当せいとうな社会しゃかい的分業ぶんぎょうということは、一切いっさいの人類じんるいが心的しんてき及および体的の実力じつりょくを以て、文化ぶんか生活せいかつの維持いじと増進ぞうしんとに必要ひつような労作ろうさくを分担ぶんたんすることです。この労作ろうさくには精神せいしん的のものもあり、物質的しつてきのものもありますが、前者ぜんしゃが高等こうとうな労作ろうさくであり、後者こうしゃが劣等れっとうな労作ろうさくであるという差別さべつはありません。私は文化ぶんか生活せいかつに役立やくだつ上において等しく相対そうたい的の価値かちを持っているものであると考かんがえます。自己じこの能力のうりょくに応じ、自みずから認したためて受持うけもつ所の分業ぶんぎょうですから、何人なんぴともその分業ぶんぎょうに特権とっけんを要求ようきゅうする者もなく、また役不足ふそくをいう者もありません。これまでは経済けいざい的労作ろうさくを以て精神せいしん的労作ろうさくよりも劣ったもの、もしくは第二次的のものとし、あるいは前者ぜんしゃは後者こうしゃの生活せいかつの手段しゅだんであるという風に卑下ひげして考かんがえていました。私はこの労作ろうさくのいずれかの一方いっぽうを欠いた文化ぶんか生活せいかつというものが成立せいりつしようとは思おもいません。文化ぶんか生活せいかつの内容ないようは当然とうぜんこの二つの労作ろうさくを要素ようそとしているものです。二ふたつながら手段しゅだんでなくて目的もくてきです。

文化ぶんか主義しゅぎの生活せいかつを実現じつげんする社会しゃかいには、一人ひとりとしてこの労作ろうさくの義務ぎむを負担ふたんしないものはありません。この義務ぎむを生存せいぞんの権利けんりとして要求ようきゅうします。何人なにじんからも強こわいられず、何人なにじんにも強いず、各自かくじが自発じはつ的に権利けんりとして要求ようきゅうする所の社会しゃかい的奉仕ほうしです。かくする事に由って、人は互に自己じこの個人的じんてき存在そんざいの理由りゆうを充実じゅうじつし、生いき甲斐がいのある人生じんせいを享楽きょうらくするのです。

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人類じんるいの感情かんじょうは次第しだいにこの文化ぶんか主義しゅぎの実現じつげんに向って傾動けいどうしています。しかしこれに逆行ぎゃっこうする反対はんたいの利己りこ的感情かんじょうがまだ多分たぶんに残っていますから、最近さいきんの大戦たいせんのような文化ぶんか生活せいかつの破壊はかいを試こころみる一大いちだい蛮行ばんこうが突如とつじょとして発生はっせいもしましたが、人は到底とうてい野獣やじゅうの生活せいかつに還元かんげんされるものでなく、かえってこの大戦たいせんから受けた刺戟しげきに由って、世界せかいは一つの大おおきな自覚じかくを加え、――それはあたかも大火たいかに遭あった都会とかいが、その莫大ばくだいな災厄さいやくに由って建築けんちくの上にかねて計画けいかくしていた新あたらしい理想りそうを実現じつげんする機会きかいを見出みだし、都会とかいの面目めんぼくを一新いっしんするように――文化ぶんか生活せいかつの方へ在来ざいらいの生活せいかつを急に躍進やくしんさせるのに必要ひつような一つの転機てんきを作ったと思います。

その中にも最もっとも偉大いだいな自覚じかくであると思おもうのは、民衆みんしゅうが自己じこの個性こせいの威厳いげんと力量りきりょうとに、一層いっそう顕著けんちょに目覚めざめて来たことです。例たとえば労働ろうどう者がその集団しゅうだんを以てすれば、資本家ほんけ階級かいきゅうに対抗たいこうして優ゆうに対等たいとうの争闘そうとう的実力じつりょくを成立せいりつし、久しく従属じゅうぞく的奴隷どれい的の階級かいきゅうとして資本家ほんけの圧迫あっぱくの下に小ちいさくなっていた屈辱くつじょく的地位ちいから解放かいほうされる見込みこみがあるという確信かくしんを持もつに到ったことなどは、実げに驚おどろくべき民衆みんしゅうの自覚じかくを証明しょうめいする現象げんしょうの一つだと思います。

この現象げんしょうは、巴里パリイの平和へいわ会議かいぎにおいて、我国の講和こうわ委員いいんたちが「資本家ほんけと労働ろうどう者との関係かんけいが世界せかいとはちがった別種べっしゅの道徳どうとくの中に調和ちょうわされている」と述べた所の我国にも発生はっせいして来ました。最近さいきんにおいて東京とうきょうに起った活版かっぱん職工しょっこうその他の幾多いくたの同盟どうめい罷工ひこうは、この現象げんしょうの外に何を語かたるでしょうか。

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武力ぶりょくに訴うったえる人類じんるい間の闘争とうそうは独墺どくおうの屈服くっぷくに由って一段落だんらくがついたようですが、望のぞむ所の平和へいわはまだ容易たやすいにその曙光しょこうを示しません。今や武力ぶりょくの闘争とうそうに代かわる貧富ひんぷの階級かいきゅう闘争とうそうが戦前せんぜんよりも幾多いくたの勢力せいりょくを以て我国にも押寄せて来ました。

これまでの労働ろうどう者が企くわだてた階級かいきゅう闘争とうそうは本能ほんのう的、盲目的もくてきのものでした。反射的しゃてき、ヒステリイ的のものでした。彼らは敵についても、味方みかたについても、その実力じつりょくを知らず、その要求ようきゅうが一時いちじ的の不平ふへいに発し、その行動こうどうが個人的じんてきに偏して、多数たすうの利害りがいを念とする協同きょうどう作用さようが欠けていましたから、資本家ほんけの慈善じぜん主義しゅぎに感激かんげきしたり、警察官さつかんや軍隊ぐんたいの威圧いあつに挫折ざせつしたりして、たわいもない結果けっかに終おわる場合ばあいが多かったようですが、最近さいきんの同盟どうめい罷工ひこうには、労働ろうどう者に知識ちしきがあり、自制じせいがあって、その要求ようきゅうが或程度ていどの合理ごうり的基礎きそを備え、その行動こうどうが自制じせいと組織そしきとを持もつようになりました。これは労働ろうどう者の非常ひじょうな進歩しんぽです。こういう聡明そうめいなかつ道徳どうとく的な労働ろうどう運動うんどうに対しては、第一だいいちに一般いっぱん社会しゃかいがこれに同情どうじょうして、隠然いんぜんと多大ただいの後援こうえんを寄よせることになります。また資本家ほんけも官憲かんけんも姑息こそくな圧制あっせい手段しゅだんや温情おんじょう的方法ほうほうを以て一時いちじを糊塗ことすることが出来しゅったいなくなりました。殊ことに唯今ただいまの政府せいふは農民党みんとうたる政友せいゆう会の政府せいふであり、労働ろうどう者の当の敵たる資本家ほんけは固もとより都市としの商工しょうこう業者ぎょうしゃですから、同おんなじ資本家ほんけの手先てさきになっている政府せいふとはいえ、憲政けんせい会の政府せいふよりは資本家ほんけに私わたくしする所が露骨ろこつでないという事情じじょうもあり、また近来きんらいの官憲かんけんの中の少壮しょうそう分子ぶんしは不徹底てっていながらも民主みんしゅ思想しそうを理解りかいし、世界せかいの労働ろうどう問題もんだいに一隻眼せきがんを開いている所から、資本家ほんけの極端きょくたんな利己りこ心に憤慨ふんがいし、労働ろうどう者の境遇きょうぐうに同情どうじょうするという立派りっぱな理由りゆうもあって、最近さいきんの同盟どうめい罷工ひこうが概おおむね官憲かんけんに由って善意ぜんいに保護ほごされているのを見みると、これしきの事にも我国においては空前くうぜんの善政ぜんせいだという感謝かんしゃの心が湧わかずにおられません。

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私は貧富ひんぷの階級かいきゅう闘争とうそうを以て到底とうてい一度ひとたびは避けがたいものだと思っています。それは無産むさん階級かいきゅうにある私たちが、一面いちめんには労働ろうどう者として余あまりに不当ふとうに少すこしく支払しはらえるわれ、一面いちめんには消費しょうひ者として余あまりに不当ふとうに多く支払わされているという日日ひにちの経済けいざい事情じじょうがこれを促進そくしんせずに置おきません。この事は一に少数しょうすうの資本家ほんけと称しょうする特権とっけん階級かいきゅうが、その利己りこ的欲望よくぼうの発露はつろである資本しほん主義しゅぎ的制度せいど、営利えいり的企業きぎょう制度せいどに由って私たち無産むさん階級かいきゅうの生活せいかつを出来できるだけ脅かしている所から発生はっせいする不祥ふしょうな事象じしょうです。

既すでに階級かいきゅう闘争とうそうが避けがたいものであるとすれば、出来できるだけ穏和おんわな方法ほうほうでこれを早く通過つうかしてしまうことが聡明そうめいな仕方しかただと思います。これを圧服しようと考かんがえるのは、腸窒扶斯チフスを解熱げねつ剤で退治たいじしようとするのと同おんなじ庸劣な処置しょちです。

しかし私は、今日行おこなわれる工場こうば労働ろうどう者の同盟どうめい罷工ひこうの如きものが階級かいきゅう闘争とうそうの本意ほんいであるとは考かんがえません。賃銀ちんぎんの三割や五割の増給ぞうきゅうを主とする要求ようきゅうは、たとい十割二十にじゅう割の増給ぞうきゅうの要求ようきゅうであるにもせよ、それは労働ろうどう者が資本しほん主義しゅぎの制度せいどを承認しょうにんして、その制度せいどの中に瞞着まんちゃくされながら、現代げんだいにおける生活せいかつの必需ひつじゅ品を最小さいしょう限度げんどに充用じゅうようし得える程度ていどの賃銀ちんぎんの支払しはらえるを要求ようきゅうしているに過すぎないのです。資本しほん制度せいどに隷属れいぞくしている第二次的人間じんかんの要求ようきゅうとしては正当せいとう至極しごくの要求ようきゅうであるのです。それですから少すこし功利こうり的打算ださんに長じた資本家ほんけは比較ひかく的容易たやすいにその要求ようきゅうを寛容かんようします。

階級かいきゅう闘争とうそうがこういう賃銀ちんぎんの増給ぞうきゅうのような要求ようきゅうを前衛ぜんえいとして起って来くる間は、資本家ほんけはまだ太平たいへいの夢を見ていることが出来しゅったいます。労働ろうどう者が資本家ほんけの存在そんざいを認したためて、賃銀ちんぎんさえ要求ようきゅう通とおりに支払しはらえるわるれば、その下風かふうに立って各自かくじの労働ろうどう力を商品しょうひんの如くに売買ばいばいすることを辞しないという奴隷どれい的精神せいしんが明確めいかくに維持いじされているからです。

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私の考察こうさつでは、階級かいきゅう闘争とうそうという意義いぎは、労働ろうどう者が全く資本家ほんけの支配しはいから解放かいほうされて、平等びょうどうなる人格じんかく者として対抗たいこうし、これまで資本家ほんけが利潤りじゅんとして独占どくせんしていた剰余じょうよ価値かちを――むしろ労働ろうどう者から掠奪りゃくだつしていた剰余じょうよ価値かちを――労働ろうどう者にも公平こうへいに分配ぶんぱいされることを要求ようきゅうする行動こうどうに対して、資本家ほんけがこれを拒否きょひすることでなくてはなりません。即すなわち労働ろうどう者の要求ようきゅうする所が、既定きていの賃銀ちんぎんの幾割の値上ねあげという類のものではなくて、労働ろうどう者自身おのれの刻苦こっくの成果せいかである生産せいさん価値かちの余剰よじょう、即すなわち営利えいり事業じぎょうの利潤りじゅんの幾割を労働ろうどう者にも分配せよ、もしくはその利潤りじゅんの全部ぜんぶを労働ろうどう者に返還せよという類の要求ようきゅうにまで進まなければ、資本家ほんけを向むかうへ廻まわしての争闘そうとうとはいわれないと思います。

今日きょうの資本家ほんけが利潤りじゅんにおいて五割七割わりという配当はいとうを行っているのに、労働ろうどう者が利潤りじゅんの方面ほうめんには手を着けず、全く無関心かんしんに放任ほうにんして置いて、その賃銀ちんぎんばかりの値上を迫っているのは、資本家ほんけと対等たいとうな人格じんかく的独立者たてものとしての権利けんり的要求ようきゅうでなくて、徹頭てっとう徹尾てつび資本家ほんけの隷属れいぞくとして社会しゃかい的低位ていいにある人間じんかんの哀訴あいそ的要求ようきゅうであると思います。

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私はこの物価ぶっかの暴騰ぼうとう時代じだいに、労働ろうどう者が目前もくぜんの窮乏きゅうぼうを補足ほそくする必要ひつようから、賃銀ちんぎんの値上を要求ようきゅうすることは正当せいとう過すぎる要求ようきゅうとして勿論もちろん同感どうかんしますが、しかしこれが前述ぜんじゅつのように階級かいきゅう闘争とうそうの意義いぎに遠とおいものである所から、この事が少すこしも無産むさん階級かいきゅう全体ぜんたいの幸福こうふくとはならない事を遺憾いかんに思います。賃銀ちんぎんの値上は、その要求ようきゅうに成功せいこうしたる少数しょうすうの工場こうば労働ろうどう者だけに目前もくぜんの窮乏きゅうぼうを救すくうだけのものです。のみならず、値上ねあげしたる賃銀ちんぎんは資本家ほんけの利潤りじゅんから支払しはらえるわれるものでなくて、資本家ほんけはきっとそれだけの増収ぞうしゅうを製品せいひんの価格かかくを値上ねあげすることに由って計ろうとします。例たとえば活版かっぱん職工しょっこうの賃銀ちんぎんの増加ぞうかはてきめん印刷物すりものの定価ていかの引上ひきあげを見ずに置おきません。そうすれば、資本家ほんけと、及およびその資本家ほんけと賃銀ちんぎんにおいて妥協だきょうした少数しょうすうの労働ろうどう者とが協力きょうりょくして、製品せいひんの価格かかくを不法ふほうに吊上つりあげ、大多数たすうの消費しょうひ者たる無産むさん階級かいきゅうを層一層いっそう物価ぶっかの暴騰ぼうとうに由って苦くるしめる結果けっかを生じます。

例たとえば私たちのような文筆ぶんぴつの職業しょくぎょうに就いている者は単独たんどく的労働ろうどう者であって、工場こうばや会社かいしゃの労働ろうどう者のように集団しゅうだん的行動こうどうを為なしがたい者です。労働ろうどう者は工場こうば労働ろうどう者ばかりと限らず、私たちと同じような単独たんどく無勢力せいりょくの労働ろうどう者の方が社会しゃかいには多おおいのです。こういう労働ろうどう者は大挙たいきょ結束けっそくして資本家ほんけに迫せまるだけの威力いりょくを持たないのですから、工場こうば労働ろうどう者が賃銀ちんぎん値上の運動うんどうに成功せいこうする日にも、依然いぜんとして不当ふとうに少すこしく支払しはらえるわれて、それに我慢がまんしていねばならない上に、更さらに間接かんせつに工場こうば労働ろうどう者の賃銀ちんぎん値上が影響えいきょうして生活せいかつの必需ひつじゅ品に対し、一層いっそう不当ふとうに多く支払わねばならないという二重三重みえの苦境くきょうに立たせられます。同おんなじ労働ろうどう階級かいきゅうでありながら、その中に、更さらに特権とっけん階級かいきゅうと無特権とっけん階級かいきゅうとが併存へいぞんするという事は、決けっして正義せいぎに合したことだといわれません。今日きょう同盟どうめい罷工ひこうに成功せいこうしつつある工場こうば労働ろうどう者の中の聡明そうめいな人たちがもしこの事に想おもい到いたるならば、その自家じかの行為こういが同おんなじ階級かいきゅうの中の大多数たすう者の生活せいかつを一層いっそう困難こんなんに導みちびく結果けっかを見て、意外いがいの感に打たれるのみならず、その行為こういが資本家ほんけの行為こういと纔わずかに五十ごじゅう歩百歩の差を以て利己りこ的行為こういたるを免れないことに赤面せねばならないでしょう。

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しかし階級かいきゅう闘争とうそうが賃銀ちんぎんの値上を越こえて、その本体ほんたいたる利潤りじゅんの争奪そうだつ戦にまで向上こうじょうする日が遠からず到来とうらいするにせよ、そうしてあるいはそれが露西亜ろしあの過激かげき派のように、労働ろうどう階級かいきゅうの勝利しょうりに帰きする日があるにせよ、私はそれを決けっして望のぞましい事だとは考かんがえないのです。それは反動はんどうの社会しゃかいです。極端きょくたんなる資本家ほんけ階級かいきゅうの横暴おうぼうに代かえるに、極端きょくたんなる労働ろうどう階級かいきゅうの横暴おうぼうを以てする社会しゃかいです。私の理想りそうはそういう衡平こうへいを失した顛倒てんとう生活せいかつの外にあります。私がどうせ一度ひとたび来くる階級かいきゅう闘争とうそうなら、それをなるべく早く穏和おんわな方法ほうほうで通過させたいと望のぞむのはこれがためです。

*

私は階級かいきゅう闘争とうそうを出来できるだけ早く緩和かんわする方法ほうほうとして、資本しほん階級かいきゅうの絶滅ぜつめつを計はかると共に、労働ろうどう階級かいきゅうの絶滅ぜつめつをも併せて計はかる外はないと思います。両階級かいきゅうが対立たいりつして存在そんざいする限かぎり、いずれかの一方いっぽうが代って支配しはい者の地位ちいに就つくことを要求ようきゅうし、特権とっけんを占有ゆうする者と第二次的人格じんかく者として隷属ぞくする者との嫉視しっし争闘そうとうの断える機会きかいは永久えいきゅうに来ないでしょう。

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First published
「雄弁」1919(大正8)年9月
Source edition (底本)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年8月16日初版発行

   1994(平成6年)年6月6日10刷発行

底本の親本:「女人創造」白水社

   1920(大正9)年5月初版発行

初出:「雄弁」

   1919(大正8)年9月

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2002年5月14日作成

2012年9月14日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
門田裕志

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