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与謝野晶子 Akiko Yosano 1878.12.07〜1942.05.29

「女らしさ」とは何か

「おんならしさ」とはなにか

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日本人ほんにんは早く仏教ぶっきょうに由って「無常むじょう迅速じんそくの世よの中なか」と教えられ、儒教じゅきょうに由って「日に新あらたにしてまた日に新あらたなり」ということを学まなびながら、それを小乗しょうじょう的悲観ひかんの意味いみにばかり解釈かいしゃくして来たために、「万法流転るてん」が人生じんせいの「常住じょうじゅうの相」であるという大乗だいじょう的楽観らっかんに立つことが出来しゅったいず、現代げんだいに入って、舶載はくさいの学問がくもん芸術げいじゅつのお蔭かげで「流動りゅうどう進化しんか」の思想しそうと触ふれるに到っても、動ややもすれば、新あたらしい現代げんだいの生活せいかつを呪詛じゅそして、黴かびの生えた因習いんしゅう思想しそうを維持いじしようとする人たちを見受みうけます。たとえていうなら、その人たちは後うしろばかりを見ている人たちで、現実げんじつを正視せいしすることに怠惰たいだであると共に、未来みらいを透察とうさつすることにも臆病おくびょうであるのです。そういう人たちは保守ほしゅ主義者ぎしゃの中にもあれば、似非えせ進歩しんぽ主義者ぎしゃの中にもあるかと思います。

私のおりおり顰蹙ひんしゅくすることは、その人たちがしばしば「女子じょしの中性ちゅうせい化」というような言葉ことばを用いて現代げんだいの重要じゅうよう問題もんだいの一つである女子じょし解放かいほう運動うんどうを善くないことのように論ろんじることです。それはその人たちが女子じょしの人間じんかん的進化しんかを嫌きらう偏見へんけんを先入せんにゅう的に持っていると共に、人生じんせいを一つの法則ほうそく、一つの様式ようしきの中に固定こていすべきものと考かんがえる静態せいたい的な因習いんしゅう思想しそうを維持いじするために、わざわざ、人の厭いやがる言葉ことばを掲げて、一方いっぽうには女子じょしを威嚇いかくしてその新あたらしい擡頭たいとうを抑えようとし、一方いっぽうには社会しゃかいの聡明そうめいな判断はんだんを掻かき乱して、女子じょし解放かいほう運動うんどうに同情どうじょうを失わしめようとする卑劣ひれつ千万せんまんな論法ろんぽうであるように、私には感かんじられます。私はそれについて、少すこしばかり抗議こうぎを書こうと思います。

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その人たちの言ゆう所をかいつまんで述べますと、女子じょしが男子だんしと同おんなじ程度ていどの高だかい教育きょういくを受うけたり、男子だんしと同おんなじ範囲はんいの広ひろい職業しょくぎょうに就いたりすると、女子じょし特有とくゆうの美くしい性情せいじょうである「女らしさ」というものを失って、女とも附かず、男とも附かない中間ちゅうかん性の変態へんたい的な人間じんかんが出来上できあがるから宜しくないというのです。

私は第一だいいちに問といたい。その人たちのいわれるような結論けつろんは何を前提ぜんていにして生しょうじるのですか。一般いっぱんの女子じょしに中学ちゅうがく程度ていどの学校がっこう教育きょういくをすら授さずけないでいる日本にぽんにおいて、また市町村会しちょうそんかい議員ぎいんとなる資格しかくさえ女子じょしに許ゆるしていない日本にぽんにおいて、どうして、男子だんしと同等どうとうの教育きょういくとか職業しょくぎょうとかいうことが軽々しく口にされるのですか。女子じょしに対してまだ何事なにごとも男子だんしと同等どうとうの自由じゆうを与えないで置いて、早くもその結果けっかを否定ひていするのは臆断おくだんも甚だしいではありませんか。

それよりも、論者ろんしゃに対して、もっと肉迫にくはくして私の問といたいことは、女子じょしが果はたして論者ろんしゃのいうような最上さいじょうの価値かちを持った「女らしさ」というものを特有とくゆうしているでしょうか。私にはそれが疑問ぎもんです。

論者ろんしゃは、「女らしさ」というものを、女子じょしの性情せいじょうの第一位いちいに置おき、その下にすべての性情せいじょうを隷属れいぞくさせようとしています。女子じょしに、どのような優れた多くの他の性情せいじょうがあっても、唯だ一つの「女らしさ」を欠けば、それがために人間じんかん的価値かちは零ゼロとなり、女子じょしは独立どくりつした人格じんかく者でなくなるというのが論者ろんしゃの意見いけんらしいのです。私は疑うたがいます、「女らしさ」というものが果はたしてそんなに最高さいこう最善さいぜんの標準ひょうじゅんとして女子じょしの人格じんかくを支配しはいするものでしょうか。

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そもそも、その「女らしさ」という物の正体せいたいは何でしょう。我国では女子じょしが外輪がいりんに歩あるくと「女らしくない」といって批難ひなんされます。また女子じょしが活溌かっぱつな遊戯ゆうぎでもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪うちわに歩あるくということ、人形にんぎょうのように温順おとなしくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件じょうけんであることは確たしかです。しかし日本にぽんではそうでしょうけれども、欧米おうべいの女子じょしは悉ことごとく外輪がいりんで歩いています。また我国でも多くの女学生がくせいが唯今ただいまは靴を穿はいて外輪がいりんに歩きます。また欧米おうべいでは、戦後せんごに一層いっそう女子じょしの体育たいいくが盛んになり、女学生がくせいの帽や服装ふくそうに男子だんしと同おんなじものを用いてまで、活溌かっぱつな運動うんどうに適てきするように努力どりょくしています。そうして、それがために「女らしさ」を失ったという批難ひなんが欧米おうべいにおいて起らないのを見みると、論者ろんしゃの有難ありがたいがる「女らしさ」というものは、全人ぜんじん類に通用つうようしない、日本人ほんにんだけのものであるように思われますがどうでしょうか。

論者ろんしゃは、「男子だんしのすることを女子じょしがすると、女らしさを失うしなう」というのですが、人間じんかんの活動かつどうに、男子だんしのする事、女子じょしのする事という風に、先天せんてん的に決定けっていして賦課ふかされているものがあるでしょうか。私は女子じょしが「妊娠にんしんする」という一事いちじを除けば、男女なんにょの性別せいべつに由って宿命しゅくめい的に課せられている分業ぶんぎょうというものを見出みだしすことが出来しゅったいません。

紫式部むらさきしきぶの日記にっきを読よむと、この稀有けうの女流じょりゅう文豪ぶんごうが儕輩せいはいの批難ひなんを怖れて、平生へいぜいは「一」という文字もんじすらどうして書かくか知らないような風を装よそい、中宮ちゅうぐうのために楽府がふを講こうじるにも人目ひとめを避けてそっと秘密ひみつに講じています。女子じょしの学問がくもん著述ちょじゅつが男子だんしの領分りょうぶんを侵している事のように、その同性どうせいの間においてさえ誤解ごかいされていて、紫式部むらさきしきぶがそれを憚はばかったのは、生意気いきだとして憎まれるからであったのですが、しかしこれがために紫式部むらさきしきぶを「女らしさ」を欠いた人間じんかんであるとは昔も今も言わないようです。

政治せいじや軍事ぐんじは昔から男子だんしの専任せんにんのように思っていますけれども、我国の歴史れきしを見ただけでも、女帝じょていがあり、女子じょしの政治せいじ家があり、女兵じょへいがあり、幕末ばくまつの勤王きんのう婦人ふじん等があって、それが「女子じょしの中性ちゅうせい化」の実例じつれいとして批難ひなんされていないのみならず、神功じんぐう皇后こうこうは神として奉祀ほうしされ、その他の女子じょしも倫理りんり的の価値かちを以て、それぞれ国民くにたみの尊敬そんけいを受うけています。また現在げんざいの世界せかいには、女子じょしの代議だいぎ士、知事ちじ、市長しちょう、学者がくしゃ、芸術げいじゅつ家、社会しゃかい改良家りょうけ、教師きょうし、評論ひょうろん家、新聞しんぶん雑誌ざっし記者きしゃ、飛行家ゆきいえ、運転うんてん手、車掌しゃしょう、官公吏かんこうり、事務じむ員等があって、従来じゅうらいは男子だんしの領域りょういきであるとされていた活動かつどうに多数たすうの女子じょしが従事じゅうじしています。殊ことに最近さいきんの世界せかい大戦たいせんには、英国えいこくの軍需ぐんじゅ省附属ふぞくの工場こうばだけでも二百にひゃく万の女子じょしが家庭かていを離はなれて、戦時せんじのあらゆる勤務きんむに服し、戦場せんじょうで用いられた弾丸だんがんの九分までを女子じょしの手で製造せいぞうするような空前くうぜんの活動かつどうを示して、平和へいわ克復こくふくの日に軍需ぐんじゅ大臣おとどが議会ぎかいにおいて女子じょしに対たいする感謝かんしゃ演説えんぜつを試こころみた中に、「英国えいこくが勝利しょうりを得た原因げんいんの半は女子じょしにあることを拒こばむことが出来しゅったいない」と述べたほどでした。

して見みると、男子だんしのする事を女子じょしもするからといって、「女らしさ」を失うしなうという批難ひなんは当らないことになります。もし男女なんにょの性別せいべつに由って歴史的してきに定まった分業ぶんぎょうの領域りょういきが永久えいきゅうに封鎖ふうさされているものなら、男子だんしが裁縫さいほう師となり、料理りょうり人ひととなり、洗濯せんたく業者ぎょうしゃとなり、紡績ぼうせき工となることは、女子じょしの領域りょういきを侵おかすものとして、「男子だんしの中性ちゅうせい化」が論じられなければならないはずです。「女のする日記にっきというもの」を書いた紀貫之きのつらゆきも、同おんなじ理由りゆうから、その「男らしさ」を失った人間じんかんとして批難ひなんされねばなりませんが、歌人かじんとして、また国語こくごを以て文章ぶんしょうを書いた先覚者かくしゃとして尊敬そんけいされているのはどうした訳でしょうか。

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論者ろんしゃはまた、「女らしさ」とは愛と、優雅ゆうがと、つつましやかさとを備えていることをいうのである。その反対はんたいに「女らしくない」ということは、無情むじょう、冷酷れいこく、生意気いき、半可通はんかつう、不作ふさく法、粗野そや、軽佻けいちょう等を意味いみするのであるといわれるでしょう。しかし愛と、優雅ゆうがと、つつましやかさとは男子だんしにも必要ひつような性情せいじょうであると私は思います。それは特とくに女子じょしにのみ期待きたいすべきものでなくて、人間じんかん全体ぜんたいに共通きょうつうして欠かくことの出来しゅったいない人間じんかん性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間じんかんらしさ」というべきものであると思います。人間じんかん性は男女なんにょの性別せいべつに由って差異さいを生しょうずる性質せいしつのものでないのですから、もしこれを失うしなう者があれば「人間じんかんらしくない」として、男女なんにょにかかわらず批難ひなんして宜よろしい。しかるに従来じゅうらいは男子だんしに対してそれが寛仮かんかされ、女子じょしに対してのみ「女らしくない」という言葉ことばを以て峻厳しゅんげんに批難ひなんされて来たのは偏頗へんぱ極きわまることだと思います。

我国の男子だんしの中には、まだこの点を反省はんせいしない人たちがあって、いわゆる豪傑ごうけつ風を気取った前代ぜんだいの男子だんしの悪習あくしゅうを保存ほぞんし、自分じぶん自身おのれは粗野そやな言動げんどうを慎まないのみならず、その醜さをかえって得意とくいとしながら、唯だ女子じょしにばかり、愛と、優雅ゆうがと、つつましやかさとを要求ようきゅうします。しかし無情むじょう、冷酷れいこく、生意気いき、半可通はんかつう、不作ふさく法、粗野そや、軽佻けいちょう等の欠点けってんは、男子だんしにおいても許ゆるしがたい欠点けってんであることを思わねばなりません。これを女にばかり責せめるのは、性的せいてき玩弄物がんろうぶつとして、炊事すいじ器械きかいとして、都合つごうの好いように、女子じょしを柔順じゅうじゅん無気むき力な位地いちに退化たいかせしめて置おく男子だんしの我儘わがままからであるといわれても仕方しかたがないでしょう。

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以上いじょうのように考察こうさつしてくると、論者ろんしゃのいうように、女子じょしに特有とくゆうして、それが人間じんかん的価値かちの最高さいこう標準ひょうじゅんとなるべき「女らしさ」というものは終ついに存在そんざいしないことになります。論者ろんしゃが「女らしさ」といっているものは、或物は、一地方じかた的のものであり、時に由って変化かするものであって、決けっして私たちの生活せいかつを支配しはいするような権威けんいを持っているものでなく、また或物は、女子じょし特有とくゆうのものでなくて、人間じんかん全体ぜんたいに一貫いっかんして備っている人間じんかん性そのものであることが明白めいはくになりました。

人間じんかん性の内容ないようは愛と、優雅ゆうがと、つつましやかさとに限らず、創造そうぞう力と、鑑賞かんしょう力と、なおその他の重要じゅうような文化ぶんか能力のうりょくをも含んでいます。そうしてこの人間じんかん性は何人なんぴとにも備っているのですが、これを出来できるだけ円満えんまんに引出ひきだすものは教育きょういくと労働ろうどうです。そのためには、一般いっぱんの人間じんかんに高等こうとう教育きょういくを受うけることの自由じゆうと、併せてあらゆる職業しょくぎょうの中ちゅうから、自己じこに適した職業しょくぎょうを選んだ労働ろうどうに就つくことの自由じゆうとを享有きょうゆうせしめねばなりません。

しかるに、論者ろんしゃが、女子じょしに対して高等こうとう教育きょういくを拒み、労働ろうどう区域くいきの制限せいげんを固守こしゅしようとするのは、全く理由りゆうのないことだと思います。男子だんしにおいては人間じんかん性の啓発けいはつとなる教育きょういくと労働ろうどうとが、女子じょしにおいては反対はんたいに「人間じんかんらしさ」を失わしめる結果けっかになろうとは考かんがえられないことです。

論者ろんしゃはこれに対して、現在げんざいの女教師きょうしや、女学生がくせいや、女流じょりゅう文人ふみとや、職業しょくぎょう婦人ふじんやに共通きょうつうする半可通はんかつう的な、軽佻けいちょうな、生意気いきな、あるいは粗野そやな習気しゅうきを挙あげて、その自説じせつを弁護べんごしようとするかも知れませんが、私は、かえってそれこそ論者ろんしゃの意見いけんを顛覆てんぷくさせるものだと思います。現在げんざいのそれらの女子じょしに人間じんかん性の不足ふそくしていると見まみえるのは、私も同感どうかんですが、それは畢竟ひっきょうそれらの女子じょしに人間じんかんらしい教育きょういくが余あまりに尠すくなくしか授さずけてなく、またそれらの女子じょしに人間じんかんらしい労働ろうどうが余あまりに狭くしか許ゆるしてないからです。男子だんしと同おんなじ程度ていどの教育きょういくを授さずけると共に、男子だんしと同おんなじ位の責任せきにんある位地いちに立たせて、その手腕しゅわんを振ふるえるだけの職業しょくぎょうに就つくことの自由じゆうを女子じょしに許ゆるして御覧ごらんなさい。そうして、少すこしくとも明治あきはる以来いらい男子だんしに与えて来ただけの激励げきれいと設備せつびと年月としつきとを女子じょしに与えて御覧ごらんなさい。日本にぽんの女子じょしがその内に潜在せんざいする人間じんかん性を発揚はつようして驚おどろくべき飛躍ひやくを示しめすことは、決けっして欧米おうべいの女子じょしに劣おとるものでなかろうと思います。男子だんしにしても中学ちゅうがく時代じだいが一番いちばん生意気いき盛さかりのものである通とおり、今日きょうの婦人ふじんに軽佻けいちょうとも粗野そやとも見まみえる言動げんどうのあるのは、男子だんしの中学ちゅうがく卒業そつぎょうにも当らないような貧まずしい程度ていどの教育きょういくで、その人間じんかん性の陶冶とうやが打切うちきりってあるからです。女子じょしの職業しょくぎょう範囲はんいが少すこしずつ広がって行ゆくといっても、まだ女子じょしは小学しょうがくの校長こうちょうにさえなれないのです。何処いずこへ行っても、女性じょせいであるという理由りゆうだけで男子だんしの隷属れいぞく者となり、実力じつりょくの優れている場合ばあいにも、詰らない男子だんしの下風かふうに立たせられているという有様ありさまですから、女子じょし自みずからその人間じんかん性を鍛きたえ出だす機会きかいをも失っているのです。

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First published
「婦人倶楽部」1921(大正10)年2月
Source edition (底本)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年8月16日初版発行

   1994(平成6年)年6月6日10刷発行

底本の親本:「人間礼拝」天佑社

   1921(大正10)年3月初版発行

初出:「婦人倶楽部」

   1921(大正10)年2月

入力:Nana ohbe

校正:門田裕志

2002年5月14日作成

2012年9月16日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
Nana ohbe
Proofread by (校正)
門田裕志

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