Nihoner

中島敦 Atsushi Nakajima 1909.05.05〜1942.12.04

セトナ皇子(仮題)

セトナおうじ(かだい)

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メムフィスなるプタの神殿しんでんに仕うる書記しょき生兼図案ずあん家、常にウシマレス大王だいおうに変らざる忠誠ちゅうせいを捧ぐる臣、メリテンサ。謹んで之これを記しるす。この物語ものがたりの真実しんじつなることを、あかしし給たまう神々の御名ぎょめいは、鷹神ハトル、鶴神トト、狼神アヌビス、乳房ちぶさ豊ゆたかなる河馬かば神アピトエリス。

百合ゆりの国上埃及エジプトの王にして、蜂の国下埃及えじぷとの王、アモン・ラーの化身けしん、輝かがやけるテーベの主、ウシマレス大王だいおうの一子かずこセトナ皇子おうじは、夙つとに聡慧そうけいの誉ほまれが高だかい。八歳の時、彼は神々の系譜けいふを論じて宮廷きゅうていの博士はかせ共を驚かせた。十五歳以後いごは、最早もはやあらゆる魔術まじゅつと呪文じゅもんとに通じた博学はくがくの大賢者けんじゃとして天の下に並ならぶものもない。

一日ついたち、古書こしょを渉猟しょうりょう中、ふと、ある疑うたがいにとらわれた。今迄、全然ぜんぜん考かんがえたこともなかった疑だけに、初はじめは、邪神じゃしんセットの誘惑ゆうわくではないかと思って、それを斥しりぞけようとした。しかし、其その疑は執拗しつように彼かの心から離はなれなかった。ニイルの川の源から、その水の流ながれ注つぐ大海おううみに至いたる迄の間に、セトナ王子おうじのしらないことは何一つ無なあい筈である。地上ちじょうの事に限らず、死後しごの世界せかいに就ついても、彼程、通暁つうぎょうしている者はない。冥府めいふの構造こうぞうから、オシリス神の審判しんぱんの順序じゅんじょから、神々の性行せいこうから、オシリス宮の七つの広間ひろま、二十一といちの塔の間やその守衛しゅえい者の名前なまい迄悉ことごとく誦そらんじている。だから彼かの疑は、そんな事に就いてではない。古書こしょを拡げている中に、ひょいと或ある不安ふあんが彼かの心を掠めた。はじめは、その正体せいたいが分らなかった。何でも彼かの今迄蓄えた全智識ちしきの根柢こんていをゆるがせるような不安ふあんである。何を考かんがえていた時に、そんな奇怪きっかいな陰が過よぎったのか? 彼はたしか、最初さいしょの神ラーの未いまだ生れない以前いぜんのことを読よみ、且かつ考かんがえていた。ラーは何処いずこから生れたか? ラーは太初たいしょの混沌こんとんヌーから生れた。ヌーとは、光も陰もない、一面いちめんのどろどろである。それではヌーは何から生れたか。何からも生れはせぬ。初はじめから在ったのである。此処ここ迄は、子供こどもの時からよく知っている。しかし、今、古書こしょをひろげている中に、妙な考かんがえが浮かんだ。初はじめにヌーが何故なぜあったか? 無くても一向いっこう差支さしつかえなかったのではないかと。不安ふあんの因もとになったのは、これだった。この考かんがえが浮んだ時、奇怪きっかいな不安ふあんの翳が、心を掠めたのである。

何を馬鹿馬鹿ばかばかしい、とはじめは嗤わらい棄てようとしたセトナ王子おうじも、暫しばらく考かんがえている中に、この疑問ぎもんが決けっして馬鹿ばかにならないのに気がついた。馬鹿ばかにならないどころか、この疑は、春の沼辺ぬまべの水草くさの根ねの様に、見みる見みる、彼かの心の中に根を張はり枝を伸のばして行ゆく。世界せかい開闢かいびゃく説についてばかりではない。日常にちじょう目にする凡すべてのことに、この疑うたがいが、からみつく。エチオピアの金糸きんし蛇の長ながい尾のように、何故なぜ在ったか。無くても良かったろうに。何故なぜ在あるか、無くても良いいだろうに。セトナ皇子おうじは今迄の勉強べんきょうに輪をかけて、古文書ぶんしょや墓碑銘ひめいを熱心ねっしんに漁いさり出した。それ等の中にこの疑うたがいを解とく鍵を見出そうとしたのである。彼かの努力どりょくは無駄むだであった。岸壁がんぺきの洞穴どうけつに行おこないすます高名こうみょうな魔術師じゅつしも、年老いてアモン・ラーの心を体したといわれる高僧こうそうも、王子おうじの問に答こたえることが出来しゅったいない。王子おうじは次第しだいに笑わなくなった。いつも、夕暮ゆうぐれの湖の紅鶴べにずるのように、しょんぼりと考えこんでいる。ヒタ族の国から連帰った女曲芸きょくげい師の演技えんぎも最早もはや彼かの心を惹かなくなり、浴の後にプント国から到来とうらいの妙なる香油を塗ぬることも止とどめてしまった。爾来じらい、花と咲誇ったテーベの宮廷きゅうていは闇となった。セトナ王子おうじの智慧ちえが、愁の雲に遮られて、言葉ことばの光を放たなくなったからである。

以後いご、王子おうじは何事なにごとをもいわず、何事なにごとをも行わず、蝋の木偶でくのようになって一生いっしょうを終った。死しぬ迄の間に彼かのしたことは、たった一つ。それは、頭に火皿ひざらをのせ、手に二股ふたまたの杖をついて、その書物しょもつをネフェルカプターの墓所はかしょへ返がえして行ったことである。王子おうじから書物しょもつを受取った時、ネフェルカプターの木乃伊ミイラはニヤリと笑った。妻アーウリの木乃伊みいらも黙って笑った。皇子おうじは物もいわず、真蒼まっさおな顔で外へ出て来た。墓所はかしょの入口いりぐちの扉を閉めた時、彼は、後の世の人々がこの書物しょもつによって再ふたたび、不幸ふこうに陥おちいることがあってはいけないと思った。彼は扉のとじ目めに魔法まほうの封をした上、或ある呪文じゅもんによってその墓の入口いりぐちが全然ぜんぜん人目ひとめにつかないように変えて了った。

今に到いたるまで、この本ほんの所在しょざいを知しるものが無なあいのは、斯こうした訳である。

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First published
「中島敦全集 第四巻」文治堂書店、1959(昭和34)年6月刊
Source edition (底本)
底本:「中島敦全集3」ちくま文庫、筑摩書房

   1993(平成5)年5月24日第1刷発行

初出:「中島敦全集 第四巻」文治堂書店

   1959(昭和34)年6月

※底本の題名の下に書かれている「(仮題)」は文治堂版全集編集者によって付けられたものです。

入力:小池健太

校正:小林繁雄

2014年2月14日作成

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Typed by (入力)
小池健太
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小林繁雄

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