Nihoner

中島敦 Atsushi Nakajima 1909.05.05〜1942.12.04

十年

じゅうねん

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十年前、十六歳の少年しょうねんの僕は学校がっこうの裏山うらやまに寝ころがって空を流ながれる雲を見上げながら、「さて将来しょうらい何になったものだろう。」などと考かんがえたものです。大文豪ぶんごう、結構けっこう。大金持かねもち、それもいい。総理そうり大臣おとど、一寸ちょっとわるくないな。全くこの中のどれにでも直すぐになれそうな気でいたんだから大たいしたものです。所でこれらの予想よそうの外ほかに、その頃の僕にはもう一つ、極きわめて楽たのしい心秘かなのぞみがありました。それは「仏蘭西フランスへ行きたい。」ということなのです。別に何をしに、というんでもない、ただ遊あそびに行きたかったのです。何故なぜ特別とくべつに仏蘭西ふらんすを択えらんだかといえば、恐おそらくそれはこの仏蘭西ふらんすという言葉ことばの響ひびきが、今でもこの国の若わかい人々の上にもっている魅力みりょくのせいでもあったでしょうが、又同時どうじに、その頃、私の読んでいた永井ながい荷風かふうの「ふらんす物語ものがたり」と、これは生田いくた春月しゅんげつだか上田じょうでん敏だかの訳の「ヴェルレエヌ」の影響えいきょうでもあったようです。顔中到いたる所に吹出ふきだしした面皰にきびをつぶしながら、分ったような顔をして、ヴェルレエヌの邦訳ほうやくなどを読んでいたんですから、全く今から考かんがえてもさぞ鼻持はなもちのならない、「いやみ」な少年しょうねんだったでしょうが、でもその頃は大真面目おうまじめで「巷に雨の降ふる如く我の心に涙」を降らせていたわけです。そういうわけで、僕は仏蘭西ふらんすへ――わけても、この「よひどれ」の詩人しじんが、そこの酒場さかばでアプサンを呷あおり、そこのマロニエの並木この下したを蹣跚ばんさんとよろめいて行った、あのパリへ行きたいと思ったのです。シャンゼリゼエ、ボア・ド・ブウロンニュ、モンマルトル、カルチェ・ラタン、……学校がっこうの裏山うらやまに寝ころんで空を流ながれる雲を見上げながら幾度僕はそれらの上に思おもいを馳せたことでしょう。

さて、それから春風しゅんぷう秋雨あきさめ、ここに十年の月日がっぴが流ながれました。かつて抱いた希望きぼうの数々は顔の面皰にきびと共に消え、昔は遠とおく名のみ聞いていたムウラン・ルウジュと同名どうめいの劇団げきだんが東京とうきょうに出現しゅつげんした今日きょう、横浜よこはまは南京なんきん町のアパアトでひとり佗しく、くすぶっている僕ですが、それでも、たまに港の方から流ながれてくる出帆しゅっぱんの汽笛きてきの音を聞きく時などは、さすがに、その昔の、夢のような空想くうそうを思出して、懐旧かいきゅうの情に堪えないようなこともあるのです。そういう時、机の上に拡げてある書物しょもつには意地いじ悪くも、こんな文句もんくが出ていたりする。

ふらんすへ行きたしと思へど

ふらんすはあまりに遠とおし

せめては新しき背広せびろを着て

気きままなる旅にいでてみん……

「ははあ、この詩人しじんも御多分たぶんに洩れず、あまり金持かねもちでないと見まみえるな。」と、そう思おもいながら僕も滅入った気持きもちを引立てようとこの詩人しじんに倣ならって、(仏蘭西ふらんすへ行けない腹癒はらいせに、)せめては新しき背広せびろなりと着て、――いや冗談じょうだんじゃない、そんな贅沢ぜいたくができるものか。せめては新しき帽子ぼうし――いや、それでもまだ贅沢ぜいたくすぎる。ええ、せめては新しきネクタイ位で我慢がまんしておいて、さて、財布さいふの底を一度ひとたびほじくりかえして見てから、散歩さんぽにと出掛でかけて行ゆくのです。丁度ちょうど、十年前憶えたヴェルレエヌの句そのまま、「秋の日のヴィヲロンの、溜息ためいきの身にしみて、ひたぶるにうらがなしい」気持きもちに充みたされながら。

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Where this text comes from

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First published
「學苑 第二號」1934(昭和9)年3月20日
Source edition (底本)
底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店

   2016(平成28)年4月15日第1刷発行

底本の親本:「中島敦全集第二卷」筑摩書房

   1976(昭和51)年5月25日初版第1刷発行

初出:「學苑 第二號」

   1934(昭和9)年3月20日発行

入力:法川利夫

校正:岡村和彦

2017年3月11日作成

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Typed by (入力)
法川利夫
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岡村和彦

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