Nihoner

中島敦 Atsushi Nakajima 1909.05.05〜1942.12.04

悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―

ごじょうたんに

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昼餉ひるげののち、師父しふが道みちばたの松の樹の下でしばらく憩いこうておられる間、悟空ごくうは八戒はっかいを近ちかくの原はらっぱに連出だして、変身へんしんの術の練習れんしゅうをさせていた。

「やってみろ!」と悟空ごくうが言ゆう。「竜りゅうになりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持きもちで、そう思うんだ。ほかの雑念ざつねんはみんな棄すててだよ。いいか。本気ほんきにだぜ。この上なしの・とことんの・本気ほんきにだぜ。」

「よし!」と八戒はっかいは眼を閉じ、印いんを結んだ。八戒はっかいの姿が消え、五尺ばかりの青大将あおだいしょうが現あらわれた。そばで見ていた俺おれは思わず吹出ふきだしてしまった。

「ばか! 青大将だいじょうにしかなれないのか!」と悟空ごくうが叱しかった。青大将だいじょうが消えて八戒はっかいが現あらわれた。「だめだよ、俺おれは。まったくどうしてかな?」と八戒はっかいは面目めんぼくなげに鼻を鳴らした。

「だめだめ。てんで気持きもちが凝こらないんじゃないか、お前まえは。もう一度ひとたびやってみろ。いいか。真剣しんけんに、かけ値ねなしの真剣しんけんになって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持きもちだけになって、お前まえというものが消えてしまえばいいんだ。」

よし、もう一度ひとたびと八戒はっかいは印を結むすぶ。今度こんどは前と違って奇怪きっかいなものが現あらわれた。錦蛇にしきへびには違ちげいないが、小ちいさな前肢まえあしが生えていて、大蜥蜴おおとかげのようでもある。しかし、腹部ふくぶは八戒はっかい自身おのれに似てブヨブヨ膨ふくれており、短みじかい前肢ぜんしで二、三歩匍はうと、なんとも言えない無恰好ぶかっこうさであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。

「もういい。もういい。止やめろ!」と悟空ごくうが怒鳴どなる。頭を掻かき掻き八戒はっかいが現あらわれる。

悟空ごくう。お前まえの竜になりたいという気持きもちが、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。

八戒はっかい。そんなことはない。これほど一生いっしょう懸命けんめいに、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。

悟空ごくう。お前まえにそれができないということが、つまり、お前まえの気持きもちの統一とういつがまだ成っていないということになるんだ。

八戒はっかい。そりゃひどいよ。それは結果けっか論じゃないか。

悟空ごくう。なるほどね。結果けっかからだけ見て原因げんいんを批判ひはんすることは、けっして最上さいじょうのやり方じゃないさ。しかし、この世よでは、どうやらそれがいちばん実際じっさい的に確たしかな方法ほうほうのようだぜ。今のお前まえの場合ばあいなんか、明あきらかにそうだからな。

悟空ごくうによれば、変化へんげの法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持きもちが、この上なく純粋じゅんすいに、この上なく強烈きょうれつであれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持きもちがそこまで至いたっていないからだ。法術ほうじゅつの修行しゅぎょうとは、かくのごとく己おのれの気持きもちを純一じゅんいち無垢むく、かつ強烈きょうれつなものに統一とういつする法を学まなぶに在ある。この修行しゅぎょうは、かなりむずかしいものには違ちげいないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前いぜんのような大努力どりょくを必要ひつようとせず、ただ心をその形に置おくことによって容易たやすいに目的もくてきを達たっしうる。これは、他の諸芸しょげいにおけると同様どうようである。変化へんげの術が人間じんかんにできずして狐狸こりにできるのは、つまり、人間じんかんには関心かんしんすべき種々の事柄ことがらがあまりに多おおいがゆえに精神せいしん統一とういつが至難しなんであるに反し、野獣やじゅうは心を労ろうすべき多くの瑣事さじを有もたず、したがってこの統一とういつが容易たやすいだからである、云々うんぬん。

悟空ごくうは確たしかに天才てんさいだ。これは疑うたがいない。それははじめてこの猿さるを見た瞬間しゅんかんにすぐ感じ取られたことである。初はじめ、赭顔あからがお・鬚面ひげづらのその容貌ようぼうを醜みにくいと感じた俺おれも、次の瞬間しゅんかんには、彼かの内から溢あふれ出るものに圧倒あっとうされて、容貌ようぼうのことなど、すっかり忘わすれてしまった。今では、ときにこの猿の容貌ようぼうを美うつくしい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感かんじるくらいだ。その面魂つらだましいにもその言葉ことばつきにも、悟空ごくうが自己じこに対して抱いている信頼しんらいが、生いき生いきと溢あふれている。この男は嘘うそのつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分じぶんに対して。この男の中には常に火が燃もえている。豊ゆたかな、激はげしい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移うつる。彼かの言葉ことばを聞いているうちに、自然じねんにこちらも彼かの信しんずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼かのかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊ゆたかな自信じしんに充みちてくる。彼は火種ひだね。世界せかいは彼かのために用意よういされた薪たきぎ。世界せかいは彼によって燃されるために在ある。

我々にはなんの奇異きいもなく見まみえる事柄ことがらも、悟空ごくうの眼から見みると、ことごとくすばらしい冒険ぼうけんの端緒たんしょだったり、彼かの壮烈そうれつな活動かつどうを促うながす機縁きえんだったりする。もともと意味いみを有もった外そとの世界せかいが彼かの注意ちゅういを惹ひくというよりは、むしろ、彼かのほうで外の世界せかいに一つ一つ意味いみを与えていくように思われる。彼かの内なる火が、外の世界せかいに空むなしく冷えたまま眠っている火薬かやくに、いちいち点火てんかしていくのである。探偵たんていの眼をもってそれらを探さがし出だすのではなく、詩人しじんの心をもって(恐ろしく荒あらっぽい詩人しじんだが)彼に触ふれるすべてを温あたため、(ときに焦こがす惧おそれもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、渠かれ・悟空ごくうの眼にとって平凡へいぼん陳腐ちんぷなものは何一つない。毎日まいにち早朝そうちょうに起おきると決まって彼は日ひの出でを拝み、そして、はじめてそれを見みる者のような驚嘆きょうたんをもってその美に感じ入っている。心の底から、溜息ためいきをついて、讃嘆さんたんするのである。これがほとんど毎朝まいあさのことだ。松の種子しゅしから松まつの芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議ふしぎさよと眼を瞠みはるのも、この男である。

この無邪気むじゃきな悟空ごくうの姿と比くらべて、一方いっぽう、強敵きょうてきと闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全かんぜんな姿であろう! 全身ぜんしん些いささかの隙すきもない逞たくましい緊張きんちょう。律動りつどう的で、しかも一分ぶのむだもない棒の使つかい方。疲つかれを知らぬ肉体にくたいが歓よろこび・たけり・汗ばみ・跳はねている・その圧倒あっとう的な力量感りょうかん。いかなる困難こんなんをも欣よろこんで迎むかえる強靱きょうじんな精神せいしん力の横溢おういつ。それは、輝かがやく太陽たいようよりも、咲誇ほこる向日葵ひまわりよりも、鳴盛なきさかる蝉せみよりも、もっと打込んだ・裸身らしんの・壮さかんな・没我ぼつが的な・灼熱しゃくねつした美しさだ。あのみっともない猿さるの闘っている姿は。

一ひと月ほど前、彼が翠雲すいうん山中さんちゅうで大おおいに牛魔ぎゅうま大王だいおうと戦ったときの姿は、いまだにはっきり眼底がんていに残っている。感嘆かんたんのあまり、俺おれはそのときの戦闘せんとう経過けいかを詳しく記録きろくに取っておいたくらいだ。

……牛魔王まおう一匹の香こうしょうと変じ悠然ゆうぜんとして草を喰くらいいたり。悟空ごくうこれを悟さとり虎とらに変じ駈かけ来たりて香を喰わんとす。牛魔王まおう急に大豹だいひょうと化して虎を撃たんと飛とびかかる。悟空ごくうこれを見て猊からししとなり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王まおう、さらばと黄獅きじしに変じ霹靂へきれきのごとくに哮ほえたけって猊からししを引裂かんとす。悟空ごくうこのとき地上ちじょうに転倒てんとうすと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻は長蛇ちょうだのごとく牙きばは筍たかんなに似たり。牛魔王まおう堪えかねて本相を顕あらわし、たちまち一匹の大白牛はくぎゅうたり。頭は高峯こうほうのごとく眼は電光でんこうのごとく双角は両座の鉄塔てっとうに似たり。頭より尾に至いたる長さ千余丈、蹄ひづめより背上はいじょうに至いたる高さ八百丈ひゃくじょう。大音だいおんに呼ばわって曰いわく、なんじなんじ悪猴わるざる今我をいかんとするや。悟空ごくうまた同おなじく本相を顕あらわし、大喝だいかつ一声いっせいするよと見みるまに、身の高さ一万丈ばんじょう、頭かしらは泰山たいざんに似て眼は日月じつげつのごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然ふんぜん鉄棒てつぼうを揮ふるって牛魔王まおうを打うつ。牛魔王まおう角つのをもってこれを受止め、両人りょうにん半山はんざんの中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海も湧返わきかえり、天地あめつちもこれがために反覆はんぷくするかと、すさまじかり。……

なんという壮観そうかんだったろう! 俺おれはホッと溜息ためいきを吐いた。そばから助太刀すけだちに出ようという気も起こらない。孫行者そんぎょうじゃの負まける心配しんぱいがないからというのではなく、一幅ぷくの完全かんぜんな名画めいがの上にさらに拙つたない筆を加くわえるのを愧はじる気持きもちからである。

災厄さいやくは、悟空ごくうの火にとって、油である。困難こんなんに出会であうとき、彼かの全身ぜんしんは(精神せいしんも肉体にくたいも)焔々えんえんと燃上もえあがる。逆に、平穏へいおん無事ぶじのとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽こまのように、彼は、いつも全速ぜんそく力で廻まわっていなければ、倒たおれてしまうのだ。困難こんなんな現実げんじつも、悟空ごくうにとっては、一つの地図ちず――目的もくてき地への最短さいたんの路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図ちずとして映うつるらしい。現実げんじつの事態じたいの認識にんしきと同時どうじに、その中にあって自己じこの目的もくてきに到達とうたつすべき道が、実げに明瞭めいりょうに、彼には見まみえるのだ。あるいは、その途みち以外いがいの一切いっさいが見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜やみよの発光はっこう文字もんじのごとくに、必要ひつような途みちだけがハッキリ浮かび上がり、他は一切いっさい見えないのだ。我々鈍根どんこんのものがいまだ茫然ぼうぜんとして考かんがえも纏まとまらないうちに、悟空ごくうはもう行動こうどうを始はじめる。目的もくてきへの最短さいたんの道に向かって歩あるき出でるしているのだ。人は、彼かの武勇ぶゆうや腕力うでじからを云々うんぬんする。しかし、その驚おどろくべき天才てんさい的な智慧ちえについては案外あんがい知らないようである。彼かの場合ばあいには、その思慮しりょや判断はんだんがあまりにも渾然こんぜんと、腕力うでじから行為こういの中に溶け込んでいるのだ。

俺おれは、悟空ごくうの文盲もんもうなことを知っている。かつて天上てんじょうで弼馬温ひつばおんなる馬方うまかたの役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目やくめの内容ないようも知らないでいたほど、無学むがくなことをよく知っている。しかし、俺は、悟空ごくうの(力と調和ちょうわされた)智慧ちえと判断はんだんの高さとを何なにものにも優まして高く買かう。悟空ごくうは教養きょうようが高だかいとさえ思うこともある。少なくとも、動物どうぶつ・植物しょくぶつ・天文てんもんに関かんするかぎり、彼かの知識ちしきは相当そうとうなものだ。彼は、たいていの動物どうぶつなら一見いちげんしてその性質せいしつ、強さの程度ていど、その主要しゅような武器ぶきの特徴とくちょうなどを見抜いてしまう。雑草ざっそうについても、どれが薬草やくそうで、どれが毒草どくそうかを、実げによく心得こころえている。そのくせ、その動物どうぶつや植物しょくぶつの名称めいしょう(世間せけん一般いっぱんに通用つうようしている名前なまい)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角ほうがくや時刻じこくや季節きせつを知しるのを得意とくいとしているが、角宿かくしゅくという名も心宿しんしゅくという名も知りはしない。二十にじゅう八宿しゅくの名をことごとくそらんじていながら実物ほんものを見分みわけることのできぬ俺と比くらべて、なんという相異そういだろう! 目に一丁字いっていじのないこの猴さるの前にいるときほど、文字もんじによる教養きょうようの哀あわれさを感じさせられることはない。

悟空ごくうの身体しんたいの部分ぶぶん部分ぶぶんは――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉うれしくて堪たまらないらしい。生いき生いきとし、ピチピチしている。ことに戦う段だんになると、それらの各部かくぶ分は歓喜かんぎのあまり、花にむらがる夏の蜂はちのようにいっせいにワァーッと歓声かんせいを挙あげるのだ。悟空ごくうの戦いぶりが、その真剣しんけんな気魄きはくにもかかわらず、どこか遊戯ゆうげの趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死しぬ覚悟かくごで」などというが、悟空ごくうという男はけっして死しぬ覚悟かくごなんかしない。どんな危険きけんに陥った場合ばあいでも、彼はただ、今自分じぶんのしている仕事しごと(妖怪ようかいを退治たいじするなり、三蔵法師さんぞうほうしを救すくい出だすなり)の成否せいひを憂えるだけで、自分じぶんの生命いのちのことなどは、てんで考かんがえの中に浮かんでこないのである。太上老君たいじょうろうくんの八卦炉はっけろ中に焼殺しょうさつされかかったときも、銀角大王だいおうの泰山たいざん圧頂の法に遭おうて、泰山たいさん・須弥山しゅみせん・峨眉山がびさんの三山みつやまの下に圧おし潰つぶされそうになったときも、彼はけっして自己じこの生命いのちのために悲鳴ひめいを上あげはしなかった。最もっとも苦しんだのは、小雷音寺しょうらいおんじの黄眉こうび老仏のために不思議ふしぎな金鐃きんにょうの下に閉じ込められたときである。推おせども突けども金鐃は破やぶれず、身を大きく変化へんかさせて突破とっぱろうとしても、悟空ごくうの身が大きくなれば金鐃も伸のびて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮ちじまる始末しまつで、どうにもしようがない。身みの毛けを抜いて錐きりと変じ、これで穴を穿うがとうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものを蕩とかして水と化かするこの器の力で、悟空ごくうの臀部でんぶのほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪ようかいに捕えられた師父しふの身みの上うえばかりを気遣きづかっていたらしい。悟空ごくうには自分じぶんの運命うんめいに対たいする無限むげんの自信じしんがあるのだ(自分じぶんではその自信じしんを意識いしきしていないらしいが。)やがて、天界てんかいから加勢かせに来た亢金竜こうきんりょうがその鉄のごとき角をもって満身まんしんの力をこめ、外から金鐃きんにょうを突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角に纏まといついて、少すこしの隙すきもない。風の洩もるほどの隙間すきまでもあれば、悟空ごくうは身をけし粒と化して脱のがれ出でるのだが、それもできない。半なかば臀部でんぶは溶けかかりながら、苦心くしん惨憺さんたんの末、ついに耳の中ちゅうから金箍棒きんそうぼうを取出して鋼鑚きりに変え、金竜きんりゅうの角の上に孔あなを穿うがち、身を芥子粒けしつぶに変じてその孔あなに潜ひそみ、金竜きんりゅうに角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなった己おのれの尻しりのことを忘わすれ、すぐさま師父しふの救すくい出だしにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危あぶない」とか「もうだめだ」とか、感かんじたことがないのだろう。この男は、自分じぶんの寿命じゅみょうとか生命いのちとかについて考かんがえたこともないに違いない。彼かの死しぬときは、ポクンと、自分じぶんでも知らずに死んでいるだろう。その一瞬いっしゅん前までは溌剌はつらつと暴れ廻まわっているに違いない。まったく、この男の事業じぎょうは、壮大そうだいという感かんじはしても、けっして悲壮ひそうな感かんじはしないのである。

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Where this text comes from

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Source edition (底本)
底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店

   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行

   1983(昭和58)年9月30日改版24版発行

入力:佐野良二

校正:かとうかおり

1999年2月9日公開

2011年2月27日修正

青空文庫作成ファイル:

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Typed by (入力)
佐野良二
Proofread by (校正)
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